天使の図書館ブログ

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イエスさまの経験された霊的暗黒。

2013-12-24 | キリスト教
【東方三博士の礼拝】ジョット・ディ・ボンドーネ


 ♪じんぐるべ~、じんぐるべ~、鈴が鳴る~、今日は楽しいくりすます、ヘイっ!!な毎日が続いてますが、今日はそんなクリスマス・イヴです

 でも多くの方がご存知のとおり、商業的クリスマスと本当のクリスマスっていうのはちょっと別のことなんですよね。確か若草物語のジョーだったでしょうか。「プレゼントのないクリスマスなんて、本当のクリスマスじゃないわ」みたいに言ってた記憶があるんですけど、そういう種類の祝い方もとても大切です(特に子供たちにとっては)

 じゃあどんなクリスマスが本当のクリスマスかというと、イエスさまが何故この世界にお生まれになり、十字架に架かって三日後に甦られたのか、そのことについて少しばかり考える……という、そういう選択肢も中にはあるのかなと思いました

 今回のトップ絵はジョットの「東方三博士の礼拝」ですが、マリアさまの聖霊による受胎ののち、イエスさまが馬小屋でお生まれになったというお話は、この時期色々なところで語られると思いますし、クリスチャンでない方でもよくご存知かと思いますので、とりあえずそこのところは省きますねm(_ _)m



(フラ・アンジェリコの【受胎告知】数ある受胎告知図の中でも、わたしが一番好きな絵です


 さてさて、聖霊さまによって身籠り、マリアさまの胎からお生まれになったイエスさまは、その後すくすく成長されて三十歳になりました。そしてついに「時が満ち」、神の国について宣べ伝えてこう言います。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」
(マルコの福音書、第1章15節)

 そして行く先々であらゆる人の病いを癒し、目の見えない人を見えるようにし、悪霊を追いだし、多くのたとえによって弟子を教え導いてゆかれました。

 ところで、意外に知られていないことですが、イエスさまには弟や妹がいたといいます。つまり、イエスさまは聖霊さまによって身籠った<神の子>ですが、その後大工ヨセフとマリアさまの間には、少なくともヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、それと妹「たち」とあることから、ふたり以上の妹がいたものと思われます。

 わたしの持ってる聖書の欄外には、「これをヨセフの先妻の息子、あるいはイエスのいとこと見なす(カトリックの見解)は無理がある」と書いてあるのですが、カトリックとプロテスタントでは見解が違うということについては、話が長くなるのでここも省きますね(^^;)

 なんにしても、イエスさまの弟のヤコブさんという方は、新約聖書に収められた「ヤコブの手紙」の著者であり、最初は自分のお兄さんが<救い主>であるといったようには信じてなかったらしいのですが、のちに信じてキリストの弟子(イエスさまの弟子)になった方のようです。

 ええとですね、わたし思うんですよ。自分の兄が仮にどんなに立派な行いの正しいいい人であったにしても――ある日「わたしは神の子です」とか「神の国が近くなったから福音を信じなさい」とか言い出したら、今でいう精神病院に速攻連れていきますよね

 でも、お母さんのマリアさまから自分の兄が普通の生まれでないことを聞かされたり、またイエスさま自身が普通では考えられない奇蹟を数多く起こしたことから(盲人の目を開眼する、らい病人を癒す、死人を生き返らせる、悪霊を追いだすなど)、やがて信じるようになっていったのかな……なんて想像したりします。

 そしてこうした数多くの奇蹟を行う、心正しいイエスさまだったのですが、みなさんご存知のとおり、のちにイエスさまはイスカリオテのユダに裏切られ(言うまでもなくイエスさまの弟ユダとは別人)、十字架にかかるということになってしまいました



(ジョットの【ユダの接吻】ユダの裏切りの場面としては他に、イエスさまの手にユダが口接けするものと二種類描き方があると思うのですが、当時の習慣的なことを考えるとジョットのほうが正しいのではないかと、以前何かで読んだ記憶があります)

 ユダの裏切りについては、彼が何故裏切ったのか、実をいうと聖書に細かい記述はありません。金のためとも、政治的メシアを待望していたのに、イエスがそうじゃなかったから失望して裏切ったとも言われます。

 ユダさんはたぶん、ローマの支配下にあるユダヤ民族を解放してくれるという意味での<政治的メシア>を待望していたのかもしれません。そしてこの期待は他の人々にも同じものがあったでしょう。何しろ、盲人の目を開き、不治の病いを癒し、死人ですら甦らせたというほどの方です。この方が「王」となって軍を率いれば、ローマ軍なんて何千万人兵がいようとお茶の子さいさいで撃破してゆくに違いない……何かそうした人間的な期待があったのではないでしょうか。

 けれども、イエスさまが<神の子>としてこの世に来られたのは、我々人間を罪から救うため、霊的に解放するためでした。聖書にはイエスさまが宣教を開始する前に「悪魔に試みを受けられる」という場面がありますが、もしその時イエスさまが悪魔の誘惑に負け、「全世界をあなたに任せる」という言葉に頷いていたら、実際それこそがユダの望むメシア像というものにもっとも近かったのだと思います。

 また、マタイの福音書・マルコの福音書・ルカの福音書・ヨハネの福音書という、いわゆる四共観福音書を読んでいると、「ユダってなんか可哀想」とも思ってしまいますよね。何故といって、「そうでなければ聖書が成就しない」ことのために、なんだかユダって犠牲になっているようにも見えますから(^^;)

 なので、イエスさまを裏切ったユダさんに対しては、人によって見方が少し異なるかもしれません。つまり、「根っからの悪人でどうしようもなかった」とする節、「つい魔が差してお金(銀貨三十枚)のために裏切りを働いた、わたしたちと同じような普通の人」、あるいは「イエスさまがあんまり凄い人だったので、自分が裏切りを働いても十字架からそのまま天に昇っていくくらいの奇蹟を起こせるだろうと信じていた」……などです。

 最後の節はちょっと驚きですが、ユダは十二弟子のひとりとして、イエスの教えを受け、また彼が奇蹟を行うところも何度となく見ていたはずですから、のっぴきならない状態に置かれれば置かれるほど、もしかしたらイエスさまはもっと凄いこと(王としてローマ軍を撃破する)や奇蹟を行ってくれるんじゃないかと、ユダさんは期待していたんじゃないかという節です。

 さて、そのようなわけで弟子のユダに裏切られ、「こいつは自分たちの思ってるようなメシアじゃねえ」ということで、パリサイ人はじめとする民衆たちの言葉により、十字架につけられることになってしまったイエスさま。


【十字架を担ぐキリスト】ヒエロニムス・ボス


 道をいく人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。
「神殿を打ち壊して、三日で建てる人よ。もし神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい」
 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちと一緒になって、イエスを嘲って言った。
「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、我々は信じるから。
 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、今救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから」

(マタイの福音書、第27章39~43節)


 ええーっ!?病気の人を治したり悪霊を追い出したり、<神の子>としてすごくいいことばっかりしたイエスさまが、何故こんなことに……と思いますが、これこそが普遍的な人間の罪の姿だ、といったようにもよく言われます。

 つまり、わたしたちの中には自分たちにとって都合のいい「神さま像」というものがあって、それと合致しない場合は受け容れることが難しいということですよね。簡単に言えば、「年末ジャンボで7億当たったら、おまえが神の子だって信じてもいいぜ」、「あなたが神の子なら、夫が浮気するのをやめるようにしてください」、「だってあなた、神なんでしょ?じゃあ明日、誰にでもそれとわかるような人に害のない自然現象でも起こしてちょうだい」……などなど、こうしたある意味自分勝手というか、人々が心に色々と思い描く罪や欲望とともに、イエスさまは十字架にかかるということになりました。

 そして十字架上で父なる神との<霊的断絶>、霊的な暗黒すら経験されて、苦しみの極みの中で肉体上の死を経験されたのです。


【磔刑図】アンドレア・マンテーニャ

 それにしても何故、イエスさまは<神の子>なのに、こうしたことを経験しなくてはならなかったのでしょうか?聖書にも書かれているとおり、もちろんイエスさまは神の子ですから、天の軍勢に命じて、自分を助けるようにさせることも可能でした。でもそうなさいませんでした。何故なら、それはわたしやあなたの罪をかわりに背負って十字架にかかり、その罪を帳消しにするため、そこから生じる罰をかわりに引き受ける必要があったからです。

 また、父なる神との霊的断絶、霊的暗黒というものも経験なさる必要がありました。何故なら地上の多くの人間が、そのような霊的暗黒の支配下、肉体の目は見えていても霊の目は見えていないという盲目な状態にあるため、そのような人々を救うためにこそ、イエスさまは苦しみの極みを味わわれたのだと思います。

 十字架刑というのは過酷なものでした。映画などでご存知の方も多いと思いますが、手や足を釘で打ち抜かれ、その状態のまま死ぬまでさらし者として放っておかれるというのが十字架刑です。つまり、両手・両足を打ち抜かれたことで体を支えられなくなり、やがて呼吸困難になって死に至るのですが、この場合息を引き取るまで相当な時間がかかり、その間悶え苦しむことになります。イエスさまの場合は奇跡的に息を引き取るのが早かったのですが(それでも約六時間)、イエスさまと一緒に刑罰を受けた他のふたりの罪人は、足のすねを折ることでその死を早めさせられたと言います。

 こうして肉体上の死を味わったのち、前もってイエスさまがおっしゃっていたとおり、彼は死を克服して復活されました。



【最後の審判】ミケランジェロ・ブオナローティ

 わたしはよみの力から彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。
 死よ、おまえの棘はどこにあるのか。
 よみよ、おまえの針はどこにあるのか。
(旧約聖書ホセア書、第13章14節)


 死んだ人間が生き返る?そんな馬鹿なと思われるかもしれませんが、それを信じて死後には永遠の生命(=天国)があると言っているのがクリスチャンと呼ばれる人たちなのだと思います。

 また、イエスさまは復活されたのち、天国へ昇っていかれたわけですが、それはわたしたちのために天国の場所を備えるためでもありました。

 もちろん、こう書いてしまうと「キリスト教って実はファンタジーなの」といった感じですが、人間的な理屈によっては信じられないように出来ているところがこの宗教の凄いところだと個人的には思っています(^^;)

 なんにしても、イエスさまは人間の罪を背負って救うために、この世に生をお受けになられました。ただ単純に「赤ちゃんが生まれたぞ、ばんざーい!!」というよりも、これから無事成長して良い子に育っても、最後は人にののしられ唾をかけられ、何も悪いことはしていないのに十字架上で罰を受けることになるという、ある意味「悲しい生涯」のはじまりでもあります。

 でもそのためにこそイエスさまは神の子として生まれてくださった……何故ならそうであればこそ彼には、肉を持つ人間の苦しみや悩み、悲しみつらさ……そうしたすべてがわかるのですから。そして今もこれから先永遠に至るまで、父なる神と人間の間の仲保者として、とりなし続けてくださるのです。

 そしてこのイエスさまのメッセージはただひとつ、「自分が十字架にかかったことを喜びなさい」ということでした。そして自分の罪が許されたことを喜び、それにも関わらずまた罪を犯してしまったというなら、その時にもまた何度でも自分の元へやって来なさいということでした。

 また、これはわたし個人の考えですが、教会の十字架の前には(目に見えない)霊的財宝が積んであると思います。これは盗んでもまったく罪にならないもので、むしろ逆に強盗の如くたくさん持っていって構わないものだと思うのですが、最近はそれが目に見えていない人がますます増える傾向にあるのかもしれません。

 それではまた~!!





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