信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

『八ヶ岳倶楽部』③から秋まで  その9 新そばまつり

2010年11月16日 06時52分03秒 | Weblog

2010.11.15(月) 記

この秋、柿が全くといっていいほどの不作です。裏年とはいえ、こんなことは初めてです。

上の写真は畑の前の渋柿。写真の部分のわずか10数個のみ成っていて、それ以外は全くなし。大きな木なのですが。
下の写真は敷地内の物置の横にある、葉が赤いのが甘柿で、緑色が渋柿。



画面で見る限りアマは成っているようですが、少ないですね。シブも例年、重さで物置の屋根まで垂れ下がってくるのですが、ご覧のとおりです。
昨年から本格的に干し柿を作り出したのですが、100個できるかどうか。少なくとも500個は作りたいのですが。

なぜなんでしょう。夏の猛暑だけでは説明がつかない。というのは少し離れたところの柿は豊作とはいえないまでも、ま、そこそこ成っている。個体差なのかなぁ。分らない。

この地域は犀川の川霧でいい柿ができる、といわれているのですが、これほど少ないとどうにもなりません。あ、そうそう。クルミも量は少ないし、実の大きさが小さい。ドングリも今年は見ない。
これでは山の動物たちが里に下りてくるのは当然です。この冬をどう乗り切るんだろ、可哀想に。
TPPに加入した数年先の日本を見るような気がする。

さて話題を変えます。
10月中旬から信州の各地で『新そば祭り』が開かれます。キノコの時期になるとウキウキするように、今年はどこの『新そば祭り』にいこうかな、と少々浮き足立ちます。

信州はもちろん「そばどころ」なのですが、長野全部が日常食、というわけではありません。
とくにわが山里は「西山」といわれる地域で、昔はコメよりコムギが多く作られ、その結果「粉食(こなしょく)」が日常食だったようす。、うどん、おやき、すいとん、薄焼きなどでした。

10月23日、美麻村新行(みあさむらしんぎょう。現 大町市美麻新行)の新行高原そばを食べに行きました。
ここは昔から有名なところで、地粉(じごな。その土地で取れた小麦や蕎麦の粉をいう)を100%使っているそうです。店の形態も、普通のいわゆる食堂のような形態もあれば、農家の座敷のようなところで食べさせるところもあります。

で、ある1軒のお店に行きました。
何もない農村の中にある店なのですが、長野、松本ナンバーはもちろん、他県ナンバーの車も多くいます。順番待ちで、約45分。店の前では農産物の直売コーナーもあって、待っている客同士の会話も盛んです。

これはどこの店でも同じような形をとっています。私たちは「青とうがらし(なんばん)味噌」を買いました。試食したのですが辛い辛い。おにぎりを少し焼いて、この味噌を塗って、もう一度焼くと実に美味い。これに味噌汁があれば充分。

畳に座り、出てきたものがこれ。

かつおだしで味は良いが、そばの入ってる器を見てがっくり。
そして、一口食べて、「こんなもんか」。

しかし、食べ進むにつれてどんどんおいしさが感じられてくる。
せいろに幾本かしか残らない時分には、このそばは「うまい!」となった。

店を出てからオカンに聞くと、やはり最初は「なに、これ」という感じだったそうだけれど、だんだんおいしさが口の中に広がってきた、という。

『新そばまつり』はまだもう少しあちらこちらで続く。飯山の戸狩もうまかった。もちろん戸隠もうまい。安曇野の一般観光客向けの店も意外においしかった。それぞれの土地独自のそばが楽しめる。『そば多様性』ということか。文化をはじめ生物も考え方も『多様性』がおもしろいし、大切だな。

「信州そば」とは書いていないし、そんなのぼりも立てていないある店でのこと。
そこは北海道産のそば粉を使っているのですが(店主から直接聞きました)、「信州のそばはやっぱりうまい」というお客様にはどう答えたらよいか、少々困るそうです(この店はネットでも紹介されている有名店ですが、書き込みにも同じようなものがあるそうです)。

どういうわけか、そばに関してはごたくを並べたくなりますが、そばは素直に、通(つう)ぶらずに、おいしければおいしい、あれっと思えば思いながら、音を立てて啜りながら食べましょう。

年内までは「新そば」といいます。信州のそばはやはりうまい。ぜひ食べにきてください。

『八ヶ岳倶楽部』③から秋まで  その8 軽井沢

2010年11月15日 10時40分37秒 | Weblog

2010.11.14(日) 記

区民運動会の翌日、11日の体育の日に軽井沢へ行きました。そう、あの軽井沢へ。それもよりによって季節のいい秋の、連休の、一番混雑する、ミニ原宿、ミニ渋谷となるこの時期に。
私を知っている人から見れば、「うそー」「へぇー」「意外」と思われるかもしれませんね。でも、一度は行ってみたかったところでした。

ずっとずっ~と昔の40年以上も前、歴史学を勉強していた若い頃に『満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)』のことを知りました(たしか岩波新書にもあるはず。蔵書は大阪にあるので確認できず、です)。

戦時中、国策(国の政策)に応じて内地(日本の本土)から満州や蒙古へ入植した農民たち(長野県からが1番多かった)が、敗戦となってその半分以上が亡くなったり、引き揚げ時に親子離れ離れや子どもを現地人に預けたり(これが中国残留孤児)、その他今の私たちには想像もつかない凄惨な体験をしてやっと帰ってきたのでした。

しかし、国策に協力し悲惨な犠牲を払った農民たちが政府から与えられたのは、それまで誰も入らない未開地だったのです。
その一つが、浅間山麓の軽井沢。現在の軽井沢町大日向。
鍬(くわ)一丁で生い茂る森林を開き、火山灰の堆積した痩せ地を耕し、変えていかねば生きていけない。

農民たちは国家をうらみ、天皇をうらんでいた。
そして戦後まもなく始まった(昭和)天皇の全国巡幸の時にここを訪れ、「申し訳なかった」と農民たちに詫びた結果、農民にもそのわだかまりが徐々に徐々に解けていった、という。

今上天皇(きんじょうてんのう。今の天皇のこと。ちなみに平成天皇とは今はいわない)も折に触れ、ここを訪れたそうだ。皇太子時代には3人の小さなこどもたちを連れて知り合いの田舎を訪れるような、一番下の女の子はある農家で昼寝までしたとのエピソードが残っている。

まさに国家の犠牲になった人たちが、血を吐きながら切り開いた土地がどんなのか、今はどうなっているのか、一目みたかった。
探し探し、土地の子どもたちに聞きながらやっとたどり着いた開拓農地。目を見張る光景でした。ここまでしたか、ここまでできるのか。それが見た瞬間の印象でした。
写真は浅間山が目の前の農地。その一角に昭和天皇の歌碑が建っていました。



動機はそれだけではありません。NHKの教育テレビに『美の壺』という番組があります。
今年だったか、この番組で「軽井沢」をやっていました。軽井沢といっても軽井沢特有の別荘建築について、でした。特に私なんぞ家屋についても興味があるので、番組で紹介されたことをこの目で見たい、ということもありました。

別荘、というと「特別なもの」と私はとらえてしまいます。この番組を見るまではそうでした。特に庶民でなおかつ貧乏人出の私にとっては、無関係の、接点のない別世界のもの、ましてや「軽井沢」なんですぞ。
財界人、政治家、芸能・スポーツ界、学者、文化人……要するにその世界で頂点を行く人たちの豪華な別荘地帯。それが「軽井沢」。しかし、それが全てではない、のでした。

二人でほんのわずか、旧軽井沢を散策したのですが、まるで掘っ立て小屋のようなものもあれば、戦後の住宅不足で物資のない頃に建てられた市営・県営住宅のような粗末な家屋も少なからず散見するのです。
で、それらが番組で紹介されていたように外壁が杉皮で覆われ、玄関もなく、軽井沢様式(?)。
ま、見ていておもしろい。なにか、別荘でありながら生活のにおいも感ぜられ、軽井沢に対する偏見が薄れるとともに興味が沸いてきました。
今度は混まない時期にゆっくりと散策したい、と思ったものです。

なおこれだけは漏らさず書いておきますね。
「旧軽銀座」では、乳母車を押す少々歳を召した、おしゃれで上品な女性が少なからずいました。なにげなくその乳母車を覗いてみると、なんとなんとワンちゃんばっかり。出会う乳母車すべてにワンちゃんが入っている。まるで人間のこども。二人で顔を見合わせて驚くというかあきれるばかりでした。
それにリードをつけて自力で(?)歩いているワンちゃんは、どれもこれも純血種ばかりで、「ロクを連れてこずによかった。ここにきたらいじけてしまいよる」と、口数少ない夫婦の会話の一つになりました。

写真は、軽井沢を避暑地として初めて紹介したカナダ人宣教師ショーの家です。表もシンプル、中もシンプルです。


もう一つの動機。文学です。
こう見えても私は文学青年だった。結核にかかればいい小説が書けるのに、なんで親はこんなガッチリ体型に生んだのだろう、真面目にそう思ったものです。
結核─痩身(そうしん)─長身─小説家というイメージ。それに反し、学校代表にまでなる健康優良児─少々小太り─短足・短身。こりゃ間逆ですね。でも小説を初め文学書はよく読んだ。ただ軽井沢に縁の深い堀辰雄は『風立ちぬ』しか読まなかった。ある文学大系本の堀辰雄篇には『菜穂子』とか数編が収められているにもかかわらず。

以前にもこのお便りに書いたと思うが、信州には出版社が多い。従って信州に関連する書籍の出版も実に多い。で、ここに居を構えてから松本の「郷土出版社」が出している『長野県文学全集 第三期 現代作家編』を購入した。
(実はこの郷土出版社、私がまだ大阪にいて歴史学研究に熱意を持っている頃、ずっと出版案内を送ってきてもらった出版社だった。この本を購入するまで気がつかなかった)
この『全集』をいつもの性癖のとおり、何の順番も考えず行き当たりばったりに読んでいると軽井沢関連が実に多いことに気がつきました。

そこで『第10巻 資料編』の総索引《地域別》があるので見てみると、まあ、軽井沢関連の随筆、紀行、小説、日記のあることあること。
芥川龍之介「病牀雑記」「軽井沢で」「軽井沢日記」などから始まって、若山牧水の「落葉松林の中の湯」まで細かい字で6ページにも及んでいます。1ページに90作品の紹介、従ってこの全集には約540の作品がある、ということです。ちなみに軽井沢に続くものは北アルプス関連が3ページ、松本、木曾の2ページ強でした。

この軽井沢関連の随筆を読むと、独特の「雰囲気」を感じます。何故か「大和のふる道」を呼び起こすのです。
文中、「軽井沢の木漏れ日」と接すると、誰の詩だったか忘れたが自然と「あはれ、花びらながれ」と口にでてくる。
追分の「油屋旅館」は、文人墨客がよく利用した法隆寺に近い某旅館が(名前、忘れた)と重なる。


「旧軽」はすぐ引き上げたのですが、大日向で随分時間をとってしまった。
夕方4時半過ぎに『追分宿郷土館』に入って、「あれ、追分宿には欠かせなかった飯盛り女についての資料が全く無い」と思いつつざっと眺め、そこの事務員さんが親切にも、2人連れがこれから『堀辰雄文学記念館』に行くので閉館時間を延ばすように連絡してくれて、『記念館』をも見てきました。

軽井沢のバスやその他に「美しい村」のロゴがよく見られました。これは堀辰雄の小説『美しい村』から採ったのかもしれない。

とにかく、もう一度ゆっくりと行かなくては。
「雪は少ないのだが、たまに降ると雪かきも自分でせねばならない。友人や知人の話しによると、軽井沢が一番いいのは冬だという。観光客もいず、静けさを取り戻す。雪の上に点々とつく足跡はタヌキかキツネか、テンか…。」(元NHKアナウンサーの下重暁子さん。古い人にとっては懐かしい人でしょうね)
とあるから、冬に行くことにしよう。そのときは軽井沢の住人を装って。

(いやいや長くなってしまいましたが、蛇足を)
私は分岐点がなぜか大好きです。
「お前は北へ、オレは西へ。ここで分かれりゃ二度と会えねえかもしれねえ」という分岐点。
あるいは「信心は一大事じゃ。真剣勝負じゃ。地獄と極楽との追分じゃ」(倉田百三『出家とその弟子』。高校時代の愛読書でした)。
ここは北国街道と中山道の追分。全国の街道の、追分の中の追分。追分の代表格。
写真を撮られるのが嫌いな私も、ここ「追分分去れ」で1枚撮ってもらいました。(お目汚しでスイマセン)


『八ヶ岳倶楽部』③から秋まで  その7 区民運動会

2010年11月12日 23時29分27秒 | Weblog

2010.11.12(金) 記


朝、雨が降っていたので、今日は寒くなるかなとの予想に反し、暖かいいい天気になりましたね。

2~3日前からネコのクーちゃんの右目から涙がよくでていたので、昨夜目蓋をひっくり返して見ると炎症を;起していました。
動物は、ここが痛いなんて言わずじっと我慢の子なので、こちらが気をつけてあげねばなりません。
というわけで午前中は動物病院行きです。

その途中、今朝の犀川にかかる『久米路橋(くめじばし)』と『ろうかく湖』の紅葉です。もうピークは済んでいるのですが、数人の観光客がきて写真を撮っていました。

こういう人を見ると、「あっちがいいですよ」とか、「この上に登ったらもっといいですよ」などと、どうもおせっかいしたくなります。これは、私がこの場所を自慢したいという気持ちと誇りを感じているからでしょうか。
そうそう2週間ほど前には、本格的な油絵を書いている人もいましたよ。

さて、クーちゃん、風邪の症状の一つで、たいしたことはない、ということでした。
行きは車の中でずっと動き回って叫ぶように泣いていたのに、診察台にあがるとぴたっと泣き止み、じっとしています。不思議なものです。
ネコはネコなりに分っているのでしょうか。ひょっとすると人間だけが、彼らを理解できていないのかも知れません。


話が変わって、今日は昨日の続き、10月10日のことです。

防災訓練を終えたあと、午後からは『区民運動会』です。
例年この日は暑くもなく寒くもなく空は抜けるような晴天で、「これぞ山里の秋」の風景が運動公園のまわりに広がります。
まず準備体操から。

競技内容はほぼ毎年同じですが、若干変化します。
ここに来た当初は、そうもう7年前になりますが、最初の参加時から2、3年後までは、たしか幼児の徒競走がありました。
トラックの途中に子どもたちの喜ぶお菓子を入れた袋を置き、それを拾ってゴールインするという競技。それが無くなってしまいました。

子どもたちが走っている姿を見て、じいちゃん・ばあちゃんが「だれだれちゃんの子かえ」と話をしたり、戻ってきた子らをねぎらったり、袋の中身を見ては一緒に喜んだり…こんな情景があったのですが。

親と子の関係のみならず、いやむしろ祖父母と孫の関係が子どもたちの将来をより一層豊かにする、と私は考えているのですが、そうそう、今ヒットしている『トイレの神様』という歌なんぞ、おばあちゃんと孫との関係そのものですよね。世代は切り離してはいけません。
若い頃から、老人施設と保育所・幼稚園の敷地を一緒にすべきだ、とその筋には訴えていたこともあったのですが。

これはなんという競技だったか…皆さん真剣です。


最後、メイン競技の綱引きです。5つの組を2分割して東西対抗試合です。これはみんな真剣です。
(私はこの2週間ほど前に肋骨を折ってしまって、見学)。



全競技を終了後、懇親会が始まります。
グラウンドにテーブルをいくつか置き、まあいえば立食パーティのようなものです(写真、撮るのを忘れました)。
同じ村人でありながらなかなか会ことも話を交わすことも少なく、このような機会がそれを補ってくれます。大切にしたい、いつまでも続けたい恒例行事です。

この日の運動会といい、懇親会といい、新参者の私が知っている人の参加がみるみる減ってきています。その一番大きな理由は高齢化です。家から出るのが大儀になったり、施設に入ったり、子どもに引き取られたり。

新参者の私たちを見守ってくれていた方々と「この冬、炬燵にでも入って、ゆっくり話を聞きたい」と切に思った運動会と懇親会でした。

『八ヶ岳倶楽部』③から秋まで  その6 防災訓練

2010年11月11日 23時58分12秒 | Weblog
2010.11.11(木) 記

明治初期までは一つの村だった我が地域(S組(大字)の中のS(小字))は、一昨年までは3世帯5人だった。けれど95過ぎても気丈で1人暮らしていた「けさゑ」ばあちゃんも、ついに篠ノ井の娘夫婦に引き取られた。それでも昨年は夏のあいだは戻ってきたが、今年は戻ってこなかった。
とうとう私たちを入れて、2世帯4人だけになってしまいました。

こんな地域を、日が傾きかける頃、いつものとおりロク(犬)とナナ(山羊)を連れて散歩する。するとハチかクーかテン(いずれも猫)が、どこからともなく現れて散歩に加わる。

ロクはつかず離れずしつつ自分の興味あるところに行く。ナナは道端の草、色の変わり始めたクワや葛の葉を食(は)む。
ボクは闇に包まれていく北アルプスを眺めたり、犀川対岸の紅葉を眺めたりしながらゆっくりと歩く。このときは動物よけを兼ねたラジオは欠かせない。なにしろここに潜んでいるイノシシやシカはかなり大きい。クマもすぐ側まで出没している。
彼らに対しなんとなく近しい気持ちになってはいるものの、ケガでも負わされると大変だ。

これはボクが大変ということ以上に、危害を加えた動物が追われ、時には殺されることもあるので、これがかわいそうだからだ。NHK『龍馬伝』の、捕り手に追われている岡田以蔵に重なる。
猟友会も高齢化が進んでいるので、銃もあげるから会に入れといわれ、事情はよく理解できるのだが、とてもボクにはムリ。
従って、動物たちの姿をみたいのはやまやまだけれど、お互いが接しないように気を使っている。

このごろ日が沈むのが実に早い。明るい、と思っていても、ものの15分で真っ暗になる。「つるべ落とし」だ。月はまだ3日目。

暗くなった。と、突然「けんっ」と鋭い鹿笛。まったくすぐ近くで、この高い音を聞く。
ナナは草から顔を上げ、口をわずかに開き、目は動かさず、耳を立ててじっと様子を窺う。クーは尻尾を立ててボクのそばに近寄る。ロクも来る。
この雄鹿は、ボクらを見ているに違いない。

「ロク、さ、行け」と小声で言う。わずかに上げている左前足が、震えている。怖くて震える? そんなはずはないだろう。しかし「行け」といっても、お尻を押しても、テコとして動かない。キジなら尻尾を振りながら、のっそりと向かっていくのに。

これは11月10日、夕方の出来事。


今日の話題は、この出来事からさかのぼることちょうど1ヶ月前の10月10日のこと。
わがS区は、2年に1度、防災訓練を行う。

訓練は次ぎのように始まる。
まず、各人は所属する組のあらかじめ決められた集合場所に集まり、お互いを確認しあい、集団でムラ(区)の中心にある公民館に集まる。そして最終的な点呼を受ける。
参加者は、市消防署員が2人。そして地元(ムラ)の消防団員が10名ちょっとと多数の区民(この消防団員の数がグッと減ってきている。これも過疎地の危機の1つ)。

具体的には、まず消火器の使い方。なかなかスマートな女性です。わが山里にもこんな人ももちろん住んでいるのですぞ。


次に川をせき止め、ポンプで水をくみ上げて放水するために、ホースのつなぎ方や伸ばし方、エンジンのかけ方、散水時にホースを2人で持つ意味と持ち方などなど、のどかな山里で2時間半の訓練が進行します。
写真を撮っている私の背中側に幅約2mほどの川が流れていて、この水をせき止めるわけです。


そして放水。



そうそう、私たち夫婦は集合場所に遅れました。原因はこれ。左の岩は橋の上です。川が流れていますが、訓練で使った川と同じ川。



この訓練が午前。午後には区民(ムラの)運動会と懇親会が続きます。
平和な、ゆったりとした山里の、忙しい秋の1日です。

『八ヶ岳倶楽部』③から秋まで  その5 キノコ

2010年11月08日 06時47分03秒 | Weblog

2010.11.07(日) 記

(この話題は10月中旬の頃の話です。どうもお便りが遅くなってしまいます。申し訳ない)

信州人のキノコ好きは有名です。
人の集まるところ、連れ同士が、どこどこで何々が取れただの、誰々が何を取ってきただの、この時期になるとよく耳にします。ついこのあいだも温泉に浸かっていると、そんな話が聞こえてきました。
仲間と共に味噌とネギそれに信州の地酒を持って山に入り、採れたキノコの『キノコ汁』を食べながら酒盛りをする。カーッ、たまりませんね。こんな習慣は残したいものですが、現在は随分廃れてきたようです。

信州では、マツタケを除いたキノコに関しては、誰の山でもない、つまり誰が山に入っても許される、ということらしい。
キノコを目指して一直線、他人の庭先であろうと横切って行きます。キノコが好きだからお互いさまということなのか、キノコ狩りについては寛容なのか、こういうことが許されるからますます好きになるのか、とにかく好きですね。
森に面した道の側道に車が止まっていれば、まずキノコ狩りに間違いない。

でもこの時期、クマと毒キノコに注意です。
毎年、この注意キャンペーンが大々的に行われていますが、それでもクマに襲われたとか、毒キノコを食べて中毒したとか、直売所で誤って毒キノコを販売したとか、こういった事故が発生しています。

写真は家の裏。なんのキノコか分りませんが『シロ』(群生地のことか)ができているようです。毒でなければキノコ汁にしたいのですが。


ところで今年はマツタケが数十年ぶりの大豊作だそうです。従って価格は例年の半分以下。今年こそ食べられるチャンスかも知れないですね。
それに信州のマツタケは、日本全国の生産高の約50%を占めているようです。知らなかった。関西人だったボクは未だに広島や京都だと思っていたのでした。ま、たしかにアカマツの美林がよく目に付きます。
森林が荒れているとはいえ、まだまだ信州の森は美しい。残したいですねぇ。


番外編 インターネットの調子が悪くて

2010年11月07日 13時09分21秒 | Weblog


2010.11.07(日) 記

10日ぶりです。
実はインターネットの調子が悪く、サイトは見ることができたのですが、アップはダメ。
加えてツイッターの方は、閲覧もつぶやきもできませんでした。でやっとこの2日ほど前、正常に戻りました。なぜなんだろう、わかりません。
その間、重要な事件が次々と起こっていましたね。

まず、警視庁の機密情報漏洩事件。
これはファイル交換ソフトの『ウイニー』が原因ということですが本当かな。どうも警察の自己弁護のように思っています。だってウイニーは危ないと以前から言われていて、それをブロックする手立てを立てていないということはないでしょ、警察ともあろう組織が。私の勤めているズブズブの職場でさえ、それなりの対策は立てているんですから。
次に尖閣列島事件のビデオ。これは『ユーチューブ』。
さらに米軍の機密情報は『ウィキリークス』で暴露。
加えて民主党元幹事長である小沢さんの『ニコニコ動画』への生出演という出来事。

これら一連の事件には、インターネットの強大なパワーの発揮とともに、新聞・テレビというマスコミの崩壊という根底の流れがあると私は思っているのですが。

これは真実の探求と報道そして権力の監視という本来のジャーナリズムの役割を捨て去って、単なるアジテーターに成り下がったマスコミ自身に大きな原因があるのは間違いないです。

ちょっと考えるとわかるのですが、利益を追求する株式会社マスコミが、利益に沿って報道するわけで、自分の都合の悪いことを大々的に書いたり流したりは、絶対にしませんね。たまに訂正記事なんてありますが、それはそれは小さな小さな記事。それもまあ、会社の存続をかけた内容でないものばかり。
とにかく検察、警察、マスコミ。この3者ほど自己反省、自己批判、自己検証しない組織はないのではないか(あ、わが職場も随分とこのようになってきました。だから業績も下がっている、と断言できます)。

その一方で、私たち読者(視聴者)にも無批判にマスコミを受け入れていることにも大きな原因があるように思います(ある統計によると、先進国(あまり好きでない言葉ですが)中、マスコミを信じる度合いが1番なんですってね、日本国民は)。

あなたが書いた文章にいままで嘘は入れなかったですか?そんなことはないでしょう。あるいは一つの出来事を針小棒大に書いたり、脚色したり、時には何か目的を達成するための意図を持って文章を書いたこともあるでしょう。
新聞も同じ。それを活字にして新聞にしているだけ。

記者会見、聞いたこと、あります? 勉強不足でバカな質問をしている記者。彼らが記事を書き、デスクだか編集委員だかが会社の利益に沿うように手直しする。
こんな記事を「事実として」鵜呑みにできますか? 100%信じることができますか? 私にはできない。

つぎは映像。
写真やビデオを撮るとき、目的とすることがより一層効果的に撮れるように考えますよ、ね。あたりまえですわ。
たとえば嫁ハンを美しく撮りたい、と考えると(ウチは整形しないとムリですけれど)、光だの背景だのアングルだの、いろんなことを考えて撮りますね。その後も、トリミングしたり、写した順序を変えたりなどと編集します。目的や意志に沿って編集するのは当たり前です。こんな映像をありのままの「真実」として信頼できますか? ボクにはとうていムリだわ。

ここまではガッテンしていただけますでしょうか。

さて、次にある人を陥(おとしい)れようと画策するとします。
「何とかこいつの政治生命を絶ちたい。なんとなればわが社の利益に反するヤツだから」。
で、この『わが社』は新聞をもち、系列にTV局もある。それ、やれ! 徹底的にやれ!

新聞記事もTVニュースも安易に、無批判に受け入れるのはホントに危険だと思う。


「短い、単純な言葉を繰り返すことによって、大衆はそれを信じる」
「ウソも百篇(ひゃっぺん)繰り返せば、真実になる」
ヒトラーだか小泉元首相のスタッフだかが言った言葉らしいけれど、そのとおりですよ、ね。

『郵政民営化』という単純な言葉にだまされて、自分の子どもに仕事がない、自分の故郷が荒れ果てつつある、孫が生まれるのに医者がいないという体たらく。
『政治とカネ』というワンフレーズの繰り返しで、1人の優秀な政治家を抹殺しようとするたくらみ。
『公務員改革』で「みんなの党」を躍進させようとする勢力の台頭(こんなことを本に書いている人がいましたよ。誰だったか。でもこのフレーズは覚えています。「官僚官僚いうけれど、小泉竹中何をした」)。

結局これらの問題は私たちの『自立』の問題なんですよ、ね。今日のテーマに限定して言えば『情報の自立』(他に食料の自立なんぞありますが)。これは民主主義そのものなんですね。

自立することとは、自らが動かねばならないので、少々しんどい。けれど今は割合簡単な方法があるんですよ。
ボクはこうしています。

1. 新聞、TVの言うことは信じない。新聞の購読はしない(日本農業新聞はとっている。これは近所のJAとの付き合いで。それにしてもなんで月に4,000円も5,000円も払って彼らの一方的な主張を読まねばならないのか。ボクはただ出来事を知りたいのです)
2. その代替にインターネットのサイト、ツイッターで情報をとる。これらにはそれぞれの立場でものを言ってるのは新聞と同じといえば同じなのですが、投稿記事に対するいろんな人からのコメントに最大の価値がある。このコメントが、自分の見方を広げ、深め、気づかせてくれる。
3. 特にタレントの政治的言動に注意する(みのもんたやタケシ、テリー伊藤の言うことが抵抗なく入ってくる。これはダメ。彼らだって仕事。言わざるをえないんだ。だって彼らの家族や事務所のスタッフに給料を払わなければならないから、失業を恐れる。ボクだって意に沿わないことでも仕事でやらねばならないことはしている。あなたも同じでしょ。余談ですが、従ってお笑いでは、政治的に一切関わらないタモリやサンマを、ある面で感心しています)

こんなものかな。簡単でしょ。もし別な方法があれば、教えてください。

今日も長くなりました。じゃ、また。