信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

耕運機修理、小川村に。

2012年09月04日 23時42分31秒 | Weblog
2012年09月04日(火)記

随分長い間のご無沙汰です。

大阪の弟が亡くなったのが8月20日、故人の希望に沿った通夜・葬儀を行ったのが24日。
その後、ご近所へのあいさつ回りや役所への諸手続き、携帯電話会社をはじめとする諸会社との契約解除手続きや連絡等々を済ませて27日の23時30分、大阪を発ち長野に帰ってきたのが28日の朝でした。信州への旅路がよく見えるように、遺影と遺骨を助手席に乗せました。

彼の保管郵便物の中で、今は30才になっている私の息子が小2の時、富士登山や、上高地から蝶ヶ岳~燕岳を縦走した時の絵葉書など、特に別置きしているものの中に、私が長野に来て間もなく送った案内地図が大切に保管されていました。

亡くなる数週間前、長野まで行ける体力があれば行ってみたいと言っていたこと、私たち夫婦も最後は看取ってあげるために長野へ来れるなら一緒に行こうと勧めていたこと、そしてこの地図の件とが重なって、遺骨や遺影を助手席に乗せるとき、結局初めての長野行となり、思わず声を出して泣いてしまいました。

中央自動車道の長い長い恵那トンネルを抜けると、一気に信州の雰囲気に包まれます。
やがて右側に広がる南アルプスが朝焼けに染まり、左側の中央アルプスはまだ霧と薄闇に包まれてはいるものの徐々に明るくなってきて、点在する家々と牧草畑の緑のコントラストが見事なハーモニーを奏でます。
「どう、信州は美しいやろ(でしょう)」と、助手席に声をかけるドライブでした。
この日の夜明けは本当に美しい光景を見せてくれました。


と、ここまで書いて今日は別のことでのお便りだと、思いを取り直します。

約半月のご無沙汰で畑はとうぜん草ぼうぼうです。帰ってからずっと草刈り、草抜きに明け暮れています。
加えて大阪にいるころ強烈な痛みをともなう口内炎で(初めて医者にかかりました、大阪で)、長野に帰ってからずいぶん楽になったのですが、いまだに歯茎が痛んでいるので無理もきかず、夜の9時になると疲れも伴って酔ったようにふらふらになってしまっています。こんなわけでこのお便りも、ツイッターもなかなかできなくて。

秋・冬野菜の播き時も逃しました。特に信州の冬の漬物に欠かせないノザワナ、ダイコン、ハクサイは遅くとも8月中が限界。来シーズンにかけましょう。
で、とりあえずまだ間に合うかもしれない(との希望的観測で)、コマツナ、ホウレンソウ、シュンギク、小カブ、ハツカダイコン、フダンソウ、ルッコラ、それに(漬物用でなく煮物用として)ノザワナを直播きにせずポットに播種しました。ポットなら育苗管理がしやすく、少しは挽回できるのじゃないかとは考えているのですが…。そして移植までに畑の整備を。

でも昼間の気温はともかく、夜間はとうとう20℃を切るようになってきたので「べたがけ資材」を駆使してなんとか、と考えているのですが、さて私の技量ではうまくいくかどうか。

とにかく信州の夜間気温は急激に日に日に低くなっていきます。もっともこれがあるからこそ、コメや果物がおいしくなるんですけれど(もちろん野菜も。今日の夕食のナスのニンニク入り煮びたし、真夏に播いたフダンソウのお浸し、これはこれは絶品でした)。



と、日々の雑事があることに感謝しつつ、今日は久しぶりに小川村に行ってきました。これは遊びじゃなく耕運機の調子が悪くて、修理のために。

私の耕運機はホンダ製で、JAの機械センターでも修理はしてくれるのですがその出来に私が満足できず、近辺では唯一の販売店のここに、という訳です。ま、買ったのもここなんですが。


『信州西山』といわれる小川村、いいですね。「田舎」を絵にかいたようなところです。
写真はオリンピック道路から旧道を少し入ったところ。
左端にみえる赤い字はJAのスーパーです。その隣(見えませんが)に『JAながの西山支所』があります。


次の写真は、村の中心部。まったく寂れてしまっています。旅館をはじめ食堂、理髪店など一通りの「看板」が残っていて、かつては賑わった様子が垣間見えます。この先右側に高府(たかふ)郵便局があり(小川郵便局というのは無い)、かつて家さがしをしていたころ、この郵便局でオカンと二人で目的の家のあり場所を聞いたことがありました。10数年前のことです。

生活しやすく人が良く、気候風土もよくて美しい。
今住んでいるところもいいが、小川村もいいなぁ。

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