Love Storyのあとがきで、「今も魂がグラグラ☆揺れてる感じがする」って書いたんですけど、それってつまりはこういうことでした。
作中に、いづみが観覧車に乗ってる時に虹を見て、健人に教えようかどうしようか迷うシーンがあるわけですけど……たぶんこの時、もし彼女が「健人、虹が出てるわよ!!」って言ったとしても、彼は傷ついたりはしなかったと思うんですよね(^^;)
彼もきっと、学校の理科の授業とかで「虹」がどういうものかっていうのは教わったことがあると思うし、それが七つの色を束ねた綺麗なものらしいっていうことは、理解してる気がするので。
でも、実際に目が見えるようになった時に虹を見て、彼のそれまでの想像とどう違ったのかって――わたしには全然想像できません
つまり、わたしの心がグラグラ☆揺すられるように感じるのって、何よりこの点なんですよね(^^;)
言葉の根幹を何かものすご~く、ユッサゆっさと揺すられてるように感じて、その感覚がいつまでも離れていかない、というか。
なので今、盲学校などでどういう教科書を使ってるのかとか、すんごく気になってます。
とりあえず、手がかりになるものとしてヘレン・ケラーの自伝や、サリバン先生の記録を読んでみて――「色」ということについては、興味深いことがわかりました。
>>最近、ヘレンは色にとても興味を示してきています。
初等読本から「褐色(brown)」という単語を見つけて、その意味を知りたがりました。
彼女の髪の毛が褐色であることを話してやると、「褐色はとてもかわいいの?」と尋ねました。
いっしょに家中をまわって歩き、彼女がさわるあらゆる物の色を教えてやりました。
彼女はにわとり小屋や家畜小屋へ行きたがりましたが、私はとても疲れてしまったので、またの日まで待つように言いました。
私たちはハンモックに座りましたが、疲れを休めるどろこではありませんでした。
ヘレンは「もっと多くの色」を知りたがるのです。
私は、彼女が色について何か漠然とした感じがある――光や音について何らかの印象を記憶しているように――のではないかしらと思います。
生後十九ヵ月まで見えもし、聞こえもした子供は、非常にかすかながらも最初の印象のいくつかを記憶しているに違いないと思われます。
ヘレンは、触覚を通して知ることのできないものについてもたくさん話します。
空、昼や夜、海や山について色々な質問をします。
彼女は、私が絵の中で見るものについて話してもらいたがります。
ところで、話の筋がつながらなくなってしまったように思います。
ハンモックに揺られながら「考えることはどんな色なの?」というのが彼女の落ち着いた質問のひとつでした。
そこで、幸せな時には輝く色をしているし、そうでない時には悲しい色をしているのだと話してやりました。
間髪を入れず、「私の考えは白、ヴィニーの考えは黒だ」と彼女は言いました。
おわかりでしょう。
彼女は、私たちの考えの色は皮膚の色と似合っていると思っているのです。
まさにその瞬間に、ヴィニーが声をかぎりに歌っていたので、私は笑い出さずにはおれませんでした。
(「ヘレン・ケラーはどう教育されたか~サリバン先生の記録~」、槇恭子さん訳/明治図書刊)
つまり、仮に目が見えなくても、「色の概念」というのは、ある程度伝達が可能というか、教えられるものなのかなって思うと、すごく不思議な感じがするんですよね。
たとえば、太陽は赤い、炎は赤い、林檎は赤い……それから辛いものを食べた時、人はその感覚を「赤」と結びつける、といったようなことを教えることは出来る、というか。
そして空は青い、海も青い、でもこのふたつの青は少し異なった色をしている、それから水の冷たいという感覚を、人は「青」と結びつける、といったように。
他に、人間の髪の色にはブロンド、プラチナ、黒や褐色、赤毛などがあるといったようにも教えられるでしょうし、ある程度「色の分類」といったものを教えることは出来るっていうことですよね。
たぶん、盲学校の先生であれば、そのあたりのことは「学校ではこう教えています」っていうのを当然ご存知なんだろうなと思います。
でも、目の見えない方やロービジョンの方の情報の発信って、一般社会ではあまり大きく取り上げられない現実があると思うので……本当にわたし今、このあたりのことが知りたくて仕方ないです(^^;)
それと、抽象的な概念にも色がある、とサリバン先生はヘレンに教えていますよね。
たぶん、それでいくと「幸福」とか「愛」といったものは、輝く虹色をしている、ともいえるのではないでしょうか。
「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。
それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。
わたしが地の上に雲を起こす時、虹が雲の中に現れる。
虹が雲の中にある時、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう」
(創世記、第9章13~14、16節)
これは地に大洪水が起きてのち、神がノアとの間に結んだ契約の言葉なわけですけど……ヘレンはもちろん、聖書や他の物語の中に<虹>というものが出てくるのを読んで、見たことはなくても「虹というのは何かそういうもの」といった理解をしていると思うんですよね。
たとえば、何かとても面白いお話を子供に聞かせたとして、おおよそのストーリーの内容がわかれば、細かいところはまあどうでもいいとでもいったらいいか(^^;)
わたしは一応目が見えるわけですけど、それでも小さな頃、本の中に自分の理解できない単語がいくつも出てきたのを覚えています。たとえば「話は飛躍するけれど……」という言葉の、<飛躍>という意味が、小学一年生くらいの時、わたしにはわかりませんでしたww
でもその<飛躍>の意味はわからなくても、大体お話の前後は掴めるし、何よりそうした細かいことより、物語の中心部と自分の心(魂)がシンクロできることのほうが遥かに大切だったと思います。
そしてこうした「言葉の問題」っていうのが、わたしの心(魂)の根幹を今、ものすご~くユッサゆっさ☆揺すって仕方ないんですよね(^^;)
ではでは、次回はちょっとまた「サリバン先生の記録」から、ヘレンが発した<神>や<魂>、<天国>の問題について、少し色々書いてみたいと思います。
それではまた~!!
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