天使の図書館ブログ

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神と魂と天国。

2011-10-19 | 

 わたしは、世の光です。
 わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、命の光を持つのです。

(ヨハネの福音書、第8章12節より)

 わたしが視覚障害者の方に興味を持ったのって、まず間違いなくキリスト教のことがあります。

 といっても、信仰を押しつけようといったようなことではなく……聖書の点字訳というのは存在すると思うんですけど、もう少し簡単な優しい言葉でイエスさまのことを知ってもらうにはどうしたらいいのだろう、と思ったというか。

 もし仮に「目が見えない」といった障害がある場合――「健全な信仰心」というのは、かなりのところ生きる助け、人生を照らす光になりうると思います。

 そしてヘレン・ケラーやサリバン先生は当然、キリスト教が国教である国に住んでいるので、そのあたりのことは「教育」の中で切っても切り離せないわけですよね。

 以下は、<神>や<魂>、<天国>といったことについて、ヘレンがサリバン先生に発した質問、またサリバン先生が出来る限り誠実な答えを「小さな生徒」に返そうとした回答を抜粋したものです。


 >>「私は、私によくわからないことについて書きたいと思います。地球や、海や、その他のすべてのものは誰が作ったのですか?誰が太陽を熱くしたのですか?お母さんのところに来る前には、私はどこにいたのでしょう?私は土に播かれた種から植物が生まれることは知っていますが、人間はそんなふうには生まれないことは確かです。私は子供のなる木を見たことがありません。小鳥やひよこは卵から生まれます。それはみたことがあります。卵は卵の前には何だったのでしょう?地球はとても大きくて重いのにどうして落ちないのでしょうか?父なる自然のすることを教えてください。聖書という本を読んでもいいですか?先生に時間があったら、小さな生徒のために多くのことを話してください」

(中略)

 心の中にゆっくり育ってきた観念をまとめられるようになると、彼女はこれらの観念は彼女のすべての思考力を吸収し、彼女はすべてを説明してほしいとしきりに願った。

 彼女が質問を書いたすぐあとで、私たちが大きな地球儀のそばを通りすぎようとしたとき、彼女はその前に立ちどまり、

「<本当>の世界は誰が作ったの?」

 と尋ねた。

 そこで私は、

「地球や太陽や私たちが星と呼んでいるすべてのものがどこからやってきたのか、誰もわかりません。でも、多くの賢人たちがその起源をさぐり、自然の神秘的な力の説明をしようと試みてきたのです」

 と答えた。

 ギリシャ人は、太陽や稲妻やその他多くの自然の力は独立した超人的な力であると考え、いろいろな力をもつ多くの神がいると考えていた、ということを彼女は知っていた。

 しかし、多くの思索と研究の結果、これらのすべての力は一つの力の現われであり、その力に人間は<神>という名を与えたということを、私は彼女に話した。

 彼女は一生懸命考えながら数分間黙っていた、それから、

「誰が神を作ったの?」

 と尋ねた。

 私は彼女の質問をはぐらかさないわけにはいかなかった。

 なぜなら、私には自立的な存在者の神秘を説明することなどできなかったからである。

 事実、彼女の熱心な質問の多くは、私より賢い人をも悩ませたことであろう。

 ここにそのいくつかがある。

「神は何から新しい世界を作ったのですか?」

「彼は土や水や種子や最初の動物たちをどこで手に入れたのですか?」

「神はどこにいるのですか?」

「先生は神を見たことがあるのですか?」

 私は彼女に、神はどこにでもいるのだから、彼を一個人として考えるのではなく万物の生命、心、魂などとして考えなくてはいけない、と教えた。

 彼女は私をさえぎって、

「すべてのものが命をもっているとは限りません、石には命がありませんし、考えることもできません」

 と言った。

 世界でもっとも賢明な人にもわからないことが無数にあるのだということを、彼女に思い起こさせる必要がしばしばあった。

(中略)

 ある日、彼女は悲しそうに、

「私は目が見えないし、口がきけません。だから神さまが見えないのです」

 と言った。

 私は彼女に<目に見>えないという単語を教え、神は霊魂であるから目では見ることができない、しかし、私たちの心が善と優しさでいっぱいになったときには、彼に似てくるので彼を見ることができる、と話してやった。

 またあるとき、彼女は、

「霊とはなんですか?」

 と尋ねた。

「霊がどのようなものか誰も知りません、けれども私たちはそれは肉体ではなく、私たちのなかの、考え、愛し、希望を持つ部分であり、クリスチャンが信じるように肉体が死んだ後にも生きるものだということを知っています」

 と私は答えた。

(中略)

 大分前に、彼女は私に、

「1600年も生きたいわ」

 と言った。

 天国と呼ばれる美しい国で<いつまでも>生きたいとは思わないかと聞かれた時の彼女の最初の質問は、

「天国はどこにあるのですか?」

 だった。

 私は私も知らないと白状せざるを得なかったが、それは星のひとつにあるかも知れないと暗示しておいた。

 すぐあとで、彼女は、

「先生がどうぞ最初に行ってらっしゃって、私に話してくださいませんか」

 と言い、さらに付け加えた。

「タスカンビアは小さな美しい町です」
(※タスカンビアはヘレンの出身地)

 これは一年以上も前の話であったが、彼女が再びこの質問に戻ってきた時には、彼女の質問は数多く、より執拗になっていた。

 彼女は、

「天国はどこにあって何に似ているのですか?なぜ私たちは外国を知るように天国を知ることはできないのですか?」

 と尋ねた。

 私は、非常にやさしい言葉で、天国と呼ばれる場所はいっぱいあるが、本質的にはそれは一つの状態――心の願望の充足、欲望の満足――であり、天国は<正義>が認識され、信仰され、愛されるところにはどこにでも存在する、ということを話してやった。

(中略)

 ヘレンを困らせ、悩ませた問題のうちでも、悪の存在とそれから起こる苦悩の知識ほど彼女を困らせたものはない。

 長い間、彼女にこのことを言わないでおくことができた。

 そして彼女が悪徳や不正と接触することを防ぐのは、比較的容易なことであった。

 悪が存在し、それから大きな悲惨が生まれるという事実を、彼女は周囲に起こるそのような経験や、人生をよりはっきり理解するにつれて、少しずつわかりはじめた。

 法律と罰の必要性が彼女に説明されなければならなかった。

 彼女の心の中にすでに存在する神の概念と、現実の世界に存在する悪とを調和させることの難しさを、彼女は知った。

 ある日彼女は、

「神さまはいつも私たちのことを心配しているのですか?」

 と尋ねた。

 彼女は肯定的な答えを得た。

「それならなぜ、彼は今朝妹が落ちて頭をあんなにひどくぶつけて怪我をするようにしたのですか?」

 また別のとき、彼女は神の力と善について質問した。

 彼女は前に、何人かが生命を奪われた恐ろしい海の嵐についての話を聞いていて、

「神さまは何でもできるなら、何故あの人たちを助けなかったのですか?」

 と尋ねた。

 愛情深い友人とおだやかな人たちに囲まれて、ヘレンはごく初期の知的開花のときからずっと変わらず、常に喜んで正義を行なった。

 彼女は的確な本能で何が正義であるかを知り、楽しそうにそれを行なった。

 彼女はたった一つの悪い行為も無害だとは考えなかったし、重要なことでないとも、故意ではないとも考えなかった。

 彼女の純粋な魂には、すべての悪は等しく醜いものだった。

(「ヘレン・ケラーはどう教育されたか~サリバン先生の記録~」、槇恭子さん訳/明治図書刊)


 思った以上に抜粋した文章が長くなってしまったので、この続きはまた次回、ということにしますね♪(^^)

 それではまた~!!





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