天使の図書館ブログ

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動物たちの王国【第二部】-37-

2014-04-14 | 創作ノート
【生命の樹】グスタフ・クリムト


 花原先生、著名な動物行動学者なはずなんですけど、もし書いてることに間違いなどがあったらすみません

 オオカミ関係の本とか、以前読んだものの情報が元になってるので、もしかしたらわたしの記憶違いっていうことがあるかもって思います(^^;)

 いえ、そこらへんのことの書かれた本とかもう一度読んで確かめようと思ったんですけど、あっという間(?)に時が過ぎ、雁夜先生と花原さんの回になってしまったという

 あと何回かで終わる予定なんですけど、最初に思ってたとおり、最後らへんになるとやっぱり、特に書くことなくなってきますねえww

 そんなわけでどうしようかと思ったんですけど、あとがき☆にでも書こうかな~と思っていたことを、先に書いてしまおうかなと思います(^^;)

 北海道に摩周湖っていう湖があって、すごく綺麗なところなんですけど――まずはちょっとウィキさんより、摩周湖にまつわるアイヌのお話をコピペしたいと思いますm(_ _)m


  >>宗谷のコタン(アイヌの集落)同士がイヨマンテ(熊祭)の夜に争い、一方のコタンは敗れほとんどが殺されてしまう。敗れたコタンの老婆とその孫は命からがら逃げるが、逃げる道中で孫がはぐれてしまう。老婆は孫を探しながらさまようが見つからず、カムイトー(摩周湖)付近までたどり着く。老婆はカムイヌプリ(摩周岳)に一夜の休息を請い、許される。が、悲嘆にくれ疲労困憊した老婆はそこから動けず来る日も来る日もそこで孫を待ち続け、とうとうカムイシュ島になってしまった。いまでも、摩周湖に誰かが近付くと老婆は孫が現れたかと喜び、うれし涙を流す。この涙が雨であり霧であり吹雪なのである。


 実を言うと、わたしがこのお話を知ったのって、アニメの「日本昔ばなし」ででした(←?)

 その先週の予告で、来週は摩周湖にまつわるお話が放映されると知り、子供ながらも翌週の放映がすごく楽しみだったのを覚えています。

 小学生くらいの頃の話なんですけど、実をいうとその時には「そんなに面白い話じゃなかったなあ☆」とすごくがっかりしました。

 孫とはぐれてしまったおばあさんのことは可哀想と思ったけれど、それが摩周湖の中にある中島だと言われても……心の中でうまく繋がらなかったと言いますか(^^;)

 でも子供の頃に見たり聞いたりしたお話って、その時は「オチがイマイチだったな☆」と思ったとしても、随分あとまで覚えてるっていうことがたまにあったりしますよね。

 そんでもってわたしも、この摩周湖のお話が結構「わかる」というか「心に響く」というか、そんなふうに思えるようになったのは、かなり大人になってからでした。

 摩周湖って、透明度が世界で第二位といわれるだけあって、すごく綺麗な湖です。

 そして行くたびごとに結構湖の「表情」が違うので、一度だけじゃなく何度も足を運びたくなるという、少し不思議な場所だったりします。

 摩周湖の、摩周ブルーと呼ばれる綺麗な湖面を見ていると、「確かに人はあんまり悲しいと、島にでもなるしかないなあ」と感じたというか。

 これは理屈ではないんですよね。あんなに綺麗な青い湖を見ていると、そこで動けなくなって島になってしまったおばあさんの気持ちというのは、本当に随分大人になってから初めて、しみじみと感じられたことでした。

 わたしの場合はこれ、エリナー・ファージョンの影響もあると思うんですけど、ファージョンのお話って、素晴らしく優れているのと同時に「ここがわかるかどうかは、ちょっと微妙に難しい」という点を含んでいて、その微妙さがわかる歳になってから、摩周湖のお話についてもようやく理解できたような気がします。

 動物~のお話との絡みでいうと、本当にあのくらい悲しいと、自分の心の中だけじゃなく、外に見える形でそれがないというのが、少し不思議に思えるかもしれないと思うんですよね。

 そしてそういう時に、摩周湖のような綺麗な場所へいって、「わたしも島になってしまいたい」と思えたとすれば、視覚的に自分の悲しみが外の世界にも見えたことで――これも理屈ではなく、人ってそういうところでしか癒されない部分があるんじゃないかな……と思ったりしたというか(^^;)

 つまり、悲しみはこの上なく美しい青さに囲まれた島に一度置いておいて、それとは別に現実を生きよう、生きなくてはいけない……でも、君のことを忘れたわけじゃないよ。その証拠にまたここへやって来て、わたしも島になるからね……という、そんな感じのことですよね。

 なんにしても、この摩周湖から(車で)そんなに離れてない場所に屈斜路湖というところがあって、カルテット(詩神の呼ぶ声)の南沢湖という場所は、実はここがモデルになってます(笑)

 わたしが初めて屈斜路湖に行ったのは確か、小学三年生くらいだったと思うんですけど……その時に観光の冊子か何かにこう書いてあったんですよね。

 屈斜路湖にいるクッシーは、ネス湖のネッシーと兄弟だとかいう文章で、小学生ながらにもこう思ったもんでした。「おいおい、イギリスのネス湖と屈斜路湖、一体何万キロ離れてると思ってる☆」みたいに(夢のない子・笑)

 そんなわけで、南沢湖のミッシーは、彼らの妹なんだと思います(^^;)

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第二部】-37-

「その、先ほど鳥獣舎から外れた森の道を歩いていた時、森の中ほどにはモモンガの巣があるとおっしゃっていましたが……彼らは逃げたりしないんですか?いえ、自然の状態で飼育しているのはわかりますが、この山の手の森からモモンガたちが下っていって、他の人間たちと接触した場合、苦情が来たりすることはないのかなと思って」

「あら、先生。ご心配には及びませんわ。モモンガたちは臆病ですからね。この森にエサがあると思える限りは、そう広く活動範囲を広げたりはしませんのよ。ただ個体数については多少コントロールが必要かもしれません。ひとつの巣穴にあんまりモモンガが多くなりますと、当然よそにいかなくちゃなりませんでしょう?そしてそうこうしてるうちに、他の人間の生息圏内に入っていってしまうと思いますの。けどまあ、そうした管理は大学の研究生たちや源さんたちが行ってますからね」

「そうですか」

 ここで潤一郎は、俄か雨が降りやむまで、ただ黙って待つということにした。きのうの夜、廊下ですれ違いざまに「蛇の生殺し」という言葉を囁かれ、潤一郎は源五郎という男に対し、不愉快な感情を抱いていたのである。

 だが、梓のほうでは潤一郎のそうした沈黙をまったく別のものとして解釈していた。彼女は自分の敬愛する医師が、自然の森や動物といったものにすっかり心癒されていると誤解していたのである(無論、そういう部分もあるにはあったが)。そこで「やっぱり先生は自分の思ったとおりの方」とばかり、梓は自分の一方的な今後のプランを伝えた。

「先生、今日はこれから、お屋敷にいって一緒にお昼寝しましょう。それで、夜になったらモモンガの巣を見張るんです。何故って彼らは夜行性ですからね。随分忍耐強く待たなくちゃいけませんけど、でも先生もモモンガたちが空を飛ぶところ、見てみたいでしょう?」

(べつに、見たくない)――潤一郎は、それこそモモンガのように愛らしい瞳で梓に見つめられては、断ることが出来なかった。そこで当初は一泊で終わるはずの花原邸への宿泊が、二泊、そして最終的には月曜日に梓と一緒に出勤することで終わったわけである。

 もちろんこの間、潤一郎と梓の間には、特にこれといって男女間における恋愛の進展のようなものは見られなかった。だが、梓が自分に「一緒にお昼寝」と言った言葉の意味が、本当に文字通りそのとおりのものであり、彼女が寝室で一緒に寝ようとしたことには驚いた。そしてようやく悟ったのである。梓の父親が「娘のことは好きにしてくれて……」といった言葉の意味や、源五郎という山賊男の「蛇の生殺し」といった言葉の意味が。

 潤一郎はその時、梓が寝息を立てはじめたのと同時に、そっと部屋を抜けだして別のソファで眠ることにした。目が覚めた瞬間、ソファの背もたれにスローロリスがいて、こちらを興味深そうに眺めていたが、潤一郎と目があうなり、どこかへ消えてしまった。また、バブルスくんでない別の猿がいつの間にか潤一郎の懐で眠っていたが、ここで暮らすということは、<これが普通>という環境に自らを慣れさせなければいけないということなのだろう。

 梓が休日の時には、彼女が食事を作ることになっているらしく、広い食堂には園田いうところの<山賊男>がパートワンからパートテンどころか、パートトゥエルブ以上並んでいたが、潤一郎は前日と同じ上座に腰掛けながら、(いいや、僕は金輪際こんなことには騙されんぞ)といったようにこの頃には決心していたかもしれない。

 確かに花原梓は美しい。それに料理の腕も相当なものだ(なくなる前にどうにか彼女の「お袋の味」にありつこうと、研究員たちが必死な様子を見てもわかる)。だが、やはり花原は頭がおかしいというより――人間として、何か決定的な欠点があるように潤一郎には思えてならなかった。

「雁夜先生、按配のほうはどうですかな?」

 爬虫類男にそう聞かれた時、潤一郎には彼が言いたいことの意味が当然わかっていた。

「今夜は、お嬢さんと一緒にモモンガの巣を見に行く予定です」

「フォッフォッフォッ、それは結構けっこう」

 潤一郎はカメレオンの横顔を憎々しげに見返しながら、里芋の煮っころがしやきんぴらごぼうといった食事に箸を進めていったが、こうした梓の料理の上手さといったものはそれほど潤一郎の関心を引かなかった。何故といって彼はアメリカ暮らしが長かったゆえに、味の好みとしては完全に洋食系のものを好んでいたからである。

 なんにせよ、この日の夜――潤一郎はそれでも、あとから振り返った時にはこの七月の夜こそ自分の人生の転換点だったのかもしれないと思い返すことになる。

 これまで潤一郎は世界中色々と旅もして来たし、アフリカのサファリリゾートで過ごしたこともあれば、アメリカのグランドキャ二オンなど、雄大な景色も随分見てきた。けれどこの日の真夜中、星明かりの中でモモンガが飛ぶ姿を見た時ほど、魂が高揚したことはない。

(モモンガが空を飛んだ程度のことで、そんな馬鹿な)と潤一郎も思ったが、もはや彼の心を支配するそうした理屈はどうでも良かった。草原の中で自分の耳の位置で虫の鳴く声を聴きながら、しつこく待ち伏せしているうちに、モモンガが飛ぶところをようやく写真に収めることが出来た時には心底嬉しかった。

「これで来週の月曜、水原さんがきっと喜ぶわ」

 梓が「うふっ」と言って笑う姿を、潤一郎は可愛いとは思ったが――それでも昼間、彼女がその腕や首にシマヘビを巻きつけていたことを思いだし、何かおかしな気を起こすということは一切なかった。ただ、眠い目をこすり、小動物があっちの枝からこっちの枝へと行き来し、また巣穴から顔をだすのを観察しては、<これ>をもう一度経験してみたいとは思った。
 
 つまり、潤一郎の中で梓のことは「それはそれとして」一旦脇へどけておくにしても、彼にとってオペ室の連中がいうところの<花原ワールド>は確かに魅力があったのである。潤一郎は最初、花原梓に対してではなく、彼女の屋敷内に住む動物に興味を持った。あとにしてみればおそらく、それが一番良かったのかもしれない。また、潤一郎は梓本人よりも先に、彼女の父親である静一郎と話すことのほうが面白いと感じた――このこともまた、あとになってみれば良いことだったに違いない。

 潤一郎はこれまで随分長く、理性と理屈が優勢を極める世界で暮らしてきた。けれど一度そこに「理由はよくわからないけれども面白い」と思える本能と動物性の世界が入りこんできたのである。潤一郎は何よりもその<感覚>を面白いと感じたし、「自分は何故鳥や他の動物のように飛べないのか」と、次第に半ば本気で考えはじめるようになっていた。

 モモンガやムササビは飛べるのに、何故自分は飛べないのか……前に一度、潤一郎はオペ室にある休憩室で、「モモンガってバサァって飛ぶんですよ、バサァって」と、梓が実演しているのを見たことがあるが――今では彼にも彼女の気持ちがわかった。また花原梓が他の人間たちが言うほど気違いでもなければ、頭がおかしいということもないと、次第に理解していった。

 そうなのである。潤一郎は自分もまた次第に<花原ワールド>流に物を考えることに慣れていった。鳥に人間の考えるような意識がないだと?潤一郎はもうそんな当初の節はどこかへ投げやっていた。何故といって、ハヤブサを腕に止めるという訓練をしている最中、「彼」はタオルを巻きつけた梓の腕には止まるのに、潤一郎の元へはまったくやって来ようとしなかった。もちろん、馴れていないというせいもあるが、ハヤブサの考太郎はその後何十度となく潤一郎が馴らそうとしても馴れなかった。それどころか、彼は潤一郎に敵意すら見せていたかもしれない。時折、空中から舞い降りてきては彼に怪我をさせようとしたこともあったし、一度など頭の毛をわずかばかり捕まえて、そのまま飛んでいこうとしたことすらある……つまり「おまえの言うなりになどなって堪るか」と、こちらをからかい、挑発していたのであった。

 こうしてだんだん潤一郎は、人間という自分よりも遥かに下等に思われる鳥類たちに心惹かれるようになっていった。その最初の小さなきっかけは、花原邸のリビング、熱帯のジャングルのような葉物の植物の鉢が多い部屋にある、鳥籠のひとつのせいである。セキセイインコがしきりに「オハヨウ」、「オカエリ」、「コンニチワ」……などと話すのを聞いても、潤一郎はそれほど心を動かされなかった。

 だがその隣の鳥籠に、十姉妹が何羽も体を寄せ合っているのを見ると、何故だか心が和んだ。藁を精巧に編んで作ったような小さな巣の中に、彼らは体を寄せ合って眠っている。白いのや茶色い羽が多いのや、その両方が混ざったのや……潤一郎は梓がしきりと覚えさせたがるシマ次郎だのシマ五郎だのいう蛇の名前はさっぱり覚えられなかったが(そしてそのたびに彼女は、「先生ほど頭のいい人がどうして」と失望の溜息を着いた)、全部で八羽いる十姉妹の名前はすぐ覚えたのである。

 というより、細い足首にピンクや緑といった識別のための輪がついているため、それで赤いのはシルキーだの、青いのはピッコロだのと、名前を順に覚えていったのである。潤一郎はある時、シルキーが巣の中で卵を抱いているのを見て、いつそれが孵るかとわくわくしていた。ところが次の週の土曜の朝、卵が巣穴から落とされているのを見てがっかりしたのである。

「静一郎先生、なんでなんでしょう。あんなに熱心に抱いてたのに、その内のひとつをわざと落とすなんて……」

「べつに、不思議なこともないじゃろ。生んだ卵のうち全部が必ず孵るとは限らんのでな。これは駄目だと思って、落としたんじゃろうよ」

 ところがまたその翌週、先週の卵とは違って、今度は落とされた卵の黄色いのに、血が混ざっているのを潤一郎は発見した。

「先生、今度のはそのままあっためてれば、おそらく孵ったと思われる卵ですよ。ちゃんと命の兆候のあるものを、今度はなんで……」

「あんたもすぐ、なんでなんでとわしに聞きたがるもんじゃな、雁夜先生。そりゃずっとあっためとるのに卵がウンともスンともいわんかったら、こりゃ駄目だと思うじゃろう。ところが先週のとは違って今度のは確かに生命の兆候があった。いいかね、先生。わしらは<その両方>を確かめることは出来んのじゃよ。鳥にはそこらへんのことが「本能」でわかるにせよ……それだって絶対ではない。たまには間違ったり、「あら、なんてこと」っていうことがあるもんじゃ」

「そんなもんですか」

「そんなもんじゃよ」

 潤一郎は静一郎のこの回答に満足しなかった。逆に、動物行動学者の割に、彼がこちらが納得できるようなことを言わないので、がっかりしてさえいた。

 なんにしても、この時シルキーが温めていた卵のうち、ひとつが孵って――それはジュンジローと名づけられることになった。他の大学の研究生たちが見向きもしない十姉妹に、潤一郎が夢中になっているのを見て、源五郎がそう名づけたのである。

 ところがこのジュンジローがやがて成鳥になってみると、十姉妹の籠の中で何故かピッコロがいじめられるようになった。巣の中に入ろうとすると、体をつっつかれたり羽をむしられるため、ピッコロは短い期間で見るも無残な姿になっていった。みんなに受け容れてもらえないストレスのせいもあるのだろうか、下のピンク色の皮膚が見えるくらい、羽が少なくなっている。

「静一郎先生、このままじゃあんまりピッコロが可哀想すぎますよ」

「そうだのう。源さんや、そろそろ籠をふたつに分けてみようかの。そうすれば、すぐにピッコロは元気になってまたみんな仲良くするようになるじゃろ」

 この時潤一郎は、源五郎を手伝ってもうひとつの鳥の籠作りをした。籠作りといってもそう大したことはない。既製品の針金で出来た鳥籠の中に、もうひとつのと同じように巣や止まり木、それにエサ箱などを設置したという、それだけではある。

 何故なのだろう――巣をふたつに分けてみると、十姉妹たちは何事もなかったように、以前と同じように暮らしはじめた。ピッコロもすぐにまた毛がふさふさに戻り、いじめられたことを特に根に持つ様子もなく、巣の中でみんなと丸くなっている。

「先生……」

「またわしになんでと聞く気じゃな、雁夜先生。まあ、人口密度……この場合は鳥口密度というんかのう」と言って、静一郎は笑った。「なんにしても、巣の中が狭苦しくなったストレスが原因じゃろ。これは割合どの動物にも起こりやすいことじゃて。巣穴に個体が増えすぎると、誰かをそこから追い出すしかないということじゃ。けどまあ、今は前より巣が広くなって十姉妹たちは「ああ、良かった」とでも思っとるんじゃないかの。ようするに、そういうことだて」

 潤一郎はここでもまた、色々と考えずにはおれなかった。何分これは人間にも当てはまりそうなことだからである。そこで先日テレビで報道されていた学校内の「いじめ」のことを静一郎に振ることにした。

「まあ、わしに言わせりゃ、人間社会で起きるいじめなんぞ、動物世界の生存競争に比べたら、そう大したことではないわな。たとえばうちで飼っとるオオカミじゃが」

 ここで静一郎は、潤一郎が庭から摘んできたはこべを、ピッコロに与えて言った。

「オオカミの社会っていうのは、人間の社会とよく似とるんじゃよ。まずアルファと呼ばれるボスがいて、それから二番、三番と、オスには格付けがある。二番以降のオスは自分より上のオスには絶対服従せねばならんし、相手にそのことを示すために、自分の一番無防備な喉やら腹をさらして相手に匂いをかがせるわけじゃ。んで、一番ビリなオスはオメガと呼ばれるんじゃが、こいつはあらゆるオスからやいのやいのやられる、いわゆるおどけ役じゃ。自分から尻尾を足の間に挟んで、服従のポーズを取ったりもする。けどまあ、メスと番えるのはアルファだけじゃから、こういうオオカミ社会が嫌んなったと言うて、一匹群れから離れようとするのもおる。いわゆる一匹オオカミという奴じゃな。まあ、みんなで群れておったほうが何かと便利だし、エサを仕留めるのも楽だわな。ところがこれが一匹オオカミってことになると、何かと大変だて。けど、オオカミの社会で群れるのが嫌になるっちゅう気持ちは、雁夜先生にもなんとなくわかる気はするじゃろ?」

「ええ、まあ」と、潤一郎はジュンジローに小さな白い花のついたはこべを与えた。背中の真ん中あたりが茶色いジュンジローは、その白い花をぱくっと食べていく。「僕もたぶん、どちらかといえばその一匹オオカミタイプです。普段はそれなりに自分を群れに馴らしているとは思いますが」

「わしはな、人間の社会も実は動物のそれと大して違わんのじゃないかと思うとる。やれ、万物の霊長だの言われとる割に、よく考えてひとつひとつの人間の行動を見ておると、動物のそれとさして違いはない。大抵は人間の心の奥底にある欲望いうもんが原因ぞ。それでいつも何かとトラブルが起きとるわけじゃ。さっき、雁夜先生はいじめがどうとか言うとったな。誰かを自分たちのグループ内から省きたいと思うのはな、ようするに人間の動物性の表れじゃ。他の動物と人間とで何が違ういうたら、人間いうんはやたら無駄に知恵がついとるもんで、それで事態がややこしいように見えるという、単にそれだけじゃ。雁夜先生もピッコロがいじめられておるのを見て、動物の本能いうんは残酷なものだと思ったじゃろ?」

 潤一郎は頷いた。というより、自分の名を冠したジュンジローが生まれたことで、そのような争いが起きた気がして、ピッコロに申し訳ない気持ちでいっぱいだったのである。

「けどまあ、動物の行動の場合は残酷でもしゃあないなーと人間は思う。奴らはいわば本能で動いておるわけじゃから。ところが人間同士で残酷なことが起きると、話は当然別のことになるわな。人間には理性いうもんがあって、それが本能にブレーキをかけとる……と一般には信じられておる。けど、人間は本能のままに生きとるほうが気持ちええもんじゃろ。目障りな人間がいたら省きたい思うのに、自分がそうなるんは嫌だというんは、人間の性みたいなもんじゃよ。この性いうもんは、人間にはなかなか超えられんように出来とる。言ってみれば、神さまからの宿題みたいなもんかもしれんのう」

 このあと、潤一郎はオオカミが六頭ほども飼われている広い囲いの中で、静一郎が「十分な準備ののち」、彼らと戯れる様子を囲いの外から観察した。梓もまた父親と同じように、オオカミの前で喉をさらして匂いをかがせたりしているが、あいつらが突然気を変えてガブリとやったらどうするのだろうと、潤一郎は見ていていつもヒヤリとする。

 だがよく考えると、潤一郎と梓の関係というのも、それとどこかよく似ていた。彼女と彼女の父親とは、広い草原の囲いの中にいて、自分はいつも外にいる――そこには明らかに越えられない境界線があると潤一郎は思っていた。また、自分がその中に勇気を持って出入りすべきなのか、梓のことだけそこから連れだすべきなのかどうか、潤一郎には決断がつきかねた。

 実際、花原邸に毎週末通うようになってから半年後、潤一郎は梓のことをそうした対象としては考えるべきでないのかもしれないと思うようになった。その半年の間、ふたりの間にはそれなりに素晴らしいことがいくつかあった。その中でも潤一郎が特に心に残っているのは、いつもようにモモンガの観察をしたあとで、「先生のことを妖精の門に連れていって差しあげます」と梓が言った時のことかもしれない。

 星や月の明かりがあるとはいえ、何分あたりは人工的な光のない真っ暗闇である。潤一郎は手に懐中電灯を持っていたが、梓に「そんなものいりません」と言われ、途中で捨てさせられた。そしてそれが本当に妖精の出入りする門なのかどうかは別として――そうとしか表現しようのない、自然の作った美しい門を潤一郎は確かに見た。

 天の上から星がいくつも連なり、鬱蒼とした樹木の陰影が縁取る中を、輝くように光が落ちていく中心があった。落ちていくといっても、流れ星がということではない。樹木の陰影によって<門>のように見えるその上に星屑が瞬いて、まるでそこをくぐったら妖精の世界でも広がっているのではないかと思われる、そのような神秘的な光景だった。

 潤一郎は暫くの間その綺麗な景色に見とれ、また次の瞬間、誘うような梓の唇に目を留めたが、彼はやはり彼女に何もしなかった。そして思った。彼女が突然キスしようとしてきたという外科医の頬を引っかいたのは当然であり、それは確かに「破廉恥」な行為以外の何物でもないということを……。

 そのようなわけで、潤一郎と梓の間の関係は平行線を辿った。潤一郎は純粋に<花原ワールド>に通うのが楽しかったし、梓ともそうなのだが、何より彼女の父と話すのが面白かったため、特別「ご褒美」めいたものがなくてもそれで良かったのである。

 ところが、冬の二月くらいのことだったであろうか。潤一郎もまた何かと忙しく、花原邸から足が遠のいていると、第一手術室で脳動脈瘤の手術が終わったのち、梓のほうが不意に「最近、来てくださらないんですのね」と、ぽつりと呟いたのである。

 実に不思議なことなのだが、潤一郎が花原邸に通いはじめて半年ほどの間――梓はそこで起きたことを職場で話題にしたということがない。そのあたりの空気を読んで、潤一郎もあえてオペ室で彼女と親しい素振りを周囲に見せることはなかった。けれど、彼女が「お父さまが寂しがってますわ」と言った瞬間、流石に潤一郎にもこれはわかった。

「お父さまがではなくて、君がだろう?」といったようには、無論口にはしなかったにしても……。

 そして久しぶりに花原邸に潤一郎が訪れてみると、何故か人の対応がまるで違っていた。もちろんそれまでの間も、お偉い脳外科の先生ということで、潤一郎はある一定の尊敬をもって接してもらってはいた。だが、たったの一か月ほど行かなかったというだけで、山賊男や大学の研究生がどう思ったものか、「ああ、良かったよかった」だの「流石にそろそろキツくなったのかと思いましたよ」だの言っては、かわるがわる握手を求めてきたほどだったのである。

「いやあ、先生がもう二度と来ないんじゃないかと言ってお嬢がごはんも喉を通らない様子なんで、みんな心配してたんですよ」

「そうですよ、先生。みんな大変だったんですよ。ここに来る道がでこぼこしてるそのせいだっていうことにして、俺たちえっさほいさ、土木工事まですることになって……」

「源さんも、反省してるみたいですよ。時々、先生が寝てる部屋にカエルとか放してたみたいですからね。もっとも源さんの基準じゃ、そのくらいで逃げだす男にお嬢はやれねえってことなのかもしれないけど」

 ――そうか。朝起きた時にゴキブリと見紛うような昆虫がいたり、カエルが跳んでいたりする現象は、すべてあの男のせいだったのか……潤一郎はそのことを初めて理解したが、元はホームレスで敷地内の野原に寝ていたところを拾われたという源五郎のことが、潤一郎は不思議と嫌いではなかった。それはもしかしたらある夜、「先生。オラに感謝してくださせえよ。お嬢に言い寄ろうとする男は何もあんたが初めてってわけじゃねえだ。けど、基準に満たねえ男のことは、全部オラが追っ払ってきたんですから」と、そう言っていたせいかもしれない。

 こうした話の流れから、潤一郎はとうとう、梓にプロポーズすることになった。そのような圧力を周囲からかけられたというよりも、「この女が自分を好きだというのは本当だろうか」という疑問が解けたというせいかもしれない。何より、この頃には仮に梓が潤一郎のプロポーズを断ってこようとも、彼にはその後も<花原ワールド>に通い続けたいと思う気持ちがあった。また、それゆえのプロポーズでもあったのである。

 ところが夜になってふたりきりになり、潤一郎が「話がある」と言ってストレートに求婚してみると、彼女は「ちょっと考えさせてください」と答えていた。それは屋敷の離れにある温室でのことだったが、梓は特にもったいぶるでもなく、本当に何か困った事態が起きたという様子を見せた。

 潤一郎はこれまで、花原梓のことを面白い脳の構造をしていると思い、常に<観察>の目で見てきたため、余計にわかるのだが――彼女には何か、自分に来てほしいが、それと同時に拒まざるをえないことがあるようだとその時直感した。そのせいで潤一郎は「一体何が問題なのだろう」とその夜は考えてすごすことになった。いつもの習慣として、ベッドの下にも枕の下にも、その他どこにも動物や昆虫が潜んでいないと確認した寝室で、ごろりと横になりながら……次の瞬間、潤一郎は思わず笑った。

 何故といって自分は家系的に、おそらく背の高い女性とは縁がないのだと、その時に思い至ったからである。潤一郎は何も「実録!チビは遺伝する」などと言いたいわけではないのだが、雁夜家に関していえば、代々の男たちは遺伝的に背が低いことが立証されていた。たとえば潤一郎の祖父は名前を伸一郎というのだが、この名前は雁夜家に生まれる男は何故か背が低いと嘆いていた曽祖父が、身長が伸びるようにと、<伸>という文字を名前に入れたものらしい。そして潤一郎の父は名前を伸吾というのだが、父はある瞬間に「男は身長じゃない!!心だ、性格だ、いや魂だ!!」と悟ったらしく、自分の息子には身長に関係なく豊かな人生を生きてほしいと、<潤一郎>と名づけたということだった。

 そして潤一郎はこうした代々のご先祖さまの映った写真を見ていて思ったのだが――自分も含め、何故彼らが代々背が低いのか、さして驚くにはあたらなかった。答えは簡潔にして明瞭だった。彼らは全員伴侶に自分と同じくらいか、あるいは自分よりも背の低い女性しか選んではいなかったからである。

 潤一郎自身に関していえば、男のメンツやプライドといったことはどうでもよかったし、事実アメリカへ渡ってからは、自分よりも背の低い女性とは一度くらいしかつきあったことがない。そして婚約したのちにトムと本名のわかるキャサリンという女性もまた、潤一郎よりも背が高かった。けれどその結婚も駄目になり(どうせ騙すなら、最後まで騙して欲しかったと彼は思った)、先ほどプロポーズした女性も、何故かにわかに断りそうな気配を漂わせはじめている。

 潤一郎はベッドに横になったまま、(どうして自分の人生はいつもこうなのだろうか)と考えた。(かなりいいところまでいくのに、最後には駄目になる……これからもその繰り返しなのだろうか)と。

 潤一郎が梓にプロポーズしたことには、当然それなりに理由があった。一般家庭よりもかなりおかしなところだが、花原邸にも順応できそうだからとか、彼女の父親ともすっかり気が合って話していて面白いというだけでは、動機として弱すぎる。また梓の場合、単に美人だとかスタイルがいいというだけでは、並の男はそれ以上奥には踏みこめなかったろう。それに潤一郎は梓が普通よりも風変わりで面白いからとか、そんな理由で彼女にプロポーズしたのではなかった。

 答えは、梓が鹿せんべいではなく、彼自身のことを欲しがる雌鹿だったから、というのが一番近い回答かもしれない。以前、何かの話をしていた時に、「先生はお医者さんにならなかったら、何になってました?」と聞かれたことがあり、潤一郎は「まあ、脳科学者か何かかな。今とあまり変わりないけど」と答えていた。そして潤一郎が「梓さんは?」と聞いてみると、彼女は「鹿語の翻訳家」と答えていたのである。

「鹿語の翻訳家?」

(この女が何を言っても、僕はもう驚かない)と随分前から思っていた潤一郎ではあったが、それでもやはり彼女が何を言っているのかさっぱりわからなかった。

「前に、お父さまと一緒に、北海道へ行ったことがあるんです。それでお父さまと一緒にずっと鹿たちのことを観察していたら、間違いなく「鹿語」が存在するっていうことがわかって……いくつかパターンがあったりするものですから、わたしも真似が出来れば間違いなく鹿とお話できるって、今もそう思ってますの」

 普通に考えた場合、こういう時は(ふうーん、鹿と。ああそう)で終わってしまうものかもしれない。だが潤一郎はやはり彼女のこの回答が脳のどこから導きだされてくるのかに、強い興味を持っていた。そしてさらにこうも思った。花原梓がもし本当に異性として自分を好きだというのなら、これまで潤一郎がつきあってきた他のどの女性とも彼女は違っているのではないかと……つまり、潤一郎がこれまで交際してきた女性のうち多くは、潤一郎自身よりも年に軽く五十万ドル稼ぐ彼の富や地位、あるいは医者としての名誉や技術、何かそうした彼が手にしている鹿せんべいにおびきよせられているところがあったのだが、梓の場合はどうも何かが違っていると、潤一郎はそう思っていたのである。

(でも彼女の場合は、自分が愛するお父さまと僕の身長がほぼ同じだからとか、そんな理由で好きだったにすぎないと、今ごろになって気づいたとか、そういうことかもしれないな)

 そして潤一郎の考えが、(名前も潤一郎と静一郎で似てるしな)などと、極めて後ろ向きになっていた時、コンコンとドアがノックされた。微妙に癖のあるノックの仕方なので、潤一郎には相手がすぐに梓であることがわかる。

「あの、先生……先ほどのお話なんですけれど」

 夜半に男の部屋を訪れるのにあるまじき、フリルのたっぷりついたパジャマを彼女が着ていても、潤一郎はもうどうとも思わない。というよりも梓の場合、この恰好でよく屋敷内を歩きまわっているため、他の泊りこみの研究員たちもこうした彼女の姿を見慣れていたといえる。

「ああ、その話。それが何か?」

 どうでもいい天気予報の話をする時のように、潤一郎の態度がぞんざいだったので、梓は眉をひそめると少しばかり傷ついたような顔になる。

「あの、本当にわたしでよろしいんですか?先生もたぶんご存知だと思うんですけど……わたしのようなのと結婚してしまうと、雁夜先生の社会的な地位に傷がついたりとか、されません?」

「いや、まあべつに……」

(そういうことか)と思い、潤一郎はベッドの上で少しばかり居住まいを正した。

「そういうことはたぶんないと思う。君と結婚するということは、僕はアメリカへは戻らないことになったわけだし、そうなるとなんていうかまあ、その……問題は何もないんじゃないかな」

 潤一郎が若干しどろもどろになっていると、梓もまたしばらく沈黙した。

「僕が思うには、まあ僕と君はこの半年くらい、結構仲良くやれたんじゃないかと思う。梓さんがここから離れられないのは僕にもわかってるし、そうなると僕がここに住むしかない。君のお父さんのことも僕は好きだしね、山賊男なのか大学の研究員なのか、よくわからないのが出入りしてるけど、そういうのもあんまり気にならないし。じゃあ、結婚してもいいかなって、これはそういう……」

「たったのそれだけなんですの?」

 温室で彼女の蘭のコレクションを前にプロポーズした時のほうが、潤一郎の態度はきっぱりしていて、遥かに男らしかったかもしれない。だが今や、梓の瞳には何やら失望の色が浮かんでいた。

 そこで潤一郎は慌てて、梓が以前「鹿語の研究家」になりたいと言っていたことや、彼女が鹿せんべい目当てではなく、自分のことをきちんと見てくれていることが嬉しかったということなどを、慌てて付け加えることになる。

「良かったわ。それで安心しました。それで、先生、わたしも……」

 梓は潤一郎とベッドのへりに隣あって腰かけていたのだが、彼女はやにわにパジャマのボタンを外すと、おもしろにバッとそれを脱いでしまった。下にブラジャーはつけてなく(それは上から見てもわかっていたが)、白い肌と乳房があらわになる。

「その、それは……」

「先生、アムールトラってご存知?」

 梓のほうから潤一郎の手を取り、鎖骨の下から右の胸の下まで伸びた傷あとを確かめるようにさせた。傷痕は痛々しいものではあったが、決して醜いものではなかった。むしろその傷によって彼女の肌の美しさが引き立っているようにも見え、潤一郎は暫く見とれてさえいたかもしれない。

「まあ、動物園で見たことがあるっていう程度には」

「そりゃそうですわね。あれをうちで昔飼ってたんですの。小さい時から飼いはじめて、アムって名づけて可愛がってたんですけど、ある時おいたがすぎて、こういうことになっちゃったんです。わたしが十歳の時のことでしたわ。すぐに源さんが救急車を呼んで……この程度の傷跡で済んだのは奇蹟だって言われたりしたんですけど、形成手術でもう少しどうにかできるってお医者さんに言われても、わたし、あえて傷を残すことにしましたの。でも女としては当然商品価値が下がりますものね。だから、先生には先にお伝えしておこうと思って……じゃないと、フェアじゃありませんもの」

「それで、そのトラは?」

 潤一郎は医者として患者の体を診る時のように、梓の傷の跡に触れ続けた。

「アムですか?変わらずうちで飼い続けましたわ。ただ、その時以来、もう外には出せませんでした。色々と新聞沙汰になってしまったものですから……でもわたし、もう一度アムに会った時にわかったんです。あんなことになるだなんて、アム自身思ってなかったんです。わたし以上に彼のほうが傷ついてるってことが、すぐわかって……とても悲しい思いを……いいえ、悲しい思いをさせてしまいました、アムに」

 暫く何をどう言っていいかわからず、潤一郎は梓のパジャマをとって彼女に着せかけてから言った。

「その、肉体的なことでいうなら、僕にも欠陥はあると思う。見てのとおり、通常の成人男性より、背が低いこととか……」

 この時、突然弾かれたように梓が隣の自分を振り返ったので、潤一郎は驚いた。彼女は心底心外だという顔をし、またその反応がなんともいえず、鹿が敵の物音にハッとした時のようで、潤一郎の印象に強く残った。

「先生、わたし、本当に――そんなことは今の今まで、気にしたこともありませんでしたわ。というより、雁夜先生ほどの方でもそんなことを気になさるだなんて……」

 これからあとのことは、ふたりの間で言葉は必要なかった。潤一郎は四十になるまで手持ち無沙汰にぼんやり過ごしてきたわけではないし、むしろそうした方面については多少自信があった。また梓のほうは実際、もし彼が<先生>であるとするならば、先生の教えをよく聞くいい生徒だったといえるだろう。

 こうしてこの日以来、潤一郎をして「よく理解できない」梓の脳内回路には、<お父さまには絶対服従ボタン>の他に、<潤一郎さんの言うことには絶対服従ボタン>が増設されたようである。潤一郎のほうではその責任に重みを若干感じもしたが、それはこのくらいの重みなら、むしろ心楽しいというようなものであったため、彼はそこから梓の言う「商品価値」を、最大限まで引き出すことにしたようである。

 そして実際、梓と結ばれたことで、潤一郎の人生は百八十度まったく変わってしまった。今までは少なからず未練のあった、アメリカへ戻って脳外科医として年に一億ばかりも稼ぐという道も、すっかり色あせて見えるようになってしまっている。一応理性としては、潤一郎もこう計算しなくもない。梓もすっかり自分の言うなりになるようになったし、彼女を連れてアメリカでいい暮らしをさせてやる傍ら、自分も一花咲かせてやろうといったふうには。けれど、その道はおそらく成功しないと潤一郎にはわかっている。よしんば成功したにしても、その頃には重度の精神病の妻を抱えることになったとか、そうした不幸がついて回っている気がした。そしてそんなことよりも潤一郎には――鳥として飛ぶことのほうが遥かに重要だったといえる。

 そう。潤一郎は鳥ではないから、当然重力に逆らって空を飛ぶことは出来ない。また彼は、飛行機やパラグライダーに乗ることを比喩的にたとえて言っているわけでもない。

 ただ、潤一郎は毎日、足が地についていないのではないかと思うほど、幸せだった。今では彼にもわかる。梓が何故以前、「じゃあ下界に仕事へ行って参りますわ、お父さま」と言っていたのか、その意味が……そしてこの下界の、不浄の世界は潤一郎の力を必要としていた。そこで彼は妻と一緒に出かけていく。北は北海道から南は沖縄まで、自分の――いや、自分たちの力を必要とする人がいれば、どこへでも出かけていって、最後にはやはりまた動物王国へ戻ってきた。彼はそこで妻と庭にあるブランコに乗り、子供のように微笑みあう。

 潤一郎と梓のふたりは、もしかしたら地球上のどこにもない国、彼らふたりだけの幸せの国をこうして探しあてたのかもしれない。



 >>続く。





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