marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

考える思考階層のこと:S先生の話、親愛なるXへ(その3)

2022-02-13 06:06:06 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 S先生の書斎は、屋根裏を改造したものだ。三階にある。階段が一階から吹き抜けになっているので、時折、一階の厨房からの物音やおいしい匂いが立ち上ってくるのだった。西向きに窓があって、夏は風があると涼しいが、秋は西日が入って、さすがにカーテンをしないといけなかった。一階の書斎にも書棚にはいろいろ本があったが、英語の本が多かったように思う。内村鑑三の全集や世界文学全集、その他、英語の諸々の論文、ドイツ語も少し。エスペラントの辞書もあったな。確かザメンホフという人が広めようとした言葉だったと記憶するけれど。だいぶ使い込まれたアラジンとかいう外国製の灯油ストーブがあってチロチロとよく燃えていた。ブリキのヤカンが掛けられていてシューシューと蒸気を発していた。

 秋田犬がスケートのザトギワさんにプレゼントされたけれど、あの三重苦のヘレン・ケラーがこの秋田におとずれたとき、秋田犬は、外国の要人に里子に出された犬の第一号としてヘレン・ケラーにもらわれていったのはあまり知られていない。忠犬ハチ公の話は彼女も知っていて感動したのだろうと思う。その通訳をしたのがS先生だった。昭和12年の6月のことである。ちなみに最初の子犬は病気でなくなったらしく、2匹目が海を渡ったと記録にある。

 先生の生活が比較的ハイカラに思えたのは、戦前までアメリカからの援助物資が送られてきていたからで、あの時代には珍しいチーズやチョコレートやコヒーなどを時折、嗜んだらしい。戦中は宣教師が引き上げ、援助もまったく途絶えて、真逆で明日の糧にも困るほどだった。しかし、その後も先生は宣教師が建てた幼稚園も守りながら刑務所慰問や様々な矯風改善などをおこなって、国からもいろいろ褒賞を受けたらしい。その幼稚園は今も県内でもっとも歴史のある幼稚園として現在もある。

 僕らが意識化する、内的言語化すると言っていいか、次元のことについて、と書けばかっこいいが、まぁそんな小難しいことを尋ねたりする。当時、とにかく僕は人生これ不可解という具合で、青春まっくらだったのだ。教会を訪れ、いろいろ質問したことがあったけれど先生は詳しくは語らない、というか、そのようなことは考えたことがないというようなそぶりで、言葉を濁すのだった。しかし、あぁ、君も青春だなぁ!とでも言いたげな、こちらが困った顔をしていると、ますますにこやかに明るい顔になるように見えたのは、何故だったのだろう。

 先生は、聖書の一節を読む。そして僕はこう思った、というだけで、君は違うことを思うかも知れないけれど、と言い、肝心な話はそれだけ。あとは短い雑談ばかり、で先生も多忙だったから、当時は今と違って無論、ワープロなどもなくガリという蝋紙に鉄筆で文字や絵を描いてそれを謄写版で一枚一枚わら半紙の裏表に印刷するのだ。それを毎週、行う。邪魔している時間がもったいない、と僕もそそくさとお暇する。

 次回から、話あった中で少し込み入った話を思い出しながら書いていこうと思う。・・・