信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

おコメ

2012年09月07日 23時55分32秒 | Weblog
2012年09月07日(金) 記

暑い暑いと言いながらも今日は「白露」。早いものです。
「早い」と言えば、知り合いから新米を送ってきていただきました。
このあたりでは黄色くなっている田はあるもののまだまだ青い田も多くあり、「えっ、もうそんな時期!」という驚きでした。

私は根っからの日本人というか、農耕民族だなと実感するのは、家におコメさえあれば安心できるんです。信州のこのあたりでいうと「安気(あんき)」になる。
カネもなく世帯道具も着る服も何もないとしても、おコメさえあれば何とかなる、生きていけるという気持ちになります。
このことは、以前に紹介したかもしれませんが幕末の歌人 橘曙覧(たちばなのあけみ)のこの歌が実感として思い浮かんできます。

「たのしみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふとき」(※)


だからという訳でもないでしょうが、稲穂の頭(こうべ)が垂れている田んぼを見るのが大好きですし、何とも美しい風景だと感じるのです。加えてイネ独特のにおいもいいですね。
黄金の輝きと香りは、この時期の中山間地や里山にとっての至宝、この上なく大切な宝だと思うのです。

写真は家の近くの田んぼの風景です。


ちなみに右端、青い屋根の家はこの春まで空き家でしたが、愛知から移住してこられたみたい。すでに野菜つくりを楽しんでいるようで、トマト、キュウリ、トウモロコシ、ネギがみえます。オクラもある。大したものです。

家というものは空き家の時はくすんで侘(わび)しく、「こんな家!?」というものでも、人が住めば輝くものです。住む人を得てこの家も喜んでいるように見えます。
ちなみに画面ほぼ中央、一番背が高い杉のてっぺんあたりに、槍ヶ岳が子槍(こやり)とともに見えるのですよ。今日は雲で見えませんが。


さて、ここまでお便りして思い出すのは昨年今頃の「放射能」問題です。
昨年9月17日のお便り(ブログ)で報告したように、長野県が23年産米の「放射性物質の検査」についてのチラシを農家全戸に配布し、コメの取り扱いについての注意喚起をしたのですが、今年の24年産米についてはいまのところ全くありません。

では、放射能についてはもう心配ないのでしょうか?
昨年、県下では唯一、群馬県に隣接する軽井沢の一部で放射能が検出されて問題になりましたが、今年はもう大丈夫なのでしょうか?

実は今年になっていままで出ていなかった御代田(みよた。軽井沢の西隣町で長野市寄り。佐久や小諸の東となり)で野生きのこから放射能が検出され、それだけでなく長野市の水道水から0(不検出)だったストロンチウムがわずかとはいえ検出されました。つまり汚染が徐々に拡大してきている。

それは決して長野県だけの問題ではなく、関東首都圏はもうすでに、そして甲信越にも広がりつつあるのです。そしてこの事実を政府や各界の指導者層、マスコミが知らないはずはない。庶民の我々に真実を教えようとはしない。与えるのはTVでお笑い番組やスポーツとわずかなお金。これで国民は文句を言わない!

放射能とは人間がどんなに頑張って閉じ込めようとしても広がっていくもの。そしてそれは何万年も消えることはない。
さらに原子力発電とは、「発電」とともに核兵器の材料を作っている疑惑がはっきりしてきた。現に自民党総裁候補の石破議員は原発と核武装との関連をぽろっと漏らした(マスコミは報道しないけれど)。だから彼は原発継続を声高に言う。

もう一枚写真を。


お日さまの光が雲間から漏れて光柱が地上に降りてきている。さっきの写真と同じ今日の夕方近くに撮ったものです。しばらく見惚れるほどに美しかった。
しかし、もし放射能がわずかながらでも目に見えるとしたらこんなふうに降り注ぐのかしらと、嫌な想像をした。
豊かに実る大地、人々が住む家、動物たちの住む森。
これらがこの光柱のように降り注ぐ放射能にさらされているのかと思うと、何とも言えぬやり切れなさと怒りが湧いてくる。

電気が足りないと騙して大飯を動かした詐欺師関西電力と言われるままに「再起動」を指示したノー天気の野田。再稼働を早くしろと脅し続けた金の亡者の経団連米倉。ろうそくの生活に戻ってもいいのかと恫喝する仙谷という政治家。


大地を汚してはならない。水も汚してはならない。生けとし生きるものを汚してはならない。不幸にも汚れてしまったものはこれ以上汚してはならない。


この帰り、マサカズさんとそのお母さんが稲刈りしていた。60の息子と80過ぎの母親。


口角泡を飛ばしてウソをつき、民を犠牲にして利を追う連中。そして小さな田んぼの稲刈りに一所懸命の親子。
キリスト教徒ならどちらに「神のご加護を」と祈るだろうか。
そして仏教徒の私は、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とただただ念じる。


(※)
他にこんなのもあります。
「たのしみは戎夷よろこぶ世の中に皇国忘れぬ人を見るとき」

私の頭の中にはTPPが常にあるので、「戎夷」の代わりに「アメリカ」と詠みかえてしまいます。
「戎夷よろこぶ」とは「アメリカすばらしい」「「アメリカさんの言うことならハイハイ」という追米・従米主義の意。「皇国」とは天皇の国という意味でなく、藤原正彦さん(新田次郎、藤原ていの子息)が『国家の品格』で述べている国家像(観)に近い、かな?