「鍋島大砲」山中で密造? 幕末の武雄領
幕末に国内で洋式大砲製造の先駆けとなった佐賀・鍋島藩
武雄領で、幕府に隠れて大砲を製造した“秘密工場”の跡と
みられる遺構が、佐賀県武雄市の山中で出土した。
発掘した市教委は、大砲を仕上げるための旋盤加工の動力源となった地下水
車の排水路ではないかと分析。「鍋島藩の先進性を物語る貴重な発見」として
いる。
(西日本新聞より)
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日本の幕末期は、海外から日本の鎖国を開放しろとの要求が激しくなった頃で、
当時はそのような状態でも、相当な情報量が九州地方の各藩は持っていたよ
うです。
特に、東南アジア、インド、そして中国が欧米人によって様々の形で形で侵略
されつつあり、日本の幕末期は各藩も外敵への対処と国内で徳川幕府への不
満・一方皇室を中心に新しい日本を再生しなければ、外敵に対抗できないとい
う危機感が黒船との一件以来、急速にそんな世論が起きていた頃です・・
そのため先進的藩主は武器の近代化を図ったのだと思います・・それをいち早く
着手したのがこの佐賀藩だったのかも知れません。
でもまだ、幕府の威光を恐れていた時代では、佐賀藩も幕府に隠れ、ひそかに
山中で秘密工場を作るのは、自衛策としての武器の必要性が急激にまして来た
からだと思います・・・
その中でも 武雄領では、1834(天保5)年ごろ、領主鍋島茂義が砲術家の
高島秋帆を招いて青銅製の大砲鋳造に取り組むなど時代を見る目に優れた
藩主が危険を犯してでも必要との思いから、国内で最も早い時期に洋式大砲
の鋳造・量産に成功したとの事です。
鍋島家の古文書などには、水車を利用した大砲の旋盤作業の図面があり、
古老らの言い伝えでは、火薬原料の硝石を粉末化する石臼を回す水車があ
ったと言われています。
当時は、大砲製造には徳川幕府の許可が必要だったことから「人里離れた場
所に造られた秘密工場だったのではないかと見られております・・・
こうして時代をいち早く読んで対応した藩とまだまだ因習に囚われ時代の変化
を読む力のない藩は、対応が後手に回り、やがて来た戦いにも乗り遅れ、賊
軍としての傷跡は明治以降も長いこと、それらの藩が県に変わっても残ったよ
うです・・・
そうなんです。私の別室では主に地方誌の中で面白そうな記事を中心にかいてます。
そしたら、この記事が目に付き、書いたってわけ・・・
この頃は、ある意味、やっと才能がある人が階級を飛び越えて抜擢される時代に入っていく事が出来,いはゆる下級武士から明治時代の指導者が多く輩出した事が、以後の日本の体制に縛られる度合いが格段に進歩した時代でもあります。
と同時に、藩主の資質によって大きなうねるに乗れるか、乗れないか?これはいまの時代の勝ち組、負け組みどころ以上に負ければ藩民もろともですもの・・・
いま、このな論議をしている事が、不思議です。
この時代を見てるとなんか、「夜明け前」を思い出しました。