marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(684回) (その3)また、あの世とこの世を考える時期が訪れた

2020-08-16 22:05:16 | 日記

◆7月20日のブログに平田篤胤のことを書いた。師と仰ぐ本居宣長よりは、篤胤が断然改善された解釈したと思われる「あの世とこの世」のことを書いた「玉襷(たまだすき)」に霊魂のことが書かれていて、こういう内容がこの日本のお盆の時期に係わらず、あの時代、大ヒットした理由なのだろうなという記事があるので記録しておきたい。さて、新約聖書にてニコデモというイスラエルの教師がイエスに「この地上で起こっていることが分からなければ、天上で起こっていることはなおさら分からないだろう」とお叱りを受けた、その「この地上のこと」を篤胤はそもそも語っていたのではなかったのか・・・などと思ったりしてみた。

◆「すべて霊魂というものは、『霊能真柱(たまのみはしら)』でも述べたように、永遠につきることなく、消えることもなく、墓でも祭り屋でも、祭る場所に必ずいる。それは、顕と幽とのへだてがある故に、こちらからはその姿を見ることができない。また向こうからこちらに親しく言葉をかけることは、基本的にはしないのだが、時によっては亡くなった人が姿を現し、諭すことなどもあるから、ここをよく心得、わきまえねばならない。通常、その場所に姿が見えないからといって、決して、魂は消えてなくなったなどとは思わずに、先祖代々は言うに及ばず、家に付いている霊魂を特に大切に心得て、他の神々への礼拝は欠かすことがあっても、先祖への拝礼だけは朝夕に油断なく、大切にすべきである。」(『玉襷(たまだすき)』十之巻)

◆しかし、考えてみれば、イエスはこのようなことは当然地上では起きていることであって、それゆえに多くのまとわりつく霊障に囚われている自分に気がつかず困難を生じていることにNO!をつきつけ、つまり地上に遣わされたイエス自身を信じ、人が信じたその一度きりの生涯で永遠の世界へ導いているのであるということが「救い」ということで書き表されているのであると。つまりは、霊障のまとわりつく不完全な肉体という人の身代わりとなり十字架に架かったのであると。だから、仏教のように何回忌などという、つまりこれは地上にうろついている先祖の霊の供養と言うことになるのだろうから(だから生まれ変わりなどが起こるということになるのだが)、そのようなことは全く無い!ということである「生きてわたしを信ずる者は死ぬことが無い」とイエスが話されたのはそういうことなのである。事実、彼を信じた者は肉体は死んでも霊として眠り、永遠に生きる新しい霊の体で目覚め復活するのであると第一、地球が壊れてもそういう人達は生きるのである。天上界のすべてを創造された方の元へいくのだからとはっきり述べられている。・・・Ω 


世界のベストセラーを読む(683回) (その2)また、あの世とこの世を考える時期が訪れた

2020-08-16 17:17:29 | 日記

◆世界中が新型コロナウイルス蔓延の中、平和を考える月でもある。それは、「生と死」を真摯に考える月でもある。亡くなった方々の写真を礼拝堂に掲げる。永眠者記念礼拝の集いで司会をし、新約聖書パウロの手紙「テサロニケの信徒への手紙第4章から13節から18節」までを読んで締めくくり、お祈りをし墓前礼拝をおこなった。******聖書から

◆「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては希望を持たない人ほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいて欲しい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残る(生きている)私たちが眠りについた人たちよりも先になることは決してありません。すなわち、合図の号令がかかり大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から下って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず、最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」(テサロニケの信徒への手紙第4章から13節から18節)・・・


世界のベストセラーを読む(682回) (その1)また、あの世とこの世を考える時期が訪れた

2020-08-16 15:56:43 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(587回) <その2>僕らの日常と死者との繋がりを考える

 世界のベストセラーを読む(533回目)お盆・・・「あの世のこと」を考えていた 7月末会社から3日ほど休暇を貰い旅をしていた。◆前からお話があれば聞きたいと思ってい......
 

◆教会において永眠者の記念礼拝の集いの司会をする。この日本においては「お盆」の時期にあたるのだが、その謂れも目連という弟子が、自分の母親の餓鬼の世界にいるのを供養するために始めたのをお釈迦さんが、すべての人のそういう人の為に供養しなさいと言われたことが始まりとか言われる。ここでの地獄でのイメージは昔大きなお寺には地獄の絵が描かれていて、それは結構、民衆道徳強化には役立ったのだろうなと思う。それで比較すべくもないが、キリスト教ではこういうことは最後の審判として文字の読めない人々の信仰強化に中世ヨーロッパにあたりに見られたくらい。宗教改革以降、キリストを信じることで全く言葉化できない恐ろしいものは姿を消していく。すっきり天国に導かれるのである。それはキリストの再臨まででその普段の生活が問われるのではあるが。したがって、聖書は心情的しがらみに理由付けするような物語は本来一切ない。本来というのは、父なる神はあまりに厳しいから赦しの母という「マリア信仰」がカトリックで発生したが、僕はこれも否定はしない。昔、マリアを神の母だ、否そうではないと西と東に分かれたりしたが・・・。しかし、本来あるのは『あなたは「聖書」をどう読むのか、わたしを誰と言うか。』とキリストからの問いかけだけであると僕は思っているのだ。(ここで先理解がないと抹香臭く宗教オタクのように読む人は思われるだろうけれど)・・・続く