ハマちゃんのひとり言

鉄道と地図を趣味とする、元地図屋さんだった団塊人です。

「日揮」発祥の地・上大岡!

2013年01月23日 | 最近の話題

このところ連日もっぱらトップニュースはアルジェリアにおける「日揮」の人質事件が報道されています。まず皆さんが疑問に思うのが「日揮」という会社の名称でしょう。一見して何をやっている会社なのか不思議に思われるでしょう。「日揮」の当初の会社名は「日本揮発油」というものでした。この会社は昭和3年に創業者の實吉雅郎によって設立された。設立趣意書には「安価な重油を海外から輸入し、これを高価な揮発油に変成し・・・製油事業の計画をなせり」とあります。

【昭和43年頃の創業者・實吉雅郎氏:昭和3年から昭和42年まで社長を務めた。(實吉雅郎回想録 昭和43年 日本揮発油(株)発行より)】

この「揮発油」とは「ガソリン」の意味で、自動車ガソリン・航空ガソリンを指します。特に航空ガソリンは当時第一次世界大戦以降急速に発達した航空機の燃料として需要が急増するのですが、その高度な精製技術は日本にはなく米国のユニバーサル・オイル・プロダクッ社から精製技術特許を購入したのが「日揮」の会社事始めだったのです。

【社名の変遷 :JGCのGは「Gasoline」ガソリンだったのです!(日揮50年史 横浜市図書館蔵より)】

(※「揮発油」と言われると一般人は、衣服のしみ抜きなどに用いられるベンジンの事と思われるでしょうね!私は「日揮」の近くの小学校に通っていた時から、この会社は「ベンジン」を作っていると信じて疑いませんでした。かなりの年齢まで!)

一時期実際に自社で石油精製事業も始めたのですが、地域住民の反対や世界恐慌のあおりなどで頓挫してしまいました。しかしここで当初得ていた精製技術の特許権料が石油会社から入って来たのです。以後「日揮」は実吉社長の知友であった鈴木達治横浜高工校長(化学)の縁で技術協力を得て応用研究を促進、特許権を活用する現在のエンジニアリング会社の道を推し進め、太平洋戦争突入前後から軍用航空燃料の性能向上に技術力を発揮したのでした。

【戦前の日本揮発油(株) :田んぼの中にポツンと建っていた!昭和19年日本陸軍撮影航空写真  (国土地理院蔵より)】

この横浜高工が「日揮」と上大岡との関わるきっかけでした。それは昭和10年鈴木校長からの紹介で「日揮」の非常勤技術顧問をされて富山保教授が同校二代目校長に就任した縁から、昭和12年頃同校に隣接した無償で借りていた運動場を即刻返還しなければならなくなり途方にくれた時、實吉社長に話をしたら即決で協力を快諾し、同校から1Km以上離れた所にあった為、殆ど利用されていなかった同校所有の運動場を「日揮」が購入し、その資金で隣接の運動場購入資金とする事ができたのでした。

【戦後間もない頃の日本揮発油(株)の写真 :右上あたりに上大岡駅がある。(日揮50年史 横浜市図書館蔵より)】

その時購入した最戸町の土地に昭和16年「日揮」は研究所を設立し、横浜高工の研究室などに派遣していた研究員たちを移転集中できた事が現在の「日揮」の繁栄の礎となったと後年實吉社長は語ったと言われています。また終戦後小さな駅に過ぎなかった上大岡駅前の商店街に、次第に発展していく「日揮」の多くの社員達が勤め帰りの飲食の場として賑わったそうです。現在でも上大岡周辺には「日揮」の社宅・独身寮や社員・OBが多く住んでおられます。

 

【昭和50年頃の「日揮」と上大岡駅周辺の航空写真 (桜岡小学校創立70周年記念誌より)】

【昭和46年桜岡小学校屋上から見た「日本揮発油」 :桜岡小学校蔵より】

※最戸町の「日揮」の地は15年前みなとみらい地区のクイーンズタワーに移転し、その跡地はイトーヨーカ堂のショッピングセンターとなっている。

【現在の「日揮」が入るみなとみらいのクイーンズスクエア横浜 (左の建物です) クイーンズスクエア横浜HPより】


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