信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

ムラの新年会…のはずでしたが

2012年01月16日 21時49分25秒 | Weblog
2012年01月16日(月) 記

夕食を食べながらNHK『クローズアップ現代』「子どもが語る大震災(1)高校生が伝える福島」を見ていたら、胸がこみ上げてきて涙が溢れ出てきました。

あんなに聡明で、健康で、純真で、若さに満ち溢れていて、そして目の前に未来が開かれているはずの高校生に、これから何十年も自分の健康にもびくびくしながら、「放射能」という問題を背負わせてしまったことに、ただただ「申し訳ない」という気持ちでいっぱいになりました。
40年近く前の、私もかかわった反原発運動が敗北した結果が、こんな事態をまねいてしまいました。

私がその考えに共鳴し、尊敬し、好きでその著作を何冊か読み、愛読書もある内山節(たかし。群馬の山村に移り住んで畑を耕しながら思索し、発信している哲学者)さんがこう言ったそうだ。

(今日のツイッターより)
pinpinkiri 記者とかしています
哲学者の内山節さんは言った。地震と津波は過去は奪ったが、未来への希望は残した。しかし、原発事故は未来まで奪う。買ったばかりの家を追われる。奪われた家族の未来。<福島・二本松の新築マンションで放射線検出、住民に転居を勧告 ow.ly/8ucfy #rt_ne >

本当にそう思う。

それに、このツイッターにもある二本松の新築マンション。
7時のNHKニュースで報道された、このマンションに「避難」してきた若いお母さんが避難先のここで被爆している自分の赤ちゃんに「申し訳ない。ごめんなさい」と涙ながらに謝る不条理さ(9時のニュースのトップは、イタリア観光船難破で助かった若い韓国人夫婦のことを長々と。結局このお母さんのことは報道されず。なぜ? 9時のNHKはバカか! 無性に腹が立ってくる。受信料返せ!)。

さらに、昨夜のNHKスペシャル『原発危機「知られざる放射能汚染~海からの緊急報告~」』では、ますます広がってきている放射能汚染。東京湾は2年以上先が汚染のピークだと。さらに内陸の湖沼は想像以上に汚染されている可能性が高く、その実態の把握はまだこれからだ、という。

気が重い。

でも、これで引いてはダメだ。40年前を反省しているからこそ、そう言える。自分を奮い立たせるためにも、そう言う。

そして、泣いていたお母さん、あなたは決して悪くはない。
嘆くおばあちゃん、あなたは決して悪くはない。



今日は、きのう開催された『Y区新年会』のお便りのつもりが、こんな内容になってしまいました。新年会のことについては、また。

やっと見終えました 2/2 (不平等条約改正とTPP)

2012年01月13日 02時19分43秒 | Weblog
今朝は寒かったですね。どちらも今季の最低気温を記録したんじゃないでしょうか。ここは氷点下10℃以下になりました。
写真は台所用洗剤で、左は少し薄めていて普段使っているもの。右は詰め替え用。
並べてみると、左が濁っているのが分かります。たぶん寒さのせいだと思います。



さて、昨日に続き、です。

少し煩わしいですが、幕末の不平等条約を改正しようとした経過を見てください。これも高校日本史の教科書からのまとめです。

1872(明治5)年 岩倉具視 最初の交渉(対米)不調→中止
1878(明治11)年 寺島宗則 関税自主権の回復交渉(対米)いったん調印するも失敗
1882-87(明治15-20)年 井上馨 治外法権(領事裁判権)撤廃と関税自主権の一部回復交渉→失敗
1888-89(明治21-22)年 大隈重信 米・独・露と改正条約調印。しかし条約成文以外に大審院(現在の最高裁判所にあたる)に外国人判事の任用を認めていたことが発覚し、反対運動が起こって改正交渉を中止
1891(明治24)年 青木周蔵 ロシアの東アジア進出に警戒していた英と交渉。領事裁判権撤廃、関税自主権の一部回復に同意したが大津事件で辞任。榎本武揚が引き継いだが本格化せず挫折
1894(明治27)年 陸奥宗光 日清戦争開戦直前に日英通商航海条約調印(領事裁判権の撤廃、関税率の引上げ、相互対等の最恵国待遇)。1899年(明治32年)発効。有効期間12年。
1894-95(明治27-28)年 日清戦争
1904-05(明治37-38)年 日露戦争
1911(明治44)年 小村寿太郎 日露戦争後、12年の満期改正で、関税自主権の回復。

なんと、日米和親条約から数えると不平等条約改正までに57年間もかかっているのです。
つまり近代国家(要するに西洋の基準に合わせた国づくり)を作りつつある明治期の全期間を要し、さらに日清・日露戦争という国民に甚大な犠牲を負わせ、そして幸運なことに西欧諸国の対清・対露などへの世界戦略上の必要から、かろうじて条約改正に「応じてもらった」のが実情でした。つまり「幸運」だったのです。
この歴史を私達は決して忘れてはならない。

そして今TPP。

TPPを唐突に言い出した菅前首相は「平成の開国」と言った。
これに対し、国を案じ国を思う心ある人々は「日本は世界でもまれな関税の低い、開かれた国だ。TPP参加は「平成の壊国」だ」と反対している。私もそう思う。

さて普通一般的に「開国」とは「幕末の開国」のことをいう。
それは、強圧的なペリーとの日米和親条約であり(1854(安政元)年)、アロー戦争に負けた清国のようになるぞと脅された結果の日米修好通商条約(1858(安政5)年)である。
それと軌を一にするがごとく、まさに「平成の開国」とはアメリカによる属国化への要求がTPPへの参加要請(強制)なのだ。

時に思う。菅前首相はこのことを知っていたのではないか。
つまり「平成の開国」と言った真の意味はこのことで、我々国民にこういうメッセージを送っていたのではないか。そう、「TPPは危険だ」と。
ただ背後にある大きな黒い力と、日本国内でそれに協力する(これをBKD=売国奴という)勢力が「参加しない」と言わせなかったゆえの、せめてもの知恵であった、と(思いたいのだが…そんなことないか)。

明治政府にとって、憲法制定に次ぐ重要な課題が不平等条約の改正であった。
冒頭に挙げた条約改正の経過を見ると、いったん結んだ条約はおいそれと改正できないことがよく分かる。まして不平等条約においてはなお一層むずかしい。

しかもこのTPPは
TPPへの交渉参加も交渉内容も変更も、なぜか米国議会の認証が必要なのだ。つまり、「日本はTPPに参加してもよい、あるいは、参加はダメ」と米国議会が決めるのだ。なんだこれは!
条約は国内法より優位性を持つ。従って日本の国内法よりTPPが優位性を持ち、さらにTPPを米国議会が支配している。これぞまさに「米国の属国化」に他ならない。

そしてTPPに含まれるラチェット規定を見てみよう(Wikiより)。
TPP参加後は、参加国諸国はラチェット規定により、自由化・規制緩和の後退を禁止される。すなわち、一度決めた規制緩和は後で問題が発生しても元に戻せないのである。また、TPPのルールの変更には、他の参加国全ての承認がいる。よって日本は、一端この組織に加盟してしまえば、それが国益に合わないとわかっても、容易には改善ができなくなる。また、TPPからの離脱宣言は可能であろうが、それには、TPP参加後に日本国内に進出したり事業を拡大した外資系メーカーからの、莫大な賠償請求訴訟の連発が予想され、極めて困難である

私達は「開国」という言葉にだまされて、幕末の「不平等条約」の間違いを再び繰り返してはならない。これを取り戻すには子々孫々に甚大な犠牲を負わせることになる。

さらに、TPPで景気がよくなる、という経団連米倉の言葉を信じてはならない。彼らは国民の利益よりも企業の利益を求めている、そしてこの企業というのは「大企業」であり、この「大企業」のほとんどに今や「外資」が入っているのだ。「外資」の利益のために私達の国や安全、共生システム、外国人にとっても憧れの日本をズタズタにしてはいけない。
韓国のサムスンの外資55%、LG50%。輸出による利益はどこにいく?(日本が韓国に負けるという報道がいかにインチキで偏向しているか)。

そして最期に「世論」という名でたぶらかす「新聞」「TV」などのメディア。
明治の昔からイエロープレス、イエローペパー、イエロージャーナリズムはあったけれど、今の全国紙やキーTV局の論説委員や編集委員、主筆までが官邸と会食していることを公言し(中には自慢し)、自分の力の大きさを誇示するだけになってしまった。
情報収集に一定の努力はいるけれど、こうしたメディアからの情報依存症から抜け出そう。いったん抜け出せば目の前の世界はパッと開けてきます。

今日も読みにくいし長かったですね。申し訳ない。でも本当にTPPという危機がせまっています。

じゃ、また。

『NHKドラマ 坂の上の雲』最終回、やっと見終えました 1/2

2012年01月11日 01時20分45秒 | Weblog
2012年01月10日(火) 記

最近のTV、面白くないですね。特に地デジになって画面がはっきり写るようになってから、芸能人が仲間うちの話しに手を叩いて大口あけて笑っている番組など、一層そう思うようになってきました。
ほら、サルがキャッキャッと言いながらシンバルを叩いているおもちゃがあったでしょう、まるでそれにそっくり。
電波が国民の財産であるならあんな番組を垂れ流して欲しくはないですね。実にもったいないし、視聴者の思考停止をもくろんでいると勘ぐりたくなります。

ま、日本が戦争に負けてアメリカが支配しやすいように抵抗しない日本民族愚民化手段に使った3S(セックス、スポーツ、スクリーン)が、いまだに連綿と続いている、ということでしょう。
ということで最近はEテレやBSをよく見るようになりました。こちらのほうがずっと面白い。

こんなわけでお笑い好きの連れ合いも食傷気味なようで、撮り貯めていたビデオを見ることが多くなっているようです。
昨日も12月25日放送の『坂の上の雲』最終回を見ていたので、私もブログを書きながらながら視聴しました。


私には正岡子規が死ぬまでが面白かった。ま、子規役の香川照之さんの熱演によるところ大ですが。それにしても教科書で見た子規の横顔の写真、香川さんのそれとそっくりなのは驚きです。

さて、この最終回の『坂の上の雲』に「ここ」と思う点をいくつか。

1つ目は漱石や俳句仲間が集まって賑わっている座敷から、カメラがパンして隣の部屋の、主を失った机が写った時の寂寞感。隣の部屋がにぎやかなので一層その感じが深くなるのでしょう。
2つ目。この場面の少し前の漱石のセリフ。
「いや私はね怖いんだ。もしバルチック艦隊に負けたら日本はロシアの植民地になる。『吾輩は猫である』も正岡の「をとといの へちまの水も 取らざりき」も日本語で読めなくなる。落語も歌舞伎も能も狂言もおしまいだ。我が輩はかつて文学を捨てて軍人になった秋山真之を軽蔑した。しかし今、頼れるのは秋山だ。それが悔しいんだ」

3つ目はナレーションで。
H.W.ウイルソンという英国の海軍研究家は、日露双方の発表によって日本海海戦の事情が明快になった時「なんと偉大な勝利であろう。自分は陸戦においても海戦においても、歴史上このような完全な勝利というものを見たことがない。この海戦は白人優勢の時代がすでに終わったことについて、歴史上の新紀元を劃したというべきである。将来は白色人種も黄色人種も同一の基盤に立たざるを得なくなるであろう」とし、この海戦が世界史を変えたことを指摘している。

4つ目。(以下は要旨です)
ロシアとの講和条約(ポーツマス条約)で賠償金が全く取れなかったことに怒った民衆が暴徒化し、一紙を除きすべての新聞世論もそれを煽った。

以上はNHKのドラマの中での描き方です。
残念なことに私は司馬遼太郎の原作本は読んでいないので、ドラマ化する際に改変があったかもしれない。従って、『NHKドラマ 坂の上の雲』として見ています。

最後。
日本海海戦場面が主となってしまって、条約改正に努力していた小村寿太郎のことがいつの間にか消えてしまったのが残念だった。


長くなりそうなので、ここらで一服。
じゃ、また。

どんど焼き

2012年01月09日 23時27分20秒 | Weblog
2012年01月09日(月) 記

1月7日の土曜日はわが『S組』の「どんど焼き」でした。
この「どんど焼き」のことを「道祖神祭り」とも言っていますが、正式な呼び名は分からないしこの2つの関連性もわからないのだそうです。で、この「どんど焼き」のことを『左義長』とは言わないのか、と聞くとそれは言わないらしい。

この道祖神は安曇野が有名ですが、信州各地にはもちろん、他県にもあるそうです。でも大阪では見かけなかった。
かわりに地蔵尊が家内安全、村内安全、交通(旅の)安全や村外からの災いの侵入防止などを担っており、この点から見れば道祖神に近いように思うけれど、同一ではない。

さらに「どんど焼き」と「道祖神祭り」の結びつきも調べれば調べるほど分からなくなってくる。
「どんど焼き」は普通1月15日で「道祖神祭り」は江戸時代の昔から1月7日。
松本地方では「どんど焼き」のことを『三九郎』といいますが、準備するのも焼くのも1月15日だったけれどいつの頃からか現在は1月7日、つまり信州では「道祖神祭り」の1月7日に実施。

このようなことを究明していく学問が民俗学(フォークロア。民族学とよく間違われる)で、私もほんの少し勉強(フィールドは主に近江=滋賀県)していたのですが、やっぱり分からない。ここだけの話、柳田國男さんも学問という「科学」では太刀打ちできなかったんではないでしょうか。
連綿と続いた庶民の文化は一筋縄ではいかない。そこが庶民の強いところ、庶民の庶民たるゆえ、ともいえる。


さて、そんなややこしい話は置いておいて、今年は幸いにも会社勤めの人も参加しやすい土曜日でした(毎年、平日だと直近の土曜日への変更の話が出てくる)。

本来当日の朝、子ども達が組の家々を回ってお正月の注連飾りや門松などを集めて組み立てるのですが、わが組の小学生はわずか1人。で、大人が行なう、ということになります。
朝9時に集まって先ずやることが除雪。


次に竹で三脚状に組んで骨組みを作っていきます。
もちろんこれは決まっているわけではなく、当番によって、中心に1本の心棒を立ててから骨組みを作る人もいます。


お正月飾りはもちろん、燃えやすい杉っ葉や豆の木なども組み込んで完成です。
これは年々小さくなってきています。8年前に最初見たものにはダルマが3つも4つも付いて、かなり大きなものでした。あれから2軒空き家になり、1軒は高齢で不参加、1軒は喪中。


組み立てが終わったのが11時。いつも通る道が積雪で軽トラの通行が困難。で遠回りすると雪景色がきれいだったので1枚とりました。
棚田の形がきれいに出ていますが、ここでコメ作りをやっているのは(再開するのが)私一人だけで、それもたった1枚のみ。


午後7時丁度に点火です。
子ども達(といっても2人だけ)が参加していたときは、この火でもちを焼いて食べ無病息災を願ったものですが、おとなだけになると省略です。写真は当番(世話役)さんが参加者にミカンを配っているところ。
このミカンも焼かなくなりました。


火が消えると『S組公民館』に移って、いっぱい飲みです。
まず道祖神様にお供えしたお酒が、単なる酒からお神酒(おみき)に変身し、参加者の盃に注がれて乾杯。そして当番さんが用意した近所のスーパーで頼んだオードブルという酒の肴の詰めあわせや、おつまみなどをつまみながら世間話に花を咲かせる、という次第です。


マサカズ、ヒデヒコ、そして私の3人は盃を酌み交わして話し込み、夜中の12時半、十三夜に照らされた明るい雪道をほろ酔い気分で、「今晩は冷えるぞ」と思いながら家路につきました。

私の「帰省」

2012年01月08日 23時34分31秒 | Weblog
2012年01月08日(日) 記

早いもので、年が改まってすでに1週間。時が経つのは早いですね。
この間(かん)、茨城に住む息子一家と諏訪で落ち合って京都、大阪に行き、お西(西本願寺)さんと大谷本廟、それに大阪にあるお墓にお参りをしてきました。

大阪には所用で時々行くのですが、ペットや家畜など多くの動物のことが気になって滞在時間がどうしても短くなります。
今回もピストン訪問のなか、いつもは京都に住む息子夫婦にまかせっきりになっている墓参と京都の息子夫婦宅も訪ねることができたので、いくばくか心が軽くなりました。


留守にする丸2日間の予想最低気温がかなり低く、動物達の飲み水が凍るのは確実でその心配が大きかったのですが、皆元気だったでホッとしました。帰宅してすぐみんなにぬるま湯を与えました。
そうこうしていると3匹のネコちゃんたちがどこからともなく姿を現し、イヌのロクとともにストーブの周りに集まってきます。こんな姿を見るのは本当に可愛いものです。それに、我が家に帰ってきた、という実感がでてきます。

こんな実感を感じる一方、同時に同じ心で「誰も待っていない家ほど寂しいことはないだろうなあ」との思いもします。
この家には私達夫婦が住み、犬、猫、ヤギ、ニワトリがいます。ごちゃごちゃと動物の命で満ちています。それはそれで忙しい時もあれば、わずらわしいこともあります。

けれど…ジョン・レノン『imagine』ではないけれど「想像してごらん、誰も待っていない家に帰る私を。想像してごらん、暗くて冷たい部屋のカギを開ける音を」。
特に寒くて暗く雪降る山の中の1軒家ではなお一層そうでしょう。
でも10数年後には確実にこんな時が来るでしょうね。二人とも必ず老い、動物の世話もできなくなり、そしてどちらかが欠け。

でも、配偶者があり、離れて住んでいるとはいえ子どもたちがおり、孫もいる私達はまだいい。
結婚できなかった農村部の中高年の男たち、不安定な就業から結婚したくてもできない若者たちにとってそれは、近い将来に目の前に横たわる大きな問題になってくるだろう、と思う。
それにしても、長野から行くと京都、大阪は暖かく感じますね。


ところで帰宅途中の凍結した高速道、なぜあんなにスピードを出すのでしょう。特に県外の人は。
横浜、湘南、豊橋、和泉、大阪などなどあまり雪の降らない地域のナンバープレートが目に付きました。
フルタイム4WD、スタッドレスタイヤのクルマで、アイスバーンには慣れている私達でさえスリップの怖さは充分知っているので必ず安全スピードで運転します。
(帰路、事故渋滞が2件、除雪渋滞が1件。巻き込まれて大変でした)。

5日だか6日だか、諏訪湖が全面氷結しました。1月の始めでこんなことは極めて珍しいそうです。それほど信州は年末からこちら、低温になっています。

スキーやスノボー、温泉、雪上遊覧、雪山登山やトレッキングなど雪の積もった信州は魅力満載で、地元の私達でさえどこに行こうかと迷うほどです。
県外から信州にこられる皆さん、どうか雪道や凍結道路は甘く見ないで下さい。「あっ」と思ったらもう遅いです。

せっかくの楽しい信州旅行をどうかご無事で楽しんでください。

今年もどうぞよろしくお願いします

2012年01月01日 23時18分51秒 | Weblog
2011年01月01日(日) 記

穏やかな年明けでした。
息子夫婦が大晦日の早朝に来てスキーを楽しみ、元旦にここの産土神である『Y神社』に一緒におまいりするのがここ数年の恒例になっていました。

今年はこの夫婦の出産が間近なのでこれず、久しぶりに夫婦で新年を迎え、夫婦だけの初詣をしました。

ここの初詣は10時から始まります。
10時からというのは、氏子総代(組に1名毎。従って区で4名。ここに来た頃『総代』とあるので区で4名というのが理解できなかった)と区の役員たちが神社の拝殿に揃い、神主さんが神事を開始する時間で、我々はこの時を待ってお参りを始める、というわけです。

もちろんこの時にお参りするのでなく、『二年参り』(この場合は当然、大晦日深夜のお参りです)をする方もいます。
私達夫婦も、ここに移住して初めての初詣は二年参りをしました。
夜中、雪明りの中を一歩一歩降り積もった雪を踏みしめていく都会からの移住者にとって、それはそれは異次元の体験のような気がしてよかった。

急な長い石段を息を切らせて登り、途中で出会うムラの人と新年の挨拶を交わし、参拝してお神酒を頂き、また出合った人と世間話をする。

「今年は雪が少なくて、楽だ」「あんたとこ中学生を泊めたんだね。ワシとこもだ。うん、男、2組だ」
「まあ、去年はいろんな役をやってもらってご苦労さんだったね」「骨折、大丈夫かね」
産土神さまにお参りして気持ちがすっきりし、こうした会話をムラの人びとと交わしあうのも実にいいものだ。
連れ合いもいろんな役目を果たしていくうちに知り合いも増え、こんなふれ合いも楽しむようになりました。

今、大震災と原発事故でずたずたにされた地域、コミュニティーも、3.11以前にはこんな風景がごく普通に見られたことでしょう。

さて今日の写真、説明をつけて何枚か貼りますね。


(鳥居前で郵便屋さんが通り過ぎました。年賀状の配達です。まるで『寅さん』映画の一こま)


(第1番目の踊り場で。まだこの石段を登っていきます)


(石段の中程からムラの一部。赤い矢印がお寺)


(お参りを終えて振り返ると、参拝者がぞくぞくと)


(お寺。足跡がなかったので私たちが最初の参拝者のよう)