天使の図書館ブログ

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手負いの獣-23-

2013-03-25 | 創作ノート
【波】ウィリアム・アドルフ・ブグロー


 今回のトップ絵は、ブグローの【波】ですが、これは次回のトップ絵の前振りみたいなもんだと思ってください(笑)

 ところで今回は、ヒヤリハット事例&失敗談に続いて、実際の医療ミスについて書いてみようかな、なんて(^^;)

 いえ、物語の中のこの部分は実は実話が元になっています。もちろん、それも病院内におけるちょっとした噂(?)みたいなものなので、真実についてはっきりしたことまではわかりません。。。

 というのも、随分前に書いたH看護師が手術室付きだった頃、月イチ夜勤の際に休憩室でこう言っていたんですよね。

「わたし、Nさんはたぶん医療ミスだと思う。院長先生、手順で~~の時、いつもなら△△するのに、しなかったんだよね。あれが原因だと思うんだけど……でも医療ミスって難しいと思わない?わたしももし家族の人に直接聞かれる機会があったらどうしたらいいか、迷うしね」

 いえ、~~とか△△のあたりがどういう単語だったかとか、今はもう定かじゃないですただ、印象として大体↑のようなことをHさんが言ってたなと、ぼんやり思いだすというだけで……。

 というのも、このNさん、手術前と手術後とで、性格が180度変わってしまったというか、そんな感じだったんですね。

 手術自体は確か動脈瘤か何かで、そんなに難しい手術ではないと聞いていた気がするんですけど、手術前は「よくいる普通のおばさん」といった感じの方が、突然認知症のかなり進んだ言動をするようになったというか。

 もちろん、手術ミスで認知症になったということではなく、わたしから見て、大体介護度が4とか5くらいに当たる症状に見える感じでした。こちらの言っていることを聞いていないし理解もしないし、自分の理論で突然「家に帰る」と言いだし、職員4~5人でようやく止めるといった物凄い馬鹿力……かと思うと、認知症の方が時々そうであるように、突然こちらがドキッとするような真実を口にすることもあり。。。

「自分がこんなに馬鹿になってしまって、本当に悲しい」――入院してきた時には見当識障害なんてまるでない方だっただけに、その言葉には本当に胸が痛みました。

 その言葉をNさんがポロッと洩らす前まではわたし、なんとか失禁した彼女のズボンなどを取り替えようと、「着替え」の説得をしていたところだったんですよね。ところが、「取り替えよう」とか「着替えよう」といっても、まるで言うこと聞いてくれなくて(^^;)

 それで、じっとベッドの上に座ったまま、ポロッとそう洩らされたので、暫く一緒に並んで座ったままでいました。急いで着替えてもらうより、少し時間が必要かなと思ったので……。

 まあNさんの件が結局のところ、医療ミスだったのかどうかは、わたしにはわかりません。でももし医療ミスだったとしたら――まだ五十代くらいの方でしたから、彼女と彼女の家族にとっては、本当に取り返しのつかないことだったと思います。

 いえ、看護師さんたちが時々、「脳ドックで動脈瘤が見つかったら、手術したい?」って話してたことがあるんですよね(^^;)

 将来破裂したら危険な場所にあるとしたら、それは手術したほうがいいってお医者さんも勧めるそうなんですけど……そうじゃない場合は、「患者さんに決めてもらう」方向で話をするっていうことだったんですよ。

 なんていうかそういう時に「破裂するかもしれないし、しないかもしれない。手術したほうがいいかもしれないし、しないほうがいいかもしれない」といったような、先生によってはこれに近い、極めて曖昧な説明をする場合があるので、患者さんのほうでも戸惑うということでした(^^;) 

「だからさ、そもそも脳ドックなんて受けないほうがいいんだって。それで動脈瘤が発見されたら、そんなものが頭にあるってわかった以上、取らない限りは気持ちが落ち着かないじゃない?でも、頭に電気メス入れるって、やっぱり怖いことだよ。下手したらNさんみたいになる可能性もあるわけだから……」

 いえ、これ、実際に看護師さんが言ってた言葉です。脳外の看護師さんが脳ドック勧めないってどうよwwっていう話ですけど、ここをお読みになった方はこの話、どうか真に受けないでくださいね(=「そうか、脳ドックなんて受けないほうがいいんだ☆」なんてお思いになりませんように

 それではまた~!!
 


       手負いの獣-23-

「あ、山田先生いる?」

『あら、結城先生。少々お待ちくださいませね』

 妙に媚びた声の看護師がそう答え、暫くの間オリビア・ニュートン・ジョンの<そよ風の誘惑>がクラシック調のメロディとして流れる。

『はい、お電話かわりました』

「山ちゃん?山ちゃんのところにさ、内科の内藤先生の息子さんが研修医として来てるだろ?彼についてどう思う?」

『どうって……急にどうしたんですか、結城先生。彼はとても良く働くいい子ですよ。仕事をすべて任せるには不安な面もありますが、勉強熱心だし、患者と意志の疎通を図ろうとする点においては、見るべきものがあると思います』

 ここで翼がかいつまんで、事態の推移について説明すると――山田は周囲の看護師に内藤先生は今どこにいるかと聞いているようだった。その数秒後、『えっ!?院長先生に呼びだされたって……』という、山田の驚きの声が聞こえる。翼はすぐに電話を切った。

「なんとなく、嫌な予感がする。内藤先生の息子は今、院長先生に呼びだされたんだってさ。俺、ちょっと院長室までいってくる!」

 翼は下にブルーの術着を着た、白衣姿で廊下を走っていき、そのあとを赤城警部と白河刑事、それに茅野とが追ってきた。その途中、T字路の部長室の並ぶ廊下の向こうから、高畑京子が歩いてくる姿を翼は見たが、この時彼女のことにはさして関心を払わなかった。

 また、翼の後ろを刑事ふたりと茅野が追ってくる姿を奇異に思ったらしい、医局から出てきた耳鼻咽喉科の高野が、目を丸くしてこちらを眺めていた。

「院長、入りますよ。いいですね!?」

 ノックするかしないうちに怒鳴るように言い、翼は院長室の重厚な扉を開けた。するとそこには、メスを片手に高畑院長の喉を絞めつける、内藤数真の姿があったのである。

「た、た、たすけ……」

 猫背の猿といった容貌の、背が低い院長は、体格のいい白衣姿の青年にがっしりと押さえこまれ、口の端からよだれさえ垂らしているという体たらくだった。

「内藤くん、やめろ!!そんなことをしても、お母さんは元には戻らないんだぞ!!」

 腹の底からの声量でそう怒鳴ったのは、茅野だった。体に震えがくるほどの声の大きさに、内藤数真はびくっとしたようだが、それでもやはり、院長の喉元を締め上げるのをやめはしない。

 赤城が小声で白河に、「お父さんを呼んでこい」と指示した。

「こいつさえ、こいつさえいなければ……僕たちは幸せな家族のままでいられたんだ。ハハハハ。僕はね、自分が医者になるまで知らなかったんですよ。母さんが脳動脈瘤の手術ミスであんなふうになっただなんて。父さんも、ずっと僕に隠してたんだ。医者の怠慢によるミスで、簡単な手術だったにも関わらず、母さんは頭がおかしくなって……僕もつらかったけど、父さんはもっとつらかったはずだ。だって、あんなに優しい綺麗な人が、突然まるで別人みたいになっちゃったんだから……小さかった僕より、もっと長い時間を母さんと過ごした父さんのほうが、もっとずっとやりきれなかっただろう。父さんは、こいつが母さんの手術をしたとは、僕に話さなかったけど、ここに来てから色んな人から色んな噂話を聞いてるうちに、わかったんだ。ああ、本当はそうだったんだって……しかも、今度は父さんがガンになるだなんて。なのに、どうしておまえのような奴だけが、いつまでものうのうと生きながらえてるんだよ!!」

 高畑院長の色の悪い喉元に、ツッと、メスによって血の色が走る。

「馬鹿な真似はやめなさい、内藤くん!!」

 そう後ろから叫んだのは、高畑京子だった。翼が後ろを振り返ると、院長室の前の廊下には、騒ぎを聞きつけた医局員たちが十数人ばかりも群がっていた。翼はその最後尾のほうに、慌てて駆けつけ、息を乱した山田優太の姿を認める。

「そんな人、あなたが殺して人生を棒に振るほどの値打ちのない人よ。娘のわたしが言うんだから、間違いないわ。さあ、そんな物騒なもの、こっちに寄こしなさい。何しろ、わたしはもうふたり殺してるから、三人殺しても大して違いはない。だから、そのメスをわたしに寄こせばいいわ。あなたが手を汚すまでもなく、かわりにわたしが殺してあげる」

「き、京子……」

 血の繋がらぬ娘のその言葉に誰より驚いたのは、高畑院長本人であったかもしれない。目を剥き、よだれを垂らした彼は、内藤数真が突然体を離したことにより、ペルシャ絨毯の上に不様に倒れている。

「や、山田先生……」

 山田優太が人の間をかきわけるようにして、院長室に姿を見せた。そして、その後ろからさらに、内藤数真の父親である内藤聖司が息を切らせた顔で現れる。

「うわーーーッ!!うわーーッ!!うわああああッ!!!」

 おそらく数真は、自分が心から尊敬する人間の、こうなってなお、微かに慈しみの感じられる眼差しに耐えられなかったのであろう。マホガニーの書斎机の隣に蹲り、ただひたすらに泣きはじめた。そんな彼の元に、父親が優しく手を差し伸べる。

「馬鹿だなあ、数真。こんなことをしでかして……父さんは恥かしいぞ、ん?」

 内藤聖司は、子供のようにすがりついて泣く息子に対し、そう穏やかに話しかけた。おそらく数真は、ガンに冒されている父に対し、さらに心労をかけてしまったという思いでいっぱいだったのだろう。ただひたすらに泣きじゃくり、「ごめんなさい、ごめんなさい、お父さん」と繰り返していた。

「院長先生。よく見ておくといいわ。これが本当の親子愛ってものだっていうことをね。あなたは兄さんのことは厳しく育てて、揚げ句交通事故で亡くし、わたしには関心を払ったこともなかった。愛人に生ませた飯島将馬のことは目に入れても痛くないほど可愛いかもしれないけど――彼のことは、あなたが甘やかして駄目にしたという側面が大きいわね。なんにしても、これでもうこの病院は滅茶苦茶よ。すべてわたしの望みどおりになって、本当に嬉しいわ。さあ、刑事さん。わたしを逮捕してちょうだい」

 高畑京子は、すらりと細く、雪のように白い手首を赤城に向かって差しだした。赤城は彼らしくもなく、珍しくうろたえていたが、それでもスーツの内ポケットから手錠を取りだしている。

「待ってください、刑事さん」

 赤城警部が高畑京子の手首に手錠をかけようとするのを、すぐそばにいた山田が止めようとする。

「何故、あなたは犯人でもないのに、本当の殺人犯のことを庇おうとするんですか?警察に捕まって適当に嘘の証言をしても、すぐバレますよ。それなのに、どうして……」

「あなたには関係のないことでしょう、山田先生」

 高畑京子を逮捕するかしないか、彼女に手錠をかけるかかけないかで、ふたりが暫く揉めていると――突然、大きな声で山田がこう怒鳴った。

「僕が殺したんですよ、諏訪晶子も、金井美香子のことも!!それなのに、どうしてあなたが罪を被らなきゃならないんだ!!」

 院長室前にいて、ざわついていた医局員たちは、普段温厚な山田のこの怒鳴り声に、暫し水を打ったように静かになった。

「じ、冗談はやめてくださいよ、山田先生」

 普段、人前で話すことが苦手な溝口も、この時ばかりはシーンとしたこの場で、大声になっていた。

「おい、この中に諏訪先生や事務員の金井さんを殺した奴がいるんだろう!?人間として恥かしいと思うなら、この場ですぐに名乗りでろ!!じゃないと、なんの罪もない人間が、こうして警察に引かれていくことになるんだぞ。わかったら……」

「すみません、溝口先生。でもこれは、本当のことなんです」

 山田優太が有無を言わせぬ眼差しでじっと見つめ返すと、溝口もその気迫にのまれるあまり、黙らないわけにはいかなかった。

「それから、ここにいるすべてのみなさんに――僕はあやまらなきゃならない。本当は、僕は医者じゃないんです。だから、みなさんを今の今まで騙していたことになる。諏訪晶子を殺したのも、金井美香子を殺した理由も、元を辿ればそのことが原因でした。そして僕は、そこにいる高畑院長のことも深く恨んでいた。何故なら、僕が医者になる道を絶ったのは……他でもないこの人でしたからね」

(言わないで)、翼は高畑京子が小声でそう囁く声を聞いたが、山田優太は彼女を無視して、話を続ける。

「いや、もしかしたらこれは、逆恨み、ということになるのかな。僕の父親はね、高畑院長、あなたに手術ミスの汚名を着せられて、医療裁判で心身ともにボロボロになり、最後は家のガレージで首を吊って死んだんです。そしてその父のことを発見したのが母でした。母は心を病んで、最後は崖から身を投げて自殺したんですよ。僕が二十三で、父と同じ脳外科医の道を志した時のことでした。ちょうどその頃、医大では専攻を決める時で……そうすることで死んだ父も喜んでくれる、母の心にも少しは慰めや安らぎを与えられるだろうかと僕は思っていました。でもある日、家に帰ったら母が家にいなかったんです。テーブルの上には遺書が置いてあって、僕はすぐ警察に連絡したあと、心当たりを探しまわって――ここからそう遠くない、高い岩場の上に、母の姿を見つけました。僕はなんとか母のことを呼び戻そうと思って、子供みたいなことを色々叫んだと思います。でも母は、もう精神的に限界だったんでしょう。僕に対し、『ごめんね、許して』と言って、岩場から飛び下りたんです。その時のショックで僕は、もう医大に通い続けることも、何も出来ない状態になりました。父や母の生命保険金は、遺族に支払わなければいけないとの名目で、親戚に掠め奪われました。その頃の僕は、そのくらい何も知らない、世間知らずの子供だったんです。大学に支払える学費もないし、医学の道は一端諦めることにしたんですが――僕には悪い友人がいたんですよ。いえ、この場合はいい意味でいう悪い友人なんですけどね。医大を無事卒業し、医師になった彼が、『ちょっともぐりで仕事をしないか』っていうんです。もちろん最初は『無理だ』と言って断ろうとしたんですが、X線検査の見方くらい、自分が教えてやるといわれて。僕はお金に困っていましたし、かといって他になんの特技もないと思い、その友人の話に乗りました。最初は、簡単な健康診断のチェックをする医師からはじめて、次に接骨院でバイトしたんです。おそらく、ここにいらっしゃる正統医学を学んだ方々は、接骨院と聞いただけで、お笑いになるでしょうね。でも、僕が師事した先生は、ほとんどその道の天才といっていい方だったんですよ。その他、僕は彼から東洋医学についての知識や手技を学び、また同時に途中で中断することになった現代医学についても、並行して勉強していったんです。僕はその時、何人もの患者さんたちが癒されて帰ることに喜びを見出していたんですが――ニュースでふと、医師免許のない偽医者が捕まるという報道を見かけたんです。そして知ったんですよ。医師免許を偽造することが可能だということを……その時僕は、一瞬でもなんて馬鹿なことを考えたんだろうと思いました。でも僕は結局のところ、悪魔のようなその誘惑に負けたんです。僕は市内に建つこのK病院を見るたびに、父を、そして母を死に追いやった男が院長をしているこの場所が憎いと思った。そこで、実際は卒業してもいない医大を無事卒業し、適当に嘘の経歴を連ねてK病院に医師として面接を受けに来たんです。その場ですぐに採用が決まったことには驚きましたが、その後身元を色々と調べられるかもしれないと、戦々恐々たる心理だったのを、今もよく覚えています……高畑院長、こんな偽医者を、今の今まで雇ってくださって、本当に感謝しています。僕は本当の医師ではないにしても――患者さんたちと持った心の交流だけは、今も嘘でないと胸を張って言うことができますから、今ではあなたに、心から感謝すらしているんです」

「じゃあ、諏訪晶子と金井美香子を殺したのは、本当は医師でないということを嗅ぎつけられたから、ということですか?」

 赤城警部の問いに、山田優太は「そうです」と答えて頷いた。

「でも諏訪晶子は、こんなに楽しいことをバラすつもりはないと言いました。ただ時々自分の言うなりになってくれたら、それで十分なのだと……そこで僕は、その日から彼女の奴隷のような存在に成り下がったんですよ。まあ、奴隷といっても、そう大したことはありませんけどね。諏訪先生が僕と寝たいと思った時に、時折ホテルか彼女の部屋に呼ばれるという、その程度の関係でした。他の人はどう思うかわかりませんが――僕は彼女と遊びで寝ることが出来てラッキーだとか、そんなふうにはまるで思わなかった。二度とその体に触れたくもない、ゾッとするような女……それが僕の諏訪晶子という女に対する感慨です。だから、殺しても罪悪感など、微塵もわいてきませんでした。それに、殺しがバレても良かったんですよ、僕にとってはね。そうすれば、K病院はスキャンダルに巻き込まれてマスコミに叩かれ尽くすでしょうから、即座に逮捕されても本望でした。ただ僕は――医師であるということに対する自覚のない人たちに対し、ちょっとばかりいい薬になるだろうと思い、諏訪晶子のことは医局で殺したにすぎません。金井さんはね、院内であったある事件を契機に、院長に命じられて医師の身元調査を行っていたんですよ。この場合は医師ではなく看護師でしたが……脳外科に、看護学校は出たものの、看護師の免許を持たずに働いていた女性がいたそうです。もちろん、僕同様事務室に提出した書状は偽造されたものでした。まあ、驚いたのは、彼女が同僚からお金を借りまくって、最後にドロンと消えたあとに、その事実が発覚したということですけどね。そこで事務長は総師長経由で院長から命令され、在勤医師と看護師の身元調査を行うことになったということです。もっとも、身元調査といっても、そう大したことはなかったそうですけどね。出身大学に問い合せたり、前にいた病院の医局に問い合わせたりするだけで良かったとか。まあ、今は個人情報にうるさい時代ですが、「そういうことなら」と、割合答えてくれるところが多かったそうです。で、金井さんは僕の経歴が嘘っぱちだとわかっても、黙っていることに決めたのだとか。何故なら、山田先生ほどの人が経歴を偽っているということは、それなりに何か理由があるのだろうと思ったと……馬鹿ですよね。その時に僕のことを警察に突き出しておけば、彼女も死なずにすんだのに」

「金井美香子のことを殺した動機はなんですか?」

 イケメンで優しい、<癒しの貴公子>の仮面が剥がれ落ちていくのを、周囲の人間はただ、信じられないとの思いで、見返すばかりだった。そしてそんな中でも赤城警部だけは、まったくの正気をただひとり保っているかのように、罪の追求を続ける。

「一言でいえば、嫌になったんです。自分の弱味を誰かに握られているという状況がね。諏訪晶子のことも殺したし、もうひとり殺しても、さしたる差異のようなものを僕は感じなかった。金井美香子は、僕を脅すかわりに『夢を与えてほしい』って言ったんですよ。自分は夫との愛のない生活と、可愛げのない義理の息子の世話で疲れきっている、ほんの時々会ってデートしてくれたらそれで十分だというんです。こう言ってしまっては、金井さんに失礼かもしれないけど――僕にとっては諏訪晶子も金井美香子も、女としての価値にさしたる差がありませんでした。『日頃の疲れをほんのちょっとでいいから癒してほしい』と求められても、『この馬鹿女どもは何を言っているのだろう』としか、正直まるで思いませんでした。何も求めない女性ほど、この世で恐ろしいものはありませんね、刑事さん。何故といって、彼女たちの何も求めないという中には、<すべて>が含まれているんですから……まあ、僕があのふたりを殺した動機は、大体こんなところでしょうか。金井美香子の首を絞めたエルメスのスカーフは、諏訪晶子が僕の部屋に忘れていったものです。それで金井美香子の首を締めたのは、捜査を攪乱するためでした。すでに死んだ女性のスカーフで首を絞められたとなれば、彼女と関係を持った男たちがますます怪しくなってくる……そうなると思ったので」

「その、山田先生。殺人を犯すことにためらいはなかったのですか?仮にも立派な医師であり、たくさんの人の助けになることをしてきたあなたが、どうして思い留まることが出来なかったのか……」

 山田は、ふと目を伏せると、アーガイル模様のカーディガンのポケットに、両手を入れていた。

「そうですね。何故なんでしょう。でも結局僕は、医師免許を持たない偽医者なので、すべての理由はそこに戻っていくのだと思います。相手を思いやる優しい気持ちと、冷徹な判断力や決断力、また実行力といったものが医師には求められるのでしょうが――僕は自分の弱味を握った相手、自分を苦しめる相手には、後者の冷たさしか持つことが出来ませんでした。正直、すでにふたり殺したのだから、もっとも憎いと思っている男のことも、ついでに殺してしまおうかとも、よく考えました。でも僕は、高畑先生のことを思って、そのことは一度思い留まっているんです。先に申し上げたとおり、僕がK病院にやって来たのは、復讐が目的でした。ナイフを心臓に突き立てるといったような、そんな殺し方ではあまりに物足りない。高畑院長に対し、じわじわと苦しみが足元から這い登ってくるような生き地獄を味わわせてやるにはどうしたらいいだろうとずっと考えていました。そしてまず、院長の娘であるという外科の高畑先生に近づいた。科は違っても、カンファレンスなどで結構顔を合わせますし、何より彼女は医局のゴルフコンペの主催者でもあった。僕は早速ゴルフクラブの会員になると、腕を磨いて教えを乞う振りをしながら高畑先生に近づきました。そしてだんだんに色々なことがわかってきたんです。彼女と父親の間には埋めようのない確執があること、僕に負けず劣らず彼女もまた院長を憎んでいるのだということが……僕はその時に、心底自分を恥かしいと思いました。この世で苦しんでいるのは自分だけだという狭量な了簡を持っていることも恥かしかったし、まるで無関係な人間を巻き込んででも、復讐を果たそうという根性を、なんと卑しくねじ曲がったものだろうと感じたんです。そうですよ、高畑院長。あなたは彼女に救われたんです。僕は高畑先生に免じて、あなたに復讐するのはよそうと思い留まることができた。この世で一番強いのは、<誰かを赦すことの出来る人間>なのだと、そのことを僕は高畑先生から学んだんです。そして一たび許すことが出来たとなると、あとはもう迷いのない光の一本道が続いているばかりでした。それなのに……諏訪晶子が僕のことを、T字路からしゃしゃり出てきて闇の道へと引きずりこんだんです。宮原総師長に、諏訪先生の素行のだらしなさをリークしたのも僕ですよ。もちろん自分のことは伏せて、医局はそのような状態にあるから、院長に諏訪晶子が転勤するよう仕向けてほしいと頼んだんです。その時にもし高畑院長が、すぐにも行動を起こしていたら――僕は彼女のことを殺していなかったでしょうね」

「な、何を言う!盗人猛々しいとは、まさにこのことだ。医師であると偽り、たくさんの患者を騙してきたくせに、さらに殺人の原因がこのわしにあるだなどと……とんでもないペテン師だ!!早く逮捕されてこの部屋からとっとと出ていくがいいっ!!」

 この時ヒュッと、内藤数真が床に落としたメスを拾い上げ、それを高畑京子が父に向かって投げた。といっても、本当に当てようというのではなく、メスは彼の横をすりぬけ、壁に突き刺っていた。

「黙りなさい!!この期におよんで、なお……心から罪を悔いる気が父さんにはないの!?わたしは恥かしいわよ、こんな人の娘で。今この場には、父さんに人生を狂わされた人が、少なくとも三人いるわ。もしかしたら、他にも父さんの犠牲になった人が、世の中にはたくさんいるのかもしれないわね。そうやって人に自分のミスを押しつけ、権力の座にのしあがって来たんでしょう!?兄さんはね、よく言ってたわ。自分は医者になっても父さんのようにだけはならないって。京子、おまえも父さんのことは反面教師としてだけ見て、いい医者になるんだぞって。今、この場所でせめて、この人たちに土下座して心からあやまってよ!!わたしのことはどうでもいいけど、少しくらい人間らしい気持ちが父さんにもあるのなら、今すぐにそうしてちょうだい!!」

 この娘の悲痛な叫びも、厚顔無恥な、人間以下の猿には届かなかったようだった。

「……お、おまえはそもそも、わしの娘じゃない。麗子が、他の男との間に生んだ子だ。それなのに、カッコーが巣に生んだ子よろしく、今の今まで育ててやったんだぞ。その恩人に対し、おまえはなんという……」

 この瞬間、山田優太が動くよりも、翼のほうが数秒速かった。腰砕けの状態で、高級絨毯に這いつくばる男を無理矢理立たせ、容赦なくその顔面を殴り飛ばす。それも、一発だけでなく、院長が鼻血を出すようになるまで、何度も繰り返し……。

「おい結城、やめろ!!いいかげん、そのくらいにしとけ」

 茅野が止めに入り、なんとか翼のことを静止した。翼は肩で息をしたまま、マホガニーの机にあったティッシュで、指についた血を拭っている。

「高畑先生、あんたが最初にこの人に言ったことは正しいよ。こんな奴、殺すだけの値打ちもない――刑務所に行くだけ損だってのは、本当にそのとおりだ」

 吐き捨てるように言い、翼は自分の白衣を脱ぐと、山田優太の肩にかけてやった。彼が決して白衣を身に纏わなかったことには、そういう意味があったのだと、そう思いながら……。

「山ちゃん、それ貸しておくからさ、用が済んだら、俺の元にまで返しにきてくれや。その時までは俺、クビにならない限りはここにいようと思うから。そしたら、また釣りにでも行こうぜ」

「ええ。もしいつか、本当にそうできたら……」

 山田は目を伏せると、なんとか涙をこらえる仕種で、翼のことを見返していた。それから、高畑京子に向かい、眼差しで何かを訴えかけた。(愛している)と彼が言っていることが翼にはわかったが、おそらくそれは高畑京子本人以外には、誰にもそうとわからぬほどの、密やかで控え目な眼差しだったろう。

 山田優太は赤城警部と白河刑事に挟まれるような形で、ひっそりと廊下を歩いていき、エレベーターで一階へ下りてから、覆面の警察車両へ乗りこむということになった。彼の手に手錠をかけなかったのは、もしかしたら通りすがるかもしれない患者を動揺させないためという、赤城警部の配慮からである。

 医局員たちが、何人かは涙を流しながら廊下を戻っていく姿を縫って――高畑京子が走りだしたのを見、翼は彼女のことを急いで追っていった。

 高畑京子は自分の部長室の前まで来ると、バタン!!という大音響とともに、翼の鼻先でドアを閉めていたが、翼はなんの躊躇いもなくそこを開き、彼女の部屋の中へ入りこんでいく。

「出てってよ!!今はひとりになりたいの。そのくらいのデリカシー、いくら無神経なあなたにだってあるでしょう!?」

「いや、まあそりゃあるけどさ」

 高畑京子は、高価なチーク材の机の上で――両手で顔を覆い、激しく泣きじゃくっていた。掃除婦の青山多津子が言っていたとおり、彼女の部屋は塵ひとつなく整っていて、片側の本棚にはびっしりと医学の専門書が詰まっており、もう片側の壁には、彼女の趣味の文藝書や文庫本などが詰まっている。その棚をじっと眺めていて思うに、(この女は正気なのだろうか)と翼は思ったが、安っぽい三文小説が一冊もないからといって、高畑京子の気が触れているとは誰にも言えなかったに違いない。

「ここ、座ってもいい?」

 当直の時に眠るための、座り心地の良さそうなソファベッドを指差し、翼は言った。

「座らないでって言っても、どうせ座るんでしょう!?」

「まあ、そりゃそうなんだけどさ。ここで煙草吸っても……」

「絶対に駄目!!」

 ひっくひっくと泣きじゃくりながら、高畑京子はその合間に断言した。もちろん翼は今、煙草など持ち合わせがない。もしどうしても吸いたければ、自分の部屋から取ってくるしかないだろう。けれど、そのほんの三十秒ほどの間に、彼女が心のドアを閉ざしてしまうことが、翼にはよくわかっていた。

 言うなれば、高畑京子についてきた翼の意図は、そこにあると言ってもいい。

(けど、こういう時って、一体なんて言えばいいんだ?)

 翼はぼりぼりと頭をかくと、ふとこの時、医局のホールに飾られた、『医の女神ヒュギエイア』のことを思いだしていた。

(そっか。要と山ちゃんとの間には、どことなく共通点があるからな。こういう時には、全方位的に女受けのいい、要の真似か振りでもすればいいんだろう)

 そう思い、翼は要になりきって、彼ならこういう時にどうするのかを考えてみた。そして暫くの間、ただじっと押し黙ったままでいることになる。

「何よ?いつもみたいに、言いたいことがあるんならはっきり言えば?あんなクソみたいな父親を持ってあんたも可哀想にとか、なんとか」

「いや、あんたは大して可哀想じゃないさ。大体、あのクソとは血が繋がってないわけだし……ただ、なんでもっと早くに山ちゃんの気持ちに答えてやんなかったのかなって、そう思って」

「わたしだって、ついさっきまで、山田先生の気持ちなんて全然わからなかった。彼は誰に対しても優しいし、そういう彼の態度を勘違いするつもりはなかったの。でもわたし――本当は、彼に初めて会った時から、すごく好きだったの。でも、彼はこんなおばさんに興味なんてないと思ったし、時々カンファレンスで一緒になるだけでも幸せだった。それなのに……」

 翼は周囲のものをあらめて見返し、給湯ポットに水を入れると、電源をコンセントに差し込んだ。小型冷蔵庫の中も物色させてもらうが、高畑京子はこのことについては特に何も言わない。

「簡単に言えば、ずっと前から両想いだったってことだよな。けど、山ちゃんには本当は医師免許を持ってないっていう弱味があったから……あまり強い行動には出れないっていうか、たぶん自分を自制したんだと思う。そんな人間はあんたに相応しくないとも思ったろうし、何より過去のことを色々聞かれるのが一番まずい。だからあんたが今言ったみたいに、時々話ができる機会があるだけでも、幸せだったんだと思う」
 
「わたし……どうしよう、わたし。本当にもう、取り返しがつかないわ。ただ一言、あの人に『抱いてほしい』っていう言う勇気があれば、たったそれだけで良かっただなんて……そしたらわたし、なんでもあの人の言うとおりにしたのに。院長に復讐したいから手を貸してほしいって言われたら、喜んでそうしたわ。本当になんだってしたのに。山田先生のためなら……」

「なるほどねえ。山ちゃんには女から見て、そういう魅力があるってことなんだな。メスの蛾がフェロモンだしてオスを呼び寄せるのの逆バージョンっていうか。なんにしても俺、あんたのことは見直した。高畑先生の俺に対する評価はあんま変わってないだろうけど、俺の中であんたの値打ちは今のことで段違いに跳ね上がったっていうか」

 お湯が沸くまでの間、翼は適当にカップの用意をし、ミルクホワイトのティーカップにいくつかある紅茶のひとつを入れておいた。ブルーのパッケージの、ヤグルマギクの紅茶を。

「別に、わたしにそんなことを言っても、もう何も出ないわよ。せいぜいのところを言って、冷蔵庫の中の羊羹くらいしか、あげられるものはないわ。それだけ食べたら、早くここから出ていって」

「そういやさ、あんたさっき山ちゃんのことを庇おうとしたじゃん?あれってやっぱり、愛の力で山ちゃんが犯人だって、薄々勘づいてたってこと?」

 早速とばかり、羊羹を出して食べはじめる翼に対し、高畑京子は溜息を着いていた。正確にいうとすれば、翼にしても、羊羹なぞ大して食べたくはないのだ。だが、何か食べながらでも話さないことには、間が持たないと感じているだけのことだった。

「あなたが警察の人たちに、朝比奈先生が女医の休憩室からわたしが出てくるところを見たって聞いたって、そう言ったんでしょう?その前にメールが来て、例のものが諏訪先生のロッカーにあるって言葉に、わたしが従ったのも本当のことよ。でね、わたし、証拠となるそのゴルフコンペの文書を始末しながら思ったの。あのメールを送ってきたのが犯人なら、犯人はどうやらわたしに多少好意を持っているらしいって。わたし、飯島将馬みたいに院長の息子だからとかなんとかいうので、威張ったりするのはすごく嫌なの。だから、医師たちの中でもそんなに仲のいい人はいないわ。せいぜいのところをいって、ゴルフでつきあいのある数人の先生くらい。でも、その人たちの中に、ここまでのことを善意でする人はいないと思った。だから……」

「そんなことをもしするとすれば、山田先生くらいってことか。たぶんあの日、山ちゃんは諏訪晶子から、話の流れか何かで、そうしたものが自分のロッカーに入っているということを聞いたんだろう。でも、女医の休憩室は部長室の並ぶ廊下やトイレのすぐ近くにあるから、自分で取りにいくにはリスクが高すぎたんだろうな。けど、山ちゃんはそんなことが原因で高畑先生が警察から疑われるのは嫌だと思ったんじゃないかな。そこで苦しまぎれにメールを送るのが精一杯だった」

「あんなもの、本当にどうでも良かったのに。でも、そのまま諏訪先生のロッカーに置いてあるよりは、取り戻せたほうがいいと思って、急いで医局へ行ったの。本当に、あの時は心臓がバクバクしたわ。そしてこの自分の部屋で繰り返し何度も色々なことを考えた。でも山田先生以外にこんなことをする人がいるとは思えなくて……申し訳ないと思ったけど、私立探偵の人に頼んで調べてもらったのよ。そしたら、父があの人とあの人の両親にどんなひどいことをしたのかがわかって……たまらなかったわ。そして思ったの。ゴルフを教えてほしいと言って近づいてきたのも、もしかしたらそのことがあったのかもしれないって。でもわたしが割と惨めな人生を送っているとわかって、可哀想になるあまり、復讐はやめたのかもしれないと思ったりもした。金井さんも――可哀想な女性よね。わたしは彼女の夫のことを知ってるから、よくわかるのよ。自分が一稼いだら、それは全部自分のもので、妻が十稼いだら、それも自分のものだっていう、あの人の考え方はそうだもの。金銭的なことだけじゃなくて、愛情的なことに関しても、そうやって数字で計算したがる人なのよ。可哀想な悠太。今からでも引き取りたいけど、あの子はわたしに捨てられたと思ってるって、金井さんからはそう聞いたの」

「ユウタって、あんたの息子も山田先生と同じ名前なのか?」

 翼は、給湯ポットの湯がわくと、それをティーカップに注ぎ、シュガースティックを添えて高畑京子の机に持っていった。

「漢字は違うんだけどね。兄の悠馬の、悠大な悠と、太いって書いて悠太。わたしの兄は素晴らしい人だったけど、短く儚い人生を送っちゃったでしょう?だから太く長い人生を生きてほしいと思って、そうつけたの。本当に、たまらないわ。実の息子に会えないだけじゃなく、恨みごとまで吹きこまれてるだなんて……」

「いや、そうとは限んないって」と、楽観論としてではなく、確信をこめて翼はそう言った。「逆にあんたはさ、その悠太って子にとっては、生活の汚れってもんのない、女神みたいな存在かもしんないぜ。今大体十二歳くらいなんだろ?じゃあまあ、これからだな。あんたの写真がもし一枚でも家に残ってたら、もうバッチリって感じ。大体、あんたの元亭主がいかに駄目男とはいえ、元妻の職業まで偽るってことはないだろう。で、その子は自分の心の中でこんな神話を作りはじめる。お母さんは偉いお医者さんで、自分は父さんの側に引き取られることになったけど、そんな大変な仕事をしてたら、仕方なかったのかもしれない……みたいにさ。そして色々調べるか、父親にしつこく何度も聞くかして、ある日あんたに会いにくるだろう。それか、逆にあんたが会いにいけばいい。っていうか、会いにいったことはあるけど、あんたは声をかけなかったとか、そういう感じの人だもんな」

「どうしてわかるのよ?」

 翼が羊羹を差しだすと、高畑京子は手づかみでムシャムシャと食べだしていた。彼女も翼と同じく、羊羹などさして好きではない。にも関わらず冷蔵庫に入っていたのは、患者からもらったというそのせいだった。

「最初はさ、確かに全然わかんなかった。あんたがどういう人なのかなんて……べつに仕事上のおつきあいってだけだし、プライヴェートなことまでは興味ないっていうか。ま、高畑先生も俺に対して、仕事以外ではつきあいたくもない男って思ってただろうけど。でもさ、山ちゃんが教えてくれたろ。本当はほんのちょっと勇気をだせばいいんだって。その悠太くんって子が、学校から出てくるところでも見計らって、声でもかけてみれば?たったのそれだけで、もしかしたら世界が見違えるほど変わるかもしれないんだぜ」

「でも、そんなこと言って拒絶されたらどうすればいいのよ?」

「それだって、今より悪くなるってことじゃないだろ。あんた、患者にはすぐ手術しろ、手術しろって言うんだからさ、今度はその逆の立場に立ったと思って、ちょっとがんばってみれば?術後は痛みが続いても、それが癒える頃には生きてるってなんて素晴らしい!!みたいになってるかもしれないんだから」

「ああ、ほんとに」と言って、高畑京子は涙を拭きながら言った。「こういう時にはやっぱり、山田先生みたいな人に慰めてもらいたいわ。ただ一緒にいて、同じ空気を吸ってるってだけで、安らげる感じの人。結城先生みたいな男に慰めてもらっても、あとで元を取られそうな気がして、ちっとも休まらないから」

「俺だって、流石にそこまでがめつくはないって」

 翼もまた紅茶をのみ、栗入りの羊羹をひと切れ食べた。

「それにしても、内藤先生の息子さんは、突然どうしちゃったのかな。そりゃ、院長に恨みがあったのはわかるけど、急にあんなに思い詰めるだなんて……」

「医局で殺人事件があったことに、触発されたってことはないかしら?彼、まだ研修生で若いでしょ?それに、医大を卒業した子って、ずっと勉強勉強で来てるから、思春期並に感受性が豊かで繊細なところがあるじゃない?もっとも、結城先生はそういうタイプじゃなかったでしょうけど……内藤先生の息子さんはね、ずっと押さえつけてたものが突然爆発しちゃったのかなって思うわ。ふたりも人が殺されてるのに、警察が犯人をすぐ捕まえられないどころか、目星もいまいちついてないっていうのがわかったせいもあるかもね。山田先生だって――わたしがあんな馬鹿なことを言いさえしなければ良かったのよ。本当に馬鹿だったわ。馬鹿だわ、ほんとに……」

 再びこみあげてきた涙を、高畑京子はティッシュペーパーで繰り返し拭っている。

「でも、山ちゃんは結局自首したんじゃないかなって思うよ。内藤先生が突然院長殺害を思い立ったのも、その背中を押したのも自分に原因があったって、山ちゃんは頭いいから絶対わかっただろうし……ただ、自分に救いを求める患者っていうのがいっぱいいるから、そこで迷ったんだろうなって思う。まあ、諏訪晶子も金井美香子も、山ちゃんが救いたいと思う患者に比べたら、人間的に価値が低いって彼が考えた気持ちは俺にもわかる。一方では人を殺し、また一方ではそれ以上多くの人間を救う……矛盾してるかもしれないけど、そもそも今の最先端の医学自体が物凄く矛盾してるんだから、そりゃしょうがないってこと」

「……意外ね。わたし、結城先生はてっきり、もっと知能指数が低いんじゃないかと思ってたわ。知識的には頭がいいのに、人間的には馬鹿としか言いようがない医者って、割合いるでしょう?結城先生もてっきりそのタイプかと思ってたのに」

「まあ、確かにいるな。こいつ、もし医者じゃなかったらただの親父以下だなっていう医者とか。ま、茅野さんに言わせると、俺は医者じゃなかったら人間のクソ、男のクズらしいけど」

「茅野先生も意外ね。いくら結城先生相手でも、そんなことを言うなんて……」

 ここで初めて、翼と高畑京子は互いに顔を見合わせて笑った。表面を覆う氷が溶けたあとの<氷の女王>の素顔は、翼が思ってもみないほどに、とても魅力的だった。そして思う。山田優太はおそらく最初から、彼女のわかりにくいそうした本性といったものを、見抜いていたのだろうと……。

 なんにしてもこの日から、翼は外科部長の高畑京子と仲良くなった。もっとも、普段は忙しいあまり、それほど頻繁に口を聞く機会はないにしても――患者からもらった菓子折りを半分ずつトレードするくらいには、互いの部屋を行き来する関係になったのである。



 >>続く……。





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