マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

シリウスの都 

2009-01-08 09:33:45 | 古代史

ずいぶん急いで「シリウスの都 飛鳥」を読んでしまった。というのは、私の疑問である蘇我氏の出自がなかなか明らかにされなくて、最終章にその答えが書いてあるようだったからだ。

著者の栗本慎一氏は大化の改新も、壬申の乱も、白村江の戦いも日本書紀どおりに解釈している。こんなことで正しい歴史がわかるものか・・・・。などと多少懐疑的に読みすすんでいた。

最終的に良く分かった。彼、栗本氏にとって、そんなことはほんの枝葉のように取るに足りないことであり、世界レベルで歴史をとらえれば、蘇我氏が実在しようがしまいが、たいした問題ではなかったのだ。つまり、飛鳥の都はスキタイ様式で作られており、その成立時期を考えると蘇我氏が一番適当だと考えたに過ぎない。したがって、私が蘇我氏の出自にこだわったところでとんだ肩透かしを食らう事になる。もちろん、スキタイはサカとも言われ、サカがソガに変化したとも主張しているが・・・。

そんなことより彼は、ユーラシア地方からシルクロードの北方、アルタイ山脈からウランバートルを経て日本の北部(東北、北海道)からスキタイ系遊牧民文化が渡来してきた事を伝えたかったのだ。

ちょうど年頭に、私の今年の課題としてフン族の解明を上げたが、まさに栗本氏の考察はドンピシャだった。だから、聖徳太子が実在したのかどうか、そんなことどうでもいいことなのだ。もっと彼はスケールが大きいのだ。

ただし、スキタイといっても実態は実にあやふやであり、世界史を調べ上げてもほとんど手がかりは見出せない。なぜなら彼等は遊牧民で、移動する国家であり、また、悪いことに歴史を残さない民族だった。しかし、彼等は世界でも最古かもしれない宗教、ミトラ教を崇拝していた。このミトラを追跡する事で彼等の民族としての軌跡をたどることが可能である。

匈奴(実はフン族でもある。)という民族は、西はフランス、東は日本まで影響を及ぼした騎馬民族で、一見モンゴル人のように考えられるが、実は良く分かっていない。漢の時代には漢を屈服させた事があり、著者に言わせれば、漢は匈奴の属国に過ぎないと言う。歴史を残さない民族のため、漢の歴史家達はいかにも匈奴を屈服させたかのごとく記してきたが、実は裏では完全に支配されていたという。

彼等フン族はおそらく表面的には他の民族を表に出し、自分達は裏支配するノウハウを持っているようだ。したがって、王も表裏、宗教も表裏が存在する。そして、フリーメーソンのような秘密結社を持ち、国境は定めずにしかし、常に自分達の思い通りに支配をすると言う。

もし仮にそれが真実だとすると、世界の真の支配者はフン族なのだという仮説は意外と正しいのかもしれない。ただし、史料、文献至上主義の学者達には到底理解されないだろうが。

私が思うのだが、河内平野に点在する大型古墳を造成した技術というのは、戦国時代の城建設技術に応用され、とりもなおさずそれは古代フリーメーソンたる、石工職人つまり、穴太衆につながるではないか。かれら石工衆はいわゆるアヤタチの一員で、敦賀の海部氏の末裔だとされている。しかし、それは表面的な言い方であり、じつは彼等もフン族傘下の秘密結社部族なのかもしれない。

こういった考え方はひとつの歴史観であり、従来からの既存歴史観とはまったく異質のものである。今日述べたことはやはり仮説でしかない、さらに新しい文献が届く予定なので今後も追求してゆく事にしよう。

この「シリウス・・・」の本で学んだ事は、鹿島神宮が秋田県から上陸したスキタイ部族が南下して建立したのであり、従来、九州方面から海流に乗って北上したと言う考え方は間違っているという事だ。このことは実は私にとっては目からうろこである。この部族がアテルイであり、桓武天皇と最後まで戦ったのだ。だから、鹿島神宮にアテルイの首が飾ってあるのは当然だった。もっと言うなら、平将門の乱の意味、そして神田明神とは誰を祀っているのかが明白になってくる。鹿というのはスキタイのトーテムで、奈良の都に鹿が放牧されている意味を考えなくてはならない。

古代から東日本に非常にすすんだ文明があったことを日本の歴史学界は認めていない。そしてそれを隠す意図で日本書紀が編纂されたのも間違いないだろう。それは真の支配者を表に出さないという意味でもある。

栗本氏のように、日本の学者でこれほどのスケールで歴史を考えている人がいることがわかり、とてもうれしくなってきた。日本書紀などの細かい記述にごまかされ、大きな歴史を見逃してはいけない。正月早々良い本に出合ったといえる。サムライさん、ありがとうございます。