天使の図書館ブログ

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動物たちの王国【第一部】-15-

2014-02-04 | 創作ノート


 え~と、実をいうと今回と次回とその次の回くらいまでは、一繋がりの章だったりします(^^;)

 文章をふたつに分けて、前文を短く済ませれば、たぶん文字数的には2回に分けるだけで済んだはず……と思うものの、そうなると変なところでちょん切らなきゃなんないという事情もあり、こんなことになってしまいましたm(_ _)m

 まあべつにわたし、ここに書いてる前文については、実際特に何も書くことなかったら書かなくてもいいんじゃないかな~とは思っていたり(笑)

 でも習慣としてずっとダラダラ無駄に長いこと書いてきてるので、1.遷延性意識障害(いわゆる植物状態の方)、2.頚椎損傷、3.再び脳死について……という感じで、少し補足しておこうと思います

 ついこの間、テレビで遷延性意識障害の方を拝見したんですけど、番組の中では一度も「植物状態」とか「植物人間」といった表現は使われていませんでした。

 それもそのはずというか、その時テレビに出ていた方のことを、わたしも「植物状態」とか「植物人間」といったようにはまるで思えなかったので、それは当然のことだといったように思ったんですよね。

 あの、一応わたしも……話として聞いていたり、本の中では読んだりしてました。いわゆる植物状態といわれる方の中には、目が開いていて瞳の前で物を動かすとそれを目で追うといった動きが見られるとか、そうした方もいらっしゃるって。

 でもとりあえずわたしが見たことがあるというか、お世話したことがあるのは、そうした表現もまったくなく、大抵はずっと目を閉じていて意識があるのかないのか、もうこれは天国かどこかにすでに意識が行っているとしか思えない……そういう患者さんばかりだったんですよ(^^;)

 なので、わたしが書いた「天国云々」といったことは、この時にテレビで見た方にはまったく当てはまらないと思ったというか。頬が紅潮したり、何かの拍子にというか、ニッと頬の筋肉が上がるのを見たりすると……「いわゆる植物状態というのは、コミュニケーション障害のことである」という言葉がそのまま当てはまるように感じました。

 つまり、向こうにはこちらの言ってることなどがわかるんだけれど、向こうからそれに返答する手段がないというだけ、ということですよね。

 何を言いたいのかというと、一口に同じ「遷延性意識障害」、植物状態といっても、色々なタイプの患者さんがいて、そうした方のどの方の意識もすべて「すでに天国へ行ってるのではないか」みたいには言えないんじゃないかと思ったというか(^^;)

 ただ、わたしがこうした「天国云々」といったことを初めて思ったのは、まだ19歳の男の子が遷延性意識障害になってるのを見た時に――一種の存在の静謐さみたいなものを感じたことがあるっていうのがきっかけでした。

 目もしっかり閉じていて、こちらから何をしようと反応は一切ないわけですけど、普通に考えたら「19歳でこの状態って」ということであっても……なんていうか、まだこの男の子には周囲に強い影響を与える力があると思ったんですよね。

 一般的に言ったとすれば、「まだこんなに若いのに可哀想」ということでも……可哀想とかなんとかいうことを超えた何かがあるっていうか、そういうものを感じた時に、「大切なのはそういうことだ」っていう、言葉で説明するのは難しいことがわかった気がしたというか。

 まあ、自分でもたとえとしてどうかとは思うんですけど、リンドバーグの小説に「はるかな国の兄弟」というお話があって、これは兄弟で「ナンギヤラ」、「ナンギリマ」という死後の世界のような場所に出かけていくというお話です。

 わたし、思うんですけど……植物状態の方の意識っていうのは、この「ナンギヤラ」に行ってるのかもしれないなって思うんですよね。ナンギリマっていうのは、本当に真実の天国の中の天国のような場所だと思うんですけど、ナンギヤラからはまだ人がこの世に戻ってくる可能性があるのではないでしょうか。

 でも、仮に人がナンギヤラから戻ってこれたとして、ナンギヤラに自分がいた時の記憶というのは、その時には失っているんじゃないのかなと思ったというか(^^;)

 もちろん、わたしが言ってることは非常に非科学的なことではあるんですけど、介護する側とか看護する側には、そうしたある種の思想性の太い柱というか、そういうものが絶対に必要だろうと個人的には思っています。

 なんていうか、そういものがまったくなくて、ただ完璧な手技によってのみ体位交換をするであるとかオムツ交換をするであるとか……そんなことをしてたら精神的には絶対燃え尽きると思うんですよね。でも、つらい現実から目を逸らすというのではなくて、「もかしたらこうかもしれない、ああかもしれない」と想像することで、「いつかナンギヤラから帰ってきたらいいな」とか「もし戻ってこなくても、彼はそのままナンギリマへ行ったのだろう」と思えることが……介護する側にとっても心の救いに繋がるというか、もっとより良い看護をしようと思える動機にもなると思うんですよね。

 リンドグレーンの「はるかな国の兄弟」を読んだことのない方にとっては「なんのこっちゃら☆」というお話で恐縮なのですけど(汗)、とりあえず↑のテレビで見た患者さんに関しては、天国に行ってるどころか意識がまだ肉体に留まっていて、コミュニケーションを取る手段がないだけ……といったような印象が強かったんです(^^;)

 つまり、一口に<遷延性意識障害>、植物状態といわれる方でも、人によって状態が異なり、「植物状態」=「そういう方はみんな意識が天国に行ってる」みたいに書くのはちょっとどうだろう……とその時に思ったもんですから

 ではでは、次回は頚椎損傷の方のことについて、少し書いてみたいと思っていますm(_ _)m

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第一部】-15-

 翼はその年のクリスマス、イブの夜もクリスマス当日も、羽生唯と同じく夜勤の当番に当たっていた。

「先輩~、今日はクリスマス・イブイブっすよ。それなのに当直だなんて、独身男として寂しすぎやしませんかね?ギャヒーン」

「何がギャヒーンだ、このアホ。大河内、俺はな、クリスマスだからってなんで恋人同士で過ごさなきゃなんないのか、そっちのほうが理解に苦しむね。わざわざ高級レストランに予約入れたり、ブランド物のバッグを女に買ってやったり……まったくクソくだらねえ習慣だよな。仏教徒なら仏教徒らしく、滝に打たれたあと寺で内観でもしてりゃいいのに」

 研修医だった頃も含めると、翼が救急部でクリスマスの夜を過ごすのはこれが五度目になるだろうか。毎年必ず交通事故の急患なり、ショック症状の赤ん坊なり、こんにゃくゼリーを喉に詰まらせた老人なりが運ばれて来て――三十四丁目あたりで奇蹟が起きるでもなく、スクルージが特段改心することもないといったようなクリスマスを翼は毎年過ごしている。

 つまり、クリスマスだろうとなんだろうと、いつもと救急部で起きることに変わりはないのである。そして翼としてはいつも通り「神がなくとも奇蹟は起こる」と信じ、個々の急患に当たるというそれだけのことだった。

 だが、その年のクリスマスは唯一、ただひとつのことだけが違っていたかもしれない。何故といって翼が夕方のカンファランスを終え、ナースステーションに顔を出すと、そこから見える家族待合室のところに羽生唯とひとりの冴えない男が立っていたからである。

「唯、俺どうしようっ。こんなことになって……」

「大丈夫よ、慎ちゃん。心配しなくても、ご両親が来たら心をこめてあやまればいいわ。わたしも一緒にあやまってあげるから」

 ナースステーションのほうでも申し送りは終わった様子なのに――何故か日勤帯の看護師たちの多くがテーブルを囲ったままでいる。そしてそんな彼女たちに背を向ける格好でコーナーサイドでは堺と研修医の三井、それに岡田が固唾を飲んでそちらの様子を窺っていることに、翼としては気づかないわけにいかなかった。

「おい。一体なんだ、あれ」

 翼がいつもどおりの声量でそう呟くと、鈴村から「しっ!!」と注意を促される。

「あんたは普段からちょっと声がでかいのよ。あれが羽生さんの噂の彼氏らしいわ。そんでもって十歳の女の子の頭をトラックでぶつけちゃった犯人なの。今お母さんがこっちに向かってるとこなんだけど、まあはっきり言ってそんな大した怪我じゃないのよ。でも羽生さんの彼氏……名前なんて言ったかな。湊さん?その人が妙に取り乱しちゃってね。見ててこっちが気の毒になるくらいだったわ」

 鈴村は控え目にそう言ったが、翼は長いつきあいから、彼女の目が何を語っているのかをよく読み取っていた。「ねえあんた、よく見なさいよ。なんとも言えず、なっさけない感じの男よねえ。三井くんと岡田くん、それに堺先生の顔見た?あの程度の男が現在の彼氏なら、やり方次第で絶対勝てるって、きっと確信しちゃったんじゃない?」――いや、これはもしかしたら翼自身が思ったことを、鈴村も同じように感じたと翼が錯覚しただけかもしれない。

 いずれにせよ翼は、おいおい泣きながら恋人の体に縋りつく若干太り気味の男を見て……(あいつ、年一体いくつだ?)とまずは思い、次にはこう思った。(そうか。唯の奴はようするに自己評価が低いんだろうな。だからあの程度くらいの男が自分には似合いだとか、そんなふうに思ってんじゃねえのか?いやまあ、あいつが惚れてるくらいの男なんだから、もしかしたら他に隠れた美点があるのかもしれないが……)

「おい、おまえら仕事しろ」

 翼はクリップボードで堺医師とふたりの研修医の頭を叩くと、自分はICUに向かった。鈴村が十歳の女の子と言っていたことから、彼が交通事故を起こしたというのは、カンファレンスで報告のあった菅原真乃亜だろうとすぐに見当がつく。なんでも、よく後ろを見てなかったトラックの運転手がバックした時に、自転車に乗ったままぶつかり転倒したという。脳波、レントゲンなどの所見から軽い脳震盪だろうということだったが、本人が目を覚ましたあと、少しおかしなことを言っていることにより、経過を観察することになったのである。

 翼はICUの患者を診てまわり、看護師から報告を受けたあと、こっそり菅原真乃亜のいる120号室を覗きにいった。基本的に重傷度の高い患者はナースステーション付近に配置され、症状が軽い患者ほど端の病室に置かれることになるのだが――そういう意味でも菅原真乃亜の怪我は実際大したものでなかったといえる。

「お兄ちゃん、一体誰?」

「えっと、この人はね、真乃亜ちゃんにその頭の怪我をさせちゃった人なの。だからごめんなさいってあやまりに来たのよ」

 ここで羽生唯の恋人である湊慎之介が「ごめんね、ごめんね、真乃亜ちゃん」と、涙声で話す声が聞こえた。

「いいよ、そんなにあやまらなくても……それよりお兄ちゃん、真乃亜ケーキが食べたいな。ねえ、ケーキ。いいでしょ?」

「真乃亜ちゃん、ケーキは明日でもいい?今日はこれからお母さんが来て、お医者さんから色々お話を聞いたりしなくちゃいけないの。明日だったら絶対に真乃亜ちゃんが好きなケーキ、お兄ちゃんが買ってきてくれるから」

「えーっ!?そんなの嫌だあ。真乃亜、今ケーキ食べたい。今すぐ、今すぐ!!」

(ありゃあ、とんでもなく甘やかされたガキだな)

 翼は直感的にそう思い、120号室から離れた。あの調子ならばおそらく、明日、あるいは遅くとも二三日中には退院できるだろうと思ったのである。

 ところが、菅原真乃亜はその後十日ほども120号室の一隅に居続けるということになった。彼女の担当は研修医の松本浩一だったのだが、彼が事故前後の記憶を失くしている真乃亜に対し、大事をとって再検査することを脳外科医の及川部長に提案したからである。

「小児科病棟のほうで空きがあれば、そちらに上がってもらうんだがな……まあ、いいだろう。だが急患が飛び込んできた場合のベッドを確保しとかなきゃならんからな。その場合のことも考えてなるべく早く退院してもらうんだぞ」

 スーパーパンダのこの言葉を受け、松本は小児科のほうにその旨説明したのだが、「こっちだってベッドを空けられるような余裕はまるでありませんよ!」と、看護師には速攻電話を切られたらしい。

「一体どうするつもりなんだ、まつもっくり」

 翼は目障りなガキ(及び彼女の加害者である目障りな羽生唯の彼氏)が自分の目先をうろちょろすることにイライラし、松本に対し意地悪してやりたくなった。

「大体あのガキ、元気すぎてしょっちゅうナースステーションのほうにやって来るじゃねえか。で、そのたんびに「遊んでー!」とか言って、誰かが相手してやんなきゃなんねえ。とっとと退院させて自宅療養してもらえ。そんでうちの脳下のお偉い先生にでも通院で診てもらえばいいじゃねえか」

「俺もそうは思ったんです……けど、結城先輩も見たでしょう?あの子のお母さんが色々うるさいんですよ。事故後に最初に会った時、あの子母親のことがわからなくて。だから徹底的に検査してから退院させて欲しいの一点張りなんです」

 翼がもし菅原真乃亜の担当であったとすれば、とっくに退院させていたに違いない。脳震盪を起こした時に一時的に記憶が飛ぶということがあるが、逆行性健忘症の所見が見られるというわけでもあるまいし、頭の怪我自体大したことはないのだから、その程度でベッドを一床塞がれるなぞ、迷惑も甚だしいと翼は思った。

 ところが意外なことにはこの菅原真乃亜、看護師たちの受けがすこぶるいいのである。羽生唯がいる時には彼女が何かと気を使って「看護師さんの邪魔しちゃ駄目なのよ」と適度に相手をしているのだが、鈴村や峰岸までもが「ふうん。バレエとピアノを習ってるのー」などと、割合楽しそうに話しているのである。

「リンリンさんて、意外に子供好きなのな。俺てっきりそのうちぶっち切れて、「あの目障りなクソガキをわたしの目のつかないところにやって!!」とでも言うかと思ったぜ」

「そんなこと思ってんのはあんただけよ」と、カルテの整理を行いながら鈴村が応じる。「だってうち、意識不明の重態患者が多いじゃない。それに、子供が急患で来たら来たで、悲壮感の漂う結末が待ってることもしょっちゅうでしょ。あのくらい元気で溌剌とした子を見てると、むしろ清々しいくらいよ」 

「ふうん。だったら今からでも結婚してガキ作ればいいのに。リンリンさんなら今からでも遅くないんじゃねーの。四十前後の男と見合いでもすれば、まあ一発で向こうに気に入られるだろうな。そういやリンリンさんってなんで結婚しないんだっけ?」

「あたしの二十代は人生最大のモテ期だったからね。で、自分が小指をちょっと動かしただけで、あっちの男もこっちの男も思い通りになるのが面白かったわけよ。ところが三十過ぎたあたりから、そんなことしてるうちに周りに男が誰もいなくなっちゃった。だからあんたも気をつけなさいよ。その気になればいつでも結婚できるなんて思って、四十過ぎた頃に周りをみたら、だーれもいなくなってるかもしれないからね」

「へいへい。経験者は語るって奴か。肝に銘じとくよ」

(そんな気、さらさらないくせに)と、鈴村はそう思っていたが、今回珍しく翼は本気でそのことを考えていた。というのも、羽生唯の彼氏である湊慎之介が事故を起こした日以来――あることに気づいてしまったからである。

 あれから一週間、羽生唯の彼氏は毎日ケーキだのメロンだのを買って来ては菅原真乃亜の病室に置いていった。また、一度などは「唯がいつもお世話になっています」と、某高級和菓子メーカーの詰め合わせセットをナースステーションに届けたということもある。

「いい人ねえ。ここのお菓子結構高いのよ」

「まあ、見た目パッとしないけど、確かに優しそうな人よね。家族待合室でうろたえてる姿を見た時にはちょっとギョッとしたけど」

「なんだか羽生さんに不似合いな人だなとはわたしも思った。あれで二十七だって。髪に白いものも混ざってるし、軽く小太りなせいもあって、どう見ても三十過ぎにしか見えないわよね。でも、彼女が日勤の時には終わるの待ってて一緒に帰ったりするじゃない?なんかもう見ててバレバレな感じよね。向こうが羽生さんにぞっこんだっていうのは」

 ――そうなのである。翼もその件については随分考えていた。つまり、羽生唯はあんな男のどこが良くておつきあいなんぞしているのかということを。またそれは堺医師や三井・岡田研修医も同じだったらしく、その時以来羽生唯に三人がどうにか接近しようと目論んでいることも翼の目には見え見えだった。

 普通に考えたとすれば、ふたりが手を繋いで帰る姿を二度も三度も目撃した時点でこう考えるだろう。彼女のことはこれきり諦めることにしようと。だが逆に彼氏の姿を目の当たりにしてしまったことが、何故三人の闘争心を燃え立たせることになったのか、翼にはわかる気がしていた。

(なんでって、あんな男とつきあってるくらいなら、俺と短い間だけでもつきあって何度か寝たほうが――二度とない青春時代の少しばかりの彩りになるんじゃねえのか、なんて思っちまうくらいだからな)

 とはいえ、見た目がパッとしなくても心の優しい人らしいというのは、翼も認めるところではある。湊慎之介は120号室へやって来るたびに、我が儘な小娘の要求を辛抱強く聞いてやり、根気強く相手している様子だったからである。そこからはいかにも子供好きな雰囲気と、将来いいパパになるであろうといった、そうした家庭的な資質が垣間見えていた。

 それに引き換え、翼にはそういう要素がまるでない。小さな子供が病気・事故等によって急患で運ばれてきた際にはどんなことをしてでも助けてやりたい、病気を治してやりたいと本気でそう思うのだが――五体満足なガキが生意気な口を叩いているのを通りすがりに聞いただけでも、その横っ面を張り倒してやりたいとしか思えない。

(どうせあいつはアレなんだろうな。あの男がいわゆる初めての男って奴で……友達の紹介かなんかで知り合って、単にすべてが初めての体験だったから、それであいつのことを特別だとか思ってるだけなんじゃねえのか。いやいや、結婚するまでにもうひとりかふたり男を知っとけってんだ。もちろんそうなったらそうなったで、リンリンさんみたいに行かず後家になっちまうのかもしんねえけど……)

 近頃翼は、勤務中に時々、ある妄想に耽っている自分に気づくことがあった。つまり、ICUは壁がすべて透明になっているので不可能だが、どこか病室の一室ででも羽生唯とふたりきりになった時に――彼女にキスをするかそれ以上のことが出来ないかと考えていることがある。

 そして、「あいつじゃなくて俺にすれば?」と一言いってやったとしたら、彼女は一体どういう反応を返してくるのだろうと……。

(あーあ、もちろん出来るわけねえんだけどな、そんなこと。堺と三井と岡田のこともあるし、これまで徹底的にいじめてやったっていう経緯もあるからな。その上、それで俺に靡いたところで、今度はそんなあいつのことを嫌いになるかもしれねえ。で、何度か寝たあとで満足さえすれば目もくれなくなるってわけだ)

 これまで翼は女性とのつきあいにおいて、六か月以上続いたという試しがない。それは救急部の医師としての不規則な勤務といった事情もあるにはあるが、どちらかというとそのことを理由に翼のほうから関係を断ってきたと言ったほうが正しかっただろう。

(ったく、あの夢はどうやら正夢だったらしいな)

 翼はナースステーションで看護師たちが夕方の申し送りをはじめるのを脇に見ながら、自分はカンファランスルームへ向かい、そちらで当直医師たちに引継をすることになった。しかも今日はまったくもって珍しいことに、それが終わり次第真っ直ぐ帰れそうなのだ。

 羽生唯も申し送りが終わり次第、おそらく今日はそのまま帰るだろう。整理好きの気違いババアは今日、病院の看護責任者が受けるセミナーに出かけていて救急部を留守にしている。もし彼女が玄関口から出てくるところを捕まえられさえすれば……。

(あいつのことだから、「話がある」とでも言えば、何も疑わずについてくるだろう。それでふたりきりにさえなれれば、あとのことはどうにでもなる)

 翼はこれまでの人生の中で、自分が欲しいと思ったものを我慢したことがない。いや、まったくないとは言わないものの――彼は欲しいと感じたものに対しては、それ相応の対価を支払ってこれまで手に入れる努力というものを怠ってこなかったのである。ゆえに、この時もその法則がそのまま羽生唯にも当てはまるとしか思っていなかった。

 ところが……。

「俺、おまえに話があるんだけど、いい?」

 玄関口の常夜灯の影に隠れて当の羽生唯がやって来るのを捕まえ、そう言った途端――なだらかなカーブを抜けて一台の車が横付けにされたのであった。

「あの、岡田先生がわたしにお話があるっていうことなので、もし良かったら、結城先生も一緒に……」

 翼はその時、唯の瞳の中に若干の「助けて」コールを読み取りはしたが、やはり後輩に花を譲ることにした。

「いや、俺の言いたいことはたぶん、岡田の奴が口にするだろうから、いいよ。それより襲われないように気をつけろ」

 そう言って翼はそのまま、研修医の岡田直幸が車でやって来た方向――地下の駐車場へ足を向けた。もちろん翼にはよくわかっている。自分とは違い岡田直幸には仮に部屋でふたりきりになろうとも、羽生唯に手を出す度胸などないだろうということは。

 つまり、堺悟もそうなのだが、岡田にしても三井にしても、それだけ想いが純粋なのである。特に岡田も三井も、医者としてタイプが一緒だった。ふたりとも外科医としてズバ抜けたセンスのようなもの、そうした才覚を垣間見せるところはまるでないのだが、レンガをひとつずつ積み上げていき、着実に伸びていくという地道なタイプだった。

(最初の頃は俺に「そこのしゃくれ顎!」だの、「ペンペン草みたいにしけた面して壁際に突っ立ってんじゃねえ!」だの言われてたっけな。けど、あいつらはたぶん唯が俺に怒鳴られながらでも負けなかったこと、そういう姿を見て自分たちも頑張ろうとか、そんなふうに思ってたのかもしれねえな)

 岡田と三井は同期であると同時に親友同士でもあるのだが――これから羽生唯を巡ってそんな男同士の友情にヒビが……といったような心配も、翼は一切していなかった。今日三井信明のほうは夜勤である。そして三井のほうが岡田よりも草食系の度合いが強いことから、岡田のほうが先に告白することになったのだろうと、翼はそんなふうに思っていた。

(むしろあいつらが唯を間に挟んで病棟の廊下ででも殴り合いの喧嘩をしてくれりゃあな。ふたりとも肉食系の外科医として大成しそうな気もするんだが……)



 >>続く。





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