信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

リンゴ剪定講習会

2008年01月25日 12時21分05秒 | Weblog
(写真はケータイで撮りました)
いやあ。大変な天気だったですね。
午前中は昨日に引き続いて除雪をしたのですが、その尻から地吹雪で元に戻る始末。こんなことは初めてです。小高い山に囲まれて、台風がきても風の影響などあまり受けない場所なのですが、今日は地吹雪とはこんなものか、と思い知らされました。

こんな気象条件の中でも、午後からリンゴの剪定講習会が開かれました。主催は『長野市農業団体協議会』、講師は『長野農業改良普及センター』の技術員。農協が主体となっています。この約一時間半、幸いにも青空がでてきましたが、寒い、寒い。どういうわけか毎年剪定講習会の日に限って寒さがきついのですが、今年は特に寒かった。強風で時折雪が吹き付けてくるし、気温は氷点下、丘の上なので吹きっさらし、加えて積雪があります。

講習は、ある方のリンゴ園を借り、若木はできるだけ早く結実させながら将来的な樹形を見据えてどこを切っていくか、成木は成り枝を残しながらも消毒・日当たり・機械による作業効率を考えた枝の切除を、実際の樹を切りながら進めていきます。人によっては、この剪定が秋の収穫・品質の8割以上を占める、と言い切る人さえいます。無肥料・減農薬・減作為(反射シートの不使用など)を目指している私もそう考えていますので、この剪定講習会には必ず出席します。
とはいっても、まだシロウトの私には時折理解しがたい内容が出てきて???の時もありますが、長年やっているベテランの中には講習内容をそんなに重視していない人もいるようです。なぜかって?それは簡単。自分がやっている剪定が一番優れているという自信・自負があるからです。ま、この時期がきたら冬休みも終わりでそろそろ作業にかかろう、という目安というか、キッカケになっているのでしょう。
ベテランの自信・自負については私も失敗しました。リンゴを始めた頃、近隣の方から教えてくれたり、教えを請うたりしたのですが、同じことでも人によって全然違い、頭が混乱して作業が止まったこともあります。夫婦でも私の目の前で違った意見を言われたので戸惑ったことがありました。もちろん最後は旦那さんは奥さんの意見に追従です(いやいや信州でも大阪でも、はたまたわが家でも一緒です)。皆さん本当に親切なんですが…。

リンゴの栽培技術も日進月歩のようで、昨年の講習会にはなかった内容が紹介されたり、10年前には否定された技術が再び見直されたり、県や農協の推進する品種に重点を移したり、です。
特に驚いたのは、両手を大きく広げたがっしりとした大きな樹(普通樹)と垂れ枝(下垂枝)の再評価です。

農家の高齢化と機械化、品種の変更のしやすさ(紅玉→つがる→ふじ→シナノスイートへなど。これは消費者の嗜好の変化が大きな原因)、経済性などの理由で、普通樹からわい化樹に転換されてきたのですが、あえてわい化樹にしなくても、といった印象を受けました。食味はやっぱり普通樹が勝っているようです。
下垂枝についても、リンゴを育て始めた3年前は、下垂枝があれば切り上げると農協の指導員から教わったのですが、今回はむやみに切り戻したり切り上げたりしない、ということでした。

引っ張られた鉄線に行儀よく並んだわい化樹は、私個人的にはどうも養鶏場のニワトリのように見えたり、野菜畑のように見えたり。これはこれで悪くは無いと思うんですよ。果樹と野菜はちょっと違うんじゃないか、と根拠の無いことにとらわれている私の、あくまでも個人的な印象です。
それよりも普通樹の大きながっしりした姿を眺めていると惚れ惚れします。樹には何かわからない大きな力を秘めているような気がします。40年50年60年経った古い樹。中には幹が空洞になってかろうじて樹皮が繋がっているだけなのに、秋になると実を付けてくれる樹なんぞ見ていると、「本当にご苦労さま。ありがとう」と声がでます。この樹も経済性から考えると、すぐにでも切って新しいものに更新しなければならないのですが、なかなか思い切れません。

ま、どっちにしろもう少し草は刈ってあげなければ、と思っています。いや今年はうちのオカンが本格的に参画してくるはずので、(指導者でなく)指示者の言うことを素直に聞けるよう、今から心の準備をしておいた方がいいかも。リンゴ栽培技術の習得より先に、心の修練ですね。
頑張りまぁ~す。
(2008.01.24 記)

リンゴの樹

2008年01月24日 12時08分23秒 | Weblog
今年になっての本格的な雪ははじめてでしょうか。朝から降り出した雪が今も続いています。降り始めはボタン雪のような重い湿った雪だったのですが、すぐにさらさらした粉雪に変わりました。昼になるにつれて気温が低くなってきているのでしょう。雪の上を歩くとキュッキュッと、陳腐な例えになりますが片栗粉のような感触です。この週末のスキーは最高のコンディションになるでしょうね。
雪景色もいいですよ。特に明け方や薄暮時。それに朝日に照らされた小学生が、白い息を吐きながら雪の道を登校する姿なんぞ、これぞ雪国。昼は墨絵のような景色。夜は街灯で浮き上がった雪はなんともいえない風情です。ただしこれは黄色っぽい電球でないとダメ。蛍光灯では寒々とした感じになります。
要するにいつでもいい。ぜひ冬の信州にいらっしゃい。温泉に入れば、この寒さがなんとも心地よいのです(今日は雪のためリンゴ園に行けず、一人で温泉に行ってきました。この詳細は明日にでも)。

といっても、事故には充分注意の程を。この文を書いている今も、TVのテロップで『長野道松本・塩尻間、スリップ事故多発により通行止め』と流れていました。速度制限、チェーン規制はよく聞きますが通行止めはあまり見ません。
私も今日、2車線の広い道路でスリップを経験しました。まったくハンドル、ブレーキは利かず、左のガードレールにぶち当たるほどすうぃー、右のガードレールにぶち当たるほどすうぃー。幸い後続車も対向車もなく何事も無かったのですが、スタッドレスタイヤで4WDであっても油断は絶対禁物です。特に『下りのカーブ』は最重要注意。次に『上りカーブ』、続いて『下り直線』です。どうしてもブレーキをかけたくなる心理になるのですが、ブレーキをかけると即スリップです。

いよいよリンゴ農家の活動開始です。今日はJAによるチェーンソーの無料目立て、点検日。私もエンジンと電気の2台を持って行きました。
このチェーンソーの手入れはなかなか大変で、林業家は10分から15分毎に目立てをしながら使う、と言います。リンゴ農家はそれほどではないのですが、反面リンゴの樹そのものに糖分を多く含んでいて、チェーンソー、剪定ノコギリ、剪定ハサミは使った後の手入れが絶対に必要です。ノコギリ、ハサミは数時間使うと、ヤニや糖分がべっとりとついて使えなくなります。作業終了後は、ノコギリは砥石や束子(タワシ)などを使って洗い流し、ハサミは分解して充分研ぎ、最後は熱湯をかけて乾かします。湯をかけるのは樹脂気を取るとともに、その熱ですぐに乾いてサビがこないからです。

樹の糖分は焚く時にも厄介な面があります。
2年ほど前かな、灯油と薪の両方使える風呂のボイラーが不調になったことがあります。業者がボイラーを見て瞬時、「リンゴの樹を焚いたでしょう。灯油の噴出ノズルが詰まってる。リンゴの糖分がここにべっとり付着して灯油が出なくなる。共和地区(リンゴの大産地。リンゴ専門の農協があるくらい。篠ノ井の一地域)なんぞ、故障といったらこれだ」と言われました。実際わが家ではリンゴは焚いておらず、乾燥不十分な生木に近いものを焚いていたのですが、これほど糖分が多い。

しかしよく燃える。火力も強いようだし、その煙も甘ぁ~く、煙突掃除をいとわなければストーブに最適です。適当な太さのものを囲炉裏で焚くのですが、いい匂いが家全体に広がります。煙も屋根に使われているイナワラや縄、梁、柱などにとってもいいみたいです。
人には暖を、炎を眺める心に温かさを、家には栄養だけでなく時間とともに風格を、それでいてCO2の排出量がゼロ。

許されるなら、都会でも薪ストーブはお勧めです。なによりもトロトロ燃える炎がなんともいいですよ。
(2008.01.23 記)

住民自治協議会

2008年01月22日 08時46分18秒 | Weblog
「お尻の皮が破けてるみたい」
「それは大変や。どうなってるのか見て進ぜよう」
「いらんわ」
「ばい菌が入ったらどうするの!今すぐお医者さんに見せなさい。すぐに治してあげるから。」
「無視っ!」

オカンがストーブの上で餅を焼かずに尻餅を焼いたようで、20日の日曜日、日曜恒例の温泉行きは中止。
でもこんなことがなかったとしても、行けなかった。
というのは、当日は『Y区』の重要な行事があったからです。
前回に引き続き少々硬くなりますが、そこはそれ『信州山里だより』。過疎化が進む中山間地であり、数年後には限界集落になるかもしれないわが山里の、便りとしてはどうしても欠かせない事柄ですので、どうかご辛抱の程を。

この日は『Y公民館』で
13:00から、まもなく設立される『住民自治協議会』についての市側の説明会。
引き続き14:30から『Y区新年会』がありました。

『住民自治協議会』というのは、過疎に住む私たちのこれからの生活に非常に大きな意味を持ちますので、今日はこの話を。
まず理解しやすいように前回と同じく住所を表示しておきます。
『長野市S町Y1234番地』が私の住所。

長野市独自の施策なのかどうかわかりませんが、この『住民自治協議会』を、S地区(S町の範囲をS地区と呼ぶ)では今年の7月ごろには設立したい、との行政(長野市)側の希望。この住民説明に市から2人の職員が来たわけです。Y区住民は50人ほど集まっていたでしょうか。なかなかの盛況に加え、「信州人は理屈っぽい」といわれますが、説明終了後の質問でも時間が足らないくらい活発でした(この『信州山里だより』を読んでいたらわかるように、「理屈っぽい」ところは私にぴったり。私はもとは信州人じゃなかったか、と思うほど)。

この『住民自治協議会』たるものはなんぞや、です。私なりに重要と思われる箇所を資料から整理すると

単位:『地区』で1つの協議会(長野市で30少しあります)従って『Y区』をふくめて13の区で『S地区住民自治協議会』を作ることになります(住人の多い区偏重になるよなぁ)
構成:①総務 ②福祉・健康 ③安全・防災 ④環境 ⑤地域振興 ⑥教育・文化 の6部門(まるで市の支所のようだなぁ)
住民の参画:1.地区の皆さんはできる範囲で活動に参加する(できる範囲…半強制が多いからなぁ)
      2.自分の得意分野や技術を生かす(「私、こんなことができます」なんて言わんよなぁ)
      3.お互いが尊重し相互協力し合うことが、活発で円滑な活動となる(声の大きい人、長老、実力者、権威者、名士にどうしても遠慮するよなぁ)
期待されること:自分たちの地域は自分たちでつくる。コミュニティの活発化。地区に適したサービスを効果的に実施。地区の課題の迅速な解決(役員間の『仲間うち』にならないかなぁ)
三原則:①地区を代表する組織 ②計画性を持つ ③適切な役割分担
補完性の原理:①自分でできることは自分で ②一人でできないことは地域で ③それでもできないことは行政が行う(きっと「それは地域で解決して下さい」「地域に迷惑をかけるのは申し訳ない」という言葉、出てくるよなぁ)

お金(市からの交付金)の流れについては、パワーポイントを使っての説明があったものの資料には記載無し。現在は、地域公民館、子ども会育成会、老人会、福祉協議会、商工団体などなどに市から個別に渡していた補助金などは、『協議会』設立以降、一括してこの協議会に渡す、ということです。
そうそう大切なことを書き忘れていました。この『協議会』のメンバー、市側は現在のところなんと無給、ボランティアと予定しているそうですよ!

喉もとまで出ていたんです、質問、聞きたいこと、説明の矛盾点が。でも、やめました。自制しました。ぐーっと抑えました。「おまえはここに移り住んでまだ3年7ヶ月。辛抱しろ。我慢しろ」と。
私のような性格のものにとっては、それはそれは大変な試練でした。過疎(※)が加速されるのではないかと危惧しながら、口をつぐんでいました。司会者から「他所から入って来た○○さん、どうですか」と指名されるのを期待していたのですが。かつて某内閣が強行した三位一体の改革について持った疑問と同じような疑問を覚えながら切歯扼腕。とうとう指名されませんでした。

地域を変革するのは『若者、バカ者、よそ者』と言われます。
飯山の『菜の花まつり』。昨春見に行きましたが、それはそれは見事。千曲川の広い河原が黄一色。大勢の人で賑わっていました。これを考え出したのが大阪からのIターン。いわばよそ者。
自分で言うのもなんですが、私にはこの3拍子だけじゃなく(この地域では私でも若者)、自慢じゃないがその上に『変わり者』が加わってるんですよ、『変わり者』が。こんな貴重な人間はあまりいないと思うけど。こういう人間をうまく利用しなくっちゃ、ね、『Y区』の役員さん。

市がこんなことを言い出した大きな原因の一つに、地方交付税も減らされた厳しい財政事情。今、盛んに報道されていますが、地方の財政は大変。国が地方に転嫁。地方は地域に転嫁。最後は、地域が物言えぬ個人に転嫁…にならなければいいですが。

ま、いいか。
まずは『アルプスの少女ハイジ』ならぬ、『信州のおっさんハイジジイ』となって家の周りにヤギの放牧場を作って、『下の道』の両側に花を植えて…そんなところから村おこし、村おこし。

(※)S地区のデータを参考までに
   人口  昭和22年 6,500人(最多) 平成19年 2,756人
   農家数 昭和60年 851戸    平成17年 603戸 (高齢者、独居者割合の増加)
   耕作地 昭和60年 522ha    平成17年 286ha (約20年で半数近くが耕作放棄地)

低温注意報発令中です

2008年01月20日 09時13分55秒 | Weblog
お久しぶりです。16日、17日の両日、少々緊張しなければならない所用があって、ブログは休みました。

ところで天候ですが、今週は寒いですね。わが山里も最低気温は14日、15日が-7℃。その後も-5℃~-6℃がずっと続いています。これが平年並みなんですが、最高気温が低いです。一番高くて2℃、いつだったか真冬日もありました。
14日の日曜日なんぞ買い物から帰ってきた夕方の4時頃、別棟(『離れ』)に引き込んでいる湯パイプのバルブから湯が噴水のごとく吹き出ていて驚きました。凍結していたのかも知れません。水の流れるパイプには止水のうえ念のため電熱を通したりして注意を払っているのですが、まさか湯のパイプがこんなになるとは思ってもいませんでした。おととし、トイレの貯水タンクを氷結で破裂させてから(修理費5万円也!)注意しているのですが。一冬に数回-10℃以下があるので、注意はこれからも必要です。

寒いといっても、この冬という時期が竹を伐採するチャンス。今日は朝から夜の6時半まで、汗だくになりながら伐採、形のいいものは採り、悪いものは焼却しました。
なぜこの時期に竹の伐採かというと、理由が大きく3つあります。
一つは、この時期にとった2~3年生の竹が一番強いこと。
二つ目に、雑草やクズのような蔓性植物が茂っていないので、作業が楽。
三つ目に、大嫌いなヘビがでないこと。竹林にはマムシは出ないようですがヤマカガシが出ます。このヤマカガシは毒をもっているので、注意が必要です。

竹林のこの場所は、ニワトリやヤギ小屋の場所にする予定をず~っと前に立てているものの、例のごとく遅れ遅れて…。この冬も出来るかどうかわかりませんが、出来なくっても6月になればタコノコを、という魂胆です。何しろこの竹はモウソウでなくハチクなのでうまい。直売所でもよく売れます。

さて、今夜は7時30分から地域公民館(※)の役員会議。おもな議題は『人権同和教育研修』について。
このような人権研修会は、地域公民館が主体となって毎年1回実施することになっていますが、わが公民館では昨年は未実施。今年は実施しなくては、ということになって、何度かの討議の末、テーマ・日時の最終決定をしたわけです。
テーマは「子どもたちのかけがえのない命を守るために」家庭と地域社会が果たす役割
次第は、①区長挨拶から始まって②講師紹介③ビデオ鑑賞④講師による話⑤茶話会⑥館長によるまとめ、となります。
対象者は小学生を含めた区民全員。
実施すれば市から5,000円の援助金が交付されます。これと公民館の予算の一部を足して茶話会の費用に充てます。

『人権同和』研修を、内容もやり方も地域公民館の自主性に任せていることに大阪からの移住者である私には少々驚きです。開催日は2月10日の日曜日。どんな研修会になるのでしょうか。


(※)住所『長野市○○町△△1234』の○○にあたる館が『長野市立○○公民館』。この下に△△の名がついた公民館がわたくしたち『Y区』の『Y公民館』を含め13あり、これが地域公民館になります。
(2008.01.19 記)

小さな集落の道祖神さまは190年!

2008年01月13日 11時18分27秒 | Weblog
さて今日は『道祖神まつり』の際に引き継いだ文書について。
外は雪が降っていて何も出来ませんので、じっくりと書きますから少々硬くなりますがご辛抱の程を。
そうそう、まずはムラについて少し説明しなければ。

ここは長野市○○町△△1234番地
で、△△は『区』として自治(時には行政)組織の単位となっています。都会で言えば町内会に当たるでしょうか。江戸時代末期から明治にかけては村でした。
この下に小字(こあざ)があって、江戸末期以前の村に当たります。これは一般的な住所表記では消えてしまっていますが、実はこれが日常生活の単位となり、私のような移住者があいさつ回りしたり、道祖神まつりや講(戸隠講など)の構成、山の神さまのお祭り、区への諸役員の派遣、道普請(道の補修や草刈)、ご婦人のおしゃべり会、農協の農家組合の単位などなどとなります。そうですね、町内会の中の『班』に近いかな? この『班』がふつう『ムラ』と呼ばれていて、例えば「同じムラの者は身内と同じ」といった具合。現在、区に6つか7つの組があります。
この『信州山里だより』ではたびたび出てくると思いますので、今後、区は『Y区』、ムラを『S組』と呼んでいきますので、覚えておいてください。

さて、元に戻ります。

引き継いだ文書は2帖。
一帖の表書きは
『大正弐 癸丑 年 
  道祖神御日待講員名簿
 一月 吉辰    S組』
もう一帖は『昭和七 壬申 年』のもの。これが現在使われているものです。

大正2年のものの表書きをめくると
『     定  
  一 御神酒 毎回 二舛 宛
    右講員一同ニ割合ノ事
     但シ七五三飾リヲセザルモノハ除ク事
  一 毎年一月七日左義長
    後当番講員宅ニ集合スル事
       以上      』
酒は変化があって3舛になったり、2舛に戻ったり、2升になったり。
七五三うんぬんについては今のところ不明。
道祖神さまの前のどんど(とんど)焼きはやはり左義長と言っていたのですね。1月7日の実施は現在も変わっていません。里は10日、もしくは15日に行うのですが、山は早いようです。さて、どんど焼きが終われば当番宅に行って飲み会が始まる。現在はS組の公民館で。

さらに本文を見ていくと、
『創立 文化拾四 丑 年
 第六回目終了
 第七回目開始記念トシテ
 大正弐 癸丑 年
 一月七日本簿新調ス』
という文。
これは、文化14年から道祖神まつりを行ってきたが、講員が当番として6巡したので、7巡目の今年から帖を新調した、という意味。15世帯あれば6巡目、つまり90年たってから新調なんですね。これはすごい。
道祖神まつりが始まった文化14年を調べてみると、西暦1817年となり、『蘭学事始』(杉田玄白ら)完成の2年後、イギリス船が浦賀に来航した年。ペリーが来るのがこの36年後。
幕末動乱期の少し前からこの行事が連綿と今に至るまで続いています。

そのほか『松巻き』(どんどの組み立て)は誰がして、誰が火を付けるのか、道祖神さまの移転とその費用など、追加した定め事がその年どしの項に書かかれています。

一番興味あるのは講員の名簿。昭和6年が18名で一番多い年。このS組にも最低18世帯あったということです。まだまだ私の知っている名前はありません。
昭和20年代になってやっと知った名前がぽつぽつと出てきます。
そして昭和60年代は13軒。現在は3軒減って10世帯。名簿には現在ご存命の人は3人。そのうちお年寄りの一人住まいが3軒。なくなった方の名前には抹消線を引いて引き継いだ人の名前が書かれています。そして190年の歴史からつながっている今ここに、私の名前が新たに加えられたのでした。

この「名前が加えられる」ということ。つまり「歴史に加えられる」ことは、都会の中での転居とは違う『田舎への移住』の重さです。
いや違うかな。
なかなか『ムラ』の仲間には入れてくれない、という話も聞くし、入りたくない、という話も聞く。その土地土地の考えや、移住した人の考えによるのでしょうね。
(2008.01.12 記)



売れ筋リンゴ

2008年01月12日 14時36分13秒 | Weblog
朝、雨だったのが10時ころから雪に変わりました。気温も低くなってきているようです。
かなり強い降りで、周りの音が消えて行きます。TVの上沼恵美子さんと仁鶴、辻本茂雄さんのやりとりだけが響いています。

1月、2月は農家にとって骨休みの時期です。特に信州のような寒くて雪に覆われる地域は、地元の人ですら「おこた(コタツ)に入って、茶を飲みながら、お菜漬け(野沢菜漬け)を食べる」と言ってます。まあこれは極端で、雪が融けはじめると段取よく一斉に耕耘機の音がするぐらいですから、今のうちにその準備をやっていなければ間に合いません。この1年間の栽培計画や種、苗の準備、農具や農資材の手入れ、等々。2~3日前にも農協から、自家用・出荷用野菜の種・苗の注文書が回覧されてきました。常に出遅れているのは私だけのようです。
でも、春・夏・秋に比べて時間が持てることは確かです。

先日(7日)の道祖神祭りの折り、飲みながらたまたま参加者の誕生日の話になりました。で、そのうち2軒(いずれも3人家族)の家族全員が10月生まれ。「私も、お父ちゃんも、子どもも10月生まれやで、やはははは」「そうか、私のとこもそうや。ははははは」「今時分はすることないから。はははは」と。ま、こういう話はどういう訳か女性がするもので、男性は聞くだけです。これがいい。男が言うと卑猥。女がいうと笑い。
この10月生まれ、まだまだいるかも知れません。1世帯に1人の出席なので家族の誕生日を言っていない人もいましたから。

さて、農閑期中の準備のうちの一つに「売れ筋農産物」の見極めがあります。当方の農協のお勧めは「インゲン」。昨年は値段も良かったし、何より商品そのものが重くないので高齢者にもやりやすい。高齢者にとってやりやすいか、が大きな要素になっています。ダイコンなどはとてもムリです。
他にアスパラ、加工トマト、ピーマン等々がありますが、これらは急激に少なくなっています。おもな原因は、高齢化と後継者不足。それに中国産。
耕作放棄地がどんどん増えています。3年前から野菜の集荷をしている私も身をもって体験し、少々危機感を持っています。何しろ、当初は軽トラにほぼ満杯であったのが、今は約半分。多いときでも2/3程度でしょうか。

では、私の作っているリンゴは?
10日付け日本農業新聞による「’08売れ筋農産物 本誌調査」によると、果実部門で
1位 リンゴ『シナノスイート』 2位 マンゴー 3位 リンゴ『シナノゴールド』 4位 キウイ(果実が黄色のもの) 5位 中晩かん「せとか」 6位…
と続いています。2位のマンゴーは宮崎県東国原知事の効果か?

この『シナノスイート』(赤色)『シナノゴールド』(黄色)は『秋映(あきばえ)』(暗赤色)とあわせて「シナノ3兄弟」と呼ばれ、早生の『つがる』、晩生の『ふじ』をつなぐものとして長野県で育成された中生種です。
農協も力を入れているのですが、この記事を見て「ふーんそうか」と改めて腕組みです。

というのは、私のリンゴ園でも数本の『スイート』、『ゴールド』はあるのですが、商品化にする気は全くなく『ふじ』の受粉樹(※)扱いで、収穫した果実もほとんど食べずに捨てています。これらは味は甘いのですが、サクッとした食感、食べた後の鼻から抜け口に残りつつもさわやかな甘さ、適度の酸っぱさ、色、大きさ等々を比べて「やっぱり『ふじ』が最高やな!」と思っているからです。
でも、よくよく考えると、これは個人の好み、消費者の好みですよね。生産者の誇りと、消費者の需要の兼ね合い。でもその前に、買ってくれる人がいるかが問題だよね。農協には出していないから。
そうこう考えていても、う~ん…。
今年は『つがる』も含めて『スイート』、『ゴールド』を考え直してみようか?

(※)受粉樹
   リンゴの大部分は自分の花粉では受粉・結果(実を結ぶ)しません。これを自家不和合性といい、これは他の果実でも多く見られます。そのために違った品種を植えて、その花粉を利用します。
たとえば『ふじ』に『つがる』など。では結実した『ふじ』の果実は純粋の『ふじ』ではないのじゃないか、という疑問が生まれます。実は私もそうでした。がそれは間違いで、混血になっているのは『種』で、果肉は『ふじ』なのですよ。これがわかるまで随分時間を要しました。

本日は二題 『氷割り』と『村歌舞伎』

2008年01月11日 10時54分52秒 | Weblog

昨日、今日の2日間は『下の道』(家から県道まで)に張っている氷割り。例年なら3月の仕事なのですが、これも温暖化の影響かも知れない。

一昨日の夜、四輪駆動でタイヤはスタッドレスの軽トラにもかかわらず、スリップして車がとんでもない方向に行ったり、勾配のきつい所では登れなかったり。オカンは通勤で歩いてバス停までいく途中、何度か転んでアイゼンの必要性を感じたり。危険が目の前に、というわけで氷割りに相成ったわけです。
氷は厚いところで7~8cm。つるはしで割り(これがなかなか割れない)、砕けた氷をスコップですくって道の端に積み上げて行く。これを延々数百mにわたって続けて行くのは、さすがに少々骨が折れます。本当はタイヤが乗る部分、ちょうど鉄路のように2本のスジを付けていけばいいのですが、一本だけにしました。スリップ防止と歩行の安全を最小限だけ確保しておこうというわけです。

さて、これが何で「温暖化」?
ま、温暖化はさておき、気温が高いからこういう現象がおきます。
つまり、張った氷が昼間の暖かい気温のために表面が融けます。この融けた水が夜半の低温で再氷結します。これがつるつるになる原因です。ちょうどスケートリンクで、水を撒いて凍らせると荒れた表面がつるつるになる、というのと同じことです。
これは最低気温はまだ低く、昼間の気温が高くなる3月に入ってから起こる現象なのですが、これが1月の今起こっています。ここ信州の山里の最低気温は今頃は大体-5℃前後なんですが、2~3℃高い-2~-3℃で推移しています。昼間も6~7℃で、やっぱり高い。なにしろ12月31日から元日にかけて降って以来、雪はまったく無し。天気予報でも明日11日は夜から雨!。雨なんです。この時期の信州では考えられません。
こういう状態で行くと平均気温も高く、従って積算温度も高くなりますが、どうなって行くんでしょうね。ちょっと心配です。
(ちなみに平均気温とは、一時間毎の温度の平均値。最高気温と最低気温の中間値ではないです。積算温度とは平均気温を足したもの。リンゴやコメを育てている中で知りました。知るのが遅いですねぇ)

ということで、この原稿をアップしようかなと思っていたらNHK総合で9時からの『オシャシャのシャン 村歌舞伎を救え!』というドラマに釘付け。見た方もいらっしゃるでしょうね。
村歌舞伎といえば、信州伊那谷の大鹿村。ここが舞台じゃないかな、と予想して見ていたら案の定。ドラマでは『伊野谷村』になっていましたが、舞台も道路標識も川や山、アルプスの風景も間違いなく『大鹿村』でした。
伝統を継承する苦労やしんどさ。弁天小僧のせりふ中「尻尾」(しっぽ)が「尾尻」(おしり)に変わっていたり、地元商店のPRがあったりすることへの東京から来た本歌舞伎役者亀志郎の疑問に対する一蹴など、地方が地方としての自立や誇りを守っていこうとする気概が感ぜられ、なかなか面白く、あっという間の45分間でした。
歌舞伎なんぞ本来はアドリブのオンパレードなんですね。今でも中村勘三郎(名前変わったのかな?)さんなんかよくやっていますもんね。
観客の村人の喜ぶ表情なんぞ最高だったし、歌舞伎俳優の尾上松也さんもよかった。県民の一人として、過疎の田舎に住む一人として嬉しさとともに、誇りのようなものが湧き上がってきました(ここで涙がポロリ。最近涙もろくなりました)。

家を探している時にこの村も対象の一つだったことや、『農家民泊』の先駆けといわれる農家にも一度泊まったことがあります。川の傍で何もない所です(これがいい)。
ドラマを見終えて「今年、この歌舞伎見に行こうか」と、横にいたオカンに話しかけたものでした。
(2008.01.10 記)



年末からの分です

2008年01月09日 08時08分38秒 | Weblog
ブログ、長い間アップできませんでした。原稿は書いていたのですが、カメラを落とした時に壊れてしまったようで、写真もないし…ということで逡巡していました。でもまあ、文字だけでもとりあえず、ということで実に読みにくいかもしれませんがご辛抱の程を。


2008年1月8日(火)
『道祖神まつり』

昨日の7日は『道祖神まつり』。
道祖神といえば安曇野の、男女が抱擁しているものや手をつないでいるものが有名ですが、北信のこのあたりは大きな岩に『道祖神』と彫りこんだカタチ。
この『道祖神』さんの前で、「どんど焼き」をします。

当日の朝8時ころまでに、正月の松飾り、注連縄(しめなわ)、(紙や板の)神札、お守り、祝い箸、習字、ダルマなどを持ってきます。昔は子どもが集めに回ったようですが、現在わがムラでは10軒のうち、子どもがいるのは1軒で2人のみ。そういう訳で今は各自が持ってきます(簡単に持って行くといっても我が家からは急な山道を歩いて10分以上はかかります。我が家の下の家からは20分!)。
集まった松飾りなどを2~3mの高さに組み上げていくのですが、これは男の仕事。勤めのある人は午前中休暇をとったり、やむを得ず欠席したり。てっぺんにはダルマを飾ります。この状態で、夜まで待ちます。
さて夜の7時。再びムラ人が集まって『道祖神』さんにお酒を供えます。これはお神酒(おみき)となって後で参加者全員がいただきます。そして昔は『当番』になった人が朝から縄文時代よろしく轆轤で火を起したそうですが、今はライターかマッチで点火。火の勢いで農作物の出来具合を占ったり、舞い上がった習字の紙で字が上手になったり勉強がよくできるように祈ったり、これは関西も同じです。

燃え盛る炎によって周りが明るくなってくると、積もった雪の白さが浮かび上がって幻想的な雰囲気が生まれてきます。また人々の顔が炎に映されて…想像してください、雪国はなかなかいいでしょう。この時はなぜか皆の言葉数が少ないです。炎に映えた沈思黙考の顔、顔…ね、ね、いいでしょう!

火も小さくなると傍の集会所に場所を移してささやかな宴になります。この集会所は20数年前にムラ人が材木やお金、労力を出し合って建てたのですが、他のムラにはないのでそんな場合はどうしているのでしょう。当番さんの家でやるのでしょうか。先人に感謝感謝です。

こんな山里でも20分も車で走ればAコープ(農協のスーパーマーケット)などあるので、宴に「造り」などもでますが、やはり野沢菜漬け、たくあん漬けです。私の漬物好きはムラで有名で、残ると「もって帰り」と言ってくれますので、遠慮なく頂戴します。これがまた各家庭で味が違うので大きな楽しみです。そうそうこの宴はきっちりワリカンなんですよ。これもいいでしょう。ちなみにこの日は1人500円でおつりがあります。ま、つり銭分は来年にまわしていますが。

大切な情報交換の場でもある宴が終わるころ、当番の引継ぎが行われます。この日の出席は当番さんの奥さんを含めて8所帯9人。こんな小さな集まりでも引継ぎ時には謡(うたい、謡曲)があります。
どうもこの習慣は北信だけらしいですが、どういうわけか『おかず』と言ってます。そう御飯の『おかず』。以前正式な名前を問うたのですが、誰もが「おかず、て言うなぁ」。まあいいです、『おかず』で。

次期当番さんが今期の当番さんに「ごくろうさまでした」の意味を込めて杯(さかずき)を差し上げるのですが、この間誰かが謡をうたいます。これはなかなかいいものです。一度見せてあげたいですね。
さてさて次期当番は……、なんとこの私がすることになりました。でもね、「このムラのもんは家族と同じ。みんなで教えてあげるから」なんて温かい言葉をかけられると嬉しいものです。
「このムラのもんは家族と同じ」。この日に限らず何度も言われています。ありがたいことです。

引継ぎも終わり、10時半も過ぎたのでそれぞれが家に帰ります。
普通-5~6℃なのにこの夜は-2℃と暖かく、この時期には珍しく2~3m先も見えないくらいに犀川の川霧が濃く濃く立ち込めていました。
一人住まいの杖つく80半ばのおばあちゃんと、凍った雪道に足を取られないように手を添えてあげている60歳の独身男の二人づれが、街灯の裸電球に浮かび上がって霧の中に長い影を作りながら家路をゆっくり歩む姿を背にして、私も凍った山道を一歩一歩踏みしめて下っていきました。




2008年1月6日(日)
『露天風呂デビュー』

もう平常モードです。
ということは、今日は日曜日なので温泉めぐり。

若い頃、ということはスキーや山登りをやっていた頃、「信州湯田中」という地名から自分勝手に作ってしまったイメージにとらわれていたのか、なぜかしらその方面に足を踏み入れられなかった。
そのイメージとは。
電車(長野電鉄)が終点の湯田中駅に到着。ホームに下りると1mも降り積もった雪の隙間のあっちからもこっちからも、除雪された雪が積まれている道路の側溝からも、温泉の湯気がもくもくしゅうしゅう出ていて、寒いのに暖かくて…

このイメージがなぜ私の足を踏み止まらせていたのか、どうも良くわからない。雪・温泉が期待はずれ、ということを恐れていた? そうかも知れない。
で、今回はこっちの方面に行こう、ということになりました。
ところがさすがに信州。その途中に著名な温泉が、あっちにもホイ、こっちにもホイ。結局湯田中の手前の『高山温泉郷』に決定。ここは家から地道で1時間。ちょうど良い。

まずは子安温泉。まだとっかかりなのでパス。次は山田温泉。日帰り入浴のできる旅館に加え興味のある『大湯』という外湯。「安いから石鹸、シャンプーないかも」ということで、ここもパス。次に洞窟風呂。これは値段が不明なのでまたパス。次に五色温泉。ここは1軒宿。日帰りOK。誰か入っていった。入ろうか?いや、もう少し行ったら七味温泉や。ここの○○館へ行こう。で七味温泉へ。
ところが○○館へ行く道が雪で通行止め。3~4軒他の旅館もあったが観光バスが止まっていたりしてやめ。五色温泉に戻ることに。

この旅館の駐車場に止めて、さあ行こうとすると女将さんのような人が小走りで来て「お泊りの方ですか」「いいえ、風呂だけです」「申し訳ありません。外来入浴の方は3時までなんです」時計を見ると3時は過ぎている。
さあ仕方ない。オカンに「一軒知ってるけど、そこは露天風呂が混浴や。どうする?」「混浴かぁ…どうしようかな」「いややったら別のとこへいこか」
と言いながら車を走らせていると到着。
ちょうどそこに風呂から上がって千葉ナンバーの車に乗り込もうとしていた若い夫婦に「ここは混浴ですよね」の問いかけにあっさりと、こだわりなく「あ、そうですよ」。
「さあどうする」「どうしようかな」「さぁ、さぁ、さぁ」「うーん」「さぁ、さぁ、さぁ、浜の真砂は尽きるとも…」「うーん、いいわ、入ろ。露天には行かないかも知れんけど」

駐車場から急勾配の崖に沿った雪道を川に向かって降りると、雪を被った数棟の小屋。なんと雰囲気が抜群。ロケーションもOK。「温泉には不要」という経営者の考えで石鹸もシャンプーも置いていなかったけれどすごくいい。
内湯で体を洗ったあと露天へ。女性が数人、なんとその中にオカンも入ってる!これで混浴履歴は2回目。1回目は20年近く前、白馬三山縦走の終盤に『白馬鑓温泉』へ。ここは女性用も隣接してあったのですが、水着着用で混浴槽へ。というのは私の独身最後の山行きでここに立ち寄った時、満月を眺めながら「彼女をここに連れてきたいなぁ」との願いがあったので。

さて、ここ雪の露天風呂、いいです。決していやらしい雰囲気もなくごく自然に男も女も入ってる。岩の配置にも工夫が見られ、恥ずかしい人は隠れることができるようになっている。でも誰もそんなことはしていないし、覗き込もうとする人もいない。若い女性の一人は、腰から上は湯から上げているにもかかわらず、胸に普通のタオルを当てているだけでほとんど裸に近かったし、他の一人はバスタオルで体を巻いていたけれど縁の岩に座って連れ合いだか、知り合いだかと話しこんでいた。それはごく自然な姿だった。
そりゃ男の中には(女だってそうかも知れないが)ちらっと見ているかも知れない。いや正直私だって見ました。ほんの少しちらっと見ましたよ。でも本当にそれだけで、ただそれだけのこと。「へえーっ、若い子も入ってるわ」。

風呂から上がったオカンに「入ってたのでビックリした。混浴デビューやな。なんでその気になったん?」「後で入ってきた若い女性が、内湯にも入らずそのまますっと露天に行ったので、私も、って」「どう抵抗ある?」「別に感じなかった。これから入れそう」
湯がよいので、抵抗のある人は夕方から夜に入るといいのでは。ここはお勧めです。家族連れも来ていましたよ。
ここの温泉の名前は伏せておきますが、「甲信越一の温泉」と言われるだけあって、評価基準の厳しいオカンも石鹸・シャンプーがなかったにもかかわらず、星3つを出しました。



2008年1月4日(金)
『帰省』

1月2日に長男夫婦が帰ってきて、二男、三男と6人全員が揃った正月でした。社会人になると落ち着いてくるし、出てきた別の面を見るのも面白くまた心強く感じるものでした。
親の前ではその片鱗も見せないのにユーモアあふれた話をする者、意外と常識的な考えをする者、気配りする者、それらを交えながら兄弟が仲良く語り合っているのを見るのは快いものでした。
ただやはり時折「年老いた親」的に見られることもあって、それは子どもの立場からは当然なのでしょうが「おいおい、ちょっと待て」という気もしないでもなかった。
でも、私も思い浮かべるとそんな時期があったことを思い出す。
子どものころ苦労をかけられたこともあって関係は淡白だったけれど、親父の歯が1本また1本と抜けたのを知って、『老いていくオヤジ』が身に迫ってきてたまらなく思ったこともありました。

囲炉裏を囲んで酒を飲み、兄弟が語り合っている、似たような情景。随分前に夢に見ていました。

黒ずんだ太い柱や梁(はり)がむき出しの大きな古民家です。息子3人は土間を見下ろせる中二階のコタツの中に入って「オヤジは…」「…なオヤジやったで」と語り合っています。その3人の頭上を喜びながら、満足しながら、感謝もしながら私が浮遊しているのです。そこから土間の台所で何かを作っている割烹着姿のオカンの上まで飛んでいって「3人、仲良う話しとるわ」と話しかけます。聞こえているのかいないのか、「ルンルンルン」と鼻歌を歌っています。「はよう、何か持っていったれや」。鍋を持ったまま下駄を脱いで座敷に上がり、3人にもって行ってます。

この3人、それぞれがそれぞれの悩みやしんどさを抱えている。あるいはこれからいろんな荷物を担いでいかねばならない時だって来る。その渦中にいる時は、いつまで続くのか無間地獄のように思うものだ。私だってそう思ったこともある。
でも、ある人が言っていた。「障害を持って生まれた子は『福子』。福をもたらす子。大事に大事に育てないと」。
今振り返ると、随分いろんなことがあったけれど、いろんなことすべてが『福子』だった。一つ一つを大事に育てたかどうか疑問だけれど振り返ってみればすべての事柄が『福子』だったことは間違いなかった。



2008年1月1日(火)
『除雪』

新年明けましておめでとうございます
ここ信州の山里の新年は、NHK『ちりとてちん』風に言えば「そっこ抜けに雪」です。
31日の朝4時過ぎには降っていなかったのですが、6時ごろから降り始めると間断はあるもののずーっと降り続き、やっと今日の夕方止みました。積雪量は50cmはゆうにあるでしょう。郵便受けに積もった量で判断しているのですが、ボクの広げた手のひらを20cmとして、2回落としてまだ積もっているからそんなもんになります。
幸い息子が帰省していたので『下の道』の除雪を手伝ってもらったのですが、県道までには至らず。村の神社へお参りに通った『上の道』は完全にクルマは通れない。向かいには90を過ぎたおばあちゃんが長野市内の息子さんの家には行かなかったので急遽除雪機を使って除雪することにしました。で、除雪機を集会所まで取りに行くとガソリンが不十分。『下の道』はあきらめて『上の道』だけでも確保しておこうと。
午後の4時ころから始めて終わったのは7時半。

『上の道』を登りきったところにあるムラの集会所から『下の道』を下って県道まで。かなり長い距離を自分たちで除雪しなければならない。市道は市が、県道は県の負担で地元の土建業者がやってくれるのですが、我が家への道は市道であるにかかわらず自己負担。先に「自分たちで」と書いたが90過ぎたおばあちゃんに除雪はムリだし、下の1軒(*)は車を持たない老夫婦なので歩くだけの幅の除雪。これだって大変なのですが、こういうことで実質私一人。
 (*)この『信州山里だより』ではたびたび登場しますので、ムラの人が呼んでるのに習い今後『シバの家』『シバ』と言います。ひょっとすると屋号かもしれません。

この除雪問題は大きい。おばあちゃんの隣家は今、空き家になっているのですが、出て行った理由のひとつがこれ。「ここのタケノコがおいしい」と毎年タケノコを取りに来るのですが、以前会って話したときに「ウチばっかりに負担がかかって。それも出て行った理由の一つ。本当はここにいてもいいんだけど。でも将来は帰ってきたい。だってここいい所でしょ、雪以外は」と言ってました。

「なぜ市がやってくれないのか」とある人に聞くと、道幅がせまく除雪車が入らないから、というのがその理由。
確かに道は狭い。くろねこヤマトの宅急便は雪の路肩に落ちてからわが家へは、雪の積もった時は配達拒否(郵便局も落ちたが、その後歩いてでも配達してくれる)。
でもそれがホントの理由だろうか? 以前『上の道』で雪崩があってその復旧工事のとき、『下の道』から除雪車が雪をかきかきあがってきたのを見たけれど。

何かの本で読んだのか、聞いたのか、行政は5戸を一単位と考えるらしい(そういえば江戸時代にも五人組という単位があった)。なるほどわが家、おばあちゃん、シバの3戸しかない。これは「しかたない」? 
とりあえず小泉さんと竹中平蔵さんにお礼を言っておこう。



2007年12月31日(月)
『本年最後の温泉行き』

大晦日です。
オカンの勤め先が29日(土)まで出勤だったので、30日、31日の2日間で家の掃除、おせちづくり、ネコ4匹のうち子ども3匹が競争で破ってくれたぼろぼろの障子張りなどで大車輪。こんなとき、つくづく「男は家にいても役に立たないなぁ」と実感します。
でもまあひと段落つけて1年の垢を落とそうと、帰省中の息子と3人で松代温泉『松代荘』に行ってきました。
この温泉はオカンと二人でよく行く温泉で、湯そのものも気に入ってます。有効成分が随分含まれていて、湯の色は鉄サビ色。有馬温泉の『金泉』に似ています。
この松代温泉には国民宿舎『松代荘』、旅館(入浴のみOK)、昔は旅館だったけれど今は日帰り専門の3軒が、住宅地の中にあります。風景的には単調なのですが、どうしてどうして温泉はすばらしい。

私が特に気に入ってるのは日帰り専門のところ。名は『一陽館』。
ごぼごぼと源泉が吹き出ていて、初めての人にはここの主(あるじ)が丁寧に説明してくれる。
内湯はまさにウナギの寝床、数時間もじっくり浸かっている人もいる。
露天風呂もいい。特に雪の時は。
ただ欠点が一つ。石鹸・シャンプーの使用は禁止。これがねえ…どうしても松代荘に行ってしまうんですよねぇ。まあ典型的な、湯治のための温泉、ということなのでしょうか。

さあ、紅白歌合戦で『吾亦紅』と中村中の『友達の詩』を聞きたいので。
みなさん、よいお年を!



2007年12月26日 
『今どき「お菜漬け(野沢菜漬け)」の話?』

お久しぶりです。本日でリンゴの発送をひとまず終了しましたので、ブログ再開です。
ゆっくりするために田舎暮らしを、と信州の山里に移り住んだのですが、なんのなんのなかなかの繁忙です。時には二人でカップラーメンをすすった昼も。この時期はリンゴ、畑、冬に備えての食・住の準備の最盛期。加えて地域公民館の役員をおおせつかっているものですから尚更でした。
この公民館の行事、10・11月はやたら多い。行事の数々はこの『信州山里だより』にピッタリだったのですが、なにぶん夜の9時になると意識朦朧。というわけで1ヵ月強、ブログを休ませていただきました。

さて冬の準備といえば野菜の収穫、保存作業がありますが、信州ではなんといっても『お菜漬け』。つまり野沢菜漬け。これが無いと信州の厳しい冬は越せない。なのに、昨年は畑に野沢菜があるにもかかわらず漬けることができなかった。
悔しい思いで春先、『菜の花浅漬け』にして食べたのですが(これはこれで美味なのですが)、やっぱり野沢菜漬けを食いたい。なにしろ信州に来た目的の一つが、ホンモノの米、ホンモノの野菜、ホンモノのかしわ(決してブロイラーではないのです)、ホンモノの卵かけご飯を食いたいためでもありました。
(横道にそれますが、鯨肉の代用の豚肉と水菜で『ハリハリ鍋』をしたのですが、砂糖を全く使わないのに甘~い)。

さて今年は…。
「女の人の体には、男より乳酸菌が多く着いているので、漬物はやっぱり女の人が漬けるとおいしいんだけど」「漬物をよく食べる人はぼけないんだって」「健康には漬物の乳酸菌がいいらしいよ、」「女の人には肌がつやつやするって何かの本に書いてあったなぁ」などなど、囁き作戦、独り言作戦も結局徒労。6ウネのうち、オカンに聞きながらやっと1ウネ分を自分で漬けただけ。ほかに1ウネ分は収穫したものの洗い場に放置したまま10日は経っているかな。12月26日現在、4ウネ分はまだ畑。ご近所では「お正月にはもうそろそろ食べれるかな」なんて言ってるのに。
一方オカンは大根漬けに専念。『信州地大根』を150本ほど漬けてくれました。昨年は加賀打木の『源助大根』。実にうまかった。今年は信州の本来種のダイコンだけれど、どんな味か楽しみです。
(2007.12.26記)