天使の図書館ブログ

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宗教的人間。

2013-09-06 | 日記
【キリストの磔刑】ディエゴ・ベラスケス


 随分前にも似たようなことを別のブログに書いた気がするんですけど、そのブログ自体が今は消されてしまってないので、同じようなことをまた書きたいと思います(^^;)

「宗教的人間」というと、何か凄いことのようですけど、キリスト教によるとどうも「すべての人には<神を知りたい>という欲求が霊のうちにあって、それで何がしかの形で神というものを探り求めようとする……ということらしいです。

 キリスト教の有名な教えに、「信じる者は救われる」ということがありますけれど、これは逆にいうと「信じない者は救われない」、「神の福音に触れる機会のなかった人間は救われることが出来ない」ということも意味していると思います。

 わたしが小学生くらいの頃、エ○バの証人の方が学校の正門付近に立っていて「信じる人間は天国へ行き、信じない人間は地獄へ行く」といったようなことを子供たちに説明していたことがありました。

 そして物見の塔のパンフレットを配っていたのですが、わたしその時に思ったんですよね。「そんなことを言う神さまは、絶対に本当の神さまなんかじゃない」と(^^;)

 あと、わたしは今はクリスチャンですけど、そうなる前はキリスト教というものに物凄くアレルギーがありました。ようするに、キリスト教について詳しいことはあまりよくわからないんだけれど、ところどころ伝え聞く話によって、「何故そんな選民思想のえこひいきする神のことを世界の三分の一くらいの人が信じているのだろう」と不思議に思っていたのです。

 でもそれと同時に、キリスト教絵画のことなどは(意味はわからないながらも)とても好きでしたし、海外の訳された本にはよく聖書の引用が散りばめられていて――その言葉が本当にすごく良い言葉ばかりだったんですよね。

「キリスト教徒になるのは嫌だが、とりあえず知識・教養としてキリスト教のことを知ってみよう」……そう思ったのですが、これはそう簡単じゃないっていうことはすぐわかりました。

 つまり、イスラム教などもそうだと思うんですけど、誰か詳しい人が横にいて色々説明でもしてくれない限りは、独力で知るのは限界があると聖書の注解書を読んでみてわかったわけです。

 そこで次に教会へ行ってみることにしたのですが、その前に図書館で借りた↑の注解書にドキリとするような一文がありました。正確にはその注解書ではなく、その注解書に毎回挟まってくると思しき薄い冊子にこう書いてあったんですよね。


 >>汝、聖書の散文の美しさゆえに聖書を読む者を友とするなかれ。


 まあわたし、キリスト教徒になる気などまったくなかったのですが、ある種の文学的興味からキリスト教のことを知りたいと思ってたので、なんだかまるで神さまに心を見透かされているような気がしたものでした。

 でも実際に教会へ行くっていうのは、たぶん多くの方にとって物凄く勇気のいることだと思うんですよね。わたしの場合はその頃病院で看護助手をしていたせいもあって、ほとんど体を動かせないとか、植物状態のような方のお世話をしていたんです。

 なので、そうした方の死後の救済というか、中にはそういう状態で十年にもなるという方もいらっしゃったので――そうした方の<意識>は今どこにあるのかとか、自分の精神を支えるためにも宗教的な力というものを無意識の内にも欲していたのかなと今は思います。

 でも一口にキリスト教といっても、電話帖で調べてみると本当にたくさんの教会の名前が並んでいて、どこに行ったらいいのかさっぱりわかりませんでした。そこで、まずはこう祈ることにしたんです。

「神さま、どこの教会に行ったらいいのかさっぱりわかりませんが、カルト宗教やおかしな金銭を要求してくる団体などと関わるのは嫌です。またもしあなたが本当の神であるならば、正しい教えの場所に連れていってください。それと、もしそこの教会にどこかおかしなところがあったら、わたしは二度とキリスト教の神は神でないとして信じないことにしようと思います」……大体、こんなようなことを祈ったと思います。

 まあ、第一に「おかしなところだったら、すぐ逃げ帰ってこよう」という考えがあるので、教会へ行くこと自体にはそんなに抵抗がありませんでした。でもそこの教会がほんの4~5人しか人がいなかったと思うんですけど、「本当に心から神を信じている」っていう神聖な空気のようなものがあって、礼拝の間中何をやってるのかさっぱりわからないんですけど(牧師さんのメッセージも、今ではまったく記憶にない・笑)、「あ、これは本当だ」みたいなことが直感的にすぐわかったというか。

 でもあとになってみると、自分は本当にただラッキーだっただけなんじゃないかなと、そう思いました。その後、引越ししたりなんだりといったこともあって、同じプロテスタントの別の教会などにも通ってみたのですが――わたし自身の感じた印象としては、最初の教会以外の場所では自分は救われることは絶対なかったな~とそう思ったので

 なんにしても、わたしがキリスト教徒になった背景には、<祈り>がありました。

 そしてわたし、小さい頃から割合神さまに祈る子だったのです。「でもそれは、キリスト教を信じる前なんだから、言うなれば本当の神に祈っていたのとは違うよね?」ということになるのかもしれませんが、その前からもわたしは「仏事を好む」という変な傾向にある子だったことだけは確かです(笑)

 仏壇の前で手を合わせて拝むとか、線香を上げるとか、お焼香するとか、そういう宗教的行為がお墓参り含め物凄く好きで、そうしたことをしたあとは心が清々しくなるし、無意識の内にも「自分はいいことをした」感が高まることでもあるんですよね。

 これはあくまでわたし個人の意見ですけど――でも人生で「何故神がいるのなら、△△の時□□じゃなかったんだ!!」みたいな経験をしてしまうと、仏教的行事に励んでも仕方ないなという気持ちがわたしの場合は物凄くありました。

 もちろん、わたしがキリスト教を拠り所にしているように、仏教を心の拠り所にされている方が世界にはたくさんいらっしゃるので、「仏教を信じたい方は仏教を、イスラム教を信じたい方はイスラム教を信じる」、それでいいんじゃないかなというのがわたしの基本的な考え方ではあります。

 これ以上色々書くと長くなるので、次回は<祈ること>について少し書いてみたいと思います♪(^^)

 それではまた~!!





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