信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

農家民泊

2011年01月21日 02時15分24秒 | Weblog
2011年1月21日(金) 記

昨日の続き、です。
嬉しかった2つ目。それは『農家民泊』のことです。

私が会場(Y区公民館)に着いた時には、市支所から来ていた職員が説明し終わって帰った後でしたが、式次第に「農家民泊について」と書いてあったので、隣の人に何のことか聞きました。
すると、「地区としての取り組みは去年からしているが、今年から本格的に取り組んでいくので、Y区で「農家民泊」の受け入れに協力してくれる方を募集している」ということで、そのことについての印刷物、ペーパー1枚ものをいただきました。

少し詳しく言うと、昨年「篠ノ井N地区民泊受入れの会」から支援要請があって、私たちが属するS地区として初めて大阪松原市の中学生60名を受け入れたそうです(このことについて私は全く知りませんでした)。
で、今年は大阪方面の中学生11校、約2,000名が来る予定なので、より一層の取り組みをし始めたのだそうです。

この「篠ノ井N地区民泊受入れの会」の取り組みについては以前から個人的に知っていましたし、仕事の関係で顔を知っている会長に「関心があるのでいつか詳しくお話をお伺いしたい」と言ったものの、その後機会も無くそのままになっていたのでした。
そしてこの話が新年会ででてきたのです。


実は大阪にいた時から、こういうことをやりたいと考えていました。
「民宿」にすると旅館業になってしまって、私が思い描くものとは違ってくる。そうかといって個人で「民泊」に取り組むのは時間がかかり、ノウハウもないのでなかなか難しい。ここにIターンしてきて思い描いたのはS組として取り組めないか、ということでした。
それが地区として取り組み、その事業に参画できる、というのです。

ペーパーを一読して、即参加することに決めました。今まで他人を泊めることについて話し合っており、「田舎に泊まりたい」と誰かが来たらもちろん泊めてあげると言っていた彼女、反対どころか諸手をあげて賛成してくれるだろう。それに中学生は年齢的にもいい。

そうと決めると、学校行事としてくるので特別にわが家だけ突出して他家と違ったイベントをするわけにはいかないけれど、子どもたちにはこういうことをしてあげたらどうだろう、ああいうことはどうだろうと考えてしまうのでした。そして地域としての「S組」の活性化も図れるんじゃないか…さまざまなことが頭を巡りはじめました。

ちょうど新年会に参加していた、今は「S組」の中心人物になっているマサカズさんに「僕は参加するから、S組として協力、頼むわな」とお願いすると、快く承知してくれたのでした。

帰宅後、ペーパーを見せながらオカンに話すと、もちろん賛成です。彼女は早速メニューを考えたりします。でもそれは、いくらなんでも早すぎる。

他人を、それも中学生を、たとえ一泊でも預かることは、気を使うことでもあります。
それを夫婦で快く受け入れようとするのは、大阪にいた頃に考えていたこととはやることは同じでも、その意味合いは180度といってもいい位に大きな違いになっていました。

そのことについては次回に。
じゃ、また。


追伸
 昨日(1月20日)の東京新聞の「こちら特報部」で、ウィキリークスが暴露した米公電の中に、米国が鳩山-小沢 民主党政権を切り捨てて菅民主党政権を傀儡化しようとしていた証拠が明らかにされた、という報道がされました。

やはり思っていたとおりでした。
鳩山さんが「東アジア共同体」だの「県外移設」だの「日米対等の立場で」だの言ったことや立ち位置が気に入らないアメリカによって、われわれ日本国民自身が選挙で選んだ日本国内閣総理大臣が辞めさせられるなんて(ヒラリーが来日して間もなく辞任した。きっと脅したのでしょう)。(アメリカの外交の議論の中に日本のことを プロテクトレイトと呼ぶ議論があるんですね。プロテクトレイトは保護領という意味なんですよ─NHKスペシャル シリーズ 日米安保50年 第4回 12月11日)。日本国は独立国家なのでしょうか、アメリカの属国なのでしょうか。
さらに「自立と共生」「国民の生活が第一」を信念にしている小沢さんを検察とマスコミを使い、最近は民主党執行部までが執拗にたたき…こんな状態で日本は民主主義国家なのでしょうか。
菅政権では、小泉竹中政権と同じように日本国が危ないと、つくづく思うのです。

除雪機

2011年01月20日 22時09分51秒 | Weblog

2011年1月20日(木) 記

16日、日曜の『Y区新年会』で嬉しいことが2つありました。

1つ目。
来賓の県会議員も退席して宴たけなわの最中、区長さんが私の前に来て「Kさん(私のこと)が除雪で苦労していることはよくわかっている。除雪する区間も長い。1Km以上あるんじゃないの。機械も区で一番長い時間使っている。で、S組のものを下に降ろしたら(私の家に置いたら)たとえ短い距離しか機械を使わないといっても上(家が集合している場所)が困る。それで、市支所に1台、増配置をお願いしている。もしそれがOKとなったら、家においてもらって自由に使ってもらえればいい。そうなれば負担も少しは軽くなると思う」と。

一昨々年は、オカンがクルマの免許を取ったからかどうか、ま、それがきっかけになったのが確かで、ガードレールを付けてもらった。一昨年は路面凍結防止剤(塩カル)を設置してもらった。そして今年の新年早々、こんな話を頂いた。

     
(このガードレールです)


(塩カルは緑色のポストのような形状のもの)

実は、ガードレールにしても塩カルにしても、その付近は通行困難箇所であり危険箇所で、とくにクルマを運転し始めたオカンについては危惧を感じていたものの「あったらいいなぁ」と思う程度だった。
で毎年度終わりに開かれる「S組総会」で、ある年そのような話をしたことがあった。
それが思いもよらず、地域の人たちの善意によって待つことなくこれらを設置していただいた。
そして、今回の除雪機の話である。

有難いことだ。予算やその他の事情でたとえ除雪機の配置が実現されなかったとしても、こう言って下さっただけで嬉しかった。胸が少し熱くなった。

わが家は区の集落から離れたところにある。
江戸時代、「Y区」は「Y村」として、「S組」は10軒のうち、離れている我が家を含めて3軒(幕末期は10軒ほどあった)の地域は「S村」として一村を形成していた程、地理的には少し離れているので、なかなか顔を合わす機会も少ない。

このように会う機会も少ない中、それでも私たちのことを気にかけて下さっているということは本当に有難いことだ。
こんなことをされるから、ここに移住してきた自分自身が徐々に徐々に、より一層やさしくなっていくのがわかる。そしてムラのために少しでも役に立ちたい、立てればと思ってしまう。

1つ目はそんな感激した話でした。
2つ目については次回に。どんな話が待っているでしょうか、お便りする私自身がワクワクします。
じゃ、また。


追伸
日本の村々は、経済的にも精神的にも文化的にも、日本のかけがえのない宝です。
どうか、人を優しく、穏やかにする力を持つ日本のムラを破壊させないためにも、いま問題になっているTPPについて、少しでも理解を深めていただけたらと願っています。また、もう1つの宝である若者や子どもたちのためにも、私たちの選択を誤ってはならないと切に思っています。

一部ですが以下に掲げたサイトには、新聞・TVが意図的に報じない内容も知ることが出来て有益ですし、「自分の意見」と思っていることが実は新聞・TVによる「刷り込み」の結果だった、ということにも気づかされます。
文字ばかりで読みにくいかもしれませんが、どうか辛抱をお願いします。
なお、リンクは『阿修羅』という掲示板ばかりですが、その最大の理由は「コメント」です。
このコメントには賛否両論、左右さまざまな意見を見ることが出来ます。ここにこそ価値があります。どうかさまざまな意見の中で自分の意見も検討されて、TPP賛否どちらにしても、あの小泉ワンフレーズ選挙でだまされた結果、今のように若者・青年たちの希望や生活を奪ってしまった経験を二度と繰り返さないようにしたいと思うのです。

マスゴミ・財界、TPP 誘導に必死 あまりの拙速ぶりに米国の焦燥丸見え(属国離脱への道)
http://www.asyura2.com/11/senkyo104/msg/381.html

《インタビュー》中野剛志:TPPはトロイの木馬──関税自主権を失った日本は内側から滅びる
http://www.asyura2.com/11/senkyo104/msg/945.html

TPPは日本売却総仕上げの悲しい予感
http://www.asyura2.com/11/senkyo104/msg/319.html



大雪

2011年01月19日 22時28分56秒 | Weblog
2011年1月19日(水) 記

お便り、少し間があきましたがお元気でしたか。

こちら信州の山里は、15日(土曜)の明け方から夕方にかけてはまあまあの雪。リンゴの木々もついこのあいだまでの激務から解放されて、静かな眠りに着きつつあるようです。


仕事を終え家路に着く山道の約800m、オカンがハンドラッセルで除雪してくれていました。「疲れた」と言ってました。

さてこれでひと段落と思いきや、この夜から日曜の朝にかけて大雪というかドカ雪で、一気に40cm積もりました。
「長野市内は30cm。5年ぶりの積雪量です。しなの鉄道(旧信越本線)篠ノ井長野間、一時運休」と報道していました。
こちらも当日の16日、日曜の午後2時から区の新年会があります。でも40cmでは車も動かないのでなんとしても除雪しなくてはなりません。

で、雪道を歩いて組の公民館に置いてある除雪機を取りに行きました。これがまた取りに行くのが大変なのです。
勾配のきつい山道を一歩一歩、雪を掻き分けて歩くと汗が出てきます。ロクをお供に連れて行きました。



20分以上も歩いてやっとこさ公民館に着くと、なんとマサカズさんの車がその前で立ち往生でした。無謀にもクルマで私の家に来るつもりだったらしく、行きかけたとたんに雪に阻まれた、ということです。

たまたま実家に帰ってきていた近くのヒデヒコさんにも応援を頼み、除雪機を使って脱出することが出来ました。写真に写っている家屋が、この『山里だより』にたびたび出てくる、S組の公民館です。



結局11時から除雪し始めて2時までやったのですが、それでも中途で終わらざるを得ず、1時間近く遅れて新年会に参加しました(この新年会でまたお便りしなくてはならない事がでてきました。このことについては次回に)。

その後も断続的に降り積もって、結局クルマがすっと通れるように除雪し終えたのが月曜日。1日置いて水曜日の今日、1日がかりでやっと家の雪を片付けました。といっても玄関、縁側のある南側だけですが。

家の雪の片付けは、まず庭に積もっているのを除雪します。それを終える頃には、トタン張りの大屋根が温まってくるので、雪が滑り落ちて庭に落下。さすが大屋根で、この量が半端じゃない。再度これを片付けると今度は小屋根からの雪が落下。これを片付けてやっと終了。
作業中は、落下してくる雪には注意を払わなくてはなりません。雪は重い。非常に危険です。スコップ1杯でもずっしりきます。

写真は落下直前と落下中の様子です。まあ、屋根からの雪下ろしをする必要が無いのでまだマシな方でしょうが、
いやいや、少々疲れました。

今夜は小望月で快晴。雪もあいまって外は作業が出来るほど明るい。こんな夜は冷えます。みなさんも暖かくしてお休みなさい。

じゃ、また。

葛温泉

2011年01月12日 19時19分35秒 | Weblog
2011年1月12日(水) 記

去年の手帳を見ると1月11日(月)の成人の日には高山村松川渓谷の五色温泉、17日(日)には安曇野の穂高温泉、24日には大町の葛温泉に行ってました。

二人ともナイフとフォークの食事より家で採れた野菜のほうが好きだし、服が破れればつくろって着続けるのに抵抗もない。ま、唯一の贅沢が温泉に入ること、と言えるでしょうか。それも日帰りですが。

それに時期的に一番ヒマであることと、やはり体が芯からの“暖”を求めているのでしょうね。

なんだかんだと言っても、本州でも有数の寒い土地。服装に気をつけていても体が冷えてくる。加えて信州という風土はこんなに寒いにもかかわらず、先人たちは家屋の暖房や断熱については無頓着であったといわざるを得ないですね。

1階に4つある12帖の畳部屋にあったのは小さな小さな(掘り)炬燵を1つ、しつらえてあっただけ。2階はなし。外とは、1階は紙障子と板雨戸、2階は紙障子だけで(つまり紙1枚のみで)仕切られている。さらに屋根裏の垂木(たるき)とそれを乗せている桁(けた)のあいだはスケスケか、せいぜい稲ワラを隙間に突っ込んでいるだけという作りようです。この2階の隙間が煙突の役目を果たして、熱が上へ上へと逃げていく。

なんといい加減な作りだと思うかもしれませんが、かつて古民家を勉強した限り、これが100年以上前の農家建築では普通の造作で、そのまま今でもわが家には残っている、ということです。


話がそれましたが、そんな訳で好きな雪景色と“暖”を求めて10日の祝日、葛温泉に行ってきました。
雪の少ない市街地を抜け、大町温泉郷を過ぎ、劇団四季の演劇資料館近辺の集落内を景色を見ながらゆっくりドライブしていると、こんなつららがありました。風が強いのでしょうね。ここも雪が少ない。



大町ダムを過ぎ、いくつかのトンネルや洞門を過ぎると左に『中部山岳国立公園』の石碑があります。そこを過ぎるとすぐ葛温泉です。3軒しかない旅館の1つ目の『仙人閣』。ここは何度か来ているのでパス。一番奥は、登山者には有名な『高瀬館』。ここも何度かきています。それで、一度来たけれど午後3時を過ぎていたので入れなかった2軒目の『温湯かじか』にしました。
写真は撮りたいのはやまやまですが温泉では撮らないようにしていますので、同館のホームページから頂きました。



写真と同じです。
湯に浸かっていると、一人が小説『さざなみ情話』を持って入ってきました。
ここへの道中、「この川の名前は何ていうの」「高瀬川」「森鴎外の高瀬川、ではないよね」「あれは京都」「だよね」と喋っていたので、おもしろい偶然でした。

本を読みながら露天に浸かる。私も時間がある時はやります。でも、ですよ。自分の本ならともかく、図書館の本を持ち込むのはまずいですよね。

手すりにかかった湯がすぐ氷結するような冷たい外気にさらされながら、雪景色の中で湯船の縁に手あごを乗せて湯に体を預けていると、まさに至福の境地です。
そんな中でも頭の隅には、TPP加入が今の若者達をどんなに苦しめていくのか、そんなことを考えてしまう。小泉竹中の愚を二度と繰り返してはならない。


帰りは安曇野の道祖神を見たくて、遠回りしました。その途中のワンショットです。
ちょうど「どんど焼き」が終わった頃です。わが周辺は7日でしたが、こちらは10日か、それとも変更しているのかな。松本は「三九郎(さんくろう)」と言うようですが、安曇野ではどう言うのでしょう。集まっているのは若者ばかりでした。羨ましい。1人でも2人でもわがムラに欲しい。万が一にそなえて消防車もいます。山は有明山。常念岳とならんで安曇野のシンボリックな山。好きな風景です。



じゃ、また。

玄関脇

2011年01月11日 00時25分41秒 | Weblog

2011年01月10日 (月 成人の日)

9日(日)は昼下がりまで、10日(成人の日)はほぼ1日中、両日とも最高気温は0度前後でしたが、良いお天気でした。
耳にタコが出来るかもしれませんが、家は山に囲まれているので風の影響は殆どありません。で、気温が低くても案外暖かいです。

ですので、気温は0度前後でも、写真に写っている玄関脇でブランチや昼食をとったり、読書や、農業新聞(活字大好きだれど、一般紙は購読していません。)を切り抜く場所として使ったり、たまには絵を描いたり、小さな百姓仕事をしたりする重宝な場所になっています。
そしてここに座ると最近よく祖父のことを想い偲ぶのです。



9日の日曜日もリンゴに行く前にここでブランチを取りながら、オカンに次のようなことを話しました。

「もう50年も前に亡くなっているが、私の祖父は藤次郎といい、手ぬぐいでほお被りをして同じように陽だまりであったのだろう玄関脇に置いた椅子にちょこんと座っている姿をよく思い出す。それは母親が持っていた写真だったかもしれない。母親からは、クワを持って追いかけられたりなんと怖い父親だったか、と聞いていたものの、孫の私には別になにも怖くなかった、というより同居していたわけではなかったので祖母に比べて親密度が薄いような感じを持っていた。たまたま何かで私1人が母親の実家に行った時、この祖父が「よく来たな、よく来たな」と涙を流して喜んでくれたが、当時なんとなく面映い(おもはゆい)気がした。そして、それが逢った最後だった」

今流行の『トイレの神様』のおばあちゃんのように、祖父が私に何かの言葉を残してくれた、と言うわけでもない。後姿を見て何かを感じ取ったり学んだりした、という実感もない。
これも母親が言っていたことだが「おじいちゃんの百姓仕事は立派で、畦たてなど物差しで計ったようにきっちりとしてた。ただ、ニンジンだけはうまいことよう作れんで、これだけは近所の人にタネを播いてもらっていた。手があわんかったんやろうな」ということなんぞは覚えている。

「おじいちゃんはいくつで亡くなったのだろう」
冬になって陽だまりの玄関脇に座って本を読んでいたとき、ふとそんなことが浮かんで空を見上げて、そして「おじいちゃんと同じように玄関脇に座ってるわ」と苦笑する。

祖父・祖母から父・母、自分。そして子どもたちや孫へ
精神的なものが、綿(わた)のようになにか連なり織られていく、…ようにも思えるが、なぜかしら祖父のことを思い出してから、若かりし頃の愛唱詩が口から自然と出てくるようになった。
 『あはれ花びらながれ
  をみなごに花びらながれ
  をみなごしめやかに語らひあゆみ
  うららかの跫音(あしおと)空にながれ…』

なつかしいからか?

年代モノの「道祖神まつり」と「奈良漬」

2011年01月09日 01時09分07秒 | Weblog

2011年01月08日(土) 記

今日は仕事でしたので、昨日の「道祖神まつり」(「どんど焼き」ともいいます)についてお便りします。
祭りそのものについては以前に一度お便りしましたので、重複する部分があればごめんなさい。

それにしても今朝は寒かった。
朝、温度計を見ると-9℃。顔を洗おうとすると、水どころか湯も出ない。一瞬「しまった。水道管やひょっとするとボイラーも破裂か」と危惧したのですが、そろそろ融け出す10時過ぎに職場からオカンに確認すると大丈夫。ほっとしました。

と言うのも、おととしは母屋と離れの便器タンクが割れ、風呂のカランも壊れ、去年は離れへの温水管のバルブとハウスの水道栓が壊れました。それでまだ離れの便器タンクとハウスの水道栓は実はまだ壊れたまま。これ以上壊れると春の出費が大きすぎます。

さて、わがS組の「道祖神まつり」は、残された古い記録帳の表紙に「文化十四年 丑 道祖神御日待講」と墨書されていているものがあって、西暦では1817年。少なくともこの時からずっと、曜日に限らず、先の戦争中でも1月7日に行われていました。

私たちはここに移住してきた翌年の平成17年1月が初参加でした。この時はS組の構成世帯10のうち8世帯が参加し、賑やかだったし「どんど」も大きかった。
でも、今年は不参加が高齢1、喪中2、高齢による冬期不在が2のため参加数がわずか5。それも各1人づつの参加。松飾りも大きいものから小さいもの、あるいは全く飾らないという家も出てきて「どんど」も小さくなりました。
加えて、「1月7日から直近の日曜日に変更しようか」、とか「焼くのは昼の3時ごろにしようか」という声も出てきています。現に、近辺の組にはそうしているところがあるのです。


さて7時に火をつけ完全に燃え尽きてから、近くにあるS組公民館で、正式になんと言うのか、とにかく「一杯飲み会」でした。

ここで今回の当番さんが持ってきてくれたのが、なんと平成7年に漬けた「奈良漬」。
「小屋の奥にあったので、見ると平成7年のだった。で、持ってきた」という。15年ものだ。もちろん食べるのは初めて。プロが作って店で売っている洗練された味ではないけれど、農家自家製のおいしさを感じた。漬け物好きを自負する私が感心した「力」のある味だった。この「力」は「時間」を食べて初めて生まれてくる、と少々カッコつけて言います。

写真は、随分食べた後で「あ、そうそう。写真!」といって写したもの。「もう少しきれいに並べて撮ったら」とか「もっと早く気づいて最初に撮ったらよかったのに」と周囲から言われながら写しました。

それをきっかけに、自分の家で作っている保存食について、話の花が咲いたのは言うまでもありません。干し柿を作る名人もいます。さまざまな漬物を作っている人もいます。ドブロクに挑戦し失敗したけれど再チャレンジしている人もいます。「一人(1所帯)一品出し合ったらいいものになるで。ボクは無農薬リンゴとヤギチーズ、ヤギミルクを目指すから」。


こんな話の中で、「この奈良漬、売ってみようよ。干し柿も売ろうよ。今は、作っている人の顔が見える農産物を欲しがっている人が随分多いから、可能性があるよきっと」「農協や業者に出すとマスになるので、どうしても規格や衛生、定量出荷が第一になる。そうでなく、それが有る時に、出来た時に売る。こういうやり方をやってみようよ」と、私は言う。でも農家は各家庭の持つ奥深さや可能性を持っているのに、それが外に出ない。出そうとしない。
「身内に送って喜んでくれるだけでいい」「自分ところで食べる」と返ってくる。

いま、むらおこし、地域の活性化に寄与する農家のかあちゃんたちの活動がよく紹介されています。
それに比べると、わがムラ、わが組の人たちの消極性が顕著だ。
これではダメだ、と言う人もいるかも知れないし、私も少々歯がゆい思いがしないでもない。

でも、と一歩止まって、農家の豊かで満ちた生活、農家が農家であることを守っていく観点からみると、いやいや案外これが正解なのかもしれない。
ただし、爺やん、婆やんの知恵を受け継いだ上で、という但し書きは必要だと私は思っているのだけれど。

でもちょっと残念だなぁ。うーん、複雑。

やっと雪、とうとう雪、が降りました

2011年01月06日 22時57分27秒 | Weblog
2011年1月6日(水) 記

今朝起きると積雪。やっと信州の冬らしくなりました。
家の様子です。




深さは10cm超。起きてすぐ、茶もコーヒーも飲まず作業着に着替えて除雪しました。
というのもオカンが車通勤なので、県道まで降りる1km弱が問題なのです。

ここは長野南郵便局、じゃなかった日本郵便長野南支店(郵便貯金や簡易保険の私たち国民の資金をアメリカに貢ぐために、バカな分割民営化をしたものだ)の配達区域内で、冬の三大配達困難箇所の一つと言われているらしいところ。郵便屋さんもクロネコも脱輪。クロネコはそれ以来、雪の時は配達拒否の場所です。

雪が積もると道路、畑や田んぼ跡、路肩、崖の境目の見分けがつきにくく、脱輪、悪く行けばそんなに深くは無いけれど崖に転落という危険性もあるから、とりあえず危険箇所だけは「ここまでが道路ですよ」とはっきりしておかねば。なにしろ誰もぶつからないだろうと思うほどの、目の前にある大きな丸太にぶつかっていく人だから、用心に用心を重ねなくては。

あっそうそう、2~3年ほど前にオカンが免許を取ったと言うことで、自治会が市に働きかけてガードレールを付けてくれた、ということもカミングアウトしておきます、ね。

さらにさらに用心を重ねて、路肩に竹の棒を、ここという場所に挿し立てなければなりません。これは例年11月中にやっているのですが、雪が無かったからか今年はすっかり忘れていて、暗くなって思い出し、今日は半分だけ立てました。残りは明朝やる予定です。

雪かき、大変ですよ。汗びっしょりになりました。
市道でありながら、市から除雪はしてくれません。除雪機はムラに2台、長野市から貸与されているのですが、置場所が遠いのでどうしても人力による除雪になってしまいます。

それにしても雪景色はいいですね。
下の写真は2階からヤギのナナちゃんを写したものです。もう一枚は雪の下で春を待っているウメの芽です。




雪は、夜の10時過ぎの今も降っています。雪が降ると暖かいのですが、今日は寒くて日中でも氷点下でした。予想最低気温は長野市内で-6℃。ここは多分-8℃か9℃位になるでしょう。夜具には毛布1枚追加します。

リンゴ、今日は休みました。
昨日剪定に行ったのですが、やっぱりリンゴの木たちは待っていてくれました。無沙汰を詫びました。でも彼たちは元気でよかったです。
剪定を終えた木は「ああ、さっぱりした」と喜んで語りかけてくれているようです(ああ、物を言わない者と付き合うのは、いいなぁ。リンゴ、ワンちゃん、ネコちゃん、もちろんヤギちゃんも。自分自身が優しくなれるようだ、ウン)。

またリンゴについてもお便りします。

じゃ、また。

農業委員会委員選挙人名簿登載申請書

2011年01月05日 01時17分52秒 | Weblog
2011年1月4日(火) 記

今日は1月4日、今日が仕事始めのところも多いかと思います。
私は昨日が新年の初出勤でした。
そして今日からリンゴの仕事始め…というつもりだったのですが、物置を片付け始めると片付けることが多くて(ということは、乱雑であったということ)、結局日没になってしまいました。

こちらは2日の朝に薄化粧程度の積雪があったのですが、それっきりで全く雪は降りません。もっとも日中でも低温注意報がでているので、北斜面や影のところでは消えないどころか、凍ってしまっています。でもわが地区の周囲には結構雪が積もっていて、30分も車で走るとスキーはOK。山に囲まれている地域は気象もバラエティーに富んでいて、誠に面白い。台風の風もないし、桂三枝さんじゃないけれど「信州移住にいらっしゃい!」

今朝8時、うちのオカンが出勤する時に言った言葉。
「今日は温かいね」
実はこのときの温度は-4℃。寒暖計を見せると「ほおー、大阪の寒さとは違うわ」なんてのたまう。
この超寒がりのポコペンもやっと信州の寒さに慣れてきたかと、少々嬉しくなりました。

さて、役所も今日から動きました。
で、さっそく明日の5日までに提出しなければならない書類が1つ。それは
『長野市農業委員会委員選挙人名簿登載申請書』というもの。つまり農業委員会委員選挙の選挙権を得るための申請書というわけです。



この申請書には耕作面積が何アールあるか、60日以上耕作しているか、を記入した上で、市役所の支所に提出します(正確に書くと、市農業委員会を経由して市選挙管理委員会に提出、ということになります)。
そして農業委員会で申請人(つまり私)に農業委員の選挙権を与えていいかどうかを審査し、その意見を選挙管理委員会に連絡するということになります。


昨年の12月中旬、この書類を郵送で受け取った時、感無量の思いがこみ上がりました。
それは、6年目にして初めて受け取った── つまりやっと一人の農家として認めていただいた、という嬉しさとともに、忘れかけていたあの時の地区農業委員さんへの深い感謝の念を思い出したからでした。

都会では農業委員の役割について批判的な意見が多いのは、私も農地付き農家を購入する際の大きな壁となっていたため理解できるのですが(従って民主党小沢さんの土地登記について問題化しているのは、彼をおとしいれるために仕組まれたものと断言できます。大マスコミの罪は重い)、実際に農村に入ってみるとこの見方はやはり都会という強者の目線だったことを実感し、その役割を知らなかったとはいえ、いま私は少々反省もしています。
都会を知り、農村を少し知ってきた私は、これからも「私の意見」をこの『信州山里だより』で発信し、皆さんの正しい認識のための一助になるようにしたいと思います。

それにしても私自身、「農家」としては大いに不誠実であったことを受け取った一通のこの申請書によって自省させられました。そしてここに来た時の気持ちに立ち返り、今年からは真剣に取り組まねばと思った次第です。
従って、今回は自戒の意味も込めて選挙人名簿への登載申請はしないことにしました。来年は堂々と胸を張って申請できるようにしたいと考えています。

追伸
 そうですね、私が入ってきた時の状況のお便りはまだでしたね。移住する時にA農業委員さんへ挨拶に行ったときのこと。県からの視察。農業委員会での口頭質問というか査問と言うか、そんなこと。次期農業委員のBさんのひとかたならぬ助言や助力。Bさんには今も深い恩を感じていること。JAの農業指導員さんにももちろん。
そうだ、そうだ。この申請書が送られてくるようになるまでに、随分みなさんのお力を頂いていたのだった。思い出した。
こんなこともお便りする必要がありますね、私自身が忘れないためにも。

平成二十三年 元旦  初詣

2011年01月01日 22時07分56秒 | Weblog
2011年、平成23年元旦、明けましておめでとうございます。
昨年は仕事もかなり抑制していたにもかかわらず、なかなかお便りできませんでした。で、「今年の抱負は?」と問われると、もちろん「マメにお便りすること」としました。
本年もよろしくお願いいたします。

さて、元旦は恒例のわがムラの神社「Y神社」と、氏寺の「光明寺」に初詣です。
前にもお便りしたように、明治の廃仏毀釈によって「光明寺」は小さな小さなお堂が一宇のみとなってしまいましたが、欠かさずお参りしています。

神社への参詣は、大晦日から元旦にかけてお参りする「二年参り」をする人もいますが(私たちも雪深い時に1度だけやりました)、普通は午前10時から始まります。

そうそう特筆すべきことがあります。雪が全く無いことです。まるで春。こんなことは7回目のお正月で全く初めてのこと。西日本では大雪だそうですが、わがムラでは考えられないことです。

ちょうど10時。この神社も無住なので他の神社から来ていただいた神主さんにより、上り段下から参詣者に向かってお祓いすることから始まります。
今日は私たちが一番乗りでしたが、2、3分ほど遅れたので、あの長い石段の途中でお払いを受ける、ということになりました。

拝殿に到着し、お賽銭を入れ、2礼2拍1礼して家内安全、家族健康、村内安寧、五穀豊穣と、それはそれは盛り沢山のことを念じました。
それを終えると、拝殿内に座っている、当番の神社氏子役員や組長さんに、式の進行を妨げないようにしながら新年のあいさつをします。
当番の皆さんがそれに温かく応えてくれて、それぞれにあいさつを下さったり、「この前は○○について、ありがとうね」とか一般会話もしました。ほんとうに嬉しいことです。

私、家内、大晦日に帰ってきた息子夫婦が順番にお参りし終えると、それぞれがお神酒を頂戴し小さなお札を頂いて、元旦のお参りが無事終了。


その間、次々とムラ人が参詣にきて、その方々みんなと挨拶を交わしました。これがなんともいえない暖かな穏やかな「ムラの神社の初詣」の雰囲気を高めてくれますし、みんなと「顔見知り」「知り合い」を実感として感じるのです。
なかには「この方は?」と聞く人もあり、そんなときは「息子夫婦です」と何故か胸を張って応えていますし、「帰ってきてるんやね、賑やかになって」なんてその方も微笑を返してくれたりします。



そこから数分離れているお寺へ。

ここをお参りし終えると、ちょうどそこに年賀状を配っている郵便配達の津田さんがバイクで通りがかって、手を上げて会釈。

まるで「フーテンの寅さん」の映画の1シーンのような元日の午前でした。

経済的には決して豊かとはいえないけれど、私はこのムラが好きです。私はこのムラを愛する。

日本国中点在するこんなムラを、「グローバル化」や「新自由主義」、郵政民営化と同じ詭弁で固められた「TPP」という名のもとに決して消滅させてはならない。私は強くそう思っています。