marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(423回目)寄り道その二:評論家 佐古純一郎という人がいた①

2017-08-28 06:00:00 | 日記
 「聖書を読んだ30人-夏目漱石から山本五十六まで」<鈴木範久著>(2015年5月1日初版 日本聖書協会)を信者の高齢のご婦人からいただいたことは先のとおりですが、それで(文芸)評論家佐古純一郎を読みたくなったのは、理由があります。ところで鈴木範久先生と言えば、立教大学の先生で「内村鑑三」の泰斗でありますが、本の内容は、無論読み易く一般向け、日本聖書協会の「SOWER」という雑誌?に連続で公開されたもののまとめのようです。名だたる人で「如何に生きるべきか」など一度たりとも考えたことのある歴史に名を残された方々は聖書を読んでいるということです。ですからあなたも、読まれることを推奨いたしますというのが、出版の主旨ということになります。しかし、それを読んでそれを生きるということは、難しいというのが、ここで佐古純一郎を持ち出した理由です。この難しいというところの解決が、キリスト教をベースにあらゆる者が人の言葉で解明しようと努めてきた欧米との相違になってくるのではないかと思います。
◆人は言葉で考えます。自分の言葉を持ち、自分の言葉で考えることが学習要領に取り上げられたとか。しかし、その考えの基本の真摯な言葉となるベースたるものをこの国に見つけるのは困難なように思われます。そこで、言葉の専門家であろう文学者(物書き)において、本来、欧米に於いては、イエスがこの地上に現れて神の言葉を伝えた生き方の議論が、その悪戦苦闘の言葉の戦いがあり、その定着されたもの(言葉)が、あらゆる学問の基本にもなっているようにも思われますが、日本にはそれがあるか否かを文学の中に考察してきたのが佐古純一郎だったようです。彼は、キリスト伝道者なのかという内容が見られるが、どうもそうではなく、何ら無から生じても言葉を生きるべき真摯な言葉を仕事柄追究していくとイエス・キリストにぶつかるというような物言いなのです。それで、仙台でのカトリック主催の講演に彼が呼ばれたということなのでしょう。
◆夏目漱石は、現在でも取り上げられますが、彼の「私の個人主義」(講談社学術文庫)を読んだ時は目から鱗でした。結局、「自我」の問題というのはこの国では何ら解決されていない・・・解決とは、結局、人というものはこういうものよ、というような自らのありようとその自覚を認識するその土台を持つこと、その一段高見に上っての自らの有り様を認識し、つまり過去を知り、今を知り、将来を決めることができるというその認識自体の基本となるベースを何に位置つけるのかということです。現代は無論、それは全世界的な視野で考えなければなりません。日本に真にイエスの言葉を伝道したいと願うのであれば、海外との均一化の過渡期となった、その時代、時代に言葉の専門家の格闘と挫折を学ばなければならないだろうと思う。海外の神学者だけではなく。新しいブドウ酒は新しい革袋に入れなければいけない、新しいブドウ酒を古い革袋に入れては裂けてしまうとは、イエスの言葉ではあるが、古い革袋がどのようなものかも知らず、僕らはすぐ壊れてしまうプラスチックの器に入れようとしているのではないだろうか。(プラスチックは見た目は簡易だが物によって、太陽光線紫外線には長期にサラされるとすぐ破壊しもろくなる)
◆それで、近代日本文学の倫理と題して第二章で書かれている「明治の文学」、「大正の文学」、第三章で書かれる「昭和文学の問題」においてのまとめを特にキリスト教とのかかわりにおいて抜粋して掲載してみたい。取り上げられている物書きは以下の通り。
 明治の文学:幸田露伴と樋口一葉、北村透谷と島崎藤村、石川啄木
 大正の文学:有島武郎と武者小路実篤、菊地寛と芥川龍之介
 昭和の文学の問題:評論家 福田恆存 戦争下での文学については当然、規制がなされているので取り上げない。  
◆第四章 作家論 芥川龍之介、太宰治、椎名麟三                        ・・・続く  

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