曇天の空から小さな雨粒がポツポツ。4月も終わろうとしていますが、今年はあまり「4月の青空」を見ることの出来ないような天気が続きました。
5月1日は、メーデー前途を祝ってくれるような「青空」を願って止みません。
≪メーデーの起こりと長野県におけるメーデー≫
(※かなりの長文になるので、時間のある方はどうぞ一読ください)
メーデーの起源は1886年にさかのぼります。この年の5月1日、「8時間の労働、8時間の休息、8時間の教養」をスローガンにかかげ、8時間労働制を要求するアメリカの労働者がシカゴを中心にゼネストを決行しました。
この集会に資本家に雇われた暴力団が爆弾を投げ込み、数百人が死傷、労働組合の指導者5人がえん罪で絞首台に送られました。
国際労働者組織・第2インターナショナルはその結成大会でこの弾圧に抗議し、1890年5月1日を期して法定8時間労働制の実施を国に要求する国際大デモンストレーションを実施するよう全世界の労働者に呼びかけました。これにこたえアメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、ラテンアメリカの各国で8時間労働制を要求するストライキとデモがくりひろげられました。これが第1回国際メーデーです。
日本の第1回メーデーはそれに遅れること30年、1920(大正9)年、第1次世界大戦が終わった直後、戦後恐慌が荒れくるうさなか、ロシアでは社会主義革命が成功し、国内では米騒動がひろがり、大正デモクラシーが成長する中で、上野公園に2,000人が集って開かれました。その時の要求は治安警察法の撤廃、失業反対、最低賃金法の制定などでした。
年ごとに拡大していきましたが、1931(昭和6)年、満州事変、いわゆる15年戦争が始まり、ファシズム、軍国主義が風びし、労働運動は弾圧され、メーデーも1935(昭和10)年の第16回をもって中断を余儀なくされました。そのあと日本は太平洋戦争へ突入していったのです。
1945(昭和20)年、日本は敗れ、焦土の中から労働運動は息をふき返しました。そして翌1946(昭和21)年、第17回メーデーが復活メーデーとして全国で展開され、再び戦争と侵略の道を行くことなく、飢餓と破壊を決して許さないことを誓い合いました。メーデーは戦後民主主義の中で成長する労働運動とともにその規模を広げましたが、中国革命の成功、朝鮮戦争の勃発などでわが国の労働運動に対して占領軍による抑圧がつよまり、1952(昭和27)年の第23回メーデーは皇居前広場を地獄絵と化した「血のメーデー事件」もおこりました。以降、労働者の権利確立、賃上げ、時短など労働条件の向上とともに、反戦平和、民主主義の擁護をめざし、労働者の団結を内外に示威してきました。
長野県内でも、戦後、第17回復活メーデーが1946(昭和21)年に県下11ヵ所に4万人が参加して開かれ、長野地区大会では北信一帯から長野駅前に約12,000人の労働者や農民が終結、中央通りを北上し、城山国民学校校庭で大会を開いたあと、中央通りを下り、県庁までデモ行進し、当時の物部知事に大会決議文を提出して交渉し、県物資動員計画や県配給委員会への労働者代表参加、食糧供出割り当てへの農民参加などを約束させ、民主県政への突破口を開きました。この大会には北信地区一帯から農民が参加するため、国鉄・長電に専用車両が確保されたりもしました。
翌1947(昭和22)年の第18回メーデーは林民主県政の誕生でもり上がり、長野地区大会には20,000人、全県では12ヵ所48,500人が結集しました。
以降、労働戦線の分裂、再編で中央では分裂メーデーの時期もありましたが、県下ではずっと統一メーデーが実施されてきました。1952(昭和27)年に県評が結成され、労働戦線の統一、拡大がすすむ中で、メーデーの規模も1953(昭和28)年の第24回大会には全県下5万人(県中央大会6,150人)が参加し、浅間山演習地化反対のスローガンが目立ちました。翌1954(昭和29)年の第25回大会には県下8万人、県中央大会は8,250人が参加、「MSA再軍備反対」「有明演習地化反対」などを決議しました。
以後、全県で10万人、県中央大会は1万人をこえる大規模なメーデー大会が実施され、「反安保」をかかげた1960(昭和35)年の第31回メーデーは全県で12万5,000人、県中央大会は2万人に達しました。
1963(昭和38)年の第34回メーデーは雨にもかかわらず県下11万人が参加し、米原子力潜水艦寄港反対などのスローガンが目立ちました。このころの県中央大会は護国神社前広場、長野工業高校グランドや城山野外劇場で行われました。
1965(昭和40)年の第36回メーデーは県下25会場に13万人、県中央大会は妻科公園に2万人を結集して開かれ、ベトナム反戦などを訴えました。
ところで、1959(昭和34)年に県全労が発足、1965(昭和40)年には長野地方同盟に発展しました。こうして県評と同盟という労働運動の路線の対立が一層鮮明となり、県中央メーデーも1966(昭和41)年の第37回大会から分裂開催されることになりました。県評・中連はひまわり公園で、同盟は鐘紡グランドで大会を開き、以降、中信、諏訪などで統一メーデーが続けられたのを除き、1985(昭和60)年の第56回大会で再び統一メーデーが開かれるまで、県中央大会は20年間にわたって分裂状態がつづきました。
県評・中連のメーデーは、1973,74年の狂乱インフレに抗した史上空前のゼネストを背景に20%をこえる大幅賃上げを獲得して盛り上がり、その後は賃金抑制下で長期化した春闘の総決起大会的色彩を色濃く持った時期もありました。
一方、同盟のメーデーはリクレーションや献血など福祉活動に重点が置かれました。
こうした分裂にもかかわらず、メーデーは途切れることなく回を重ね、労働戦線統一の気運がもり上がる中で、1985(昭和60)年の第56回メーデーに至って、県中央メーデーの再統一が実現され、県評・中連・地方同盟の主催による16,000人の大会が長野市役所南広場で開かれました。この大会で「メーデー祝日化」「太陽と緑の週の法制化」の要求が決議されました。そして翌1986(昭和61)年の第59回大会からは、城山市営球場で大会が開かれるようになりました。
そして1990(平成2)年2月、県下労働戦線の統一が実現、連合長野が125,000人の組合員を結集して結成されました。その年のメーデーは奇しくも国際メーデー100周年の記念すべきメーデーとなり、ロルフ・ハンスFES東京事務所長がドイツ労働総同盟を代表して連帯のあいさつをしました。
以降今日まで、「ゆとり・豊かさ・社会的公正の実現」をメインスローガンに、働くものの団結の確認と示威に加え、様々な文化行事やアトラクションなど楽しい祭典的な性格をも合わせ持ちながら今日に至っています。