marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

N牧師との会話:親愛なるXへ(その10)

2022-02-21 12:32:56 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

  ざっくばらんなこと、宗教家である僧侶や牧師という職業は、個人的なことは無論、公の場であまり私的な事は語らない。プロテスタントの牧師は個人的なことは説教の中であるいは、所謂、証(あかし=これは神にであった、出会ってからの体験談、教えられたことなどを表明すること)を話すことはあるかもしれないけれど。◆崇高な職業の中で、こちらド素人が注意しなければいけないことは、相手が宗教家だからと言って、人に関する事は何でも受け入れてくれるであろうと話しはじめるのは注意ものである。悪くは決して思わないまでも、精神的癒着にはとても注意を払う。神の繋がりの中でそれ以上に、人間界の横の霊的繋がりを優先するようなことは決してないのであるから。したがって、話が人間的に深まっても霊的次元で、神第一とする精神の安寧にいかなる状況のときにも心を切り替えることができる訓練がされているものである、と僕は思う。◆スターバックスコーヒー店で、雪降りの中、1時間ほど話した内容を記録する。①僕自身の地上に生まれて、イエスを信ずる体験をしてきたこと、それが僕の人生の今も続く宿題の解決だったろうこと。求める理由などという高尚な気持ちなどは先になくむしろ、全く悩みの中で解決策は必ずあるだろうと思って求めてきたこと ②死亡率100%なのに人の生まれている生存している理由、それは誰でも人生の意味を求める宿題を与えられているのであろうということ ③神学は大切だろうが、それは優先されるものではない、むしろ霊的体験、私という事実を人生で体験しつつあり、その芯がずれないように終活を迎えることが大切なではないかなど。僕は神学者カール・バルトより、ポール・テリッヒなどという話など。◆ところで、素朴な疑問。ヘブル語は右から左に書くが、巻物にどのように書くのか、を尋ねた。答えは羊皮紙などは巻物であるが、僕らがA4サイスで文章をタイプで打つように、ある長さのところで区切って(とういうのは巻物であるから書けばどこまでもずらずらと書けるから)一段下げて又、右から左へ書くのだそうである、ということだった。武家時代の手紙は紙(巻物)に筆で縦書きであるから、理解しやすいが、巻物に左から右へ横書きであるから、何かややこしいとずっと思っていた。しかし、日本は、古来、隣国から伝来した(持ち込まれた)ものであったから、僕の求めて来た、古代ユダヤ人が集団で東を求めて途中の国で統一を図りながらも自らの伝統を組み合わせて漢字として終結していったとすれば、筆字ではむしろ左からではなく、右から書いていった方が手が汚れないのになぁ、などということは、僕が子供の頃から疑問に思っていたことなのであった。しかし、古来、戦時中のポスターなど横書きになっても日本は右から左へ文字が書かれて読まれている。◆すると先生が言った。その話なども決して説教では出てこない内容であろうと思うが「『聖書の暗号』という本がありましてね、聖書に書かれた旧約聖書のヘブル語が、コンピュータを使わなければ分からないだろう数式のレトリックの並びで、書かれた文字が様々な世界の預言をしているというのです。」「あぁ、マイケル・ドロズニンとかいう人が書いたのではなかったですか。続編も、日本人の方が検証した本もすべて読みましたよ。過去に書かれたことに現代も予見された事実が、文字の並びから読み取れるということが書かれた本でしたね。反証ができないようですから、この辺から聖書は神からの啓示によって書かれた本だということを、大いに牧師さんたちは流布したらいいのになぁ、と僕は思っているのでしたが・・・」◆僕は、飲んだココアの代金をおごり、そこで分かれたのだが相手が女性だったから気が緩んだか、ちょと私的なことを話し過ぎたかな、と自責の念が生じた。帰宅途中、財布の紛失に気がつき、一度、店に戻った。そこでは客に立ってもらいテーブルの下まで探したが見当たらなかった。見つかったら連絡くださいと電話番号を教えて帰宅する。と、間違いなくきちんと探したのだが、と思っていた鞄の奥から財布がでてきたのだった。その時、心の中で4年前亡くなったお袋の声がした。「私の気まずいことはもう決して話さないように!」と。・・・僕は、書かれた文字より、やはりこちら(霊)の方を信ずるんだなぁ。僕はパウロの手紙、ロマ書7章を思い出した。