声の仕事とスローライフ

ただ今、仕事と趣味との半スローライフ実践中。遠方の知人友人への近況報告と、忘れっぽい自分のためのWeb忘備録です。

歌手で出演します

2017-08-06 19:38:14 | イベントのお知らせ


来月3日の下田市文化会館での
コンサートに出演させていただくことになり、

昨日は、1回目の音合わせでした。

自衛隊音楽隊OBのスーパーシニア楽団「楽悠」の皆さまとは、今回で2回目の共演です。


ソロで歌わせていただくのは

「ゴンドラの唄」と「月の砂漠」

ですが、

「純情二重奏」「青い山脈」や「誰か故郷を想わざる」「鐘の鳴る丘」など、

デュエット曲、全員で歌う曲なども含めて
全9曲に歌い手で参加します。


今回は得意のMCも“トーク”もなく、

歌のみで出演します。

p(^_^)q


伊豆下田は、多くの文学者のゆかりの地です。

そんな場所で、

「昭和の歌」を唄わせていただくのは

大変、幸せな事です。

昭和の時代にタイムトリップしませんか?


4時間の長丁場ですが、

お近くの方は是非お越しください。

全自由席で当日の入場もOKだそうです。


会場で、お待ちしています。


しみずゆみ ♫

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りっくんランド

2017-08-06 11:55:04 | Diary
朝霞に行くついでに

駐屯地正門横にある自衛隊広報センター
“りっくんランド”に寄ってきた。


この日は、

100円でかき氷が食べられる“ささやかなイベント”を実施中。





10式戦車を観ながら、食べるかき氷は格別。





そばでみると、デカい!



このまま“使えない兵器”になる事を願いつつ…




ちなみに私がWACだった頃は74式。



館内で出会った広報担当の迷彩服姿のWACに

「私も元WACです、24期です」

と声をかけると、

「うわ〜っ、鳥肌たちました、大先輩ですね!」

と、興奮気味に応えてくれた。


「いやぁ、びっくりしました。当時はモテたでしょう⁉︎ 」


この唐突な質問には驚いた。

「全然、そんなことないです」


と応えると、


「私だってこの前、某駐屯地に行ったら男子隊員から『オンナだ!』って、珍しがられたんですよ」

と、

私より、ひと回り大きな体格にスッピンに近いアラレちゃん似の彼女は、

メガネの中の目をまん丸くして話す。


男子ばかりの駐屯地では、
女子隊員はパンダを見るように珍しがられるらしい。


最近の隊内での規律についてどうか尋ねると、

私が元WACであることに気を許したのか

女子隊員の夜の駐屯地内での一人歩きは禁止である事を、

その“アラレちゃん”は話してくれた。

それは、昔も今も変わらないらしい。


私が朝霞にいた新隊員の頃、

外出してからの帰り、

池袋からの東武東上線で

和光市駅で降りなければいけないのに、うっかり志木まで行ってしまい、

門限に遅れそうになった事があった。


正門に入った時に、

警務隊の男子隊員が待ち構えていて

「遅れるぞ、走れっ!」

と怒鳴り、


必死になって走る私の横を

「もっと、速く走れっ!」

と、声をかけながら、

当時、朝霞駐屯地の一番奥にあった婦人自衛官教育隊まで

一緒に自転車で伴走してくれた事を思い出す。



夜の駐屯地は、ある意味、

野獣の巣でもあるのだ。


つい2、3日前の今津の事件の真相は不明だが

どういう経緯で、そうなったのか…。



私の新隊員時代の教育隊長は、
市ヶ谷での同期会で30年ぶりに再会した際

私たち元隊員に

「215人の嫁入り前の娘たちを預かる身としては責任重大だった…どうしたらいいのかと、悩んだ」

と語り、


配属後の伊丹駐屯地で世話になったWAC管理隊長は、

「お前たちの安全を守るのが私の仕事だ、母親のつもりでいるから何でも相談してほしい」

と、

その言葉どおり、いつも隊員の“よろず相談”にのってくれるほど、

話しやすい人だった。


今回の今津の場合も、

未然に防ぐ方法は、あったはずだ。

残念でならない…。


そんなことを思いながら、広報担当のWACと別れた。


帰り際、

ショップに立ち寄ると

総理のイラストが入ったコーヒー?は、
賞味期限切れが近いのか、10%オフの値札がついていた。💦

残り一個だったが、

急いで次に行かなくてはならず、買いそびれてしまった。


次は、もっと時間的余裕をもって来たい。






















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ヒロシマの子ども

2017-08-06 09:03:42 | Diary


20年近く前に亡くなった広島にいる妹の舅は

私が行くたびに

市電に乗っていて被爆した瞬間の事を
繰り返し話してくれた。

実母がヨウコさんと呼んで親しくしていた近所の女性は、
被爆が原因とされる再生不良性貧血で苦しみ続けた。


私が子どもだった頃、

実母は、16歳6ヶ月の時に観たキノコ雲の記憶を何度も何度も話してくれた。

その実母も、5年前に他界して

もう、私の周りには
被爆当時の事を話してくれる人はいない。


それでも

私の脳裏には舅や、ヨウコさんの白い顔と
実母が話した「被爆の瞬間」はイメージとなって残り

原爆資料館で観た生々しい資料と重なって

それを実際に観てきたかのような…

それ以上に、怖ろしい疑似体験として

私の脳裏に刻まれている。

“核の恐ろしさ”が、いつの間にかインプットされている。


今、「日本も核を持つべきだ…」

と、唱える人間たちには

原爆投下日の実体験を語る人間が、
近くにいなかったのだろうと思う…。



今朝は、72年目の記念式典の映像を見ながら

「未来の子どもに戦争の体験をさせてはいけない」

…というメッセージに甚く共感。



72年前、被爆した広島の少女の願いが

全世界に届きますように…。



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