marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

親愛なるXへ(その1)

2022-02-11 06:06:06 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
親愛なるX 
誰でもが言葉による自己肯定を望んでいる、望んでいるというより、それは生き物であればプログラムとしてそのように仕組まれている。強い、弱いはあろうが、問題はその内容である。生きるという自己肯定、肉体の欲求のみによる放埓なのかもしれないが、多くのそれは自分が自分であることを確認したい自然の無意識的欲求なのである。自分が自分であることを確認する。つまり、それは”きちんと”・・・という言葉に当てはまる。自分の思い、意識し行為し、その通りになる。それは朽ちていく自分の身躯のこの空間における存在確認でもある。普段、気が付かず、それは自分というものなのか、自己というものなか、自我というものなのか。哲学には、まずは言葉の定義というものがあるらしいが、さらにはそれは崇高な自身の望みなのか、ただの不満の吐け口なのか、逆に自虐的な自己嫌悪なのか。いずれ、自己肯定には変わりない。自分を見失わない限りにおいて・・・。本当かな、とここまで書いてまた、考えてしまう。◆30歳以下の自殺が増えているという。死んではいけない。自分をこの地上に存在せしめた或る者に文句を言い、戦いを挑め。この地球の自分では選択できない生命を受け持って、自分では選択できない人生を歩んできて、それでも苦しい思いをしながら、しかも考えるということからも解放されずに、というのは、生きている。思考からの解放は、自分が生あるこの時間をただの生きる肉の塊として、死を待つ人々としてのみ存在するのか、という恐怖なのである。◆昨年最終日から、つまり12月31日、その日を最後にブログを更新していなかった。それはある意味、自分がもう半世紀も前から勝手に追求してきたと思っているこの国のアイデンテティーなる結論を理解したように思ってしまったからなのであった。学はないし、指向的にも軟弱で、それの原因というものも何故なのだろうと思って生きてきた。自分の肉体としての命は、もうあまり長くはない。・・・という訳で、自分がこの不自由でしかも、不自由であることの自覚にまっとうに生きることの中に自己を見出そうとすることが使命のように思われて、実は地上に生きているみんながそうなのではないのだろうか、と思ったりする。人生とは重荷をおうて坂道を行くがごとし、とか、下天は夢か、とか。総じて一段、地上での総括をする思考は、いつの時代にも当てはまるものなのだろう。とすれば、なおさらではないか。自分が地上に生を受けたのは何故なのだろうか、君はそれを考えてみたことがあるかい。
◆ある牧師から、尿もれがひどくなってきてなぁ、と前置きをもらいつつ、死を友として生きる、という本を読んでみてくれないかと電話があった。死を友として生きる。僕はそのような初歩的と思われる本は、とうに卒業したいと思っているのだが、一応、読んだ。偉そうに僕が書くのは、死を友として生きるどころか、僕はことあるごとに自分は、心臓病で死ぬだろうな、と常々思わされて、あぁ、それならば うだうだと人に迷惑かけずに、一息できれいに肉体も処理できるだろうな、と思っているのだが、その時がいつかは分からないのが、困っていることだ。多趣味の僕は、部屋がおもちゃ箱のようだし、誰も読まんだろうな、でも偏った神学を学ぼうとする輩には高く売れるかもしれない本が沢山あるし、などと思っているのだが、一気にあの世に召されたら誰がその始末をするのかなどが心配の種になっているのだ。