信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

今日の雨

2012年09月30日 22時51分01秒 | Weblog
2012年09月30日(日)記

今朝は8時から秋の道普請。雑草で狭くなった道を広げたり、覆いかぶさっている竹を伐採したり、道の真ん中に生えている雑草を取り除いたりの作業がありました。この作業は道の修繕・整備なのですが、丸8年過ぎてみると、冬の雪対策も兼ねているということがわかってきました。覆いかぶさった竹に雪が積もると道を塞ぐ。真ん中に生えている草は除雪機の邪魔をするなどなど。

この道普請は強制力を持ち、欠席すると「出不足金2,000円」が課せられます。
出不足金でふと思いましたが、今私が住んでいる地域(と言っても、日本全国のいわゆる田舎はそうだと思いますが)の自治会費や労働力提供を考えてみると、江戸時代の農村にみられた「村入用費」そのものではないか!
少なくとも150年以上前から連綿と続いているムラの制度。面白いものです。


この作業を早めに終え、11時から臨時にS組の集会がありました。寄合の議題は、設置されている街灯の見直しやポールの建て替えと、S組の公民館の台所の床の修理について。

街灯の見直しについては、1本は撤去、1本は移動、ポールの建て替えは2本。ポールについては区からの補助金が出ますが、床の修繕については自腹です。
話し合いの結果、S組の経済的負担を少しでも少なくするために、床修理は材料だけを買って各人が持っている知識や技能を出し合って自分たちで修繕することになりました。

こういうところがいいですね。
みなさん「半農半X」、あるいは両親が百姓をしている(いた)から、こういうことはできるだけ自分たちでする、という精神がまだまだ生きています。
何の能力も技能もない都会のサラリーマンだった私は、実際のやり方を見て勉強できるいい機会だと思っています。


それが終わってゆっくり昼飯など食っていると、昼下がりから予報どおり台風の影響の雨が降ってきました。
畑に出られない時は買い物です。

この雨の日の買い物時、駐車場から店内に入るまでのあいだに私を含めてほとんどの人が濡れているのです。
これを見て、私たちが子どもの頃、米ソの原水爆実験のあとに雨が降ると「放射能の雨には濡れないように」と学校の先生や新聞、もちろん親からもよく言われていたことを思い出しました。

福島の原発事故ではかなりの放射性物質がまき散らされた、あるいは今現在でもまき散らされ続け、チェルノブイリよりもっと深刻な状態と言われている中での雨。
でも誰一人「雨には濡れないように」とは言わない。これで本当に大丈夫なのかしら、と思う。

もし本当に大丈夫なら、かつての米ソ核実験後での言動は「怯(おび)え過ぎだった」と言って欲しいし、ダメなら注意喚起すべきだし、私たちはともかく、せめて子どもたちには濡れさせない対策をとるべきだと思うのだが。

申し訳ないね。もう一つのニュースについては次回に。

農作業体験で 指切断

2012年09月28日 23時14分11秒 | Weblog
2012年09月28日(金)記

昨日の27日、(長野)県内で気になるニュースが2件ありました。
一つは、大阪寝屋川市の中学3年が農家民泊して農作業体験中、稲わらを切る動力カッターで右手の指2本を切断した、というニュースでした。

この機械は私も持っていて、2枚の頑丈な刃が高速回転し、投入口からワラを投入すると設定した長さに切断されて飛び出てくる、という機械です。少し強力なものは太さが親指大の小枝も難なく切ってしまいます。

私が所有しているのはこの強力タイプで、リンゴの剪定枝の処分や、カヤをチップにしてヤギ小屋に敷いたり、稲わらをマルチに使うために短く切ったり、時にはニワトリのエサ作りに使ったりと、なかなか役に立つ機械です。
重宝な機械だけに使う頻度は高く、したがって回転部に引き込まれて、といった危険度も増します。

報道によると、投入したわらが詰まってそれを取り除こうと手を入れたそうですが(絶対にやってはならないことでした!)、本当に気の毒なことです。
本人やその保護者はもちろん、学校の先生、受け入れた農家もショックを受け責任を感じられておられることでしょう。お察しします。

でも、こうした事故が起こったとしても、農家に泊まって農作業を体験するという経験は、中学生の彼らにとって一生の思い出となるし、人格形成にも多大に寄与するものだと考えています。また、肉体的、特に精神的セラピーにも寄与していることがわかってきています。
また、受け入れた農家にとって正直なところ大変なこともありますが、私たちには何でもないことに対する子どもたちの驚きや喜び、そして一緒に食べ、話し、笑いあえることが過疎に住む農家の活力にもなっています。

私もこの事業の参加者の一人として、この不幸な事故を契機に、農家民泊や農業体験メニューにどんな影響がでてくるのか見守っていきたいと思っています。
ただ、こうした不幸を反省してより一層の安全確保をしなければならないのはもちろんですが、この事故があったからこの事業(農家民泊や農作業体験)は廃止する、ということにならないよう、切に要望したいと思います。



もう一つは、駒ヶ根の米穀販売会社が福島県産米を長野県産米と偽って販売した、というニュースです。
これについては、次回に。

コメとバッファロー(アメリカバイソン)

2012年09月26日 22時05分41秒 | Weblog
2012年09月26日(水)記

自民党総裁が安倍氏に決まりましたね。優秀な人材はマスコミと検察によって弾圧され、国民より某国を向いている政治屋が生きながらえ、再登場する。ため息が出てきます。

さて、気分を変えて話題を変えて。
前回は「新米」についてでした。
ここ信州の山里でも稲刈りはほとんど終わり、刈り取られた田んぼではイネが稲架の上で天日干しされてただいま熟成の眠り真っ最中です。

このあたりは特A米指定地域。そりゃそうでしょう、冷たい清らかな水(何度も書きますが、泉から湧き出ている水、または谷川の水。いってみればペットボトルの水で育てているようなものです)、昼の高温夜間の低温、粘土質の土。ピリッとしたうまい空気。これで美味くないはずがない。
そうそう、もしよければ一度試しに食べてみませんか。コメント欄で連絡してください。

前段は置いといて、今日のお便りは「日本人にとってのコメとインディアンにとってのバッファロー」についてです。

1890年12月、北米インディアンは移民白人によってほぼ制圧された。わずか120年前のことでした。
日本の元号に直すと明治23年。私が今住んでいる家が建てられたころとなんとほぼ同時期! 
自然とともに平和に暮らしてきた民族が滅ぼされたのは、ほんのつい最近のことなのだ。
そしてそれ以降インディアンは苦難の道を歩み続け現在に至っている。

インディアンが征服された手段はさまざま挙げられている。
一つは故意にばらまかれた疫病(特に天然痘。細菌兵器!)。そのほか部族間抗争の利用。「契約」という名の騙し。もちろんおんな子どもを含めた無差別虐殺。そしてバッファローの政府による計画的な絶滅化。
私は、インディアンを征服するためにバッファローを積極的に殺戮していった、という手段に注目する。

インディアンにとってバッファローは単なる食糧、衣料の材料というものではなく特別な存在だった。
それは彼らの文化の源の一つであり、信仰の対象でもあり、したがって狩猟はするものの感謝を込めて「神様から戴き」、決して乱獲などあり得なかった。
食糧でありながら、文化の源でもあり、信仰に大きくかかわっている……。日本におけるコメと同じような位置づけであると気が付く。

征服者は被征服者を征服するのに、食糧を支配し、文化を破壊し、信仰を捨てさせる(あるいは禁止する)。
これは歴史的定理なのです。今までに滅亡した国家を検証してみたまえ。必ずこの事実に行き当たる。

白人はバッファローを皮革資源としてならまだしも、インディアンの目の前で狩猟というレジャーの対象として殺戮の限りを尽くした。これはインディアンにとって食糧を奪われるだけでなく、文化の破壊、信仰の冒涜以外何物でもなかった。そして彼らは抵抗した。だが結局負けた。

そしてひるがえって現代日本。
「TPPを締結して安いコメが入ればいい。食糧が安く手に入ればいい」という人がいる。本当にそれでいいのか?
コメは食べ物ではあるけれどもそれだけでは決してない。
稲作に伴う文化のみならず私たちの信仰にも深く深くかかわっているのはご承知の通り。
コメを他国に任せることはすなわち、食べ物を任せることだけでなく、私たちの2,000年以上の文化を捨てること、私たちの信仰を差し出すこと、つまるところ他国に支配・征服されること以外に何物でもない。

120年前のインデアン抹殺のような、そんな野蛮なことはもう行われていない、とあなたは思うか。

インディアンは負けたが抵抗した。だが私たち現代の日本人は抵抗もせず、「安くなるから」という理由だけで、それも劇的に安くなるのでなく、300円足らずの牛丼がわずか20円程度安くなるのと引き換えに、そして食糧不足が目の前まで迫っているのにかかわらず、日本のこの世界に誇るべき文化やあらゆるものに神性・仏性を見出す信仰を差し出して支配されるのを是とするのか。それも自ら進んで「TPPに加入させてください」と言って。


かつて「郵政を民営化すれば、税収が大幅に増える、景気が良くなる。年金も心配なくなる」と言って騙したが、今「TPPに加入すれば、ものが安くなる、景気が良くなる」と言って騙している。
過ちを再び繰り返すのか? 
ましてやいったん入ると抜け出すことのできないラチェットのドロ沼に入るのを、傍観していていいのだろうか?

新米

2012年09月25日 22時41分47秒 | Weblog
2012年09月25日(火)記

突然ですが新米はうまいですね。

まず電気釜(近々これをやめようと考えています)からお茶碗によそったごはんをじっと見ます。
まず目が吸い寄せられるのがツヤ。これがいい。それも一粒ずつから発している。
加えてご飯の匂い。妊婦さんでツワリのきつい人には大変でしょうが、この匂いが食欲を掻き立てる(申し訳ないね、さおりちゃん。ほんの少し我慢してください)。
そしてもちろん歯ごたえと噛んだ後の舌に広がる甘味。これぞジャポニカ米の真骨頂というところでしょう、インディカでは絶対出てこない味です。ほとんどの日本人が「日本に生まれてよかった」「おかず、いらない。ご飯だけでもいける」という声を発するのがこの瞬間だ。

見過ごされやすいところでは、立ちあがる湯気。これもおいしいおコメの条件の一つです。
それにお仏飯を仏さまに供えたとき、この湯気が仏壇の中を漂う景色が子ども心にもなんとなく豊かにしてくれる。幼い時から子どもにお仏飯をお供えさせることは、必要じゃないかな。

さてこのおコメに関して、もう10日以上前になるかもっと前かな、NHKで夜中の1時2時の深夜、カリフォルニアでコシヒカリを作っていたある日本人が、メキシコの南、コスタリカかエクアドルだったかに移り住んで新たにコシヒカリ作りを始めた、という番組をしていました。
日本のおいしいコメを世界に広げたいという目標を持って頑張っているのですが、その中で主人公(と言っていいのか?)が気になっていることも紹介していました。

それは、この方が日本に帰ってきた時、必ず飲食店で使われているコメを調べるそうです。
で、いつものように調べるとある牛丼店で使っているコメの品質が非常に悪く、生産農家ではくず米という割れたコメが多く使われていた、ということでした。

くず米は加工用に回されるのが普通であり一般的なんですが、この牛丼店ではこれを使っていた。理由は簡単。コスト削減、利益率の向上のため。なるほど200何円で大きな利益を上げる商売が成り立っているわけだ。
もちろんクズ米が健康に影響を与えるというものではないけれど、実は食した人の味覚に大きな影響を与える結果となる。そしてその結果が招くことを危惧していたのでした。

今世界中に広がっている日本食は、ブームからトレンド、そして定着という段階になりつつある中、その日本食の中心がコメであって、そのコメがおいしいコメでありつづけているのが、私たち一般的日本人のコメの味覚である、という。つまり、私たち庶民のコメの味に対する要求水準が高いために、うまいコメが生産されている。そして、このうまいコメが世界から評価されている日本食を支えている。
なるほど、その通りですね。たしかにコメに対してはこだわりがある。

ところが最近、特に牛丼店などがコスト重視、利益重視のために品質の悪いコメを使うようになって、若者のコメに対する味覚が変化してきた、という。確かにあの濃い味付けの牛丼ではコメの味がわからない。こうしていると数年か十数年か先には日本人のコメに対する味覚が鈍化して、その結果、日本食そのものが壊れてしまう恐れがある、という危惧でした。この方は非常に心配されていた。

このTV番組を見ていて、私にも常々思い当たることがあります。
無洗米です。

いまレストラン、食堂の類はほとんど無洗米を使っています(高級店ではないことは確かです。私の行くところですから)。
皿に盛られたライス、おいしいですか? 私にはうまいと思ったことは一度もない。
最近は「ライスですかパンにされますか」と聞かれると、私のような狂信的ごはん党でもパンにしてしまう。つまり敵の軍門に下っているのではなく、ニセの味方には我慢ならない、ということ。
返す返すも残念なのは、おコメの味がこんなものだと若い人や子どもたちに思われることなのです。

で、わが息子たちの家庭。
やはり無洗米を使っているようなんですね、まことに残念ながら。
確かに手間はかからないのだけれど、(一時、コメの研ぎ汁が水質汚染公害の元凶と悪宣伝があったけれどどうも嘘らしいですよ)、やっぱりコメ本来の持つあのうまさを味わってほしい、と口では言えず願うばかり(「オトン、そら好き好きやねんから」と言われ、それで終わりだから)。

そしてコメの味を低下させるもう一つの大きな原因は若者の貧困化。
20代30代では生活が苦しいとまず食費を削る、という。まあそうでしょう、食費は減らしてもケータイ代は絶対減らさない。この食費削減が命の源である食べ物(ゆめゆめ食品と言ってはならぬ)の質の低下を招いている。もちろんコメも。
こういうことで、非正規や派遣の若者が多くなればなるほど、つまり所得が低くなるにつれて味より量、つまり、粒のそろったコメよりもクズ米、高い国産米より安い輸入米でいいじゃないか、になってしまう。


今日はこのあたりでやめておきますが、それにしても小泉・竹中は若者の労働(=未来、希望)を破壊したが、それが日本のコメ(=日本の社会・文化)にまで影響がでてきていると、本人たちも考え及ばなかったのではないか。
ま、二人にはそんな深慮遠謀できるわけでなく、背後の大きな力の言うままに動いたんだろうけれど、その大きな力が最初から考えていたならたいしたもの。戦後「ご飯を食べると頭が悪くなるからパン食にしましょう」というキャンペーンを張って、数十年かけて日本人の味覚を変えてきたのだから、奴らならやりかねん。

わが「ふるさと」は大阪

2012年09月23日 22時26分18秒 | Weblog
2012年09月23日(日)記

今朝5時半に起きると外は雨。なんとなく嬉しくなって二度寝して起きたら9時過ぎ。こんな日もいいものです。

さていつだったか日にちは忘れましたが、どちらにしろ先週大阪にいた時のある朝のことです。
『モーニングバード』をながら視聴していました。ゲストはあの小泉純一郎の秘書だった飯島勲でした。皆さん、この方を覚えていますか。

放送内容は自民党総裁選についてで、安倍晋三候補の話になった時の飯島氏が言ったことに私の耳は「マギー審司」になってしまいました。
それは「安倍さんの総理辞任はまずかった。本当に体の調子が悪かったら、私なら会見中のTVの前でわざとぶっ倒れさせる。これで国民は同情し、より支持が大きくなる」という意味のものでした。なるほどそうか。小泉劇場というのはこういう意図で作られていたのだ。そこには政治家の政策理念も使命感も品格もプライドも何もない、ただ単に国民の「情」に訴えるだけの姑息な方法論のみ。それもペテンを使って。

この言葉は飯島秘書官そのものを端的に表したもので、小泉と竹中平蔵の三人四脚で国民を騙しあざむくテクニックを露呈したのだと思いました。加えてマスコミがこれらの数々を増幅報道し、それを国民が真(ま)に受けて熱狂支持してしまった結果、私たち一般庶民の生活の苦しさが始まってしまいました。

国民は、その政治家の政策や理念を見聞きし判断して選ぼうとはしないのでしょうか。

なぜこんなことを言うかというと、実は大阪での『維新の会』報道に小泉時代と同じような印象を受けたからでした。正直なところ、大阪を軽蔑する気持ちと怖さを感じました。

橋下知事・市長は一体何をやったのだろう、その実績は?そして府民・市民を引っ張っていこうとするその先は? 府民・市民はこれらを理解した上で支持しているのでしょうか。
こんなことを言っては失礼かもしれませんが、府民・市民の多くは政策や実績よりもそのパフォーマンスを、支持不支持の判断基準にしているように見えます。本当にそれでいいのでしょうか。
「水道の民営化」「地下鉄の民営化」「徴兵制」「小泉新自由主義の継承」「消費税増税賛成」「原発賛成」「TPP参加」「教員試験合格者の大量辞退による教員不足」等々これらすべて、確実に子どもたちにとって明らかにマイナス要因となる重要施策を、「大阪のノリ」で支持してよいのでしょうか。

特に教員試験合格者の大量辞退について、地元放送局の記者がその理由を尾木ママにインタビューした時の答え「だって、あなたその理由、わかるでしょ。うふふ」。
将来を担う子どもたちを育てる教員やその志望者が逃げてしまう大阪になってしまっているのです。つまり橋下市長は「教育」、つまり子どもたちの未来を破壊しつつあると、私に目には映りました。大人の私たちがたとえ貧しくとも、子どもたちには十分な教育を受けさせる──江戸時代から続く日本人の考えでしたが、大阪は捨ててしまったのでしょうか。



もう一つ。
9月17日(月)の敬老の日。
母親の諸届をする役所が休みなので夕方、数年ぶりにミナミへ行きました。ミナミにでても大阪在住のころから続くほぼ定番のコースしか回りませんが。

見たい映画が無かったのでまず大型電気店を覗いた後、夕食はいつもの『(みんみん)』ではなく10数年ぶりの『カレーの自由軒』。それから必ず立ち寄る古書店。学術書が意外に安いのに驚きました。本を読まなくなったのでしょうか。ここでは店外に陳列されていた藤原正彦さんの本を購入。
昔はミナミにも古本屋はそこそこあったのですが、特によく行った大阪球場の古書店街が無くなってさびしくなりました。今、まとまった古書店街は阪急梅田のかっぱ横丁のみ?

それからブックオフに行って水上勉さんの『京都遍歴』の美本を見つけて小躍りし、もう1冊『ファーストフードは世界を食いつくす』の計2冊を購入。そしていつもの『丸福珈琲店』へ。
ここでコーヒーをすすりながら買った本をパラパラと拾い読みするのが、ミナミ歩きの何よりの楽しみです。この日ももちろんそうしました。こうしてこの店の80年近い歴史のその半分以上の45年間、半世紀近くも私は通い続けて、昔の若い時も年を重ねた今も全く同じことをしている。

「10年どころか20年一日のごとく」ミナミでの私のワンパターンな行動ですが、街は微妙に変わっていました。
敷島をはじめとする映画館三館がすべてパチンコ屋になっていました。そこには「これでもか」というほどの照明が煌々と照らされています。大飯原発がふと頭をよぎります。後ろめたく見ていた「日活ロマンポルノ」でしたが、ロマンポルノの見方を一変させ、セックスに対する私の考えも変えさせた『赫い髪の女』を見た映画館もなくなっていました。

腕に刺青(タトゥーというそうな)を入れているホリの深い外国人青年が徒党を組んで歩く姿も目につきました。歩きながら大声で話している中国人観光客。かなりの多人数です。西欧系外国人の家族らしき人たちが、ごくごく自然にラーメン屋ののれんをくぐっていきます。
ここはどこ?と思うほど外国人が闊歩する繁華街になりました。


家に帰るために乗る南海電鉄高野線。
6両だったか8両だったか、1編成すべての車両にはパチンコ屋PRのラッピング電車。
この広告料でいくらの収入になるのかは知らないけれど、韓国では「賭博」だとして禁止されているパチンコのPR電車が大都会の中を、そして老人から子どもまでの間を走り抜けていく。
南海電車と言えば日本最古の私鉄。この鉄道会社も矜持を失いました。

私にとって「ふるさと」は大阪。
青春の一部を間違いなく作ったミナミだけれど、今、信州の草深い中山間地に戻るとホッとします。畑に立つと気が優しく柔らかくなっていくのがわかります。

おふくろも死んで誰も住まなくなる大阪の家。売ろうかな。

ご無沙汰です。実は…。

2012年09月21日 23時34分31秒 | Weblog
2012年09月21日(金)記

半月ぶり、かな? 久しぶりです。
9月に入ると急に過ごしやすくなってきました。
昼間の気温は30℃は超えるのですが、肌に当たる風はさわやかで、影に入るとヒヤッとします。
夜は、もう寒い。

弟の件が落ち着いて、遅れたとはいえ秋・冬野菜を播種し(私のやり方は、イネ用育苗ポット8穴×16穴で計128穴を使って育苗する方法をとっています。これをやり始めてから全く失敗なし。種代も節約。ただし根菜と根が弱いといわれるハクサイは直播します)、加えて溜りにたまった他の農作業の合間を縫って9月9日の日曜日、地域の防災訓練をオカンに任せてカヌー講習会に参加し、家の前を流れる犀川での川下りを楽しみました。写真はその時のひとこま。
   

思っていた以上に面白く、ボートや和船よりなお一層水に浮かんでいるという感じが強く、さらに、ゆったりと川の流れに身を任かせて漂う心地よさ、川面から見る陸の景色は私にとって新しい世界でした。
これは病み付きになるだけでなく、これから私の家に来る人たちにもどんどん勧めようと思っています。
なに、2時間ばかりわんど(流れのないところ)でカヌーと戯れていれば、パドル(櫂。かい)の扱い方なんぞすぐに慣れますよ。なにしろ小2の子どもにだってできているんだから。

さて、このカヌーについて、ルンルンなお便りを出そうとした矢先の9月11日の早朝、母親の容態急変の電話が入ってその1時間半後には死去の連絡が入り、その日から18日まで大阪にいました。
弟が亡くなって1ヶ月経たないうちに母親も亡くなった、という訳です。享年97才。老衰でした。

母親が死んだため大阪に行くとき、長野に連れて帰っていた弟の遺骨も連れて行き、長野に帰るときは2人の遺骨を助手席に乗せて…ということになりました。

この18日夜から19日朝にかけてはまれにみる荒れた天気で、名神高速も米原JCから養老JCまで雨による通行止め。で、迷いつつ地道でやっと大垣ICにたどり着き(この間雨なんぞ全く降らなかった!)中央道へ。
ところが中央道に入って内津峠あたりから時速50Kmでも前は全く見えないほどの豪雨と雷です。にもかかわらず可動式の標識は「80」のまま。特に大型トラックと並走するとその飛沫(しぶき)で[全く見えず]の二乗といった感じで身の危険を覚え、早く帰りたかったのですがやむを得ず虎渓山PAで雨宿りをしました。
このゲリラ豪雨、本当に気を付けなくてはいけませんね。

(今回は何をお便りしようとしているのか、今の私の頭の中は疲れているのかバラバラです。)

で、20日と21日の今日は、かろうじて生き延びてくれていた苗を大車輪で植えつけました。
でも秋の遅植えは回復しないと言われているので、ダメかな~。

(今日のお便りは不統一、まとまりなし、バラバラでごめんね。また明日。)

おコメ

2012年09月07日 23時55分32秒 | Weblog
2012年09月07日(金) 記

暑い暑いと言いながらも今日は「白露」。早いものです。
「早い」と言えば、知り合いから新米を送ってきていただきました。
このあたりでは黄色くなっている田はあるもののまだまだ青い田も多くあり、「えっ、もうそんな時期!」という驚きでした。

私は根っからの日本人というか、農耕民族だなと実感するのは、家におコメさえあれば安心できるんです。信州のこのあたりでいうと「安気(あんき)」になる。
カネもなく世帯道具も着る服も何もないとしても、おコメさえあれば何とかなる、生きていけるという気持ちになります。
このことは、以前に紹介したかもしれませんが幕末の歌人 橘曙覧(たちばなのあけみ)のこの歌が実感として思い浮かんできます。

「たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふとき」(※)


だからという訳でもないでしょうが、稲穂の頭(こうべ)が垂れている田んぼを見るのが大好きですし、何とも美しい風景だと感じるのです。加えてイネ独特のにおいもいいですね。
黄金の輝きと香りは、この時期の中山間地や里山にとっての至宝、この上なく大切な宝だと思うのです。

写真は家の近くの田んぼの風景です。


ちなみに右端、青い屋根の家はこの春まで空き家でしたが、愛知から移住してこられたみたい。すでに野菜つくりを楽しんでいるようで、トマト、キュウリ、トウモロコシ、ネギがみえます。オクラもある。大したものです。

家というものは空き家の時はくすんで侘(わび)しく、「こんな家!?」というものでも、人が住めば輝くものです。住む人を得てこの家も喜んでいるように見えます。
ちなみに画面ほぼ中央、一番背が高い杉のてっぺんあたりに、槍ヶ岳が子槍(こやり)とともに見えるのですよ。今日は雲で見えませんが。


さて、ここまでお便りして思い出すのは昨年今頃の「放射能」問題です。
昨年9月17日のお便り(ブログ)で報告したように、長野県が23年産米の「放射性物質の検査」についてのチラシを農家全戸に配布し、コメの取り扱いについての注意喚起をしたのですが、今年の24年産米についてはいまのところ全くありません。

では、放射能についてはもう心配ないのでしょうか?
昨年、県下では唯一、群馬県に隣接する軽井沢の一部で放射能が検出されて問題になりましたが、今年はもう大丈夫なのでしょうか?

実は今年になっていままで出ていなかった御代田(みよた。軽井沢の西隣町で長野市寄り。佐久や小諸の東となり)で野生きのこから放射能が検出され、それだけでなく長野市の水道水から0(不検出)だったストロンチウムがわずかとはいえ検出されました。つまり汚染が徐々に拡大してきている。

それは決して長野県だけの問題ではなく、関東首都圏はもうすでに、そして甲信越にも広がりつつあるのです。そしてこの事実を政府や各界の指導者層、マスコミが知らないはずはない。庶民の我々に真実を教えようとはしない。与えるのはTVでお笑い番組やスポーツとわずかなお金。これで国民は文句を言わない!

放射能とは人間がどんなに頑張って閉じ込めようとしても広がっていくもの。そしてそれは何万年も消えることはない。
さらに原子力発電とは、「発電」とともに核兵器の材料を作っている疑惑がはっきりしてきた。現に自民党総裁候補の石破議員は原発と核武装との関連をぽろっと漏らした(マスコミは報道しないけれど)。だから彼は原発継続を声高に言う。

もう一枚写真を。


お日さまの光が雲間から漏れて光柱が地上に降りてきている。さっきの写真と同じ今日の夕方近くに撮ったものです。しばらく見惚れるほどに美しかった。
しかし、もし放射能がわずかながらでも目に見えるとしたらこんなふうに降り注ぐのかしらと、嫌な想像をした。
豊かに実る大地、人々が住む家、動物たちの住む森。
これらがこの光柱のように降り注ぐ放射能にさらされているのかと思うと、何とも言えぬやり切れなさと怒りが湧いてくる。

電気が足りないと騙して大飯を動かした詐欺師関西電力と言われるままに「再起動」を指示したノー天気の野田。再稼働を早くしろと脅し続けた金の亡者の経団連米倉。ろうそくの生活に戻ってもいいのかと恫喝する仙谷という政治家。


大地を汚してはならない。水も汚してはならない。生けとし生きるものを汚してはならない。不幸にも汚れてしまったものはこれ以上汚してはならない。


この帰り、マサカズさんとそのお母さんが稲刈りしていた。60の息子と80過ぎの母親。


口角泡を飛ばしてウソをつき、民を犠牲にして利を追う連中。そして小さな田んぼの稲刈りに一所懸命の親子。
キリスト教徒ならどちらに「神のご加護を」と祈るだろうか。
そして仏教徒の私は、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とただただ念じる。


(※)
他にこんなのもあります。
「たのしみは戎夷よろこぶ世の中に皇国忘れぬ人を見るとき」

私の頭の中にはTPPが常にあるので、「戎夷」の代わりに「アメリカ」と詠みかえてしまいます。
「戎夷よろこぶ」とは「アメリカすばらしい」「「アメリカさんの言うことならハイハイ」という追米・従米主義の意。「皇国」とは天皇の国という意味でなく、藤原正彦さん(新田次郎、藤原ていの子息)が『国家の品格』で述べている国家像(観)に近い、かな?


ミブナ(壬生菜)とミズナ(千筋京菜)

2012年09月05日 23時27分34秒 | Weblog
2012年09月05日(水)

昨日のお便り、写真が入っていませんでしたね。頭がぼーっとしていたのでしょう、記事をアップした後、確認もせずパソコンから離れてしまいました。とにかく眠かった。
最初に入れるつもりだった写真がこれ。



次のがこれ。




そうそう、ずっと探し続けていた「ミブナ(壬生菜)」の種を某所で見つけ、喜び勇んで購入しました。
この野菜は京野菜の一つで、京都市内の壬生あたりで栽培されていたものだそうです。そう、新選組の屯所のあったあたり。

このミブナとよく間違われるのがミズナ(水菜。千筋京菜が一般的)。大阪では『はりはり鍋』や、正月2日の『すまし雑煮』でなじみなのですが、このあたりではほんの3~4年前ごろから、生サラダの食材として利用され始められたところです。

大阪出身の私としては、一抱えほどになるまで大きくしたミズナをクジラ肉(今は豚肉)と煮たり、アゲを使ったりして、ともかく一度に大量に食べるのですが、生サラダ用として売られる親指と中指で作った輪っかほどの大きさの株を、3把入り平均100円で売られているのを見るたびに、はりはり鍋のおいしさを教えたくなります。

ところで私がまだ大阪にいた頃、「ミズナは漬物にしてはダメ、漬物にするならミブナでしないといけない」と、誰からか言われた強い記憶があります。理由はたしか、「昔から言われている」。

このことがずっと頭の中に残っていて、ミズナは毎年作っているものの決して漬物にしませんでした。ところがミズナ(千筋京菜)の種袋を見ると、「漬物にもよい」と書かれている。
漬物が無ければ食事をした気にならないほどの漬物大好きの私が今もずっと引きずっている「ゆゆしき問題」なのです。

あのミブナを、昆布や鷹の爪も入れて塩漬けにし、これを細かく刻んで少し醤油を垂らし、善光寺門前八幡屋礒五郎の七味唐辛子は好みで振りかけ、暖かいご飯、「ぬくめし」に少々多めにのせ、おもむろに箸で茶碗の中で程よく混ぜたあと、ガサガサとかきこんだ時のシャキシャキした歯ごたえの心地よさと口いっぱいに広がる塩味の菜っ葉の美味さ。卵かけごはんとともに、これを食いたい食いたいの長年の念願でした。
ところがミズナの漬物はダメ。一方ミブナの種は手に入らない。

しかし一体なぜそんな言い伝えがあるのでしょうね。
これは単なる理由なき言い伝えなのか、あるいは今は忘れ去られているけれど大きな理由があるのか。
ふーん、どっちだろ。どなたか教えてください。

さてさて、この冬はノザワナ漬けのかわりになりそうなミブナの漬物、今から楽しみだぞ。

耕運機修理、小川村に。

2012年09月04日 23時42分31秒 | Weblog
2012年09月04日(火)記

随分長い間のご無沙汰です。

大阪の弟が亡くなったのが8月20日、故人の希望に沿った通夜・葬儀を行ったのが24日。
その後、ご近所へのあいさつ回りや役所への諸手続き、携帯電話会社をはじめとする諸会社との契約解除手続きや連絡等々を済ませて27日の23時30分、大阪を発ち長野に帰ってきたのが28日の朝でした。信州への旅路がよく見えるように、遺影と遺骨を助手席に乗せました。

彼の保管郵便物の中で、今は30才になっている私の息子が小2の時、富士登山や、上高地から蝶ヶ岳~燕岳を縦走した時の絵葉書など、特に別置きしているものの中に、私が長野に来て間もなく送った案内地図が大切に保管されていました。

亡くなる数週間前、長野まで行ける体力があれば行ってみたいと言っていたこと、私たち夫婦も最後は看取ってあげるために長野へ来れるなら一緒に行こうと勧めていたこと、そしてこの地図の件とが重なって、遺骨や遺影を助手席に乗せるとき、結局初めての長野行となり、思わず声を出して泣いてしまいました。

中央自動車道の長い長い恵那トンネルを抜けると、一気に信州の雰囲気に包まれます。
やがて右側に広がる南アルプスが朝焼けに染まり、左側の中央アルプスはまだ霧と薄闇に包まれてはいるものの徐々に明るくなってきて、点在する家々と牧草畑の緑のコントラストが見事なハーモニーを奏でます。
「どう、信州は美しいやろ(でしょう)」と、助手席に声をかけるドライブでした。
この日の夜明けは本当に美しい光景を見せてくれました。


と、ここまで書いて今日は別のことでのお便りだと、思いを取り直します。

約半月のご無沙汰で畑はとうぜん草ぼうぼうです。帰ってからずっと草刈り、草抜きに明け暮れています。
加えて大阪にいるころ強烈な痛みをともなう口内炎で(初めて医者にかかりました、大阪で)、長野に帰ってからずいぶん楽になったのですが、いまだに歯茎が痛んでいるので無理もきかず、夜の9時になると疲れも伴って酔ったようにふらふらになってしまっています。こんなわけでこのお便りも、ツイッターもなかなかできなくて。

秋・冬野菜の播き時も逃しました。特に信州の冬の漬物に欠かせないノザワナ、ダイコン、ハクサイは遅くとも8月中が限界。来シーズンにかけましょう。
で、とりあえずまだ間に合うかもしれない(との希望的観測で)、コマツナ、ホウレンソウ、シュンギク、小カブ、ハツカダイコン、フダンソウ、ルッコラ、それに(漬物用でなく煮物用として)ノザワナを直播きにせずポットに播種しました。ポットなら育苗管理がしやすく、少しは挽回できるのじゃないかとは考えているのですが…。そして移植までに畑の整備を。

でも昼間の気温はともかく、夜間はとうとう20℃を切るようになってきたので「べたがけ資材」を駆使してなんとか、と考えているのですが、さて私の技量ではうまくいくかどうか。

とにかく信州の夜間気温は急激に日に日に低くなっていきます。もっともこれがあるからこそ、コメや果物がおいしくなるんですけれど(もちろん野菜も。今日の夕食のナスのニンニク入り煮びたし、真夏に播いたフダンソウのお浸し、これはこれは絶品でした)。



と、日々の雑事があることに感謝しつつ、今日は久しぶりに小川村に行ってきました。これは遊びじゃなく耕運機の調子が悪くて、修理のために。

私の耕運機はホンダ製で、JAの機械センターでも修理はしてくれるのですがその出来に私が満足できず、近辺では唯一の販売店のここに、という訳です。ま、買ったのもここなんですが。


『信州西山』といわれる小川村、いいですね。「田舎」を絵にかいたようなところです。
写真はオリンピック道路から旧道を少し入ったところ。
左端にみえる赤い字はJAのスーパーです。その隣(見えませんが)に『JAながの西山支所』があります。


次の写真は、村の中心部。まったく寂れてしまっています。旅館をはじめ食堂、理髪店など一通りの「看板」が残っていて、かつては賑わった様子が垣間見えます。この先右側に高府(たかふ)郵便局があり(小川郵便局というのは無い)、かつて家さがしをしていたころ、この郵便局でオカンと二人で目的の家のあり場所を聞いたことがありました。10数年前のことです。

生活しやすく人が良く、気候風土もよくて美しい。
今住んでいるところもいいが、小川村もいいなぁ。