信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

『御柱祭』 第3報の5 「直会(なおらい)」

2010年03月21日 11時03分38秒 | Weblog
                               3月21日(日)  記
仮置きも終えて、次は「直会(なおらい)」です。
「直会」とは、神事、仏事の後に開かれる一杯飲みのことですが、各種委員会の集まり、各組の総会、あるいは勤労奉仕(という言葉が妥当かどうか疑問ですが)の後などに開かれる慰労等を含めて言うようです。
ムラの古老は「昔はこんなものしか楽しみが無かった」と言いますが、今でも貴重な情報源に変わりありません。

わがムラには2つの公民館があって、一つはムラの中心部、かつて小学校の分校や農協の出張所、農産物の集荷所のあったエリアの一角にあります。今残っているのは分校の講堂と校庭のみですが、やはりなんとなくムラの中心、という雰囲気が残っています。
この分校跡と公民館にはさまれた道の突き当たりが、ムラの鎮守様、『Y神社』の長い石の階段に続いています。『御柱祭』の舞台です。

もう一つの公民館は、無住のお寺の境内にあって、2階建てです。普段はあまり使われていませんが、この近辺の行事の集まりに、ときおり利用されています。
この建物は昭和40年代ころまでムラの養蚕共同作業場として使っていたものでかなり古く、歩けば床がふわふわするほど老朽化がすすんでいます。
(このお寺は奈良にある長谷寺の末寺で、明治初期まではかなり大きくかつ信者も多かったそうですが、廃仏稀釈でムラはY神社を選んだ…という話は、別の機会にしましょう)。

さていよいよ、この公民館の2階で『直会』の開始です。
約2時間の遅れを取り戻すべく、用意はすでに整っています。
座卓が田の字型に12ほど並べられ、その上には2,000円程度のオードブルがいくつかと数種のおつまみ類。そして1升ビンの日本酒が10本以上と烏龍茶。ビール、焼酎は出ません。日本酒オンリーです。ま、新年会や総会も含めて、ムラの飲み会のパターンです。
加えて今日はどうしたことか、焼かれた一夜干のイカが皿に盛られてデンと置かれているだけでなく、いかにも上等なメザシがどんどん運ばれてきます。

『先導』の1人であるノブオさんの挨拶が始まりました。この人はもう4年前になるかな、私が2年間公民館の役をやっていた時の館長として一緒に仕事をした人ですので、親しみを感じます。

この挨拶の中で、イカとメザシの由来の説明がありました。

このムラ出身の某氏からの寄付、というか差し入れ、というか献納、そういうものだそうです。イカが何十パイ、メザシが200数十匹、加えて酒が20~30本。祭り当日の4月にも再度寄付してくれる、とのことでした。

私の隣に座っているアキオさんにこの方のことを聞いてもよく知らない、と言う。他の人に聞くと、今は他県で建築業を営んでいるが、居宅はまだムラの中に空き家として残っているとのこと。

毎年行われる春・秋の村祭りでも見慣れぬ人を見かけます。
『祭』とは単に「神様をまつる」というだけの意味ではないですね。特にムラの祭りというのは信仰や宗派や神道などの言葉で論じられる、いわゆる一般的な『宗教』とはちょっと違う。
ある宗教に熱心なムラ人A氏は、移住して間もないころの私に近づいて、『邪宗』とか『信仰の自由を侵している』とか『ムラ社会の負の残存』と話かけてきましたが、この地のさまざまな行事にずっと参加してきて、やはり「違う」という感をより一層深く思うようになりました。
ま「こうして意識の中に入ってくるんだ」といわれれば、それまでですが…。

イカ、うまかった。公民館の外で、ドラム缶を縦半分に切ったグリル(?)に鉄板を置き、醤油をザーッとかけて焼いたイカのうまかったこと。
続いてメザシ。焼きすぎのものもあれば、半焼き、いやいや焼けてないのだってある。まともに焼けているものなんぞ無い、と言ったほうがよい。
私の皿に「さあ、どんどん食べて」と載せてくれたメザシだってそう。なま? 炭? それでも食いましたよ。それがまたうまい。酒も注がれれば飲む。盃を飲み干すと、あっちから「ほれ」こっちから「ささっ」。
大阪にいた時は飲めなかった。ほんの少し飲んだだけで心臓がドキドキ。挙句の果てはしんどくなってダウン。ところがここに来てから酒がうまく、随分飲むようになりました。この日もトータルで3合くらいは行ったかな。かといって家では飲まない。

宴たけなわ。窓からふっと外を見る。耕耘を待つ傾斜した畑には春の光が注いでいる。背側の窓からは光に包まれたわがムラの集落の大部分が見える。
すう~っと私が天空に舞い上がる。
天空に漂っている自分自身が、光の中の朽ちかけた公民館でムラ人とともに飲み、話し、笑っている自分を俯瞰している。

と思い巡らしている時、向かいに座っていたキンジさんが「この醤油、10年前のやで!」「えっ!」「ほら賞味期限、2000年11月になってる」「大丈夫か」「誰も具合悪い、というもんいないから、大丈夫やろ」「どこにあったんや」
それから1週間。ムラ人全員いたって健康。いったいなんだい、あの醤油は。

この『直会』は流れ解散。
というのは、この日はムラの各組(4組あります)の総会が開かれる日で、わがS組も3時からでした。
各組長も『先導』役として入ってるので、わがS組組長のトシカズさんはここの後片付けや、総会の準備のため大忙しです。ご苦労様。

今回は長くなりました。S組の総会については、次回に。
またお便りします。

写真は梃子衆の作業風景です。今日の『たより』とは関係ないのですが、『梃子』というのが分りにくいので、ご参考までに。

それから今日の日曜日11時から、S組女衆の『お茶っこ』の日。オカンはきのこ屋さんのヒデヒコさんの家へ行きました。
普通はS組の公民館でしたり、日帰りの温泉に行ったりするのですが、女衆も随分年を重ねてきているので。

『御柱祭』 第3報の4

2010年03月18日 06時49分02秒 | Weblog
                               3月15日(月)  記

崖から降ろしたあと、右に振られ左に振られしながらも目的の場所に着きました。前回では「安置」と書きましたが、誤解の恐れがあるかもしれないので「仮置き」と言ったほうがいいでしょう。

市道のカーブしている脇の幅が広くなった場所を、仮置き場にしています。

さて、その場所に置くわけですが、まず先ほど杭や梃子棒などとともに切り出した、丸太を枕として置きます。長さは1ヒロ、1.5m位。それを5本、多くても少なくてもダメ。5本です。
その上に、引いてきた御柱を、表側を上に、必ず、表側を上にして置きます。表とはできるだけ表面に傷がついてない側です。
これも「こっちが傷が少ない、いやこっち側だ」といいながら何度か置き直ししました。

次に根元から何cm位だろう、15~20cmくらい頭側に寄ったところくらいに四角い穴を通します。
この作業は「もうちょっと上、上、いやあがりすぎ。下げて、はいOK」とタツジさんの見等を受けながら、『斧頭』の進さんがチエンソーで開けていきます。
これはなかなか大したもので、ずれることなく見事に穴が開き、すぽんとくり貫かれた木の塊が出てきたときは「おーっ」というどよめきと拍手が沸きました。と、すぐ老人会長のケサフミさんが「わし、もらっとくよ」とニコッとその木塊を確保。その絶妙のタイミングに皆の笑い声がしました。
ちなみに、以前はノミで穴を開けていたそうです。

ところでこの穴は、御柱を立てるとき、土中での安定のため横棒を差し込む穴と私は思っていたのですが、そこはわきまえて「これはなんの穴?」と聞くと、曳行のための綱を通す穴、だったのです。やはり私は初めて、聞かねば分らないものです。

この穴開け作業の一方、10本の杭をこの御柱を囲むように土中に打ち込みます。ま、10本というより2本5組といったほうが分り易いかもしれません。
打ち込んだあと、縄(なわ。稲わらで作ったものでなければだめ)をぐるっと杭に巻きつけながら二重に御柱の周囲を囲みます。最後に杭と杭の中間位置に、御幣(正しいかな? 神道で使う玉ぐしについている白い紙で作ったぴらぴらのようなもの)を綱に付けて今日の作業は終了、となりました。
3月28日の『山出し』まで、しばし休息の御柱です。

写真は穴あけの場面です。
いつも私の写真は見にくいのですが、カーブミラーの右側には双耳峰の鹿島槍ヶ岳、右端の杭を持っている人の背後には唐松岳、その右手に不帰劍(かえらずのけん)と天狗の大くだり、そして白馬三山が真っ白に青空の中に浮かんでいます。
近景の山の中腹は、冬枯れの樹木やまだ休んでいる畑に春の光が降り注ぎ、その明るさは「これぞまさに信州の早春」です。
白く輝く北アルプスと早春の光に包まれての作業は、なんともいえぬ幸福感を感じさせました。

そしてあと1週間もしないうちにウメもほころぶでしょう。梅の花がほころべば、オウバイ、サンシュユ、マンサク、コブシ、ハナモモなどが、この静かな山里を彩ります。
そして御柱祭のさなか、アンズ、モモ、リンゴと続き……。

うーん、たまりまへん。
またお便りします。

『御柱祭』 第3報の3

2010年03月17日 09時18分04秒 | Weblog

                              3月14日(日)  記
市道に下ろすのは根元から。
しかし頭が谷側にあるので、半回転しなければなりません。これが本当に大変でした。

地形は斜面。加えて石が畑の堤として積んである。さらには大きな岩、枯れた潅木、積もった雪が障害となって、なかなか動かない。あと10cm、5cmに時間がかかる。
下の山で作業している梃子衆が集められて、梃子を使い、ロープを引っ張り、少しでも動かそうと力を合わせる。
御柱のなんて重いこと。

御柱は意思に反して動き、時に跳ねる。これが危険だ。
この動きを制御するために、ブレーキ用のロープを頭と根元に2本張り、引っ張り用のロープを市道まで垂らして10数人が引く。
10数人の梃子衆が力を加える。下からロープを引く。動かない。動かないはずだ。ブレーキ用ロープを張ったままだった。
あるいは、時に「長」「頭」どうしの食い違いも起こる。

ちょっとお節介かも知れなかったけれど、「声をだそうぜ」と誘って「よいしょ、よいしょ」と声を出す。ふと『ボルガの舟歌』を思い浮かぶ。力を合わせなければならないときは、唄なり音頭なり笛なりが大切なのだ。

根元がやっと崖際まで回転し、「頭」たちが集まり、このまま引きずり下ろそう、ということになった。

この重い御柱をほぼ垂直の崖下3、4mを落とすのは容易でない。安全確保とともに、御柱を傷つけないことに配慮しなければならないからだ。

写真、わかりますか?
左上に御柱が、右にはロープを引く人が見えますか?

こうして下ろしきったのはいいけれど、今度は雪が積もっている側溝にはまり込む。
これも時間をかけてやっとこさ引き出し、梃子衆を中心に梃子、コロ、ロープを使って動かすが、もちろんまっすぐに行ってくれません。谷側に寄ってはそちらの梃子衆が谷に落ちる思いを、急に山側に振ってはそちらの梃子衆が石垣に挟まれる危険を、そうこうしてやっと道幅の広い目的地まで運び、安置しました。

2週間後の3月28日(日)、ムラの有志誰でもが参加して、ここからお寺まで曳行することを『山出し』と言うそうです。ここまで運んでも『山出し』とは言わないみたいです。
「お寺まで行く時、木遣り(唄)、歌うんですか」と聞くと、「あるよ。昔は諏訪大社まで行って覚えた者もいたんだけど。今、完璧に覚えているの、いるのかなあ」の答え。どんな木遣りなのか、これも楽しみです。

さて、ここで安置なのですが、ただ置くだけ、ではないんですよ、いろんな決まりごとがあります。
これについては、次回のお便りで。

じゃ、また。

『御柱祭』 第3報の2

2010年03月16日 06時32分48秒 | Weblog
                               3月14日(日)  記

『斧入れ式』は以下のように進められました。

酒、米、塩が供えられ、二拝二拍手(かしわで)一拝の後、それらが木の根元に撒かれます。最後に作業者全員が同拝したあと、このお酒、すなわちお神酒を頂きました。気温が低いことと緊張感か期待感か、この時のお神酒の美味いこと、美味いこと、すっと胃にしみわたっていきます。

次に御柱となる杉の木の伐採作業に入ります。
まず「斧頭」が、儀式として斧を木の幹に打ち当て、次にロープを木に結わい、倒す方向に張って安全を確保したあとチエンソーを入れました。

一方、私の役割は『梃子(てこ)』なので、同時進行で違った作業をしなければなりません。
梃子は道を隔てた向かいの山に入って、梃子、杭を合わせて48本以上とコロを作るのですが、幸いこの場所に梃子の3人が残ることになりました。
私は諸先輩を差し置き、ずうずうしくこの場に残留しました。とにかく自分で言うのはなんですが、好奇心旺盛で伐採の一部始終を見たかったからです。また、このムラの人はこういうことを快く受け入れてくれるので、本当に有難いです。


作業は着々と進みました。
私は私の作業をしながらも、目は伐採作業のほうを向いている。
と、突然
「お~い、逆だ、逆。気をつけろ! 梃子、危ないぞ」という声。

頭(あたま)を山側へ倒すようにロープを張り、楔を打ち込みながら切っていたのですが、全く逆の方向、すなわち頭が谷側に倒れてきたのです。

張ったロープを引っ張っていた10数人は引っ張り込まれ、そのうちの2人は転倒。直径2cmのロープは破断してしまいました。メリメリ、ギリギリ、バシバシという音を立てて倒れるさまは怖さを感じさせます。樹木の最後の意志、を発しているのでしょうか。
幸い誰もケガは無かったのですが、一歩まちがえば大惨事のところでした。

倒れた木は、根元は面取りされ、枝を払われ、根元から13mの長さに切られます。
もちろん聞きましたよ、「なんで13m?」。
返ってきた答えは「昔からそう決められている」。

たまたま夜9時前のNHKの信州ローカルニュースを見ていたら、山梨県境にある富士見町の御柱山出しが紹介されていました。ここでも「13m」と言ってましたので、何か理由というか、いわれがあるのでしょう。

ここまではアクシデントはあったものの、まあ順調でした。
この場所は倒れた木の長さから推測して、県道から外れることわずか30m。長く見積もっても40mほどのすぐそば。
ところが、ここからすぐ下の県道まで出すのに、一苦労。予定時間を2時間もオーバーするほどでそれはそれは大変でした。

さて何が大変だったのか。

今日はここまで。続きは次の便りとします。
では、また。
さようなら。


『御柱祭』 第3報の1

2010年03月15日 09時49分02秒 | Weblog
                                3月14日(日) 記

皆さん、お元気ですか?
この1週間、いろんなことがありました。その一つずつについてお便りしたかったのですが、なかなか追いつきません。

ま、記録のために箇条書きにしておきます。

3月8日(月) 『御柱祭』の梃子長(てこちょう)から、14日(日)についての触れあり(ふれ。連絡のことをこの山里では「触れ」と呼んでいます)。この内容については第3報としてお便りしたかったのですが…。

3月9日(火) ミルクキャラメルを食べていて、歯が欠けました。「老い」について考えたこと。内容について、また後日お便りできると思います。

3月10日(水) 昨日来の大雪で、県道まで降りる道が倒木で通せんぼ。オカンは職場を休み、私は幸い夜勤だったので、チエンソーで伐採、片付けをして1時間遅れで出勤。春の雪は重い。でも気温がかなり低かったので、スキー場では最高だったでしょう。

3月11日(木) バレンタインデーでチョコをもらった職場の女性3人へ、クッキーに付けるカードを作成。カードと言っても普通とはちょっと違って、3月15日当日のみ有効の『介護券』と年齢制限付きの『お背中流し券』と銘打ったもので、作りながら1人で笑っていました。


さて本題です。
今日は朝の8時から、御柱祭につかう木の切り出し作業でした。

現場は市道に隣接する4~5mの崖を登って30mほど離れたところ。近くなので搬出も楽そうな場所でした。

到着するとすでに『御柱』となる木に注連縄(しめなわ)が巻かれています。まっすぐ伸びた美形の杉の木です。一目見て「美しい」と思いました。
対象となる木は樹齢50年。胸元の太さ2m強。高さ20m。
なぜこの木が選ばれたのか? 聞きまくりましたよ、勿論。

最初は区有林の中を探したんだそうですが、山出しを考えると今のムラ(区)の人口では神社まで引っ張っていくのは無理。
そのうちに、数名の方が寄進するというか、奉納するということになって、美しく、樹齢ももっと古く、大きさもずっと大きな木があったそうですが、いろいろと選考し、人力も考慮した結果、この木になったということでした。

樹齢はなぜ50年と断定できたのか? 年輪か?
これも聞きましたよ。
この木の植わっていた所はもともとは畑で、持ち主自身が植林したので確実、ということでした。
驚きは、こんな急斜面にも石垣を組んで畑にしていた、ということです。たしかによく見ると石垣の段々畑、という面影が残っています。

参加者は
 実行委員会委員長(正)(副)3人   氏子総代 3人   総世話役 1人  御柱奉納者 1人
  斧頭 2人   植林委員代表 2人   組長 3人   梃子 17人 切り方手伝 1人   写真(記録) 1人 
の 計33人。

このムラに来てほぼ6年。集会や寄り合いにまめに参加していた私ですが、初めて見る方も2、3人いらっしゃいました。このムラで生まれ育ち、今も住んでいる何人かの人も「初めて見るなあ」と言っていました。

さて、全員が整列したところで『斧入れ式』の挙行です。

式については、次のお便りで。
じゃ、また。

『御柱祭』第2報  『斧入れ』の式次第が配布されました

2010年03月07日 17時46分09秒 | Weblog
                                3月7日(日) 記
昨日の土曜日は朝からほとんど1日中雨でしたが、今日の日曜日は夜半からずっと雪で、降りかたも真冬同様です。先週の日曜日も雪でした。

職場のある方に、「そろそろスタッドレスからノーマルタイヤに替えたいんだけど、どうやろ」と聞くと、「県立高校の入試日前後には毎年雪が強く降って、これで雪が終わる…」と聞きました。

昨今、気象予報がずいぶんと正確になってきています。確かに予報でもこの山里は雪。週明けからも数日は雪の予報です。が、「○○があると△△になる」「○○するとダイコンの種を播かんねば」という、その土地の言い伝え、と言うか、そういうものもなかなか正確なものです。

ところが、長年その土地に住んでいる人々にとっては当たり前のことなので、格別意識されていない。さらには、伝統行事や伝承でもないので、若い世代に伝えていかねば、という大層な事でもない。このような事は、違う世代が共に働き共に生活していくなかで自然と伝わっていくもので、若い世代の殆どが月給取りになってしまって、そうこうしているうちにお年寄りが亡くなっていくと同時に、「昔からこの土地では言われてた」ことが永久にに消えてしまう。

こんな言い伝えなどに敏感なのは、むしろ部外から入ってきた者かもしれません。しかし、例え興味があったとしても、こんな言い伝えがあるなんて、何かのきっかけがなれば知る由もない。
ということは、やはり消滅への道をまっしぐら、ということでしょうか、誠に残念ですが。

さて今回の話題は、『御柱祭』の2回目です。
このブログに『御柱祭での役割』についてアップした翌日の今日、組長が「2日に1ぺん、これで寄り合いがあるから、大変や」と言いながら、2枚のペーパーを持ってきました。

1枚は『お祭り袢天注文書』。もう1枚は『平成22年度 御柱祭伐採・斧入れ式次第』

袢天(半纏と同じ?)は即注文します。大人用M寸帯付きで4,200円。孫がいれば当然孫のも注文、となるのですが、今のところおりませんので、大人用を何枚にしようか、と思案中です。息子夫婦が帰ってきた時に着せるのも面白い、と思うので。

2枚目。
『伐採・斧入れ式』は3月14日 大安の日曜日。午前8:00から、とある。もう次の日曜日だ。
参加者は 
実行委員会正副委員長3  氏子総代3  総世話役1  御柱奉納者1 斧頭2 植林委員代表2 組長3 梃子17 切り方手伝者1 写真1 
の総勢34名。
私の役割が『梃子』なので、参加して下さい、という訳。もちろん喜んで参加します。

このペーパーによると
『斧入れ式』は
① お神酒献納 ②塩献納 ③米献納 ④参列者全員同拝 お神酒をいただく
それが終わると
斧入れ、伐採作業、直近の市道まで搬出
とあります。

一通りの作業を終えると『直会(なおらい)』という慰労会があって当日の行事は終了、となっています。

この式次第から察するに『梃子』の役目は御柱の搬出作業、でしょうね、きっと。
でもこの時の服装はどうしたらいいのでしょう?
めでたい作業なので、木遣(きやり)など唄われるのでしょうか?
神主は? 御幣は? 誰の木? 引っ張る綱はどんなの? 云々…
いろいろと興味は尽きませんし、どちらにしても楽しみです。

それにしても、移住して6年経つか経たないかの私にさえ、こうした役目を与えてくださった地域の方々に感謝、感謝です。

じゃ、またお便りします。


「御柱祭」に向かって…

2010年03月06日 18時12分08秒 | Weblog
                                 3月6日(土)記

今日は休みなのに朝から雨。リンゴたちが剪定を待っているというのに、残念です。

午前中は取りためていたビデオを見、それから諏訪の『原田泰治美術館』や温泉にでも、と思っていたのですが不覚にも昼寝をしてしまいました。
そうそう、ビデオといえば今夜だったかな(明日かな)『阿弥陀堂だより』が放映されます。この映画が好きで、舞台になった北信濃飯山に残されたセットの阿弥陀堂に行ったことがありますが、このことについては後日に。

さて今回の話題は「御柱祭」について。写真もないし、読みにくいかもしれませんが、どうかよろしく。

2月26日の農業新聞の地域欄に
御柱祭に向け 巨木切り出し 長野県小川村
という見出しで、写真入記事が掲載されました。

小川村は「西山」地方の一つの村で、信州新町の北、戸隠や鬼無里の南に位置し、平成の大合併という荒波の中でも、村民が長野市との合併を拒否しました。
私たちも大阪からIターンする際に有力な候補になった村で、その時に売主が「蔵」も売っていたら、たぶん今時分は小川村民となっていたでしょう。おやき以外何もない、典型的な「静かな山村」ですが、私の大好きな場所の一つです。

さて、その記事によると

2月21日、5月の小川神社御柱祭に向けた「山出し」が行われた。…
切り出した「一の柱」は樹齢120年、高さ36m、幹回り204cm…。
切り出された御柱は、音頭取りが歌う「木遣(きやり)歌」や「よいしょ」の掛け声とともに、地元住民らが力を合わせて1.7Km先の注連掛場(しめかけば)まで引っ張った…。
御柱となる木を選ぶ「見立て」、木を切り出す「山出し」、御柱を引き村を練り歩く「里引き」、柱を納める「建御柱」と日を追って行われ、…5月3日に御柱大祭が行われる。

とありました。
長々と書いたのは、我が里の近辺に「御柱祭」があちこちで執行されているんだ、という驚きと、我が区(ムラ)の鎮守「○○神社」の「御柱祭」に向けての準備はどう進んでいるのかな、という興味からです。

この記事と前後して、先日、区民(ムラ)全世帯に「平成22年度 御柱祭氏子役割」というペーパーが配られました。こちらに移住して初めての「御柱祭」ですので、見るのは初めてです。

ちょっと煩雑かもしれませんが、役割を書いてみますと
「先導」「総世話役」「神楽」「拍子木」「御幣」「長持」「梃子」「接待」「来賓接待」「本部接待」「網方世話役」「網方」「踊り世話役」「建方」「救護」「斧頭」「記録写真」「交通整理」「花火担当」
19もあります。

ざっと眺めてみると、重複して役を割り当てられる人もいますし、94か5歳のお向かいのおばあちゃんにも「網方」の役目。さて私は、と探してみると「梃子」。何をするのか全くわかりません。

「斧頭」は前回のYさんからSさんにバトンタッチ。炭焼きやウルシを採ったり、山仕事を主にしていたYさんも「網方」へ。つくづく7年という歳月が実感されます。

さてさて肝心なこと。
このペーパーを配りにきた組長(組合長とも。ムラの下部の部落長といったところ)に
「ところで祭の日はいつ?」
と聞いたところ、うんっ、とちょっと間をおいて
「4月の第2日曜」
との返事。

ムラの行事に当たり前に参画し守ってきた人と、全く違う場所から入ってきた私。
このギャップの象徴的な瞬間でした。

優柔不断

2010年03月04日 10時13分27秒 | Weblog
                                3月1日(月) 記
どれにしようか、そぞろ迷いだしました

前回、雪がまだまだ残っているとお便りしましたが、金・土の温かい雨ですっかり消えてしまいました。
それに県道から上がったアイスバーンの道も、向かいの家に住む1人暮らしの94か5のおばあちゃん(冬の間は不在)の息子親子が家の除雪にやってきて、その折、道の氷をはがしてくれて上り下りが楽になりました。
でも、昨日の日曜日はまた雪。さすがに春雪ですぐに融けてしまいましたが、ここ信州の山里ではまだまだ雪の心配をしなくてはなりません。

この土曜日、母屋の裏の立ち木を伐採しました。
ここに来た当初、この場所はなんぴとも寄せ付けないほど竹が密生し、少々薄気味悪い程でした。
竹を少しずつ切り開くにつれて、桑ぼっこ(桑の切り株)が規則正しく並んでいるのが発見され、ここもかつては桑畑だったことがわかります。

幾年かたった一昨年の春、私の一番好きなブドウであるデラウエアの苗木を2本植えました。
ところが竹を切ったとたん、雑木(ぞうぼく)が生き生きしだして枝を張り葉を茂らせて、それはそれはのびのびと。こうなると下に残しておいたの植物は負けます。随分と気を付けていたのですが、いつの間にかブドウは消えてしまいました。
ということで、今年は同じ轍を踏まず、本格的にブドウを栽培したくて立ち木を切った訳です。

木を切る時、気をつけなければならない点は幾つもあります。
足元を整理しておくこと。倒れる方向を考えること。倒れたときの跳ね返りを充分考慮に入れておくこと。それに何よりもまず、樹木という一個の命を絶つという謙虚な気持ちを持つこと、等々。
そのほかチエンソーの扱いの基本を守ること、など。

そのあとの片付けも手間がかかります。きれいに整理するまでにはちょっと時間がかかりそうです。
ま、苗木を植える場所だけは確保しているので、片付けは、ゆっくりやっていくつもりですが、その間、また原野に戻らないように気をつけなくては。

ところでブドウの種類なのですが、少々気が変わってきています。
もちろんデラウエアもいいのですが、おととしは篠ノ井東福寺の、昨年は松代のある農家から頂いた巨峰の美味しかったこと。また果実を扱っている業者さん(岡村青果という会社)から「ちょっと食べてごらん」と頂戴したナガノパープルという皮ごと食べられる甘いブドウも忘れられません。

このナガノパープルは、他府県では許可されず長野県内でしか栽培できない品種なので、これにしようかなとも考えているのですが、思い悩むところです。

どうも私の悪い癖が出てきました。あれもしたいこれもしたいと思って、結局は全部中途半端になるのかも。
気をつけなくっちゃ。