天使の図書館ブログ

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<生きる>錬金術。

2011-10-21 | 日記
 ※使用させていただいているイラストは、幻想素材サイトFirst Moon様のものです。利用規約を守らず転載or再配布したりされないよう、よろしくお願い致します。


 神はある祈りにはさっと勢いよく応えられる。
 そして乞い願ったものを目の前に突きだされる、
 贈り物を握った鋼鉄の手袋の手を。

(エリザベス・バレット・ブラウニング)


 わたしの大好きな漫画に、「鋼の錬金術師」っていう漫画があるんですけど、その漫画を読んでいてふと思いだしたのが、ブラウニングのこの言葉。

 まあ、今回の記事の内容とはあまり関係ないんですけど(^^;)、前回心の純金率(?)のことを書いていて、少し色々思うことがあったので。。。

 以前、ガンでいずれ亡くなる……という方のエッセイを読んでいて、心に残る一節がありました。

 確か、営業マンか何かをされてる方で、五十代後半くらいでガンが発覚。

 自分の人生を振り返ってみると、ひとつの仕事を持って「働く」ということは、自分の心の綺麗な部分を(そうとわかっていながら)汚い部分と交換し続けることだったと思う、とそのエッセイの中で書かれていました。

 でも結婚して家庭を持ってしまったら、そうするのが男の務めと思い、なんとか自分を誤魔化しながら働き続けた、ということだったんですね。

 ええと、大体この世代の方といわゆる「引きこもりっ子」ってぶつかってることが多い気がする、というか(^^;)

 父親の言い分としては、「働くってのは、そういうもんだ。世の中甘くない」、でも子供の言い分としては――「心の綺麗な部分を汚いものと交換して、最後はガンで死ぬような人生を送って何になるのか?」っていう、疑問があるというか。。。

 極論として、大体このあたりでぶつかって、何度互いに話しあっても平行線、最後には出刃包丁か金属バットが出現するって、笑いごとじゃなく、現実に本当にありうることだと思います(^^;)

 息子(or娘)の言ってることって、理屈としては本当に正しいので、親としては一瞬黙らざるをえない。

 でもそういう「正しい理屈」がまかり通らないのが世の中だと、親たちは言っているということ。

 赤ん坊の時には、純金100%だったのに、その後成人した頃には自分の子が鉛の塊のように本来望んだのとは別の形でずっしり重くなっていた……って、ありえますよね(^^;) 

 そして自分の子供がもし、「自分の心の純金の部分を守りたいから働きたくないし、汚れた外の世界へ出ていきたくない」と言ったとしたら、果たしてどうしたらいいのか――これは本当に、なかなか難しい問題だと思います。

 まあ、言っても意味のない答えを先に書くとしたら、「自分の子が鉛ではなく、純金だから重いのだ」と親が気づくことが一番大切なんだろうとわたしは思ってるんですけど……大抵の人にはこう言っても「は?あんた、何言ってんの??」としか思われないだろうともわたしは思ってます(苦笑)

 それに、一口に「引きこもり」と言ってもケースバイケースなので、「その子は確かに鉛だから、家から追いだして心が純金に戻るのを待ったほうがよい」っていうこともありえるんですよね。

 そして、この「心の錬金術」みたいのって、割合誰の心にでも当てはまるものなんじゃないかな~という気がしたり。

 たとえば、三十代~五十代で鬱病などになった場合、仕事してる間はとにかく、心の純金の部分を一時的に鉛に取りかえて働いてるっていうこと、多分とても多いんじゃないかなって思います。

 でもその部分って、一時的に鉛的なものに変えたとしても、あとで家に帰ったり、友達と会ったり、趣味に打ちこんでる時なんかには、元の純金に戻ることが出来る……そういう循環というかサイクルを大抵の人が持ってるんだと思うんですよね。

 ところが、その鉛の心が、何をどうやっても純金に戻らない、前はどうやってそれを純金に戻していたのかまったく思いだせない――それが鬱病という病気の症状として表れるって、結構あるんじゃないかな、なんて。

 もう少しわかりやすく言えば、軍隊生活などもそうなんじゃないかなって思います。

 たとえば、2~3年兵役につくことになったとして、その2年とか3年の間、もし仮に心が鉛一色だったとしても――それさえ終了して元の生活に戻ることさえ出来れば、自分はまた純金の心を取り戻せる、と思っていたとしますよね。

 でもその2、3年の兵役が、その人にとってあまりに過酷なものだったとしたら、元の純金になんて心を戻すことは出来ないし、鉛と金が混ざりあった、ぐちゃぐちゃのなんとも言えない心理状態のまま何年も過ごすって、ありうると思います。

 まあ、学校へ行きたくないのに無理して行ってる子供たちの心っていうのも、この軍隊生活にかなり似ているだろうとわたしは思うんですよね(^^;) 

 そしてそういう子が大人になって引きこもったら、「お母さんはわたしが一番苦しかった時に助けてくれなかった」とか、過去に遡って色々な問題が出てきたりもして……今の世の中、本当に<普通>が一番難しいって、そんなふうに感じる今日このごろです。。。

 そして、いつも心が限りなく純金100%に近い形でいられる秘訣、というのがこの世界には確かに存在します。

 聖書に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたに望んでおられることです」っていう言葉があるんですけど――もしこう言ったら大抵の人は、「いつも喜んでいろだって?気でも狂っているのか」と思うだろうと思います(笑)

 でも、ふたつほど前の記事でヘレン・ケラーが発している問いに対して、はっきりした答えを返している方が、確かにいらっしゃいます。

 
 >>「私が神だとしたら、あんなふうにはしないだろう。私ならペルーに地震を起こしたり、あの小さな女の子を白血病で死なせたり、あの牧師が講壇から間違ったことを大声で語って、だまされやすい聴衆を迷わせたりすることを決して許さないだろう。……また、ヘロインの売人が子供たちを誘惑するのを私なら決して許さないだろう」
 私たちはみなこのように心の中で、繰り返し思いめぐらし、果てしない疑問を抱きます。これらの疑問に悩まされている間は、私たちに平安はなく、状況は変わらないままなのです。 


「このジレンマから抜け出す唯一の道は、信仰によって神の御言葉を受け容れることです」――と、マーリン・キャロザース牧師は、世界で何百万部も売れた著書、「讃美の力」の中で書かれています。

 こうした疑問について「答え」を知りたい方は、マーリンさんのこの本をお読みになってください(笑)

 アマゾンさんのレビューなども一応参考になるかなって思います。

 そして簡単に言うとしたら、わたしも神を信じているのは「理屈」ではない、というか。

 ある経験を通して、解放の力を感じたから、とでも言ったらいいか……とにかく、神について何か屁理屈を並べている間というのは、あまりその方のことを神は顧みられない傾向がある、というのは確かなようです(^^;)

 それよりも、「子供たちをわたしのところに来させなさい。神の国はこのような者たちのものです」とイエスさま御自身が言われたように――神さまの御言葉が語られた時に、素直にそれを子供のように信じる、受け容れる人にこそ、神は近くあられる、というか。

 それでは次回は、このマーリンさんの著書より、「信じ、喜び、感謝すること」の実践例について、抜書きさせていただきたいと思いますm(_ _)m

 ではまた~!!




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