天使の図書館ブログ

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手負いの獣-13-

2013-03-11 | 創作ノート
【迷い星】ウィリアム・アドルフ・ブグロー


 今回もまた、登場する警察の人は赤城警部と白河刑事ですww

 いえ、流石にその設定は無理があるな~と思ったので、新しく別の人を……と思ったんですけど、そうするとまた、翼に対して「ありゃ医者とは名ばかりのロクなもんじゃないだろう☆」的描写を入れなきゃならないので、そういった面倒を省くためにもふたりに出張ってもらったというか(^^;)

 まあ、わたしの書いてる警察の人たちの捜査っていうのは、半分ファンタジーみたいなもんです(それでいいのか・笑)

 そんでもって、今回の章と次回の章はまた一度で入りきらなかったので、二回に分けることにしました

 なので、変なところで途切れてますけど、そういうことでよろしくお願いしますm(_ _)m

 あと、本文中に大腸ガンがⅠ期の場合は九十パーセントの確率で治癒するって書いたんですけど、これは五年生存率のことだと思います。何かにそう書いてあるのを見てそう書いたはずなんですけど、別の本を見たら「外科的治療で95パーセント以上完治する」とありました(^^;)

 わたしの知り合いの方にも大腸ガンで亡くなった方がいるんですけど、今にして思うとその方の亡くなり方っていうのは日本におけるガンの亡くなり方の典型だったような気がします

 見つかった時にはおそらく、末期かそれに近い状態で、まずは手術、それから抗がん剤治療をして、でも再発、最後にはまだ認可されてない薬まで使うことになったんですけど、それを使うことに同意する書類にサインしたりとか色々……わたしが見聞きした限りにおいては、大体のところお医者さん主導の治療方針というか、何かそんな感じに思えました。

 もちろん、それが悪いということじゃなくて、ある意味それが当然でもあるんですけど、「抗がん剤治療は副作用がでます。でも他に道はないから」と言われたら、「そうですか。わたしは医学的なことはわからないので、先生にお任せします」、「また再発してしまいましたね。まだ認可されてない薬ですが、もうこれを使うくらいしか道は……」、「そうですか。わかりました。専門家の先生がそうおっしゃるんでしたら、それでお願いします」……たぶんこういうパターンっていうのはとても多い気がするんですけど、ガンの闘病記の本を読んでると、大抵の方はこの過程で医師や病院、あるいは医療そのものに不信感を持つことが多い気がします(^^;)

 そこで本やネットで徹底的に調べて、「本当に他に道はないのか」とか、「抗がん剤は本当に効くのか」とか、ガンの名医と呼ばれるお医者さん探しをしたりしはじめるというか。。。

 そういう意味で、「がん・生と死の謎に挑む」(立花隆さん著/NHK取材班)は、本当に読んで良かった本でした。

 本の中には「がんとは何か」、「がんの転移の仕組み」、「抗がん剤は効くのか否か」といったことについてなど、がんという病気について「是非ともそこが知りたい!!」ということが、現段階でわかる限りにおいて、すべて書いてあるといったようにすら思いました(^^;)

 あと、立花隆先生の文章が物凄くわかりやすい。たぶんこれ以上簡単に書けといっても難しいくらい、素人が読んでもわかりやすいように書いてくださっている。他にもガンについて書かれた本で、その発生のメカニズムといったことの書かれた本を読んだんですけど、似たようなことが書いてあるにも関わらず、わたしはそっちの本については何が書いてあるのかよくわからなかったので(馬鹿だから・笑)

 本当に、日本人のすべてが読むべき、と思ったくらいの名著だと思うので超オススメですm(_ _)m

 それではまた~!!



       手負いの獣-13-

 九重事務局長からかかって来た電話には出ず、翼は直接事務長室へ赴くことにした。中からは男がふたりか三人、話す声が聞こえていたが、気にせず二度ほどノックする。

「ああ、これは結城先生。ちょうど良かった。今彼らと話していたら、ちょうど結城先生のことが話題にのぼって。朝倉先生と君塚先生、それに雁夜先生はすでに事情聴取が終わっているのですが、最後にまだ先生のことが残っているとのことで……」

 事務長室は半分応接室を兼ねたような作りをしている。入口はふたつあり、片方は事務室側に通じる扉、そしてもう片方が今、翼がノックした廊下側のドアである。そこから中に入っていくと、革のソファの上で、翼がよく知っているふたりの刑事――赤城警部と白河刑事――が、九重事務長と談笑していた最中のようだった。

「やあ、これはこれは、結城先生。いつぞやはどうも」

 赤城がスッと立ち上がり、翼に向かって握手を求める。翼のほうでは驚きのあまり、一瞬言葉もなかった。

「え?まさかとは思うけど、あんたたちが諏訪晶子殺害事件の担当刑事ってことはないよな?第一、赤城警部と白河刑事は北央市の警察署の人なんだし……」

 翼は赤城警部と儀礼的に握手すると、九重事務長に目線で促され、彼の隣に座った。この応接室と事務長の立派なマホガニーの机とは、衝立で仕切られているのだが――その背後の窓のブラインドは全開になっており、そこから午後の蜜色の光が、燦々とこちらにまで流れてくる。

「我々は今月の一日付でK市中央警察署に転属になったのですよ。これがどういうことか、おわかりになりますかな?」

 赤城は中性脂肪によって膨らんだスーツの腹を整えながら、椅子に腰掛け直している。そして白河はといえば、微かに笑みを浮かべた顔で、相変わらずどこか無口な空気を漂わせていたのだった。

「まあ、その……警察の仕組みのことはよくわかりませんが、随分中途半端な時期に転勤になったもんですね。普通は四月一日(いっぴ)とかからじゃないんですか?」

「なんにせよ、我々の警察における処遇のことはお気になさらず。それより、たった今わたしと白河とは、結城先生が本当にお医者さんであることがわかって良かった――などという話をしておったところなのですよ。どうもわたしが思うに、結城先生は自分が好むと好まざるとに関わらず、トラブルを引き寄せてしまうお方のようですな」

「かもしれませんね」

 翼はバカラのグラス落下事件のことを思いだし、渋々そのことを自分でも認めた。九重事務長も、まったく同じことを思ったらしく、どこか意味ありげな眼差しで隣の翼に向かって微笑んでいる。

「なんにしても、諏訪晶子先生が死んだ夜――俺は、事件の解決に結びつきそうなものは一切目にしなかったですよ。そういう意味で今回は赤城警部たちのお役にはどうも立てない気がするんですが……」

「いえ、そんなお気遣いは無用です。結城先生だけでなく、何分他の先生方もお忙しいことと思いますので……我々が行っていることというのはまず、<絶対的な事実の確認>ということなんですよ。諏訪先生がお亡くなりになった夜、当直だった内科の朝倉先生、小児科の君塚先生、脳外科の雁夜先生にはそれぞれ、すでに事情聴取させていただきました。もちろん先生方はみなさん、患者さんのことや論文のことやらで頭がいっぱいで、何時何分に何をどうしていたといったことなど、ほとんどご記憶にないかとは思います。ですが、それでもですな……たとえば、病棟の看護師たちから連絡のあった記録などは、携帯に残っていたりするわけですよね。そして看護師たちからも、大体結城先生は何時頃まで病棟におられました……といったような確認は取ることができる。まず我々はそうした事実を重ね合わせていくことで、なるべくあの日の夜の空白部分を埋めていこうと思ったのですよ。で、その表のようなものはこの白河が作成しておりまして、残るは結城先生のお話をお聞きするだけとなりました」

「そっか、わかった。じゃあ、まずは携帯の記録から……」

 そう言って翼が白衣のポケットから携帯を取りだすと、その手元を赤城と白河がほぼ同時にじっと眺めやる。

「なに?どーかした?」

「病院専用のその携帯、実をいうと我々でお預かりさせていただいているのですよ。そのかわりに……」

 ここで九重事務長が立ち上がり、事務室に通じる側のドアから、「金井君。結城先生の新しい携帯を持ってきてくれ」と声をかける。事務長はドア口でブルーの携帯を受けとると、それを翼に手渡していた。

「おお、またしても新品じゃないっスか、事務長。こういうのってまとめて契約すると多少は安かったりするんでしょうが、今は携帯買うのも馬鹿にならないのに、なんか悪いっすね」

「いえ、別にわたしのポケットマネーから結城先生の通話料金をお支払いしてるわけじゃありませんからね。病院専用の携帯を別に持つのが面倒だとのことで、返却される先生もいらっしゃるんですよ。自分個人の携帯のほうに直接電話をくれとおっしゃってね」

 翼は以前いた病院ではPHSを使っていた。だが、第3世代(3G)携帯電話の電磁波はPHSとほぼ同程度であるため、K病院では3G携帯を配布しているらしい。

「ええと、一見して思うに、この0:22と3:55というのが、あの土曜の夜、正確な曜日としては日曜ですが、結城先生が病棟に呼び出された時間ということになりますか?」

「ははは。赤城警部も人が悪いな。その口ぶりじゃあ、すでにもう外科病棟の看護師の裏は取ってあるってことだろう?」

 手元の携帯のデータをいじりながら、赤城警部は最後にとても満足そうに顔を上げている。そしてそれは、その隣で同じ画面を覗きこんでいた白河も同様だった。

「いやいや、結城先生はどうやら、他の先生方に比べ、疑わしいところがあまりおありにならないようですね。この携帯は病院支給で、当然料金のほうは病院持ちになっている……つまり、仕事の用事以外でもお使いになっている形跡が他の先生には共通してあったのですよ。ですが、どうやら結城先生は本当にお仕事の用でしか、この携帯をお使いになっておられないようで……」

「たりまえだろ。俺、家賃はただにしてもらってるし、流石にそこまでがめつく病院におんぶしてもらおうとは思ってないぜ」

 腹が減っていた翼は、テーブルの上の餅入り最中に手を伸ばすことにした。時計を見ると、一時十分である。三十分から内視鏡検査の予定が詰まっているため、残念なことにあまり長話はできないと翼は感じていた。

「あ~、あのさ。俺、この事件の担当が赤城警部と白河刑事でほんと良かったと思ってる。けど俺、今日まだちゃんとした昼メシってのを食ってなくて、一時半から内視鏡の検査がぎっしりこんなわけ。だから、そのあとで良ければなんでも話すから、今ここからいなくなっても殺人犯扱いしないでもらえるかな?」

「もちろんですよ、結城先生」

 そう言って赤城警部はいかにも嬉しげに立ち上がった。白河刑事もまた自分の上司に追随するようにソファから腰を上げる。

「では、お仕事が終わって余裕がお出来になった頃合にでも、我々のほうから結城先生の元にお伺いしましょう。それでは、九重事務長、失礼致します」

 翼は自分が部屋から出ていく前にふたりが姿を消したのを見て、若干驚いていた。九重事務長はといえば、赤城警部と白河刑事が出ていくなり、心底ほっとしたといった顔をしている。

「結城先生、どうやら事態は想像していた以上に複雑なようです」

 入ってきた時の、談笑していたらしき雰囲気から、翼は事務長が赤城警部たちとすっかり懇意になったのだとばかり思っていた。だがどうやら、そういうわけでもなかったらしい。

 九重事務長は頭痛薬が必要だといったような渋面を作ったまま、続ける。

「あの日――君塚先生は諏訪先生とお会いになる約束があったそうです。しかしながら君塚先生はすぐそのことを喋ってしまっては、自分に疑いが降りかかるとお思いになったのでしょうな。だから月曜の朝に医局の仮眠室に立ち入り禁止のテープが張ってあるのを見て、その時に初めてまずいと感じられたそうですよ。よくサスペンスドラマなどではあるでしょう?ベッドのシーツにはふたりの愛しあった痕跡が……といったお話が」

「あ~、馬っ鹿だなあ、あいつ。ようするに、医局の仮眠室で愛しあったらより興奮するとかいうやつ?どうしようもねえな」

 翼は自分にも確かに、そうした<どうしようもなさ>はあると感じているものの――この場合はあくまで人事として、あっさり断罪していた。

「ええ。ですが起きてしまったことはすでに取り返しがつきません。君塚先生は朝倉先生が食堂へ卓球をしにいくのを見届けると、諏訪先生と仮眠室で愛し合い……いえ、この場合愛などという言葉を使うのは適切でないかもしれませんな。なんにしてもそうした関係を持ち、好事魔多しというのか、その時に電話が鳴り、君塚先生はNICUに呼ばれることになったそうです。で、色々な処置や対応に一時間余りかかり、戻ってきた時には諏訪先生の姿はなかったとか。ベッドの上は乱れたままだったそうですが、あまり気にするでもなく同じ部屋のもうひとつのベッドで横になり、この時次に電話が鳴るまで、三時間ほど眠られたということでした。ようするに、この時点で犯人の殺害時刻というのは相当絞りこめたことになるわけですよ」

 おわかりですか、結城先生?といったように問いかけられて、翼は壁の時計を再びちらと見やった。一時十七分……昼飯と事務長の話を天秤にかけ、翼の中で好奇心のほうが大きく打ち勝つ。

「確かに、そうですね。朝倉先生はあの日、「こんなこと、一体何時からやってんスか?」って俺が聞いたら――十一時半頃からずっとって言ってましたから。そんで俺が「医者を呼べっ!!」って暴れる患者の相手をして戻ってきたのが一時過ぎだから……諏訪先生の死亡時刻は大体零時頃から君塚先生がNICUに行って戻ってくるまでの間っていうことになりますか?」

「君塚先生がNICUから戻ってきたのは、一時過ぎ頃だったそうです。こう考えると君塚先生と結城先生が廊下あたりで会ってることになりますが、そこには若干の時間の差異があったとして……君塚先生は、その時すでにバスルームに<故障中>の貼り紙があったかどうかはわからないとおっしゃっていました。まあ、瀕死の赤ん坊相手に格闘したあとでは無理もありませんがね……わたしは思うのですが、結城先生。君塚先生がバスルームの横を通りすぎて仮眠室に向かわれた時、諏訪先生はまだ生きていた可能性があったかもしれません。何しろ犯人は諏訪先生をまずは一旦眠らせています。そして彼女が眠りに落ちるのを見届けてから、バスルームまで運んでいったのですよ。そこで浴槽にお湯をはり、諏訪先生の衣服を脱がせ、風呂の中へ沈めて――頚動脈を切断したわけです。そして犯人はすべての仕事を終えると、諏訪先生の衣服や凶器を手に持って姿を消したということでしょうな」

「こんな言い方をするのはおかしいが、『結構やるな』という気がする。確かにあの日、俺と雁夜先生は部長室に閉じこもってほとんど出て来なかった可能性は高い。茅野先生から聞いた話だと、当直の時に運が良ければ一度も呼ばれないこともあるって話だから……その運がいいほうに、犯人はもしかして賭けたんだろうか?それでも、当然俺だって雁夜先生だって、トイレには何回か行くだろうし、喉が渇けば食堂の自販機を使ったりするわけだよな。その場合、医局や事務室の廊下には何気に目をやることになるだろう。つまり、運が悪ければバッティングする可能性が高い。それでもそこまでのことをしたからには――犯人には、他でもないこの医局で彼女を殺す必要があったってことか?それとも、君塚との不倫を知った元カレが、確かな証拠を掴んだことで君塚に罪を被せられるあの日を選んだのか……事務長、本当に事態は複雑極まりないみたいだけど、マジで俺、そろそろ行かなきゃ。つーよりも……」

 翼はここでがばりと椅子の上から立ち上がり、ダッシュで事務室側に通じるドアをパッと開けた。

「やっぱりな」

 そこには、事務員の男がふたり、それに金井美香子とが、すぐ脇に立って盗み聞きしているところだった。三人とも、それぞれ罰の悪そうな顔をして、すごすごと自分の机まで戻っていく。

「事務長、あの女がつきあってた男って、少しくらいは心当たりあったりすんの?」

「さて。わたしは噂でちらっと聞き及んだといった程度ですので……実をいうと具体的なお名前までは存じ上げないのですよ。ですが医局の五~六人以上の男性と関係があるのではないかというのは確かなようです。そのあたりのことについては、おそらく刑事さんたちがこれからお調べになるのではないでしょうか?少しばかりエグい手法を使ってでも……」

「ふう~む。なるほどね」

 翼は新しい携帯を白衣のポケットに収めると、「最中ごっそーさんでした、事務長」と最後に挨拶して、事務室をあとにした。

 すでに時刻のほうは一時三十分過ぎである。今日の午後、内視鏡検査室の担当になった看護師は、三十代半ばの、小柄な可愛い看護師だったのだが――翼が遅れてやって来る姿を見るなり、プリプリと怒っていた。

「結城先生、患者さんはもう長いことお待ちなんですよ。駄目じゃないですか、まったく。こういうことは今後二度と絶対ないようにしてください!!」

「へいへい」

(うっせーな。こっちも色々あんだよ)とはあえて言わず、翼は内視鏡検査室で大腸の内視鏡検査を、時々患者の放屁の洗礼を受けながらこなしていった。こういう時、初期のガンを見つけた患者に対しては(命拾いしたな)とつくづく感じる。何故なら大腸ガンはⅠ期の場合、九十パーセントの確率で治癒するからである。

 残念ながら検査中、ひとりだけかなり進んだ進行ガンを発見してしまい――翼はその四十代のサラリーマン男性に対し、真実を告げるのが心苦しいように感じた。それでも、「血便が出て驚き受診した」と問診票に書いた彼に対し、翼は担当医として誠意のある態度で告知しなくてはならない。

 翼はラテックスの手袋を脱ぐと、手を洗い、診察室へ向かった。入院し、手術するなら一日も早いほうがいいというケースであるため、すぐにでもその旨を伝える必要があった。

 最初は痔を疑ったという患者に対し、ステージが第Ⅲ期であることを伝えると、相手の顔に鈍いショックの色が広がっていくのを翼は感じた。頭の中ではおそらく、割れた鐘の音のようなものが響き渡っているだろう。

 そう思うと、翼としてもつらいのだが、「一日も早い入院を」と勧めると、少しくたびれたスーツを着た患者は頷き、「ありがとうございました、先生。これからよろしくお願いします」とかろうじて言って、診察室から出ていった。

『僕たちは、ガンという病気に対する、ひとつのチームみたいなものなんですよ』と、先日山田優太が言っていた言葉を、翼はぼんやり思いだす。『もちろん、ガンそのものを診るというよりは、ガンという病気を含めたその人自身を人間として診るということですけどね』

 K病院の場合、緩和ケア病棟に入院しているのはガン患者ばかりではないのだが――それでも約九割がそうだったに違いない。翼は一度五階の病棟へ行き、気になる担当患者について看護師に様子を聞いてから、医局の自分の部屋まで戻ってきた。この時の翼の頭にはすでに、赤城警部や白河刑事のことは忘れ去られていたと言ってよい。

 そして翼が部屋へ戻り、「よっこらしょ」と椅子に腰かけると――何か見慣れないものが机の上に置いてあった。自分で置いた記憶はなくても、<見慣れた>ものも同時に机には置いてある。それは、病院付や医局付で届いた結城医師に対する手紙であり、その多くがゴミ箱行きとなる代物だった。そしてその下には今月号の<外科ジャーナル>が置いてある。

 こうした郵便物や定期で頼んである雑誌などは、毎日田中陽子が部長室を順に回って届けているものだった。だが、そうした月曜から金曜までの、毎日の届け物の他に、白地に水色のチェック柄の封筒が別に置いてあったのである。

 封筒の下には<ロベルティエ・ファーマーシー>と書かれた製薬会社の名前と、そのロゴマークが描かれていた。そして中を見てみると、五十万ほどの金が包んであったのである。

「なんだ、これ?」

 翼は不機嫌に眉根を寄せると、走っていってすぐに茅野医師の机にも同じものがないかどうか確認したが、茅野医師の机の上には、そのようなものはのっていない。

 頭にくるあまり、思わず翼は内線の、医療図書室の番号を押していた。無論、陽子が悪いというわけではないし、彼女に怒りをぶちまけようというのでもない。ただ、翼は知りたかった。茅野先輩も自分も、何かあった時にお互い嫌な思いをしないため、鍵は必ずかけるよう心がけているにも関わらず――このような封筒が置いてあるということは、時々医局の廊下で見かける医療業者が、陽子が部長室を順に訪ねる姿を見、「どうかこれも一緒に」と託けたに違いないからである。

『はい。医療図書室です』

「ああ、サニーちゃん?俺だけど……今日、郵便物と雑誌を届ける時に、俺と茅野先生の部屋の前に、誰かいなかった?」

『ええ、確かにいらっしゃいましたよ。結城先生に是非我が社の新薬の紹介をとおっしゃっていて……新薬のパンフレットが入った封筒を、一緒に置いてほしいって手渡されたんです』

「そっか。なるほどね。今回のことはとりあえずいいとして、次からはさ、二度とこういうことがないようにしてくれないかな。茅野先生は別としても、ああいう黒とか紺のスーツをビシッと着た連中が、俺になんか渡してくれって言っても、絶対取り合わないでくれ。いい?」

『はい。あの、もしかして結城先生、わたし、先生にとってご迷惑、あるいは不利益になるようなことをしてしまったんでしょうか?』

「いや、べつにサニーちゃんが悪いってわけじゃないから、いいんだよ。それより、要が近いうちに六階の会議室の前にあるホールに、絵を掛けにくるってさ。たぶん、要の絵の事務所の人たちも一緒に来ると思うけど、なんかあいつがわかんないこととかあったら教えてやって。来る日がはっきり決まったら、携帯にメールするからさ」

『は、はい。もちろん喜んで!!』

「うん、それじゃあな」

 受話器を置いて電話を切ると、翼はもう一度忌々しげに封筒の中身を覗きこんだ。すると、一万円札の札束の上に、手紙が挟まっていることに気づく。

「なになに、『拝啓。結城先生におかれましては、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。この度は、弊社の画期的な非ステロイド性抗炎症薬オルベタザンを御推奨いただきまして、誠にありがとうございました。つきましては、ほんの感謝の気持ちとして、ささやかながらのお礼をご用意させていただいた次第でございます。何卒、ご笑納くださいませ。ロベルティエ製薬、営業推進部課長、敦賀博史』……あ~あ。俺はそんなもの、御推奨した覚えはないぞ。ただ、茅野さんが抗炎症薬としてはこっちのがいいっていうから、何気なく使ってたっていうだけだ。そっか、今、ちょこっとだけなんか見えた。会議室であった臨床研究会の時、全員に配ってあった<お~い!お茶>とどっかの高級仕出し弁当。あれ、あいつらの財布から出てたってことか」

 確かにその時、翼にしても少しだけ「おかしいな」と感じなくはなかったのだ。勉強会の前に、製薬会社の課長とその部下ひとりが、<オルベタザンの特性について>という、五分ほどのスライドショーを行っていた。その間みなが弁当をムシャムシャ食べていたため、翼は(うめえ弁当だ)ということに気を取られるあまり――粗品として薬品名入りの四色ボールペンが配られた時にも、ほとんど何か考えるということがなかった。

 というより、外科の代表として立派な臨床研究を発表しろよと、茅野医師に葉っぱをかけられていたため、そちらに集中力の多くを奪われていたという、そのせいでもあったのだが。

「くっそー、やられた。よく考えてみたら、あの弁当と茶も賄賂みたいなもんじゃねえか。『ハイ、あなた今、美味しいって言って食べましたね。ズバリ、これであなたも共犯者』ってか?冗談じゃねえぞ。こんな金、絶対すぐ突っ返してやる」

 そう思い、封筒に書かれた製薬会社にまで、翼が電話しようと思った時のことだった。ガチャリとドアが開き、クマちゃん先生こと茅野正が部屋の中に入ってくる。上下ともブルーの手術着で、上に白衣は羽織っていない。

「手術おつかれっす、茅野さん。今、ロベルティエ製薬ってところに電話しようと思ってたんですよ。サニーちゃんに託けて、こーんなはした金、俺に押しつけて寄こしやがったから」

「ああ。ロベルティエ製薬か。だがまあ、小遣いに困ってるっていうんなら、受け取っておくっていうのも手だぞ。これはあくまでも噂だがな、高畑院長は医療業者とのつきあいが相当うまい人らしい。で、おまえみたいな新参者がやって来ると、ちょっとした手付金といった具合で、業者の何人かが必ず金を配りにくる。つまり、金を積んで動く医者かどうかを見るんだな。そしてその結果を高畑院長に報告し、金を受け取ったとなれば、晴れて院長の子飼い医局員となるわけだ」

「なんスか、それ。つーか俺、今すごくやな気分なんですけど。というより、これどうやって返したらいいんですかね。呼びつけて突っ返したら、「いやいや、そう言わずにお近づきのしるしにお受け取りを」とか、鬱陶しいことになりそうだし……そっか、わかった。こいつらの会社の銀行口座にでもぶちこんでおけばいいんですね。で、返金したことだけ相手に知らせりゃいいんだろうな」

 翼は腹が減るあまり、当直用のおやつを机の中から取り出すと、ポテトチップスの袋をあけて、バリバリ食べはじめる。

「まあ、そうしてもいいだろうが……なんだったら、俺のほうから穏便に返金してやってもいいぞ。『うちの結城はまだまだコドモで、賄賂をもらう旨味がわからないんですよ』とでも言っておいてやろう」

「えっ、いーんですか、茅野さん。つーか、茅野さんこそそういうの、毛嫌いしてるのに、面倒くさくないですか?」

「面倒くさいさ。あいつらはいつでも、こっちが忙しい時に限ってやって来て、『五分だけでもお話を……』とか言うんだ。で、紙ゴミにしかならないパンフレットを色々置いていく。ははは。この間なんかな、『奥さんとご旅行などいかがでしょう、茅野先生』とか言って、旅行のパンフレットを置いていったよ。俺が金を受けとらないんで、他のもので釣ろうと考えたんだろうな。まったく、一体どこで聞いたのやらと思うが、いいところを突いてるなとは思ったよ」

 ここで、茅野が今日の退院患者からの戦利品――某老舗和菓子店のまんじゅうを翼に投げて寄こす。翼はそれをなんなくキャッチすると、椅子から立ち上がり、コーヒーを入れることにした。

「流石は学生時代、狂った犬のキャッチャーと言われただけのことはあるんじゃないスか、茅野さん。抜群のコントロール力。まあこれからヴィーナスと自分の子供たちだけで野球チームでも作ってくださいよ。クマとリスのあいの子みたいな、可愛い子供だけの野球チーム」

「やれやれ。妊娠といえば、聞いたか?今日の午後に君塚先生の奥様が、身重の身で、事務長や院長に頭を下げに来たって話」

「えーっ!?俺が患者の屁を食らってる間に、そんな面白いことがあったんですか?きっとランボルギーニ君塚のこったから、奥さんもさぞかし美人なんでしょうね。俺、見てみたかったなあ」

 クマはムシャムシャとまんじゅうを食べながら、机の上に置いてある院内関係の書類に目を通している。そして自分の判が必要な書類のいくつかに押印していった。判の押されたものについては、明日田中陽子が部屋に来た時にでも、郵便物と引き換えに持っていくことになるだろう。

「俺も会ったことがあるが、実際君塚君は結構な恐妻家だという噂でね。奥さんの家のほうが資産家で、君塚先生は玉の輿に乗ったと当時言われていたそうだ。まあ、奥さんの妊娠中に旦那が浮気なんていうのは、世間じゃよく聞く話だが……不倫っていうのはまったく、表沙汰になった時に社会に制裁されて初めて、道徳的に間違っているとわかるものなんだろうな」

「まあ、その考え方は古いんでしょうが、俺はそんな茅野さんが好きっす」

「なんだ、急に。気持ち悪いな。それ以上クマを褒めても、まんじゅう以外のものは何も出てこんぞ」

 翼はこの時ふと、今ではもうすっかり忘れ去っていたことを思いだした。この病院に翼が赴任してくる三週間ほど前に――高畑医師が五十万円がないと言って、事務長に掛け合ったという話である。

「茅野さん、もう一か月以上昔の話になるんスけど、隣の隣の住人の高畑先生が、たったの五十万ぽっち盗まれたくらいで騒いだって話は本当ですか?」

「たったの五十万ぽっちとは随分言ってくれるな。まあ、高畑先生の金銭感覚としては、もしかしたらそうかもしれないが……俺は中流よりも下といった家庭の生まれだから、学費のことでは親に相当負担をかけ、生活費の面では苦労に苦労を重ねてようやく医者になったという感じだがな。その点高畑先生はそもそも父親が高名な脳外科医で、そうした金の苦労といったものとは無縁の、お嬢さまだっただろうな。でも、その話を聞いた時には俺も少し驚いたよ。何しろ、まるで事務長が金を盗んだとでもいうような、えらい剣幕だったというんでね。で、その後掃除のおばさんが盗んだのではないかということに落ち着いたらしいが――ただ単に体裁よく犯人に仕立て上げられたんじゃないかという気もするな。人間、いくら魔が差すということはあるとはいえ、そんな金を盗めば自分たちに疑いの目が向くってことは、あのおばさんたちにだってわかってただろうし……」

「サニーちゃんの話によると、辞めさせられたほうのおばちゃんのほうは、『自分は盗ってない』って、泣きながら辞めていったそうですね。俺、思うんですけど……そのおばさんが犯人じゃないなら、諏訪晶子を殺した犯人同様、医局内に犯人がいる可能性が濃厚なんじゃないですか?もちろん、その盗難犯と諏訪晶子殺しの犯人が同一犯だとは思わない。でも、人が殺される一か月ちょい前に関係ないかもしんないけど、そういう事件があったって、警察に知らせておいたほうがいいんじゃないスかね?」

「そういやおまえ、警察の事情聴取のほうはもう受けたのか?」

 翼は椅子から立ち上がると、コーヒーメーカーのビーカーから、クマのマグカップに黒い液体を注いだ。そしてそれを茅野医師の机まで持っていこうとした瞬間に、コンコンと二度ドアが鳴る。

「ああ、たぶんこれ、その刑事さんたちですよ」

 そう言って翼がドアを開けると、意外にもそこには、思ってもみない人物――朝比奈旭がどこかそわそわした様子で立っていたのだった。

「どうした、朝比奈。もしかして高畑先生に聞くのは怖いけど、かわりに優しいクマちゃん先生にわかんないことでも質問しにきたか?」

「あ、あの、違うんです。わたし、結城先生にお話があって……」

「おりょ。じゃあ、中に入れば?クマと一緒に暮らしてるから、なんとも雑然と散らかってるけど。ほら、クマって雑食性だから」

 ここで茅野が、ゴホンゴホンと、どこか白々しいような咳をして寄こす。

「先生。わたし、結城先生にだけお話したいことがあるんです」

 旭のどこか深刻な顔つきを察して、翼は一度茅野医師のことを振り返ると、そのまま黙って部屋を出ることにした。茅野のほうは翼の机に届いてあったのと同じもの――<外科ジャーナル>をぱらぱらめくって読んでいるところであった。

「話ってなんだ?<氷の女王>のオペ室における無言のいびりを俺にどうかしろったって、そんなの無理だぞ」

「違います。第一わたし、高畑先生にいびられてるなんて思ったこと、一度もありませんし。人に誤解を招くような言い方はやめてください」

 朝比奈は薄暗い廊下をきょろきょろ見回すと、さらに小声になって、「誰にも聞かれたくない話なんです」と翼に向かって囁いた。

 そういうことならと、翼は廊下を歩いてすぐのところにある、喫煙室に彼女のことを案内した。幸い、今は誰も人がいなかったため、この密室ならば秘密の話をするのにうってつけだった。

「で、俺に話って?」

 言いながら翼は、白衣のポケットからセブンスターを取り出し、火を点けはじめる。

「ここ、物凄い匂いですね。わたし、煙草なんて吸わないのに、こんな場所に一時間もいたら、気管支か肺胞が癌細胞に冒されそう」

「確かにな。でも他にちょうどいい場所がないんだから、ちょっとの間くらい我慢しろ。もしかして明日の、結腸切除術に関する質問とか?あの手術を内視鏡でやるのは、開腹手術より難しいが、ポイントは……」

「違います。わたし、刑事さんに話を聞かれたんです」

 翼は木製の長椅子に腰掛けていたが、旭のほうはどこか落ち着かなげに立ったままの姿勢だった。皮膚科の小泉医師が「化粧直し」云々と言っていたが、五時をとうに過ぎた現在、彼女の顔は化粧崩れなどまったく起こしていない。というより、本当にメイクをしているのだろうかというくらい、彼女は薄化粧だった。髪のほうはおそらく下ろせば肩より少し長いくらいだろうが、その髪を頭の真ん中くらいで一本に縛っている。全体に身綺麗で清潔な印象で、美人若手女医といって通るくらいの、小顔で可愛らしい容貌を朝比奈はしている。

「でもべつに、おまえにやましいことはひとつもないんじゃねーの?それとも何か?諏訪先生から昼休みに聞いた恋愛武勇伝が神経に障ってブッ殺したとか?」

「やめてください、先生。わたし、真面目なんですから……その、わたしが仕事を終えてロッカーで着替えようと思ってたら、刑事さんたちがやって来たんです。諏訪先生のロッカーの私物などは、すでに警察が押収していったあとだったので、『まだ何か?』って聞いたら、わたしに話があるということでした。その時ちょうど、休憩室には誰も人がいなかったので、自然そこで刑事さんたちふたりに話をすることになって。あの刑事さんたち、意外に鼻がいいんだなって思いました……小泉や松井さんにはすでに色々話を聞いたっていうことだったんです。つまり、今日のお昼休みに彼女たちが結城先生に話したみたいなことを彼らは聞いていて、『あなたもそうしたことで何か知ってることはありませんか?』って言われて……わたし、刑事さんたちにお話できるようなことは何もありませんって答えました。ただ、ひとつだけちょっと、引っかかることがあって……」

「引っかかることって?」

 朝比奈はここで、喫煙室にある嵌め殺しの窓から、病院の裏庭の景色を眺めやり――少しためらってから、再び翼と向き合った。

「事件のあった翌日の日曜日、日勤の担当はわたしでした。前日当直だった結城先生から、申し送りを受けた時に事件はまだ発覚してなかったわけですけど……もうひとり医局にいた内科の橋本先生が、マンションのお風呂が壊れてるから、ほんの二十分バスルームを使いたいと言って。それで、ドクターコールがあったら悪いけどよろしく頼むってことだったんです。そして橋本先生はその時に初めて、バスルームに<故障中>という貼り紙がしてあるのに気づいたということでした。でも、マンションのお風呂は今壊れていて使えないから、軽くシャワーを浴びるだけでも使えないかと思って、先生は中を見たと……その時刻が大体、正午近くのことだったと思います。諏訪先生はすでに亡くなっていて、血の色をした浴槽の水も冷え切っていました。わたしもショックを受けるあまり、警察の人たちが色々調べる間、ただ呆然としていたんですけど――ある瞬間にふと、そういえば警察の鑑識の人は諏訪先生のロッカーも調べるだろうなと思いました。もちろん、ロッカーには鍵がかかってる可能性がありましたが、わたしは警察の人たちが諏訪先生の私物を押収する前に、自分がそこを調べようと思ったんです。何故そんなことをしようと思ったかといえば、軽い好奇心としか答えようがありません。でもその時に、私服姿の高畑先生が女医の休憩室から出てくるのを見てしまったんです。手には何か、封筒のようなものを持っていました。わたしは直感的に、それが諏訪先生のロッカーから持ち出されたものに違いないと思いました。何故といって、高畑先生は休憩する時には部長室でお休みになられますから、女医の休憩室にやって来たことなんて、これまでただの一度としてないからなんです……でもわたし、このことを警察の人に言うことはどうしても出来ませんでした。高畑先生は仕事のことでは厳しい方ですけど、本当はとても優しい先生です。わたしに対して特に厳しいのは、むしろわたしが女医だからといって周囲になめられないことが大切だと思ってるからなんですよ。このあたり、茅野先生が相手になると、『若い娘医者だからしょうがない』みたいな感じにどこかなるんです。結城先生も、見てておわかりになるでしょうけれど」

 この時翼は、煙草の煙を吐きだしながら、高畑京子が諏訪晶子殺しの犯人である可能性はあるだろうかと、頭の隅のほうで計算していた。あの週は土曜も日曜も、高畑医師は日勤と夜勤のどちらにも当たってはいなかった。普段は寄りつきもしない女医の休憩室から高畑医師が出てきたということは――当然ながら、そこには何か意味があったに違いない。というのも、高畑京子という女性の行動パターンを翼が見ていて思うに、彼女の動作というのは無駄を一切排除した、目的達成型の典型だったからである。

「まさかとは思うけどさ、その封筒って白地に水色のチェックだったりしなかった?」

「そこまでのことはわたしにもわかりません。医局の廊下って、土日や祝日には、光量を落として暗くしてあるし……ただ、高畑先生が廊下を曲がってご自分の部屋のほうへ戻られたあと、わたし、諏訪先生のロッカーを見てみました。鍵はかかってなくて、白衣が二枚と真っ赤なコートがかかった下には、ヴィトンのバッグがあったんです。携帯や手帳の類といったものはありませんでしたし、あったといえば化粧道具の入ったポーチとお財布くらいだったでしょうか。でも、バッグの中を見てる途中で、なんだか自分がひどく浅ましいことをしてるような気がしてきて……財布の中身を見たりだとか、そんなことまではしなかったんです」

「そっか。まあ、もし朝比奈が厳しいながらも目をかけてくれてる恩師に逆らうようで心苦しいってんなら、俺のほうからそのこと、赤城警部に話しておいてやるよ。もちろんおまえが諏訪晶子の遺留品を漁ったなんてことは、警察の人間には絶対言わない。ま、俺が思うに高畑先生が犯人ってことはない気がするんだよな。あの人は院長の娘だからさ、諏訪晶子が死んだって知らせが入るのも相当早かったと思うわけ。俺のところに連絡きたのなんか、とっくに夕方すぎた頃だったけど……だから、諏訪晶子の持ってるもんで自分に都合の悪いものを彼女から取り返そうと思った。そんなところかな」

 朝比奈は、自分のほうにろくに視線を向けるでもなく、まったく別の考えごとをするように煙草をふかす翼のことを、なんとなくじっと見下ろしたままでいた。上から眺めていると、伏せ目がちに見える目から鼻にかけてのラインが、まるで日本人とは思えないくらい整っていると感じる。おそらく肌の手入れなど、洗顔以外ろくにしていないだろうに、女の自分のすっぴんより綺麗ではないかと思われ、朝比奈は自己嫌悪に陥るほどだった。

「まあ、おまえは余計なこと考えないで、明日の手術の術式のことでも考えてれば?俺、内視鏡手術に関しては習熟レベルが高いほうらしいから、見ておいて損はないっつーか」

「は、はい。なんだか、結城先生に話を聞いてもらったら、少し心が軽くなりました。わたしも他のみんなと同じく、諏訪先生のことはあまり好きじゃなかったけど、それでも殺されるなんて……しかも、自分たち医局員の中に犯人がいるかもしれないとか、そんなことに気を取られてちゃ、ほんと駄目ですよね。しっかりしなきゃ」

 いくらこれまで、病院の一階にある霊安室に患者を送ったことが何度もあるとはいえ――それが病死ではなく殺人事件ということになると、話はまったく別のことだろうと、翼もそんなふうに感じる。

 と、この時、薄暗い廊下の向こうから、赤城警部と白河刑事が連れ立ってやって来る姿が見えた。おそらく今度こそ、翼の事情聴取をしにやって来たに違いない。

「あの人たちには俺がうまく言っておいてやるから、おまえはもう行ったほうがいい。諏訪先生のことはあまり深く考えるな。わかったか?」

「は、はい……あの、最後にひとつだけいいですか?どうして先生は、手術の時とかにわたしを頭ごなしに叱ったりしないんですか?わたし、自分でも自分のことは一番よくわかっています。外科医に向いてないってことも……自分でも時々、小泉みたいに皮膚科医にでもなれば良かったのかなって思ったりしますし。こんなことを言うのはなんですけど、結城先生はどちらかというと、仕事の出来ない人間に対して厳しい方なんじゃないかなって思うんです。わたしより斎木君のほうがずっと手術の腕もいいのに、彼のミスに対しては手厳しいですよね?その差っていうのは、もしかしてわたしが女だからとか、そういうことですか?」

 斎木充というのは、外科チームの一員で、年齢のほうは翼よりもふたつ上の、一応先輩格にあたる医師である。だが、彼が丁寧だがノロノロと縫合している姿を見ていると、翼はイライラするあまり、彼が先輩だなどということは忘れてしまうことが多かった。

「女、女か。朝比奈はさ、俺がどう答えたら満足なわけ?『そのとおり。俺も斎木が女だったら、もっと優しくしてやるんだがな』とでも言えばいいってこと?まあ、簡単にいうとすれば、厳しくしただけじゃ人は育たないって俺に教えた奴がいるってことかな。幸い、斎木の奴はふたつ年下のくせにとか、自分のが先輩なんだぞっていうようなウザい奴じゃなくて助かるよ。実際、あのマイペースっぷりには恐れ入るっつーか」

 ここまで翼が話した時、赤城警部と白河刑事とは、喫煙室の真ん前まで迫っていた。そこで朝比奈は、自分の欲しい答えをきちんと得たわけではないにせよ、その場から立ち去らざるをえなかったのである。



 >>続く……。





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