★遠恋プチプチ同棲H川1丁目~★そして1人~

’04年12月
やっと決まったK江2丁目愛の巣♪

…2014年7月別れました。11年間愛の日々でした

知覧の特攻平和会館。

2007年10月09日 21時30分19秒 | 恋人
土曜日の朝は、寝不足の割にはすんなりと起き、
そのまま、指宿スカイラインへ乗って、一路”知覧”へ!!

着きましたよ~!!
知覧特攻平和会館。

どことなく厳かな雰囲気がします。

入り口へ入るまでに、石碑が立ってます。
彼と一緒に読みました。

アカン・・・もう泣きそうや・・・

入場券を買って、いざ入館!

静かです。

沖縄にアメリカ軍が攻め込んできいたんですね。
戦況は悪化の一途を辿ってたわけです。
ついに、体当たり作戦が決行されます。
それが、特別攻撃隊員、特攻隊です。
飛行機もろとも敵艦に体当たりするのです。
飛行するという事は、生きて帰れないってことです。
若干20歳そこその若者達が、沖縄の空に散って行ったのです。

自分の飛行が決まった前夜に、それぞれの想いを
遺書という形で、家族や愛する人に残しています。

それを、一つずつ読める限り読んで歩きました。
一通目から、涙が止まりません。
ガラスケースに涙が落ちます。
涙で滲んで字が読めないんです。
あちらこちらから、すすり泣く声が聞こえて来ました。
彼と、しっかり手を繋ぎながら読んでたのですが、
いつしか、思い思いのペースで・・・

継母に育てられ、愛情を感じてたものの
最後までお母さんと呼べなかった。
今こそ、大きな声で呼びたい!
お母さん!お母さん!お母さん!

胸に迫るものがありました。

最後ぐらい褒めてください・・・といったものやら
借金と女関係はありません・・と言ったもの。

泣かないで下さい。
喜んで死にに行きます!
大日本帝国のために戦ってきます!とか・・・。

敵艦に体当たりして、撃沈させてきます!とか・・・

でもね、殆どの遺書がやっぱり”お母さん”て言葉が一番多かった。
どんなに軍事教育がなされてて、お国のために身を投じる覚悟をしてても
最後は、やっぱり”お母さん”なんです。
だって、まだまだ甘えたい年頃なんですもの。
十代が殆どです。
1036柱の隊員は、本土最南端の特攻機地から、出撃していきました。
決して忘れてはいけないこと。
彼達がいたから、今の私達がいる。
後世にきちんと伝えなければいけないことだと改めて思いました。

彼と、行ってよかったね!と言い合いました。
そして、忘れないでいようね・・・とも。

遺品も凄まじいモノばかりでした。
兎に角百聞は一見にしかず!
是非、機会がありましたら、知覧へ行って見てください。
靖国参拝を批判する近隣国の人々に見せてやりたいです。

飛び立った人たちの合言葉は
「靖国で会おう!」だったんです。

エリートの人々です。
あの人たちが生きていれば、日本はもっといい政治家が増えていたと思います。
物凄い達筆で、言葉も沢山知ってます。
みなさん、超エリートだったんです。

今日は、彼の話ではなく、知覧の特攻平和会館へ行っての感想でした。^^

この後、彼と鹿児島市内へ行きました!