天使の図書館ブログ

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手負いの獣-3-

2013-02-25 | 創作ノート
【哲学】グスタフ・クリムト


 密林さんその他より、本が一冊二冊と届きはじめました♪(^^)

 今読んでるのは、「がん・生と死の謎に挑む」なんですけど、個人的に以前からガンについて知りたいと思っていたことが、すべて書いてあったといっていいと思います。

 特に、闘病記のいくつかを読んでいて、「それで、抗がん剤は本当に効果があるのか?」と昔から疑問だったんですけど、この答えについてもまるで当然のように書いてありました(^^;)

 ガンバリズムの精神で、一縷の望みにすがる思いでそうした治療を選択するのがいいことなのかどうかについても。

 まあ、わたしがあらためて色々書くと、逆に誤解を生んでしまうかもしれないので、ガンという病気について「そこは本当はどうなんだ?」と知りたい方は、是非一読することをお勧めしますm(_ _)m

 あと、並行して読んでるのが「手術室の中へ――麻酔科医からのレポート」と「医者が末期がん患者になってわかったこと」、その他といったところ。

「手術室の中へ」は、そのあたりのことがすごく知りたかったっていう情報がたくさん詰まっていて、読んでいて楽しいです♪(^^)

「医者が末期がん~」は、まだ読みかけなので、読み終わったらあらためて感想を書きますね。

 まあ、自分がガンだというわけでもないのに、ガンのことを色々調べたりして楽しいか?という話ではあるんですけど……個人的に昔から<死>ということに興味があるというか。

 普通の人は「それは遠いいつかの日のこと」として、<死>についてあまり考えず日々を過ごしている、というのが一般論らしいのですが、わたしは死ぬということについては相当考え尽くしている人間といっていいと思います。

 脳外で看護助手をしたのが二十三とか四とか、そのくらいだったと思うんですけど、そこに勤めている時にクリスチャンになりました。

 というのも、そこに誰か憧れとする看護師さんがいて、その方がクリスチャンだったとか、そんなことではまるでなく、「これは宗教の力が必要だ」というように、直観的に悟ったというか。

 その時の自分の考えとしては、まずは世界の三大宗教と呼ばれるものを順番に調べよう、まずはキリスト教、次に仏教、それからイスラム教……いや、イスラム教にまで手が回るかどうかはわからないけど、キリスト教と仏教については調べてみようと思ったんですよね。

 で、最初にキリスト教を当たったら、これが自分的に「当たり」だったということなんだと思います(^^;)

 緩和医療、ホスピスケアということを考えた時に、身体的な痛みを取り除くことの他に、よくスピリチュアルペインということが言われると思うんですけど――そういう意味では、わたし個人に悩みはないというか。

 死後の世界はあるのかどうかとか、人は死んだらどうなるのかといった悩みはない。

 でもそれは、わたし個人の「答え」であって、他の人にはそれぞれの死生観が当然あるわけですよね。

 その、人それぞれの「違い」に興味があるっていうのが、わたしが緩和ケア・終末期医療といったものに興味のある理由なんだと思います。

 なんていうか、脳梗塞でそのまま意識不明の状態だったり、植物人間として過ごしておられる方の意識がどうなってるのか――その部分を知性・理性の部分で支えるためには、「宗教の力が必要だ」と直感したっていうことなんだと思います(^^;)

 意識は半分天国に行ってるのだけれど、残りの半分はまだ肉体に残っている……IVHや胃瘻によって栄養分が体に行き渡っているという点で体は生きているんだけれども、やはり人間というのは意識がないだけでなく口から物を摂取できなくなった時点で、それはすでに<死>と同じことなのではないのか、などなど、働いてる間は忙しいので考える暇がないわけですけど、辞めたあとに色々考えて、そこでホスピスケアの本などを読むようになったのだと思います。

 あ、ちなみにわたし、IVH(中心静脈栄養)の意味を知ったのも、その病院を辞めてからでした(笑)

 ただ看護師さんに「IVH入ってるから、体交(体位交換)の時気をつけて」と言われれば、「そっか。これがIVHか」と思い、同じものが入ってる他の患者さんの体交の時にも気をつける、そういうものの覚え方だったので。。。

 なので今、「この人ドレーン入ってるから、体交の時気をつけてね」と看護師さんが言ってたのを思いだしつつ、「ドレーンの管理について」という文章に出会ったりすると、少しばかり感動します(^^;)

 もう何年も昔のことなのに、「ドレーンってそういう意味で入ってたんだな☆」ということを今ごろになって知り、以前はよくわからなかったことが<繋がる>のがすごく面白いというか。

 そうしたことがまるで何もなくて医学の本を読んでも、まるで意味がわからなかったと思うんですけど、自分的にそうした繋がるポイントがあるので、「面白い!面白い!!」と思って読み進められるんだと思います(笑)

 それではまた~!!



       手負いの獣-3-

(やれやれ。あのババア、虫眼鏡の向こうから珍しい昆虫でも見るような目でこっちを見てきやがって……)

 十二時半過ぎに外来から解放されると、首に聴診器をぶら下げたまま、翼は医局の食堂へ向かっていた。茅野医師はまだ仕事が残っているようだったので、翼は特に無用な気遣いをするでもなく、急ぎ足で食堂に向かい、そこで賄い婦の蛯原からカウンター越しにトレイを受けとっていた。

「今日のメインは豚肉の野菜五目炒めですよ。ごはんのほうはどうしますかね、先生。大盛りにしときます?」

「いや、べつに普通でいいよ」

 普通でいい、と言ったわりには結構な量がプラスチックの茶碗には盛られていた。もしかしたらこれも蛯原流の<サービス>だったのかもしれないが。

 管理栄養士の資格を持つ蛯原は現在六十四歳であり、六十歳で小学校の<給食のおばさん>を退職したのち――K病院で午前十一時から二時頃まで、パート勤めをするようになった。

 仕事の内容は至極簡単なもので、一階にある病院の給食室から医師たちの分の食事を運んで来、それを先生の注文にしたがって盛りつければいいというそれだけであった。

 この仕事をはじめて四年、今では蛯原は食堂で食事する医師全員の好き嫌いを完全に把握するまでになっていたといってよい。

「エビちゃん、今日の昼メシは一体何?」

「さあ~て、なんでしょう。お肉大好きな海江田先生にとっては、今日は朗報ですよ。豚肉はアルブミンにビタミンB1、ナイアシンが多く含まれてますからね。お肉のほうはたっぷりサービスさせていただきますよ」

「やったあ!!」

 そんな会話のやりとりをそれぞれの医師がするのを聞いていると、翼はなんだか蛯原が某有名モデルとはまったく別の意味で、医師たちのアイドルであるように思えてならなかった。

 よく考えてみると、この時間、大抵の医師は外来を担当するか病棟で回診するなどして、相当の空腹を抱えているはずである。そこへ持ってきて、まるで観音様のような優しい微笑みを持つ蛯原に、美味しい食事を提供してもらえるというのは――ほっと安心できるような、一日のうちでもちょっとした気晴らしになることだったに違いない。

(俺も、次からは『エビちゃん、ライス大盛りね!!』とでも言ってみようかな)

 翼がそんなことを思いながらじゃがいもと人参の副菜に手をつけていると、相当体を鍛えこんでいると思しき、体格のいい男がのっしのっしと歩いていく後ろ姿が見える。

(あっ……こいつ、朝のランボルギーニ野郎!!)

 ランボルギーニ野郎は本名を君塚というらしく、エビちゃんこと賄い婦の蛯原と、何やら暫くの間話しこんでいるのが聞こえる。

「今日もまた朝からだだをこねる患者の相手をしてて、くったくただよ。なんでこうガキどもというのは、こっちが何かする前に泣きわめくのかね。かと思えば、学校をさぼりたいがゆえの仮病が三件。もちろん『仮病の疑いが濃厚ですね』なんて、後ろに立ってる親の手前、言うわけにもいかないから――そこらへんはグレーゾーンで適当に誤魔化すことになるんだけど。それにしても俺、なんで小児科医になんてなったのかな。きっと専攻を決める時に頭がイカれてたんだろうな。いや、そうとしか思えん」

「君塚先生は、お子さん好きじゃないですか。来年にもまた、ひとり御出産予定なんでしょう?」

「エビちゃん、ガキなんてただ金がかかるだけの専制君主ですよ。しかも絶対に親の思ったとおりには育たない。ま、しょうがないですけどねえ。ガキは嫌いでも、子作りする行為だけは好きなんだから」

 ここで互いに笑いあったあと、小児科医・君塚は一番後ろの席に座っていた翼の、二列ほど前に腰掛け、黙って食事をはじめた。

(へえ……ちょっと意外だな。朝会った時には絶対こいつ、独身貴族とかいうのだろうと思ってたんだがな。しかも専門が小児科とはね。その上、ガキが嫌いとか公言してしまえるあたり、腕のほうは案外いいのかもしれないな)

 そんなことを思いつつ食事を終え、トレイを下げたあと、翼が後ろのドアから出ていこうとすると――顔も名前もまるでわからない医師が、雀卓を引きだしてきてそこを囲いはじめた。

「あ、不届き者の結城先生。昼休みの息抜きにマージャンなんて一局どうですか?当直の時も人数足りない時は、是非よろしく」

「はあ……」

(そんな暇あるか)と思いながら、翼は足早に食堂を出ていくことになった。これは翼があとになってから知ることであるが、K病院の医局にはある種の派閥が存在しているらしかった。派閥、などといっても、大学病院などにおける悪しきイメージの派閥ということではなく――大きく分けて、<マージャン狂>、<ゴルフ気違い>、<セブン・ブリッジ愛好会>、<卓球クラブ>の四つに分類されるらしかった。

 食堂は単に医師たちが食事するところというのではなしに、特に当直時などは娯楽室としても機能しているということを、のちに翼は直に目にして知ることとなる。

 とはいえ、最初に廊下でピンポン玉が規則的に弾む音を聞いた時には――一体何事かと思ったほどだったのだが。

       

 午後からは翼は、病棟を回って担当患者の引き継ぎ指導を受ける予定だった。てっきりその指導業務は茅野が行ってくれるものと翼は思いこんでいたが、例の五十万円盗まれた院長の娘――高畑京子が引き継ぎ担当だと聞いた時には、妙な好奇心で身内が膨れ上がっていた。

 この時翼は、事務長室で長身のロマンスグレイの色男、九重事務長にバカラグラス落下破砕事件について、厳重に注意を受けたばかりであった。なんでも、脳外科の館林先生が早朝から釣りに出かけて大漁だったその日――獲物がたっぷり詰まったクーラーボックスを肩にかけた館林は、あわやのところで、脳天にグラスが直撃するところだったらしい。

「グラスが落ちてきた場所は、館林先生がいた場所から歩いて一歩の距離だったそうですよ。まあ、これはあくまで、館林先生がおっしゃるには、ということなんですが……「一体誰だ!?」と叫んで上空を見上げると、一番上の階からこちらを見下ろす男ふたりの姿があったと。そしてそのふたりの顔が示し合わせたように引っ込んだあと、今度はイカフライのようなものが降ってきた。最初の行為についてはまあ、わざとということではなく、ベランダで酒を飲んでいたら手が滑ったということもありえるだろう。だが、そのあとにイカフライの皿が落ちてきたということは、あいつらは絶対確信犯だ、そうに決まっていると実に立腹されておりまして。
 実をいうとですね、今結城先生がいらっしゃるお部屋は、前まで内科医の袴田先生が居住者だったんです。その袴田先生が東北の系列病院に転勤することになって、空いた場所に結城先生が入ったということになります。袴田先生と館林先生は同じ釣り仲間として親しかった……これがどういうことか、結城先生にはおわかりになりますか?」

「もちろん。あのマンションのすべての部屋にK病院の医師が住んでいるわけではなく、他に一般の人も混ざっているにしても……以前医師のいた部屋に新しく別の住人が現れたということは、そこにいるのは当然また医者だろうって考えるのが自然ですよね。で、あの部屋にやって来た新住人は何科のなんという奴だ、まったくけしからんと館林先生は事務長に怒りを発した――そんなところですか?」

「ご明察のとおりです」

 色白の顔でやんわりと微笑み、九重事務長は面長の顔をほころばせた。

「田中君がお茶を運んできてくれたことですし、結城先生も最中などおひとついかがですか?」

 艶光りするダークブラウンのテーブルの上には、色々な和菓子ののった盆が置いてあり、翼は九重事務長お勧めの、餅入り最中に手を伸ばした。

 九重事務長は煎茶を飲みながらゆったりと続ける。

「まあ、もしも私の勘違いであったとしたら、訂正していただいて構わないのですが……私は結城先生の行為が故意であったとはどうしても思えないのですよ。というより、引越しの最中に羽休めしようと思って引越しを手伝いにきていた友人とベランダで一杯やっていたら――何かの拍子にグラスを落としてしまった。そしてまた間を置かずにイカフライの皿も落下することになった、そんなふうに思えて仕方がないのです」

「え~っと、まあ……」

(この最中、すげえうめえな)などと思いつつ、翼は自分なりに言い訳の言葉を脳裏で探索していた。

「事務長のおっしゃることは、大筋で合っています。少なくとも、俺は下に脳外の館林先生が歩いているのを見て、わざとそんなことをしたわけじゃない。その前までピザを食べていて、その脂分が手に付着していたせいかどうか、つるっとグラスが滑ったんです。その点については本当にあやまります。で、「やばい!!」と思って反射的に隠れようと思った矢先、今度は友人がイカのフリッターを地上に落下させてしまったんです。本当に申し訳なかったと思います、すみませんでした」

 翼はこれでも一応、自分が100%悪いと思われる事例については、きちんと頭を下げてあやまれるタイプの男である。そこで、本革のソファの上で、膝の上に両手を置き、しっかり頭を下げた。

「いえいえ、私になど頭を下げられても困ります、結城先生。私ども事務方が心配するのはようするに、館林先生と結城先生の今後の御関係についてなのですよ。何しろ、専攻的には結城先生と館林先生の間にはあまり接点はないかもしれませんが……茅野先生の部長室の隣が館林先生のお部屋ですからね。そして、結城先生がお住みのマンションでは、館林先生は1001号室に住んでらっしゃるのです。館林先生は普段、それはとても温厚な方です。ですがその時は相当腹がお立ちになったのでしょうな。その時もよほど、1005号室のドアをノックして「これはお宅のものですね!?」と、ちりとりで取ったガラスの破片やイカフライを目の前に突きつけてやろうと思ったとか……でも、ギリギリのところで思い留まられたのです。もしかしたら結城先生が、これから自分の立場をおびやかすことになる、ハーバード帰りの雁夜先生かもしれないと、そうお思いになったそうですから」

「あーあ、なーる……」

 翼は妙に得心して、左手の手のひらを右手でぽん、と叩いていた。

「つまり、そういうことです。一応こちらでは、何階の何号室にどの先生がお住まいかといったことは、個人情報としてお教えしないことになってるんですよ。で、まあ、雁夜先生がお住まいなのは505号室であるとお知りになり、館林先生はほっと安堵されたご様子でした。自分よりも狭い範囲で開頭手術できる雁夜先生と、どちらかというと論文畑寄りの館林先生とでは……これから脳外科の力関係はどうなるのかと、スタッフは若干やきもきしているようです」

「確かに、迷惑といえば迷惑な話ですよね。なんとか新術式とやらを携えて、鳴り物入りでエースの御登場だなんていうことになったら……旧術式の成功症例を何百と持っていたところで、自分は常に向こうよりも劣っているという劣等感を持たざるを得ない。あ~あ、俺、館林先生に悪いことしちゃったな。館林vs雁夜っていうことでいったら、絶対に俺、100%館林先生の味方しちゃうのに」

「時に結城先生は、自分は経歴では雁夜先生に負けているが、身長差では勝っている――とおっしゃったというのは、事実ですか?」

「ほえ?まあ、そんなことを言ったよーな、言わないよーな……」

 勤務医をしていると、患者に関する重要情報以外については、矢が飛ぶように翼は瑣末なことを忘れてしまう傾向にある。それでもこの時は、『そういえば茅野さんと朝礼のあと、そんな話をしたっけ』とぼんやり思いだしていた。

「もちろん、このこともまた、結城先生は何気なく冗談で口になさったのでしょうが――まあ、壁に耳あり、障子に目ありです。院内スタッフの誰かが結城先生の言葉を耳にして、それを同じ科のスタッフなどにしゃべり、最後に雁夜先生の耳に届く頃には、『結城先生は雁夜先生を敵視しているらしい。科は違っても、相当ライバル心を燃やしてるって噂ですよ』なんてことになりかねませんから、何卒言葉には御注意ください」

「ははは。ご忠告ありがとうございます、九重事務長。まあ、口は災いの元って言いますからね。以後、ベランダで飲食する際にもまわりに人がいる時に誰かの悪口を言うのも、十分配慮して行ないたいと思います」

 九重事務長が「結構」というように、鷹揚に頷く姿を見ながら、翼は最後にかりんとうを一本食べ、それを茶で飲み下したのち、事務長室をあとにした。

       

 事務長室から廊下を挟んだ向かいに、医療図書室があるのだが、翼はちらと時計を覗きこんだのち、ほんの五分、司書の田中陽子と小話でもしようと考えた。

 特にこれといった他意はなかったが、先ほど事務長室に茶を持ってきた時に、「がんばってくださいね」と無言のうちにも励まされている気がしたという、そのせいかもしれない。

「それで僕はね、哲学者の中ではキルケゴールが一番好きなんだ。まあ、医学と哲学では、あまりに専門として違いがありすぎるとは思うけど――彼の本が一冊もないだなんて、本当にがっかりだな。医術の専門書ももちろん大切だけど、一般教養として最低でもそのくらいは置いておくべきと思うよ」

「すみません、雁夜先生。何分、スペースに限りがあるものですから……もし雁夜先生のお勧めの本などがあれば、もちろん蔵書を増やしたいとは思っています。あと、これはすべてのお医者さんにお願いしてることなんですけど、医学の専門書に関しても、品揃えを充実させるために、他に最低でもこうした本は必要であろうといったものは、是非お教えください。何分わたし、医学の専門知識なんてまるでないものですから」

「随分正直な人だな。普通はもう少し、知ったかぶりをしたりするものなのに。じゃあ、次にこの本を返却する時までに考えておくよ」

「よろしくお願いします」

 翼は図書貸し出しカウンターの前を通りすぎ、棚をひとつ隔てたあたりに身を隠して、田中陽子と雁夜潤一郎のそうしたやりとりを聞いていた。

(キルケゴールねえ)

 医学の専門書ではない、一般のベストセラーコーナーの棚で、何気なく一冊本を手にとり、翼はそこで自分に許した五分というタイムリミットがやって来たのを知った。もし雁夜がいなければ――カウンターのところで「先日は案内をどうも」とでも挨拶したところだったのだが。

「あ、結城先生!!」

 翼が何も言わずにカウンターの前を通りすぎようとすると、そんな翼の後ろ姿に追いすがるようにして、陽子が声をかける。

「あの、たった今雁夜先生にもお願いしたばかりなんですけど……K病院通信の原稿、お願いしてもいいですか?」

「嫌だね、なんて言っても、結局やらされることになるんだろ?で、そのK病院通信って一体何?」

「えっと、確か先月号の見本がこのあたりに……」

 陽子はあたふたしたようにカウンターへ戻り、積み上げた書類の中から、K病院通信八月号なるものを引きだしている。

「九月号のほうは、医局の掲示板に貼ってありますので、もしご興味があればご一読ください。このK病院通信というのはですね、月に一回一日(ついたち)に発行しているもので、病院内のあらゆる掲示板に貼ってあるものです。毎月、高畑病院長や笹森副院長、宮原総師長のコラムものってますし、各科の看護師長がローテーションで記事を担当したりもしてます。あと、こちらもまたローテーション制で、各科の先生方に近頃あった面白いこととか、医療に関することだけでなく趣味のことを楽しく書いていただいたりしてるものなんです」

「ふうん。で、俺は一体何を書けばいいわけ?」

「そうですね。まあ簡単に四百文字以内か八百文字程度で構いませんので、自己紹介文をお願いしたいのですが……写真のほうは先生、履歴書に貼ってあったもので構いませんか?もし他のがよろしければ、携帯でとったものでもなんでも、先生の気に入ったお写真を使いたいのですけど……」

「いや、べつに履歴書のでいいよ。あれ、写真うつりワリィけど、実物のほうがそれよか百倍いいってなったほうがいい気するし」

「確かにそうですね。先生、わたし、瑞島さんにお聞きしたのですけど……」

 翼と陽子が何気なくくすくす笑いあっていると――常時開きっ放しになっている図書室のドアが、わざわざコンコン、と鳴らされた。

「田中さん、ちょっといいかしら?」

 時間がなかったせいもあり、事務室の女性事務員と入れ違いになるように、翼は医療図書室をあとにすることになった。背後からは、「さっき頼んだ文書、こことここが間違ってるわよ」などという、厳しい声が聞こえる……そのあとに、「すみません」と陽子が平謝りに謝る声。

(ありゃあ、一見して間違いなく、<怖い女>に分類されるタイプだな)

 彼女――役職名は経理事務員の金井美香子は、髪の毛を金色に近いくらい茶に染めた三十代後半の女性であった。中肉中背でほっそりとしたスタイルをしており、一見穏やかそうにすら見える容姿をしている。

 だが、陽子に注意している口調を聞いているだけで、翼は名前も知らない事務員に対し、「あれは関わってはいけない女だ」と即座に判断していた。もちろん、医師と事務員とでは、そもそもほんの時たましか、接する機会はなかったにしても。



 >>続く……。





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