天使の図書館ブログ

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カルテット。-26-

2013-01-11 | 創作ノート
【音楽Ⅰ】グスタフ・クリムト


 今回で最終回です♪(^^)

 そんでもって自分でもすっかり忘れてたんですけど……前にどこかで「詩神の喪失」について、とか言ってたのをふと思いだしました(笑)

 まあ、それってようするに、ルノワールのスランプ期についての話だったんですけど、才能や運といったものにある程度恵まれていたとしても、スランプになる、詩神を喪うということはありうるというお話(^^;)

 ルノワールはその時、ラファエロの「ガラテヤの勝利」を見てスランプを脱したと聞きますけど、そう思ってルノワールの絵を順に見ていくと、「なるほどな~☆」っていう変化が確かにあると思うんですよね。

 そして、この<詩神の喪失>っていうのは、結構色々な状況に当てはまるもののような気がします。

 え~と、わたしこの<詩神>っていう存在は、音楽とか文学とか芸術全般に関するものであって、まさかそれがスポーツにも関連があるとは、これまであまり考えたことがなかったんですよ(^^;)

 でも「エースをねらえ!」の二次小説を書いてる時に、「いや、実は相当関係あるな☆」と思い、その後浅田真央ちゃんが「いつもなら次の目標が見えてくるのに、それが見えてこなかった」とか「スケートを辞めようと思った」みたいに言ってるのを聞いて……「詩神の喪失状態になっちゃったのかなあ」と思いました。

 野球でいったら、いつもどおりすべてのキツいメニューを忠実にこなしてるのに、バットにボールが当たらなくなる、みたいなこと。

 当然、そういう時に相当あがいたり苦しんだりするわけですけど、鬱病とかも言ってみれば、<詩神の喪失>状態に当てはまるような気がします。

「なんで生きているのかわからない」とか、それまでのやり方が通用しなくなった時に、<詩神>のような存在が来てくれると、間違いなく治りますから(^^;)
 
 ただ、要みたいに詩神といつも一緒にいる、いってみれば詩神に取り憑かれているようなタイプの人は、危険といえば危険なのかなって思わなくもなかったり。。。

 向こうの引っ張る力があまりに強いと、そのまま狂気の世界というか、そっちまで行ってしまう可能性もあるので。

 まあ、昨今はあんまり、そういう種類の「狂気の芸術家」タイプの方は、すっかり見当たらなくなったな~なんて、思ったりもするんですけどね(^^;)

 なんにしても、ここまでおつきあいくださった方、本当にありがとうございましたm(_ _)m

 それではまた~!!


 ↓ヒラリー・ハーンちゃんのシベリウス♪彼女は大好きなヴァイオリニストのひとりです(^^)



       カルテット。-26-

 南沢湖から帰ってきた二週間後、翼はある総合病院の事務室で、医療秘書が戻ってくるのを待っていた。

 病院の事務局長とは、先ほど事務長室で話し、さらには記入の必要な書類一式の入った封筒を手渡されていた。翼はここの病院へは以前何度か来たことがあるので、どのあたりに何があるのかは大体把握していたものの――医局内の案内をするのは医療秘書の担当になっているとのことで、席を外していた彼女が戻って来るのを待っていたのである。

「すみません、お待たせしてしまって」

 机に<医療秘書 田中陽子>と名前のある場所までやってくると、彼女は翼に対し軽く会釈していた。百七十八センチある翼と、さして背の高さに違いのない彼女は、そのことをまるでコンプレックスに感じていないような歩きぶりで、堂々と先へ進んでいく。

(へえ。医局なんて基本、男ばっかだから、時々電話の内線で口説かれたりしないのかね。でも結局医者って種族は、プライドだけ高くて小心なのが多いからな。自分より彼女のほうが五センチ背が高いってだけでも……一瞬ちょっとためらうか)

 翼がそんないい加減なことを考えながら医療秘書についていくと、彼女はまず医局のドアの前で立ち止まった。事務室から廊下を歩いて少しいった場所である。

「医局へ入るためには、五桁の数字による暗証番号が必要になります。23447……これでロックが開錠されるんですが、大抵の方は「兄さんよしな」と覚えておられるみたいですね」

「そんないいかげんなセキュリティで大丈夫なんですか?べつに俺はそういうことに神経質なほうじゃないけど……論文が命みたいな先生にとっては、自分の書いてる文章を盗まれるんじゃないかとか、病的なくらい気を配ってる人もいると思うんですが」

 他でもない、翼のことをブルックナー・アレルギーにした教授がそうだった、とは説明せず、翼は医療秘書にそう質問した。

「ええ。これからは磁気による読み取りカードか、あるいはもっとパスワードを複雑にしたものをと考えてはいます。先生方の中には、登録された指の静脈でしか開かないようにしたほうがいいんじゃないかっておっしゃる方もいて……今話しあいがされてる最中なものですから」

(ふうん。『兄さんよしな』ね)

 この時翼は、おそらく自分と同じくらいの歳の医療秘書が、何故そんなに慌てた様子を見せたのか、よくわからなかった。だが、それほど深く気にすることもなく、ただ黙って彼女のあとについていく。

「ええと、一枚目の扉を開錠したら、右側がトイレ、左側が先生方のロッカールームになります。でも、結城先生にはあまり関係ないことかもしれません。だって、外科の茅野先生が結城先生とは同室でいいとおっしゃったので……こちらはまあ、なんというか平の先生方用のロッカールームと言いますか」

「ああ。でもそれで言ったら俺も、ただの平の医者でしょ?たまたまこっちで外科部長やってる茅野先輩が、自分の部長室に俺の机も入れていいって言ったってだけで」

「ええ、まあ」

 田中陽子はどこかしどろもどろといった調子で、ロッカールームを仕切っているカーテンを、シャッと閉じている。

「女医さんたち専用のトイレとロッカールームは、また別室になるんです。ここから医局を抜けたらその隣に食堂があって、その並びになります。でも結城先生は女医さんじゃありませんから、当然関係ありませんよね」

 そう言って田中陽子は、次は鍵のないドアを開けて、翼に医局内を案内しはじめた。

「もし茅野先生が同室でいいとおっしゃらなかったら、この並びのどこかに結城先生の机も置かれることになっていたと思います」

 今は十一時で、病院全体としておそらく一日の内でもかなり忙しい時間帯である。医局からは当然人が出払っており、そこには誰もいなかった。

 翼はずらりと灰色の事務机が並ぶ、ある意味殺風景な場所を見渡し、医療秘書が「大体このあたりは内科のみなさんの机が固まってます」とか「こちらは形成外科の……」といった説明をするのを、ぼんやり聞いていた。

 机のひとつひとつを見ていくと、あるアイドルのポスターがマットの中敷きに挟まっていたり、退院した患者さんのお礼の葉書が飾ってあったり、あるいはやたらとキャラグッズののった机があったりと、人は誰も座っていなくても、ある種のパーソナリティが感じられるのが不思議だった。

「そして、こちらが宿直の先生方の仮眠室になってます。あと、バスルームも付属してますから、お入りになりたければ、遠慮なくどうぞ」

 二台ベッドの並ぶ狭い部屋を何室か通り抜けると、再び電子ロックの付いたドアと出会う。

「こちらも暗証番号は同じで、23447で開くようになっています」

「兄さんよしなね」

 翼はぴくりとも笑わず、溜息を着きながらそう言った。一体誰がそんな暗証番号にしたのかと、そいつの神経が疑わしいと感じられてならない。

「でも結局、結城先生はこちらの仮眠室はお使いにならないかもしれませんね」

 開錠した扉が閉じたあと、その隣にある食堂へ案内しながら、医療秘書が言った。

「茅野先生はいつも自分の部長室でお休みのようですから……先生の部屋には、大きな革のソファがあって、そちらで眠っていらっしゃるみたいなので」

「ふうん。あんたさ、茅野先輩と結構親しかったりすんの?」

 翼は特に深い意味もなくそう聞いたのだが、医療秘書のほうは慌てたように弁解していた。

「あ、あのっ、べつに変な意味じゃありません。部長先生は大抵、宿直の時にはご自分の部屋のソファで休まれることが多いっていうだけの話で……それに、茅野先生はご結婚されてますし」

「ああ。あの美人の奥さんね。彼女も確か、医療秘書だったんだぜ。結構倍率高かったんだけど、茅野先輩なんかの一体どこが良かったんだかねえ。お宅もさ、クラシック・コンサートの券が二枚あるんだけどとかって、誘われたりしない?」

「誘われませんよ。それにわたし、正確には医療秘書じゃなくて医療司書なんです。事務室の向かいに医療図書室があるのをご覧になったでしょう?いつもはそこのカウンターにいて、司書をしてるんです。先生もお探しの本があったり、あるいは毎月定期で購読したい医療雑誌があったらわたしが手配させていただきます。あと、ビデオライブラリーっていうか、今は半分DVDライブラリーですけど、そちらの部屋で見たい手術のビデオなどがあれば、ご自由にご覧になってください」

「ふうん、そうなんだ。医療秘書兼司書ね。了解」

 あと一時間ほどでお昼の時間帯となるが、今は食堂に座っている医師はひとりもいなかった。作り的には一般病棟にある患者の食堂ととてもよく似ており、そこに置いてあるテーブルや椅子と同じものが使われている。

「食事のほうは基本的に、他の一般病棟の患者さんにお出ししてるのと同じメニューになります。一食三百円なんですけど、先生はどうされますか?一度頼むと自動的にお給料から天引きってことになりますけど……」

「う~ん。どうしようかな。ま、それは来週の出勤日に返事するってことでもいい?」

「はい。わかりました」

 このあと翼は、食堂のテーブルを拭いたり、食事の後片付けをする賄いの女性を紹介されたあと、部長室がずらりと十室以上も並ぶ廊下のほうへ案内された。

「この廊下の突き当たりにエレベーターがあるので、そちらからも各病棟へ上がったり下りたりすることが出来ます」

「えっと、茅野先輩の部屋ってのは、この並びじゃないわけ?」

 医療秘書が廊下を少しいったところで引き返したので、翼はそう聞いた。彼女と同じようにくるりと反転しながら。

「部長室の並んでいる棟は、手術室を抜けた向こうの廊下にもあるもんですから……ついでですので、手術室と家族の方の待合室のほうもご案内したいと思います」

「なるほど」

 手術室へ入るには、当然それ相応の準備が必要となるため、中へは入らず、翼と医療秘書はその前を通るだけに留めておいた。

 それぞれの病棟の、滅菌した医療器具類の並ぶボックスの前では、看護師や看護助手の姿が見える。たったの数週間<病院>という場所から離れていただけなのに、そんな何気ない光景を「懐かしい」などと思うとは……(やっぱり俺、この職場が好きなのかねえ)と、翼は心の中で笑った。

「手術室の横の、この待合室では」

 と、ドアを横に引きながら医療秘書が続ける。

「ご家族の方が手術している様子をテレビ画面で見られるようになっています。この方法を導入して以来、当院では患者さんから何か申し立てを受けることがゼロ件になりました」

「ふうん。でもさあ、手術してる最中のビデオなんて見せられても、普通の人には何やってるのかなんて、よくわかんないんじゃないかな。むしろそんなグロいもの、強制的に見せられてもっていうかさ。それに、医療裁判の時にそのビデオを公開しろって家族が言ったとしても、そのビデオの中身をうまくすり替えるってことも不可能じゃないだろ?あとは医療関係者同士で口裏合わせておけばバッチリ、みたいな。そこらへんのことって、一体どうなってんのかな」

「あの、手術中のビデオのほうは、見るか見ないかはご家族の方の自由にできますし……この方法を導入して以降、医療裁判は起きてないわけですから、その際にどうなるのかは、わたしにはわかりかねます」

 突然、医療秘書の態度が軽蔑に満ちたものにかわり、翼としては(おや)と感じた。といっても、翼としても理由のほうはわかっている。田中陽子というこの医療秘書は、出会った最初の時にはホストのようにしか見えない医師に警戒感を抱き、また案内している最中には(でも、一応お医者さんなんだし、人を見かけで判断しちゃいけないわ)と思っているらしいのが、翼の目には見え見えだったからである。

 そして、今のどこか医者らしからぬ発言を聞くに及んで――(やっぱりこの人、腕のほうは相当あやしいに違いないわ)と確信するに至ったに違いない。

(まあ、こちとら慣れてますけどね。実際現場に入るまでは、誰も俺のことを信用しない……なんていう展開には)

 人は見かけが九割というあの言葉は真実であろうと翼は思っている。だから、要との旅行から戻ってきたあと、翼は行きつけのヘアサロンで髪を染め直さなかった。そのヘアサロンには翼が気に入っている理容師がいて、「今日は染めなくていいよ」と言ったところ、「一体どうしたんですか?」と不思議がられたほどであった。

(やれやれ。どうやら髪をわざわざ黒くした効果ってのは、この調子だとないに等しいってことになりそうだな)

 こんなことならいつもどおり、「黒と茶の斑にしてちょーだい!!」と言っておけばよかったと、翼が後悔していると――待合室横にあるエレベーター前を通ったのち、医療秘書が振り返って言った。

「こちらの棟の並びにある一室が、茅野先生と結城先生のお部屋ということになります」

 そう言ってクリーム色のドアを開くと、まず彼女はそこから出た斜め向かいにある灰色のドアを今度は開いた。

「あの、この部屋は手術室に通じてるんですけど、オペ室づきの看護師さんや、滅菌専任の看護助手の休憩室がすぐ横にあります」

 医療秘書はその中をちらっと翼に見せたあと、すぐドアを閉じ、今度はまた隣のドアを開けた。

「で、こっちが手術をなさる先生方の休憩室です。自販機もありますから、喉が渇いたら無料で飲むことができます」

「へえ。そうなんだ」

 すのこの敷かれたその場所をちらっと見たのち、再び医療秘書は以前の堂々たる歩きぶりに戻って、真っ直ぐに廊下を抜けていった。そしてこの廊下の突き当たりに喫煙室があると案内したあと、廊下を右に曲がり、五室分の扉が並んだ一番端の部屋へ翼のことを通したのである。

「鍵のほうは、茅野先生がひとつ、これから結城先生にお渡しするものがひとつ、それから事務室に部長先生の部屋をすべて開けることの出来るマスターキーがあります。ですので、紛失されても入室できないということはありませんが、その場合は鍵を交換する処置を取らなくてはなりませんので、紛失にはご注意願います」

「ふうん。あのさ、ちょっと気になったんだけど……他の部長室って呼ばれる部屋はここの並びにある五室より、もっと間隔が狭かったよな。っていうことは、向こうよりここのほうが部屋が広いっていうことで、合ってる?」

「はい。確かにそうです。あの……わたしがこんなこと言っていいかどうかわからないんですけど、この並びにある部屋のお医者さんはみなさん、腕がいいと評判の方というか、ようするに出世が約束されてる方がこちらに呼ばれるっていう噂があるんです。他の部長室のほうは、副部長とふたりで一部屋だったりするんですけど、こちらの五室についてはひとりで広い部屋を使えるというか……だからわたし、少しびっくりして。茅野先生が副部長でもない先生と同じ部屋でもいいっておっしゃったから、一体どんな先生が来られるのかなあ、なんて……」

「ははあ、なるほど。こんな軟派そうな奴を、なんであの手術の腕がいいと評判の茅野先生が、わざわざ同室者にしたのかってこと?まあ、わかるけどね。銀座のホストのナンバーワンと俺を入れ替えても、大差ないなっていう印象を人が持つらしいっていうのは」

「あ、あの、それではわたし、案内が終わりましたので、これで……」

 医療秘書は慌てたようにそう言って、部屋から出ていこうとした。と、ドアに手をかけたところで振り返る。

「それと、言い忘れてたんですけど、結城先生、さっきセキュリティがどうとかっておっしゃってましたよね?」

「うん。確かに言ったけど……でもまあ、部長先生たちはそれぞれ、自分の部屋の鍵を持ってるわけだし、いわゆる平の医局員っての?本当は俺もそっちの部類だけど、そっちに関しては若干ゆるあまでも仕方ないのかなって今は思ったり」

「あの、そういうことじゃなくて、先生のお耳に入れておくようにって、事務長から言われてることがあったんです。こちらの部屋の隣の隣に、院長先生の娘さんで、女医の高畑先生がおられます。外科の先生ですので、そのうち結城先生もお顔を合わせると思うんですけど……三週間くらい前でしょうか。先生が部屋に置いておいた五十万円がないって事務室に訴えてこられて。鍵のほうは開けられる人間が限られてるもんですから、盗んだのは誰かっていうことで、犯人探しがはじまって」

「へえ。それで、その犯人とやらは見つかったわけ?」

 窓側にある書類の山積した机ではなく、ピカピカの真新しい、ブックエンド以外何ものってない机に、翼はよりかかって聞いた。

「あの、わたしも一応疑われたんですよ。どうしてかっていうと、部長先生宛てに届いた手紙などは、わたしがマスターキーを使って先生方の机の上に置くことになってるからなんです。あとは、午前中に掃除のおばさんがふたりやって来た時に、マスターキーをお貸しするんですね。そしてその五十万円がなくなったのが、高畑先生が少し遅めの昼食をとりに、部屋へ戻ってきた時だったんです。つまり、掃除のおばさんたちはその少し前に帰ったということで、朝にはお金があった、なのにそれがない……あとのことはきっと、結城先生にも想像がつくと思います」

「なるほどね。で、そのおばさんたちは解雇になったってこと?」

「その、お話すると長いんですが……事務長が直接、ふたりを別々に呼びだして、次の日にそれぞれの言い分を聞いたんです。そしたら、ふたりの言うことには喰い違いがあって、どちらが正しいことを言ってるのか、よくわからない。ただし、この時点でどっちかがあやしいということだけはわかった。そこで、「どうしたものかな」と考えていた事務長の元に総婦長がやって来て、何気なく相談したんですね。そしたら総婦長は、わたしはAさんよりBさんがあやしいと思うっておっしゃったんです。というのも、Bさんが前に、自分の部屋を掃除しながら室内のものを色々見ていたからだって言うんですよ。たまたまわたしもその場にいたので、「それだけで犯人と決めつけるのは可哀想です」って控え目に意見を述べました。でも総婦長が言うには、「あのね、田中さん。そりゃ掃除しながら何気に部屋の中のものを見るのは、ある意味普通ですよ。でも、人が椅子にかけていたカーディガンを手に取り上げて、鏡の前で身につけたりしますか?それは流石におかしいでしょ」……結局、総婦長のこの一言が決め手になって、その方だけ解雇されたんです」

「そっか。なるほどね。ようするに、事務長としては誰かを犯人にする必要があったし、その場合はいくらでもかわりのきく掃除のおばさんにそうなってもらうのがベストだったってことだよな」

「でも彼女、やっぱり少し可哀想でした。あとからもうひとりの解雇されなかったほうのおばさんに聞いたら、「わたしは盗ってない」って泣きながら辞めていったそうですから……あの、わたしが何を言いたいかというと、そういう気まずい思いをもう誰もしなくていいように、金銭関係の管理は先生もしっかりなさってくださいってことなんです。机の上に封筒に入れた百万円をぼんと何気なく置いたりとか、そういうのは絶対やめてください。仮にまた盗難事件があっても、お金自体は戻ってこないと思いますから」

「まあ、そりゃそうだろうね。本人が確かに自分がやりましたとでも言わない限りは、とってもいないものを弁償は出来ないだろうし……それとも、病院のほうで依頼してる清掃会社のほうに、そういう請求をしたとか?」

「いえ、そこまでのことはしてないと思います。高畑先生も、盗まれたものは仕方ない、自分は掃除のおばさんの存在なんて気にかけたこともなかった、これからは気をつけるっておっしゃっていて……いつもキビキビした、言い方がキツイ方なもんですから、あの方に追求されると、事務長なんてビビリまくりなんです」

 医療秘書はここでくすくすと笑い、それから少しまずかったかな、という表情になったのち、「では、そういうことで」と軽く会釈すると、翼に鍵を渡して、部屋から出ていった。

「ふうん。なるほどね」

 十畳ほどの室内には、入口の横に洗面台があり、ソファベッドにテーブル、机がふたつ(ただし、茅野医師の机はどっしりとした木製、翼のはただの事務机である)、医療関係の書籍が詰まった本棚が壁際に置かれているといったような具合であった。

 翼は自分の机の上に、書類の入った封筒を置くと、アイボリーのソファにどっかと座りこんだ。本当はこれから、一階の外科外来に顔を出し、茅野正外科部長に挨拶をして帰る……という、翼としてはそのような予定であった。そして、もし医療秘書の田中陽子から今の<五十万円盗難さる>という話の顛末を聞かなかったら――翼としても、今このように色々と考えこむことはなかったであろう。

(なんだか、嫌な予感がするな。単に他人のカーディガンをちょっと身につけたくらいのことで、五十万円の盗難犯にされちまうとは……部屋に入れる人間なんぞ、事務室にマスターキーがあると知ってる人間なら、可能性として誰でもありえる。まあ、俺が一番気になるのは、五十万盗まれたあと、自分は掃除婦の存在なんか気にしたこともなかったなんて抜かす女と、これから同僚になるってことだが。あとは自分のカーディガンを気に入ってるらしい総婦長とも、気が合わないかもしれん。それと俺が医療ミスなんぞ犯した日には、あの事務長は体裁よく事を処理するんだろうなって感じるのも、嫌な予感のする理由のひとつだ)

 翼は合成皮革のソファから立ち上がると、窓際にある茅野医師の机の前までいった。そこには山積している書類の他に、三年前結婚した女性とふたりで撮った写真が、ガラスのフレームに入れて飾られている。

「先輩。この環境で俺、あんたに迷惑かけたらどうしようかな」

 結婚すると同時に豪邸を建てた先輩医師のこれからの人生というのは、翼にとってある意味一番歩みたくない人生であった。子供が出来、二十五年くらい家のローンを支払い続け、最後は自分のガンの発見が遅れ、治療の甲斐なく死ぬ……後半部分は翼の悲観的な未来予想ではあったが、だったら他にどう生きようがあるんだと問われると、翼としても返答に窮することではある。

(なんにしても、あんたの出世の邪魔だけはしないようにしねえとな)

 翼は窓にかかるブラインドの隙間に指を入れると、そこから見える病院の裏手の木々を眺め、眩しい光に目を細めた。


 * * * * * * * * * * * *


 親友の結城翼とともに、南沢湖から戻って二週間後、要の元にはある一通のエアメールが届いていた。

 青く澄んだ湖の描かれた切手には、フィンランドの消印が押してあり、それだけでも要には、差出人が誰であるかがすぐにわかった。


   時司要さま

 お元気ですか?実をいうとわたしは今、フィンランドにいます。
 西園寺先生の奥様が、何故そんなことをなさったのかは、わたしにもわからないのですが……先生がつけていた日記の中で、わたしのことが書かれた箇所を、奥様が送ってくださいました。そしてその最後のほうに、わたしとフィンランドへ行きたい、そしてわたしがシベリウスのヴァイオリン協奏曲を弾くのが聞きたいと書かれている箇所があって、そんなわけでフィンランドまでやって来たのです。

 わたしはもしかしたら、先生と来ていたかもしれない場所をいくつか巡り歩き、先生との思い出に浸り続けました。そうして先生との思い出に浸り続けながら、夜には泣いてばかりいたんです。でもトゥースラ湖のほとりでヴァイオリンを弾いていたら――先生がすぐそばにいらっしゃるような気配がして、初めて泣いてばかりもいられない、そんなことを先生は望んでいらっしゃらないということに気づきました。何故なら、先生はいつもわたしのそばにいて、いつだって音楽に魂の耳を澄ましておられるのだから……。

 ごめんなさい。なんだか自分のことばかり書いてしまって。そろそろ本題のほうに入りますね。実は先生がわたしがソリストとしてデビューできるように、色々と手を回してくださっていたらしいのです。そこで、以前先生のマネージャーをなさっていた方が、それが先生の遺志でもあるからということで、三か月後にミニ・コンサートを開催するのはどうだろうかとおっしゃってくださいました。

 要さん、正直いってわたしはとても怖いのです。失敗するのが、というよりも、先生がいらっしゃらない今、失敗しても本気で叱ってくれる人が誰もいないということが、たまらなく恐ろしいように思えてなりません。

 でも、今自分に出来ることを、精一杯の思いをこめてやり抜くということが、先生にできるわたしにとってただひとつの恩返しという気がして……まわりの波に飲みこまれてみようと思いました。もちろん、ただ飲みこまれるだけでなく、自分の意志と力で、その波に負けないよう、立ち続けなくてはならないにしても。

 最後に一編、わたしの大好きな詩人の詩を同封します。たぶん要さんなら、わたしが何を言いたいのか、きっとわかってくださると信じて……。


 いちばん長く感じられるときは
 汽車が着いて
 馬車を待っているときです
 まるで喜びが訪れたのを

 時間が怒って
 金の針をさえぎり
 秒針を動かさないでいるかのようです
 けれども遅い時間も終り

 振り子は数え始めます
 小学生のように大声で
 玄関では歩みが繁くなり
 心が群がり始めます

 やがてわたしは――臆病な仕事を終えて
 ――それは愛の仕事でしたが――
 また小さいヴァイオリンを抱えて
 もっと北へ向かうのです


 ヴァイオリンひとつだけを持って、より<北>へと向かう旅は、とても厳しく孤独な旅になると思います。でも、いつでも先生が傍らにいてくださるのだと信じて、これからも頑張っていこうと思いました。
 ミニ・コンサートのチケットを同封しましたので、もしお時間が合えばお越しください。こんなにも色々な人に気にかけていただけて、わたしは本当に幸せ者だと思っています。

   川原美音


 この手紙を読んだ三か月後――要は、都内にある音楽ホールの最前列の席にいた。そしてそこで、<詩の朗読会と音楽の夕べ>という少し趣向の変わったプログラムを堪能し、最後に川原美音が<アヴェ・マリア>、<タイスの瞑想曲>、<愛の喜び>、<シャコンヌ>といった曲を演奏するのを、固唾を飲んで見守っていたのである。
 観客席が埋まっている率は七割程度であったが、魂に沁み入るような、本当に素晴らしい演奏だった。聴きながら要は、彼女が<死と処女>を演奏していた時のことを思いだし、今はもう彼女のすべては西園寺圭の――つまりは詩神のものなのだと強く感じた。あの時は、ほんの何割か自分のほうに気持ちが向いたという程度のことだったが、今では美音は完全に、彼女が<神>と信じるものと精神と魂がひとつに溶け合っていたといってよい。
 そうしてこの日、川原美音は彼女の師がそうと望んだとおり、信じたとおりに、蝶としてどこまでも、遠く羽ばたいていったのだった。



   終わり





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