天使の図書館ブログ

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カルテット。-25-

2013-01-10 | 創作ノート


 すべてを手に入れた妻が次に欲しいもの、
 それは夫のいない自由だった──。

 というのが、「ローズ家の戦争」のキャッチ・コピーで、密林さんからストーリーを引っ張ってくると、

 >>熱烈な恋愛と蜜のように甘い結婚。立派な豪邸に2人の子供をもうけ、ローズ家はシアワセの絶頂のはずだった。しかし結婚17年目にして妻がベッドで放った強烈な憎しみのパンチ!ここに2人の命をかけた離婚戦争がはじまった……。

 とあります。

 いやまあ、本文中で翼が「<ローズ家の戦争>ばりに憎しみあってるかもな」って言う科白があるっていう、ただそれだけなんですけど(笑)、すごく面白い映画ですよね、ローズ家って♪(^^)

 見たの随分昔なので、細かいところまではあんまり覚えてないんですけど……確か、一般的に<幸せな家庭>と呼ばれるものに必要なすべてを手に入れた奥さんが、ある日ふと「旦那がいなければ自分はもっと幸せになれる」、「というか、自分がより幸せになるためには旦那が邪魔」といったように気づき、離婚を切りだすも、当然旦那のほうでは納得できず、事態はどんどん泥沼に……といったお話だったように記憶してます。

 まあ、この映画の内容とは全然関係ないんですけど(笑)、タイトルのカルテット。っていうのは、恋愛は四人でするものっていうところから取りました。

 サブタイトルというか、本当のタイトルは「詩神の呼ぶ声」であるにしても、それだとなんか呼びにくい(?)と思ったので(^^;)

 四人恋愛っていうのは、前にもどこかに書いたとおり、4Pとかいう話ではなく(笑)、男の人の中には男性性だけでなく当然女性性といったものがあり、女性の中にも女性性だけでなく男性性というものがあって、その四人で恋愛はするものらしいというお話。

 簡単にいうと、気の強い奥さんと気の弱い旦那さんがうまくいってる場合、奥さんのほうは無意識の内にも旦那さんの女性性を認めており、旦那さんのほうは奥さんの男性性を尊重してる……ということになるのかもしれません。

 でも気の強い奥さんと気の短い旦那さんが喧嘩になった場合、お互いの男性性がぶつかりあって喧嘩になってるということらしいです。

 また逆に、優柔不断な男の人に対しては、女の人ってよく「男らしくない」、「女々しい」みたいに言ったりしますよね(笑)

 あるいは、「ここは男らしくピシャッと断って」っていう場面で、相手がそう出来ないと物凄くイライラしたり。

 んで、奥さんのほうがハッキリしない旦那さんにかわって、「うちではそんな保険、いらないんです!!」ってピシャッと言ってやったりとか(^^;)

 作中の西園寺御夫妻はなんていうか、Kさん(笑)のほうは普段めっちゃ男らしい感じで、彼の中の女性性といった繊細な部分は、すべて音楽に向けられてるのかなって思います。でも奥さんが何よりも一番欲しいのはその部分なんですよね。

 恋愛の絶頂期というか、新婚の頃くらいまではたぶん、彼が普段音楽に向けている愛情が、紗江子さんにも向かってたと思うんですけど、いつしかそんなこともまったくなくなり、紗江子さんはただの<習慣としての妻>でしかなくなってしまった。

 しかもKさんは女癖の悪い人だったので、勘の鋭い紗江子さんはすぐに浮気の匂いを嗅ぎつけて、「そういうことならわたしだって……」と、夫の気を引くために自分も浮気。

 その上、せめて自分の旦那の近くにいる男を選ばなければいいのに、夫と同じように<音楽>のわかる男をどうしても選ばずにはいられないという。。。

 ストーリーの都合上、紗江子さんの心理描写をあまり入れられなかったんですけど、わたし、彼女のことは「すごく好きだなあ」なんて思いながら書いてた気がします(^^;)

 お話の最初のほうを読むと、翼-水上ゆう子、要-川原美音といった感じで、カルテット。ってそーゆー意味??みたいに思われるかも、なんですけど……まあ、わたしの中ではそういった意図は最初からまったくありませんでした(笑)

 ではでは、長かったこのカルテット。も、次回で最終回です♪(^^)

 それではまた~!!



       カルテット。-25-

「そういえば要、俺ってば女から初めてプロポーズされちまったぜ」

「へえ。一体相手は誰?」

 まるで、聞かなくてもわかってるけどね、とでも言いたげに、テラスで絵を描き続けながら、要はそばにいる親友を振り返りもしなかった。

 オペラ・ナイトのほうはきのうで終わり、今日はふたりが南沢湖へやって来て、八日目の日付となる。つまり、滞在期間を一日伸ばして明日帰るということにしたのであった。

「ナ・イ・ショ。だって、せっかくそこまでのことを言ってくれた相手に対して、そんなにペラペラ色んなことしゃべっちゃ、失礼っていうもんだろうからさ」

「だったら黙ってりゃいいのに、とは言わないけど、なんにしてもその相手って水上ゆう子だろ?で、おまえ一体なんて答えたんだ?」

 この設問に対しても、聞く必要がないとばかり、要の対応はかなりのところぞんざいである。きのう、翼にエスコートされて音楽ホールへ向かった水上ゆう子は、確かに要の目から見ても魅力的だったし、背中が丸見えで両の乳房を際どいところで隠しているドレスを着ていれば、大抵の男の目はそこに釘付けだったろうと容易に想像されもする。

「ま、プロポーズされたなんて言ってもさ、自分と契約結婚する気はないかって、持ちかけられたってだけなんだけど……ようするにこれから互いに健康診断受けて、なんも変な病気持ってないってことを証明しあい、あとは財産分与的なこととか、給料の取り分は半々にするだとか、浮気はしても子供だけは絶対外に作らないとか、そういう細かい取り決めをして、試しに結婚してみないかって話だったんだよな。なんとも味気ない話だろ?」

「まったくね。そんなんだったら、最初から結婚することの意味自体がないよ。けど翼、おまえどう言ってその水上ゆう子の誘惑の言葉をはねのけたんだ?」

 要は今、目の前に見える<南沢湖>ではなく、人の心の中にある普遍的なみずうみ、魂のみずうみとも呼べる場所を描いている最中であった。おとつい、ゴッホの<ひまわり>を模写する過程で、絵描き魂に火がつき、この絵だけは今、どうしても描いておく必要があると感じていたのだ。

 つまりは、ふたりが滞在を一日伸ばした理由というのが、ある意味要の我が儘ともいえるようなことが理由だったのである。

「いや、べつにフツーにさ、『ゆう子の申し出は有難いとは思うけど、俺今失恋したばっかだから、そういうこと考えらんない』って言っただけ。そしたら、『いつならいいわけ?』って聞いてくるから――失恋する前だったら、俺はゆう子の申し出を『そいつはいい!』とでも考えて、結構乗り気だったかもしれないって正直に話した。だってさ、あいつ、この世に浮気しない男は極少数で、俺はその少数カテゴリーには入ってないから、結婚したあとも浮気していいって言うんだぜ?そのかわり自分も遊ぶし、給料の五十パーセントは必ずもらう。でも残りは子供が出来ない間は好きにしていい……で、なんかこう医者夫人として自分がやんなきゃいけないこととか、守らなきゃいけないルールがあったら、自分はそれを一種のビジネスとして必ず守る。ただし、そこらへんは実際に結婚する前に互いに明文化しておく――まあ、なんともクールでドライなビジネス口調でございましたよ、要先生。でも俺確かに、浮気さえ許してくれる女がいるんなら、喜んで結婚するんだがなあって前々から思ってはいたからな」

「やれやれ。うまい話には裏があるとは考えないのかね、このボンクラ医者は」

 相変わらず画架に掛けられたキャンバスに向かい、忙しなく手を動かしながら要は溜息を着いている。彼は下絵といったものを一切せずに油絵の具を筆にのせていたが、今絵のほうは要が最初にイメージしたとおり、脳の中で思い描いたとおりに進行している最中であった。

 ゆえに、そちらに集中力を奪われるあまり、絵を製作中の要に話しかける時は、少しばかり乱暴でぶっきらぼうな返事が返ってくると、翼は昔から知っていたのである。

「ま、なんにしてもいーじゃん。断ったんだからさ。でもあいつ、要が言ってたほど悪い女ってこともなかったと思うぜ?せいぜいのところを言って、悪女予備軍といったところかな。あの条件で結婚してもいいって男がもし仮にいたとしても……でもまあ、のちに蛇に絞め殺されるような地獄の苦しみを味わうって気がするな。なんとなく、予感としてだけど」

「ふうん。おまえにしちゃ珍しく、いい勘してるよ。僕に言わせりゃ水上ゆう子の提示した条件ってのは、結婚詐欺と変わりない。結局、『浮気してもいいとは言ったけど、本気になっていいとは言わなかった』とか言いだされて、契約不履行で訴えられるんだよ。何かそういう種類の結婚詐欺で三回くらい離婚して、今では自社ビル持ちの総資産数億っていう女社長を僕は知ってるけど……水上ゆう子もたぶん、そのうちそんなふうになる手合いの女だっていう気が、僕はするね」

「確かになあ。あいつ要が言ってたとおり、男を踏み台にしてもなんの痛痒も感じない女だとは思うよ。だから俺、実は結構やばかったんじゃないかって気がするわけ。もしかしたらあの女の餌食第一号って奴になってたかもしれないし、そしたらもう<ローズ家の戦争>ばりに憎しみあってたかもな」

 要は「やれやれ」といったように肩を竦めると、タオルで手を拭き、ローンチェアに腰掛けている親友のほうを初めて振り返った。ここまで描いておけば、残りの仕上げは自分のアトリエで十分に出来る、そのメドが大体のところついたのであった。

「あ、お仕事終わった?どれどれ。おおっ!!素晴らしく良い絵ではありませんか、時司画伯殿。つーか、マジな話、なんかすごく懐かしい感じがする……南沢湖にもどっかそういうとこがあるけど、ちょっと悲しい感じのする絵だな。やっぱ西園寺圭の死が、同じ芸術家として影響してたりするのか?」

「まあ、多少そういう部分もあるかなって思う。美音さんの話、きのうおまえにもしたろ?西園寺圭はさ、彼女のために前もってかなり色々と根回ししてたらしい。で、美音さんはそういう先生の意向っていうか、遺志を受け継ぐ形で、ソリストとしてデビューすることを決めたみたいだ。西園寺圭の薫陶を受けた音楽家はたくさんいるだろうけど……彼女ほど彼に愛されてた弟子は他にいなかったんじゃないかな。そして、その一番大切に守ってきた女性のことを――自分の手でデビューさせるということが、彼の夢でもあったろう。それなのにこんなことになって、ただ単純に<悲しい>ってだけじゃ言い表せないような、そんな気持ちだな、今」

「要ってさ、マジですごくいい奴だよな。で、真面目な話、おまえは美音ちゃんのこと、これからどうしたいってーか、どうするわけ?」

「さあ、どうかな。わからない」

 要はもう一脚あるローンチェアに腰かけて、なかなか落ちない手指についた油絵の具を、もう一度濡れたタオルで丹念に拭いた。

「なんにしても、まずはコーヒーでもお入れしやしょうかね、要先生。絵の制作のほうに夢中になるあまり、もう五時間ばかりも立ちっぱなし、神経のほうも集中しっぱなしでしたからな。まずはごゆるりとお寛ぎくださいませ」

「ああ、頼む」

 ぼんやりとそう答えて、要は翼が室内に消えるのを見送り――それから、どこかひっそりとした隣のテラスのほうを振り返った。西園寺紗江子はきのうの午前中にチェックアウトし、たくさんの報道陣のフラッシュがたかれる中を、ボディガードに守られて立ち去っていた。

 翼も要も、きのうからずっとテレビのほうは一切つけていない。確かに、西園寺翔が父親を殺したということは事実ではあろう。だが、彼が麻薬に走った理由が義理の母に等しい女性の死が原因であったとは一切報じられなかったように……何かそうした形で<もっとも大切なこと>については蓋がされたまま、表面的な事実だけがこれから面白おかしく報道されていくことを思うと、要としては堪らなかった。

 おとつい、自分たちがしたことについても、要は今では随分反省していた。その時点では、まだ西園寺紗江子がなんらかの形で事件に加担した可能性もあったため、それほどの気持ちにはなれなかったが――今にして思えば、夫を失ったばかりの女性に対し、随分ひどいことを自分たちはしたものだと、要としては胸が痛むばかりである。

「あいよ、コーヒー」

「ああ。ありがとう」

 翼がコーヒーを持ってくると、要はやはりまだ考え深げに俯き、ローンチェアに腰掛けたまま、近くの<南沢湖>の湖面が凪いでいる様子を、ただじっと眺めやっている。

「要、さっきの話の続きなんだけどさ」

「うん?」

「美音ちゃんと連絡先とか交換しあったんだろ?だったらさ、これから互いに表現形態は違っても、同じ芸術の道を歩む者同士、長く時間をかければ恋人同士とかになれるんじゃね?って、俺は単純に思うんだけど、どんなもん?」

「そうだなあ。でもまあ、それでいくと気が遠くなるほど時間がかかると思うね。もし美音さんに僕を頼りたいっていう気配を感じたら、当然僕としては出来ることをなんでもしたいって思うけど……でも、たぶんもうそんなことはないんじゃないかって気がする。音楽祭の終わった次の日には、西園寺圭が仮小屋としてたバンガローの前で、毎年恒例のバーベキュー大会があるって聞いたんだけど……それが終わったら彼女、すぐにゆう子さんの車で東京へ帰るらしいよ。水上ゆう子の話では、おまえが彼女の車に乗って僕が自分の車で美音さんのことを送ってけってことだったけど、まあそれはちょっとね。彼女は先生が亡くなってすぐ次の恋に移れるほど、器用なタイプじゃないから……僕としては出待ちってところかな、今のところはね」

「ふうん、そっか。誠実な騎士さまとしては、時が熟すまでは横から槍を入れることも差し控えるってことか」

 翼はそう言って、淹れたてのコーヒーをずずっとすすっている。

「まあ、人の死ってのは、実際そのくらい重いよなって話。僕も最初はさ、きのう会ったばかりの彼が死んだなんて、俄かには信じられなかった。けど、時間が経つごとにじわじわ重い水みたいに沁みこんでくるところがあるなって、今感じてる。僕なんて、西園寺圭に会ってまともに話したことなんか、たったの一回きりだってのに……これだけ影響を受けるんだ。他の、彼ともっと親しい交わりを持ってた人は今どのくらいの気持ちでいるのかなって思うよ。何分、音楽祭の間は互いに共通の目的があって、みんな一丸となってそこに向かって昇華していったみたいなところがあるけど、それが終わった今……重いだろうね。東京オーケストラの人たちにとって、西園寺圭の死っていうのは何ものにも代え難い痛手だろうなって気がする」

「そういえば結局、西園寺圭の後を継ぐ指揮者っていうのは、誰になるんだ?」

「それはこれから民主的に投票で決めるってことになるらしい。けどまあ、西園寺さんの遺志を継ぐとしたら、やっぱりギレンスキーが選出されるんじゃないかな。ラインハルトは彼のこと、チャイコフスキーとムソルグスキーしか振れないみたいに言ってたけど、そんなことはまったくないからね。彼は西園寺氏が言ってたとおり、実は相当な野心家なんだよ。野心家って言っても、曲の解釈が斬新すぎるっていう意味での野心家ってことだけど」

「ああ、まあようするに、若い時には色々新しい手法を試したくなるというアレですな?」

 翼は茶化すように言い、きのう売店で買ってきた、ミッシーようかんなる新発売の菓子に手をつけはじめる。

「まあね。で、そのうち、自分はなんて若かったんだ……なんてことに気づいて、悪い意味で言うんじゃなくて、あんまり極端なことはやらないようになる。そういう意味でギレンスキーは確かに野心家なんだろうな。西園寺圭は前に何かのインタビューで、『指揮者という自分の存在を聴衆が一切感じないとしたら、それがもっとも理想的だ』みたいなことを言ってたけど、そういう意味でもギレンスキーには少し西園寺圭に似てるところがあるかもしれない。野心家って意味では目立ちたがりなのに、指揮法としては『自分の存在を消すのがもっとも理想的』と思っている点においてね」

「要、このミッシーようかん、結構うまいから騙されたと思って食ってみろよ」

 そう言って翼は、ミッシーのキャラ化した顔が浮きでている、ようかんのひとつを差し示した。

「ま、俺は音楽のことについてはさっぱりだけど、あのルカって奴も実は結構いい奴だったよな。自分と翔は血の繋がった家族、つまりは兄弟だから、これから自分が彼を支えていこうと思ってる……なんて、生半可な気持ちじゃ、とても言えないことだよな。しかもさ、もしかしたら自分こそが彼のような家庭で生まれ育ち、もっとひどいことになってたかもしれないし、翔のほうが自分の幸福な家庭で育ってたら――立場はまるで逆だったかもしれない、なんてさ。俺は利己的な奴だから、自分がルカの立場だったら、絶対そんなことは思わないと思う。どんな環境で育ったとしても、ある部分は本人の責任……とか、刑務所行きになった奴のことはそのまま放っておいて、自分だけピアノっていう夢中になれるものに専念したかもしれない」

「まあね。その点、確かに西園寺翔って、人に恵まれてるようなところがあるんじゃないかって気がする。それもまた彼の人望っていう意味で言うんだけど……西園寺圭と紗江子さんって人はさ、まさしくその点で失敗したんだろうね。彼はただ、普通並に真っ直ぐな環境で育ちさえすれば、麻薬に手を出すでもなく、人から好かれる好青年だったはずなんだよ。もちろん、彼の義理の母っていう人がもっと長生きしてくれてればとか、今さら<もし>なんてことを言っても仕方ないけど……僕が思うにはね、西園寺紗江子はたぶん、自分が夫にされてることを、そのまま息子にしたんじゃないかって気がする。存在を無視されるということがどんなにつらいか、なんらかの形で夫に思い知らせてやりたい……その一念で生きてるようなところがあったんだろう。でも、息子に対して意識的に<自分が夫にされてるそのままのことを息子にして仕返ししてやろう>とまでは思ってなかったと思う。ただ、それはすべて彼女の無意識の領域にあるものが、そのまま息子である西園寺翔に植えつけられてしまうような出来事だったんだろうね。だから彼はすべての原因である父親のことを殺した……なんとなく、そんな気がするんだ」

「確かにな」と、翼も溜息を着いて言った。「もしかしたらそもそも、西園寺圭の奴はさ、元ミスユニバースなんていう珍しい肩書きの女性なんかじゃなく、地味で目立たなくてもいいから、とにかくクラシック音楽に関係した誰かと結婚すべきだったのかもしれない。これもまた意味のない<もしも>話だけどさ。ルックス、家柄、そして才能とすべて揃ってたら、並の女では確かに満足できなかったろうなとは思うけど……若い時には音楽に関係してない女のほうが斬新で物珍しかったにしても、長くずっといるとしたら、やっぱり彼にとっては自分の精神性の基礎を理解してくれる女のほうが良かったんじゃないかって気がする」

「精神性の基礎か。でも僕ももしかしたらある日、『なんでこんな絵が何十万もするのか、イミわかんない』とかいう見るからにバカっぽい女性に、斬新なものを感じてプロポーズするかもしれないな」

 翼は隣の親友のことをテーブル越しに見やると、ようやくいつもの調子が戻ってきたようだと感じ、蒼空に向かって遠慮なく大声で笑った。

「だよなあ。俺、結婚なんてこれから先、一生したくない。要、おまえさえずっと友達でいてくれたら、なんかもうそれだけでいいわ。ま、おまえはおうち的に色々あるだろうから、そういうわけにもいかないだろうけどさ」

「それは翼も同じだろ。おまえなんて特にひとりっ子なんだから、病院の後継ぎ息子が生まれるかどうかはすべておまえにかかってるわけだし」

「うえっ。俺の母親、今も定期的に見合い写真とか送ってくるんだぜ。しかも良妻賢母タイプの、俺が嫌いなタイプの女ばっか。俺さ、見合いする女ってどうにも理解できないね。『あなたとセックスしてもいいです』なんていう場所に、なんでノコノコ出かけていったりできるんだ?それだったら、今ムラムラしてるから、ここですぐやっちゃってって言える女のほうが、百倍可愛い気がするけどな」

「まあ、人間ってのは社会的な生き物だからね、一応。動物界には存在しない本音と建前ってものが存在するんだろうな」と、要も笑いながら言った。「なんにしても僕も、結婚なんていうものとは当分縁がなさそうだ。僕が惹かれるのはね、美音さんみたいに『彼女ならもしかしたら……』っていう可能性を感じさせてくれる女性だけに限られるから。まあ、兄貴のお嫁さんが不妊症で、今一生懸命色々がんばってるみたいなんだけど、もし今の状況で僕が結婚して子供が出来たりしたら、色々面倒くさそうなんだよな。兄貴のお嫁さんのことを傷つけることにもなるし、じゃあ時司グループの跡取りは……っていう感じで、なんか微妙な感じだ。だから僕も翼と同じく、おまえさえとりあえず友達でいてくれたら、なんかあとのことはどうでもいいよ」

 ここで翼と要は、コーヒーカップ同士でカチンと乾杯を交わした。

「そういやさ、おまえ、美音ちゃんときのう何話したわけ?なんかあの子、おまえの前で泣いてたみたいだったけど……」

「ああ。べつに大したことじゃないよ。ただ単に、人は死んだらどうなるかっていう話をしてたわけ。野外音楽堂の後ろの席のほうでさ。僕は人間っていうのは、それが病気であれなんであれ、自分でコントロールできないもののために死ぬものだと思う、みたいな話を彼女にした。そう考えた場合、人の死っていうのは果たしてそんなに悲しいことだろうか。もちろん残された人たちにとっては悲しいことでも、亡くなった人たちにとってそれは、肉体という牢獄から<解放>されることでもあるんじゃないか、みたいなことを話したんだ。彼女はあのとおりの優しい娘だから、実際僕の言ったことをどう思ったかはともかくとして、ただ黙って聞いてたよ。これはね、僕自身が考えたことじゃなくて、そういうことを言ってる哲学者がいるっていう話の、延長線上にあることなんだけど……この世のありようというのはすべて、結局のところただの<影>に過ぎないかもしれないって話。つまり、死んだその瞬間から、実は本当の生がはじまるんじゃないかっていう考え方だね。翼、たとえばおまえがさ、ある時ハッと目が覚めたら、陰気な洞窟に閉じ込められてるんだ。で、おまえを含めて十二人の人間が、ぐるっと円を描いて椅子に縛りつけられた格好で座らされてるんだな。さらに、自由が利かないのは手足だけじゃなく、口にもガムテープが張ってあって、話をすることもできなければ舌を噛むこともできない。当然『一体なんだこれは?』って思うよな。けど、誰も説明してくれる人間もなく、おまえや他の人間の後ろには、狼の頭の被り物をした、手に笏を持つ変な生き物がいるってだけなんだ。仮にそいつをエジプトの冥界の神から名前をとって、アヌビスと呼ぶことにしておこう。で、目に見えるところには暖炉があって、そこに燃えている炎が壁に変な動く絵を映し出している……つまり、そいつがおまえの人生を向こう側で生きてる<影>なわけ。当然、<影>の側にいる翼のほうは、自分が何をし、また何をしなかったら、自分の魂の世界で影響が出るのか、まるでわからずに暮らしてる。そして、この洞窟の片隅には柱時計があって、ある瞬間にボーンと鳴るんだ。そしたら、アヌビスの奴は、そいつを鈎状になってる腕で肩のあたりをぐっさり刺して、部屋の向こうにある暗闇の世界へ連れていく。そのあとには聞いているのもおぞましいような、拷問している音だけが響いてくるんだ。そして流石のおまえもこの段になってようやく気づく。影の世界にいる奴のほうが何かまずいことをしでかすと、こっちのほうにも影響があって、次は自分が死ぬ番かもしれない、みたいに。もうこうなったら、手足を縛られて口も聞けないおまえに、一体何ができる?何も出来ないし、あるいは出来ることといえば、心の中で一心に祈ることくらいだったろう。ボーンとまた柱時計が鳴り、またひとりアヌビスの餌食として鈎爪に引き立てられていく……そして闇からは断末魔の叫び声だけが聞こえてくるんだ。おまえは影の姿をじっと見守りながら、とにかくこっちに影響の出るようなことは一切しないで欲しいと死にもの狂いで願う。でも向こうにはこっちのことはまるでわからないから、おまえがいくら祈ろうと好き勝手なことばかりして暮らしてるんだな。そしてまたボーンと鐘が鳴り、ひとりまたひとりと姿を消していき……最後には翼、とうとうおまえひとりだけになる。でもその時に暖炉の火が突然消えて、向こうの影が半分実体化してこっちの世界へやって来るんだ。それで泣きながら「助けてくれ」って目で訴えるおまえの縄をほどいて、口のガムテープも剥がしてくれる。ふと見ると、アヌビスの奴はただの木の彫像みたいに固まってて、もう動いていない。その腰のあたりからおまえは鍵束をとると、元は<影>だった奴と手に手を取り合って、洞窟から出ていくんだ……嬉し涙に暮れながらね。そして、そこから本当の<生>っていうのがはじまるんじゃないかって話」

「要、おまえってほんと、なんでそんな蘊蓄話を色々知ってるんだろうな。ようするにあれだろ?この世に起きる大抵のことには意味がないように見える場合が多い……あるいはその意味が隠されているように見えるといったほうがいいか。でも結局こっちの世界のほうは<影>だから、魂の世界の尺度で物事を測った場合には、すべてに意味はあるということになる。ただ、やっぱりわけがわからないよな。もし自分に十二人の自由の利かない魂が存在してて、自分がもし何かまずいことをしたら、向こうでひとりずつ死ぬことになってるなんて、誰にもわかるわけがない。でも世界の成り立ちの表だけしか人間は見てなくて、実際にはその裏が共通してすべてに存在してるっていうことなんだろ?」

「まあ、僕もこんな話が彼女の気休めになるかどうかはわからなかったけど……なんにしても、自分のために一生懸命色々話してくれたっていう気持ちだけは通じたみたいだった。それで美音さんは泣いたんだと思うよ」

「ふうむ」

 果たして本当に、それだけだろうか?と、翼としては疑わしくなってしまうが、とりあえずそれ以上のことは聞かずに黙っておいた。そしてそれよりも今聞いた話の応用編として――色々なことがこの法則に当てはまるのではないかと思い、翼は束の間くだらぬ夢想に耽り続けていた。

「要。俺さ、おまえがずっと友達でいてくれて、本当に良かったよ。まあ、これに懲りずにまたふたりで暇な時にでもどっか旅行しようぜ」

「そうだな。今度は、殺人事件が一切起きない湯けむり温泉紀行とか、そんなのがいいかもしれないな」

 そう言って翼と要は笑いあい、その笑い声は風に乗ると、碧空を溶かした神秘的なみずうみの方角へと、静かにそっと消えていった。こうして、翼にとって<人生の休暇>とも呼べる束の間の時間は、過ぎ去っていったのである。



 >>続く……。





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