天使の図書館ブログ

 オリジナル小説サイト「天使の図書館」の付属ブログです。

宗教的人間。(2)

2013-09-09 | キリスト教
【磔刑図】アンドレア・マンテーニャ


 小さい頃に「神さまに祈った」という経験が、たぶん誰にでも一度はあるんじゃないかなって思います

 でも大人になる過程で大抵は知るようになりますよね……「神さまに祈っても祈らなくても、物事には大して差などないのでは?」といったように。

 わたしもまったく同様の経験をしましたけど(笑)、にも関わらずわたしの場合は今もやっぱり<祈る>ということを続けています。

 ただ、なんていうか「祈りの変遷」(?)というのでしょうか。

 わたしがクリスチャンになったのは二十代前半頃なので、その前まではそうではない別の神に祈っていた……ということになるのかもしれません(^^;)

 たぶん、物心ついた四歳頃くらいから、夜眠る前に布団の中で祈っていたのを今もよく覚えています。子供ながらに、仏様に手を合わせる時には合掌し、またマリア様やイエス様に祈る時には手を組み合わせる……ということを知っていたので、「きのうは仏様に祈ったから、今日は手を組み合わせて祈ることにしよう」といったように、<祈りの形式>のようなものはその日によって変わったような記憶があったり。

 わたしの家族はわたし以外全員葬式仏教徒なので、周囲の人からマリア様がどうこうとか、イエス様がどうこうといった話は一度も聞いたことがありませんでした。

 でもテレビなどの情報によって、カトリックの方がイエス様を抱くマリア様の像を拝むであるとか、そこから受けた神聖なイメージによってそういうことをしていたのだと思われます。

 それと、子供の頃のわたしの<神さま観>というか、神さまのイメージは間違いなく多神教でした。一神教のキリスト教の神が本当の神だったら、他の神はみな偶像で実際には存在しない……というのではなく、仏様もいれば聖母マリア様も同列に存在して、あとはすべての物には<神的なもの>として心に近いものが宿っているという考え方。

 ようするに、海の神もいれば川の神、山の神もいて、箸の神さまもいれば茶碗の神もおり、扇風機の神もいれば、エアコンの神もいるといった、いわゆる八百万的な神さまです(笑)

 そういう精霊的な神さまたちと仏さまの存在や聖母マリア様・イエス様の存在というのは、子供の心の中では矛盾がないんですよね。

 なのでわたし、最近イスラム教の本を読んでいて、自分は日本に生まれたからそういう考え方だけれど、中東あたりに生まれた日には相当熱心なイスラム教信者だったろうなと思いました(^^;)

<祈り>ということに話を戻したとすると、神さま仏さま、マリア様、イエス様のその次あたりの神さまリストが、わたしの場合めちゃめちゃ長かったです

 何しろ、万物に神さまが宿っているわけだから、テレビの神さま、リモコンの神さま、電子炊飯器の神さま、タンスの神さま、衣服の神さま、植物の神さま、動物の神さま、自然の神さま……と、思いつく限りの神さまの名前をあげていくので、実際に「△△を□□してほしい」といった、祈りに到達する前に寝てしまうというか(笑)

 何分子供ですから、祈らないで寝てしまうこともよくありましたし、でも寝る前には神さまに祈るものだっていうことは、誰かに教わったわけでもなんでもなく、自然と当たり前のように知っていたことだったと思います。

 でも大体小学生くらいの時に、「○○ちゃんと同じクラスになりたい」という願いが聞かれなかったり、中学生の時に「△△ちゃんと仲良くなれますように」といった願いが聞かれなかったあたりから――「あれ?神さまって祈っても聞いてくれへんのとちゃうか?(・ω・)」と思うようになり、そこからは困った時にたまに祈るという程度の頻度になっていったと思います。

 あと、十代の後半から二十代のはじめくらいまで、かなり本気で死ぬことしか考えてない暗黒期があったので、その時には100%完全に無神論になっていたというか。

 なので、自分が死んだあとは虚無があって、生まれてくる前もそこにいたのだから死ぬというのはそれが元に戻ることだ……みたいな考え方だったと思います。

 でもそういったことすべてを一度乗り越えると、人間はやっぱりまた肯定的な考え方のほうに戻ってくるんですよね。そしてそういう時に偶然、病院で看護助手の仕事をしていたというのは、わたしにとってとても大切なことでした。

 たぶんわたしは自己肯定感が低いタイプの人間だと思うんですけど、そういう人にとって「誰か・何か人の役に立つ」っていうのは、すごく自己肯定感が高まることなんですよ(^^;)

 だから寝たきりの人ばかり・重症の人ばかりという環境でも、一度も仕事的につらいとかキツイとその時に思ったことはなかったというか。

 そしてキリスト教徒になったあとは、「神さまはつくづくなんでもご存知だな~☆」と感じました。何故といって、その時に手を差し伸べて助けるよりも、わたしが鬱病っぽくなってて死ぬことを考えてる時に助けてくれたほうが良さそうなものなのに、そういう時には神さまの福音なんて聞いても、わたしの場合は屁理屈が先行するあまり、絶対受け容れなかったと思うので(^^;)

 まあよくある「神がいるのなら、何故△△は□□じゃないんだ!!」みたいなことですけど

 なので、精神的には一番いい時に信じることが出来て本当に良かったと自分としては思っています。

 あと、わたしが最初に行った教会で一番感銘を受けたのがもしかしたら、マーリン・キャロザースさんの「感謝と賛美の教え」だったかもしれません。

 マーリンさんのことについては、以前も記事にしたことがある気がするので、もしご興味のある方がいらっしゃったら、そちらの記事をお読みいただけると幸いですm(_ _)m

 それではまた~!!





最新の画像もっと見る

コメントを投稿