昨日サムライさんから栗本氏の「シルクロードの経済人類学」に関する書評がアップされたと連絡があり、丁度興味あるシルクロードに関する記事なので、さっそく拝見した。全文はhttp://pro.cocolog-tcom.com/edu/2009/01/post-c506.htmlでご覧下さい。
サムライ氏の書評にあるが、日本は古代から韓半島を経由して中国文化を受け入れてきたとの考えは間違いであることを私も最近気がついた。時代的に言うなら漢、魏、晋、隋、唐の前半、については特にそうで、ほとんどの文化は韓半島を通過点として直接シルクロードの北方ルートから渡来したのは間違いない。ただし、文化というのは文化だけがやってきたわけではない。つまり、文化、イコール、文化を持つ征服者が持ち込んだものなのである。
順番に述べていこう。最初はウラルアルタイ地方から言語がもたらされている。これは民族の根源となる文化であり、日本の最初の文明となるものだ。億ウソさんから拝借した図で説明するが、 シルクロードよりはるかに北側からアムール河を下り、オホーツク海から日本に入ってきたと考えるか、もしくは、日本列島が大陸から地殻変動で分離した時に奇跡的に生き残った部族が文化を伝えたという考えも十分考えられる。それはもはや考古学の分野であり、私にも答えられない。日本人がウラルアルタイ言語圏に属する理由は、この二つ以外に説明できない。朝鮮語もやはり根源は同じだが、長い年月と共に変化し、元が日本に残り、朝鮮語がより大きく変わってしまったと私は見る。朝鮮が中国語の影響を受けていたとしたら語順が日本と同じであるはずがない。私が日ユ同祖論を取らないのは言語の根っこが違うからだ。
青森の丸山三内遺跡は華さんの生れ故郷だが、ここはアムール川河口から容易に到達でき、言うまでもなく義経が大陸へ逃げるルートである。このルートは古代から整備され、東北から関東までに広く分布していたものと思われる。奥州藤原氏がなぜあれほど黄金を所有できたのかはこのアムール河ルートを認めないと話しにならない。
また、渤海の使者が出羽国から入ったというのは、韓半島を経由していないという事である。
その後、西日本へは中国の南方より稲作を持つ部族が大量に渡来し、比較的原住民と共存することで縄文時代の稲作と青銅文化を作った。その時代から応神天皇が日本へ侵略した5世紀までが日本の歴史の空白時代と言える。歴史は間違いなくあったものの日本書紀では、あるいは中国の史書では復元ができないのだ。しかしそこにはサムライさんがいわれる様に、鮮卑や匈奴達が持ち込むことでダイレクトに西方文化を伝えてきたのは歴史的事実だと思われる。
問題となるのはフン族で、彼等が匈奴になったり、突厥だったり、吐蕃に化けて日本にやってきた事だ。彼等は民族的には異なるフリをして、しかし習性としては間違いなく皆フン族である。
彼等フン族は巧妙に自分達の正体を隠し異なる民族、異なる宗教を持って日本に渡来し結局日本を支配したはずである。億ウソさんからもう一つ図を拝借した。(ごめんね)
この図を見れば明らかなように、日本を含む三国を支配したのは同じ部族と考えられる。彼等フン族は必要な職能集団を引き連れ、現地で混血させたり職能へ押し込め差別した。私の考えは彼等本当の支配者は三国を古代から支配し、表の歴史とはまったく違った構造の中で君臨している。これはまったく私の妄想で、こんなことがあるのだろうかとも思うのだが、あるかもしれないとも思うのだ。
唐の時代には匈奴は亡び、突厥やその次には吐蕃がシルクロードを支配した。しかし、彼等は民族は異なるようで、しかし習性は変わっていない。つまり、彼等もフン族といっても良いのではないだろうか。このあたりの歴史を今年はじっくりやってみたい。
億うそさんによれば、フン族は侵略する地域に「烏」という部隊を送り込むのだそうだ。それが本当なら、高句麗の三本足カラスも、神武天皇を助けた八咫カラス、サッカー協会のシンボルマークこれらがすべて一つの線につながる。
以前、日本書紀に淵蓋蘇文をイリカスミと書かれていると言った。その当時、突厥の王は伊利可汗という。淵の出自はまったく不明だが、このあたりはやはり無視できない。突然歴史に現れる淵蓋蘇文、そして天武天皇。彼が同一で、しかも突厥だとすると意外と面白い結論が得られる気がする。聖徳太子が法華経を一番重要視したのは有名な話であるが、やはり、突厥のにおいを感じてしまう。さあ、これから楽しくなるぞ。
今日は今から仕事があるので、午後にもう一度手直しするかもしれません。