天使の図書館ブログ

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動物たちの王国【第二部】-34-

2014-04-09 | 創作ノート
【哀しみ】フィンセント・ファン・ゴッホ


 今回本文のほうが長いので……前文のほうは短めにと思ったんですけど、わたし忘れっぽいので、一応自分のためのメモ書きとして残しておきたいと思います(^^;)

 以前、確かム○ゴロウ王国(笑)のスタッフさんが書かれた文章だったと思うんですけど――東京かどこかから、いじめにあった小学生の男の子がやって来たことがあったそうです。

 そして彼は馬に乗りながら、いじめっ子に対してこう言ったそうなんですよね。

「自分は馬に乗れるけど、あいつらは馬になんか乗れないんだからな」……ここを読んだ時、動物とか自然の持つ力っていうのは本当に凄いなあと思いました。

 もちろん、こうしたことを言うこの男の子の性格にも問題があっていじめられたんじゃないかとか(笑)、そう思う方もいるかもしれません。

 でもよく言われるように――いじめなどによって受けたトラウマっていうのは、似たような状況をもう一度経験してそれを乗り越えないと癒えないところがあるって言いますよね。

 この男の子はたぶん、馬に乗れたことで、いじめの傷が代償的に癒されたのかなっていう気がするので、そう考えた場合やっぱりそれって凄いことだと思うというか。

 まあ、イルカセラピーでもなんでもいいんですけど、人ってどうも<理屈の支配しない世界>でしか癒されない領域があるんだろうなっていう気がします。

 なんていうか、前々回書いた原体験っていうのがそれだと思うんですよね。

「無意識を鍛える」という言い方はおかしいけれど、大体小学四年生くらいまでにそういうものを出来るだけ経験しておかないと、普段意識してる理屈先行型の世界で挫折した時に、うまく立ち直れないというか、本人がどうしていいかわからないだけじゃなく、まわりの大人もどう助けたらいいのかわからなくなるんじゃないかな、というか(^^;)

 ようするに<無意識>っていうのは、自然や馬といった動物が持ってるのと同じ<意識>のことだと思うんですよね。無意識っていうのは意識しないから無意識っていうのであって、意識できない無意識について論じてみてもしょうがないじゃないか……とかいう話はどうでもよく(笑)、↑の男の子の話であれば、「そうか。おまえいじめにあったのか。じゃあオレがひとつ背中に乗っけて慰めてやろう!」みたいなことじゃないってことですよね。

 ただ特にそう意識して考えなくても、馬の中にある無意識の中に自分がいて、そして自分の中の無意識にも馬がいる……そこが通じあった時に癒されるというか、感覚としてそんな感じのすることですよね。

 もちろん、「自然との触れ合い」なんて言っても、今はたぶんそんなに簡単じゃないんだろうなと思います。これは「だったら動物園に行けばいい」とか、そういうことではないので(それも大事ですけど^^;)、今の時代はイルカセラピー受けるにしてもなんにしても結構お金がかかると思うので。

 それに、当然「時間」っていう問題もありますよね。お金と時間がたっぷりあるというのなら、都会から北海道のど田舎にでもやって来て、暫く自然と触れ合うとか、そういうことも出来るかもしれないにしても……どっちかっていうと親御さんのほうで、「馬になんか乗ったところで、うちの子が癒されるもんかしら」とか、「心の傷が癒されるにしても、仕事で休みを取れるのなんか一週間きりだし、その一週間の間に立ち直ってくれないと困る」とか、大抵はある種の焦りがあるのが普通というか。

 でも、↑の男の子の話で一番素晴らしいなとわたしが思ったのは、この子の中で「馬に乗れた」、「あいつらは馬には乗れない」って思えたことっていうのは、たぶん一生の財産っていってもいいくらい、記憶に残るだろうなっていうことでした。

 うちには余計なお金がないとか、お母さんもパートで働いてて忙しいとか、自分のことで心配かけられないとか、子供のほうがよっぽど敏感にわかってますよね。

 それなのに、そういう中でここまでしてくれた……とか、そういうことっていうのはその後も記憶の中に大きく残ることだと思います。

 なので、こうしたことが出来るかどうかが、結構運命の分かれ道なのかなって思ったりするんですよね。そういうものが何もなくて、ただ「学校に行け」とか「働け」とか、世の中の人はみんなそうしてるとか、そういう理屈だけ押しつけられたとしたら――まあ、わたし個人はある日突然出刃包丁が出てきたとしても、なんら驚くに値しないと思っています(^^;)

 ではでは、今回が犯人の動機その1で、次回がその2という感じかもしれません。

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第二部】-34-

 近藤淑子は、母ひとり子ひとりの身の上だった。

 彼女と彼女の娘の美弥子が、というのではなく、淑子の母親もまたシングルマザーだったのである。

 淑子の母は魚や野菜を市場で安く仕入れると(その中には彼女の家の庭で取れたものも含まれる)行商して歩くことで、どうにか娘の淑子を育てた。淑子は家の手伝いをなんでもしたし、休みの日には母親についてリヤカーを押して歩いた。小さな子供を連れているということで何か物が売れれば嬉しかったし、「ガキを使って同情を引くな!」と石を投げられれば悲しかった。

 生活は苦しかったにしても、淑子は貧乏であることが人を不幸にすると思ったことは一度もない。

 やがて中学を出た頃、母親が突然倒れた。くも膜下出血だった。あっという間に母親の命を奪われた淑子は、高校へ進学することも出来ず、海辺の町でウェイトレスとして働くことになった。

 ある日、仕事が終わって家まで帰ろうとしていると、誰かが後ろをついて来ることに気づいた。淑子は走って走って走って、激しく息をしながら自宅に辿り着いたが、周囲に誰もいないと安心したその途端、闇の中から手が伸びてきて、彼女のことを暗がりへと引きずりこんだ。

 そしてその三か月後――自分が妊娠しているとわかり、淑子は子供を生む決意をした。それが彼女にとってのちに大切な宝物となる、娘の美弥子である。

 何分小さな町のことであるゆえに、子供の父親は誰なのかと、そう聞かれることを美弥子は何よりも恐れていた。また、娘が成長した時に、何か良からぬ噂が彼女の耳に入ってもいけないと思っていた。

 そこで淑子は母親から譲り受けた家と小さな土地を手放し、まだ赤ん坊の美弥子を連れて上京することにした。淑子がまだ十七歳の時のことだった。

 働きながら子供を育てるのは、思った以上に大変だったが、美弥子が変にひねくれるでもなく素直な優しい娘に育ってくれたことが、淑子にとっては何よりの救いだった。

 やがて美弥子は大きくなると、高校時代はアルバイトしたお金を家に入れてくれるようになり、高校卒業後はコンビ二で働きながら、通信講座で医療事務員となるための資格を取得した。綾瀬脳外科病院に事務員として採用が決まった時には、淑子と美弥子は手に手を取りあって喜んだものである。

 とはいえ、綾瀬脳外まで通勤するには遠すぎたため、美弥子は一度病院の寮へ入ることになり――のちに、ある程度お金が溜まった頃に、独り暮らしをするようになったのである。

「おまえ、ここ、どういうところなの?」

「お母さん、心配しないで。見た目ほど、大して家賃は高くないんだから」

 部屋は寝室に居間、それともうひとつ余計に一部屋あった。親子ふたりで一部屋しかない和室に長く暮らしてきたことを思うと……本当は娘はこういう贅沢にずっと憧れていたのではないかと、淑子は胸が痛くなった。

 だが、寝室の広いベッドに枕がふたつ並んでいるのを見て、その瞬間にハッとする。

「美弥子、もしかして……」

「そうなの、お母さん。部屋の家具とかも全部、彼が買ってくれたものなのよ。バッグとか服とか、頼みもしないのに色々プレゼントしてくれたり。それでわたし、寮を出てひとりで暮らせるようになったの」

 こんなに嬉しそうで晴れやかで、またどこか誇らしげですらある娘のことを、淑子は今まで見たことがないと思った。少なくともここ数年以上、自分がこんなふうに娘を笑わせたことはないと思うと、淑子はなんだか急に寂しくなった。

 けれど、つきあっている男性が同じ病院の医師であり、それと同時に結婚できるかどうかはわからないと娘が言葉を濁らせはじめると――淑子は美弥子の将来に、俄かに深い影が差しているように感じた。

「彼、綾瀬脳外の院長の娘さんとおつきあいしてるんですって。それで、別れたいんだけど、向こうがなかなか承知してくれなくて困ってるって……でも、彼女と別れて病院も辞めるって言ってた。そしたらふたりだけで、どこか別の街で暮らそうって」

(そんなもの、優柔不断で馬鹿な男の方言に決まってるじゃないか!!)と、叱り飛ばすことは淑子には出来なかった。それ以前に「お母さんは馬鹿な娘だと思うだろうけど……それでもわたし、今とっても幸せなの」と、美弥子が笑ったそのせいである。「お母さんになら、わかるでしょ?」というように。

 美弥子に駅まで送ってもらった帰り道、淑子は電車の中で暗い溜息を着いていた。(親の因果が子に報い……っていうのは、こういうことをいうのかしらね)と、そう思っていた。

 娘の美弥子が淑子に直接、父親が誰なのかを聞いたことは一度もない。ただ、娘が漠然と不倫などの許されぬ恋愛を母がして自分が生まれたのだ……といったように解しているらしいとは、淑子もそれとなく感じていた。

 そして淑子もまた、母の淑江に自分の父が誰かと聞いたことがないだけに――それがどんな気持ちかということは、よくわかっているつもりだった。だが、淑子の母の場合は、娘が近所の悪ガキに「おまえ、父ちゃんいないんだろ?」とからかわれているのを見て、こんな話を彼女にしたことがある。

「淑子、李香蘭って知ってるかい?」

「り・こうらん?」

 まだ七つの娘のことを、浜辺の砂の上に座らせて、昆布漁の手伝いが終わったあと、母は夏の海を眺めて言った。「夜来香(イェライシャン)」という歌を少しだけ歌う。

「すごく美人の女優さんなんだよ。日本名は山口淑子っていうの。淑子はさ、自分の名前はお母ちゃんの淑江の一字を取ったもんだと思ってるだろ?でもね、あたしは淑子っていう名前は李香蘭から取ったのさ。あんたが同じくらいべっぴんになればいいと思ってね」

「ふう~ん」

 この時に感じた強い潮と風の香りを、淑子は今も記憶に甦らせることが出来る。

「あんたの父ちゃんと、あたしとは色々あって結婚は出来なかったよ。けどね、これだけは言える。あたしとお父ちゃんとは愛し合っていたんだけれど、結ばれることは出来なかった……でも、あたしは淑子が生まれてくれて本当に良かったよ。だからね、あんたも父ちゃんがいなくても頑張って生きていけるだろ?」

「うん」

 それから母が、淑子の父親が李香蘭を好きだったこと、彼女に少し似ていたから淑江に声をかけたと言うのを聞き――淑子は今でも、李香蘭のポスターを押入れから取り出して見ることがあった。

 何か困ったことがあると、淑子は李香蘭のポスターを部屋に貼り、『今もこの世に生きているかどうかわからぬお父ちゃん、力を貸してください』と祈ることがある。実際そうしたあとに、今月の家賃や医療費をどうしようかと思っていた矢先、思ってもみないところから収入があり、必要が満たされたということがあった。

 だから淑子は自分の娘が死んだ時も、真っ先にそのことをした。その祈りは淑子の嗚咽によって時々途切れたが、彼女は何時間もかけて丁寧に祈っていった……娘を殺した犯人をどうにかして捕まえたいこと、こんなことがあっていいものかという神への苦情と怒りを一くさり、そしてまた号泣し、それでもどうか助けてください、いい知恵をお貸しください、どうか何卒……と淑子が祈った時、【としょかんへいきなさい】という声が脳裏に響いた。

 その声音があまりにクリアーであり、どことなく死んだ娘と母親の声音を混ぜたような声色だったせいか――淑子はとにかく<声>の言うとおりにしようと思った。

 図書館はかつて娘の美弥子が働きたいと思っていた場所である。だが、司書の資格を取るには短大へ行かなくてはならないため、彼女はその夢を断念していた。

(嗚呼、美弥子。おまえは本当はこういうところで働きたかったんだね……)

 本棚と本棚の間で、図書館の職員が本を整理している姿を見ただけで――淑子の目には涙が滲んだ。

(金銭的には難しかったけど、それでも借金してでもどうにか、進学させてやれば良かった。そしたらあんなろくてない男と出会うでもなく、今でもあの子は生きていたろうに……生きて笑って暮らしていたろうに) 
 
 この頃から淑江は自分でも、昔はさして気に留めなかったことが、やたら耳障りで気になるようになっていた。たとえば、公園でカップルがいちゃいちゃして笑っているだけでも、突然跳びかかっていって邪魔してやりたいような衝動に駆られるのである。

 綺麗ごとではなく、淑子は今まで、他人の幸福を羨んだりしたことはなかった。自分は同じ服ばかり着ているにも関わらず、同級生は色々な服をたくさん持っていても――そうした種類のことに嫉妬という激しい情動を覚えるということはなかったのである。

(一体わたし、どうしちゃったんだろう……)

 図書館へやって来るまでのバスの中でも、家族が四人、仲良さそうにしているというだけで、その中の小さな子が泣きわめいているというだけで――「うるさいガキだねっ!!そんなうるさいガキを黙らせておけないオマエラもオマエラだっ!!」……喉までそういう言葉が出掛かり、淑子は実際そんな自分に戸惑っていた。

 なんにしても図書館はとても静かで、突然突き上げてくるそんな激しい情動を淑子は覚える必要がなかった。そこで淑子はどこか静謐な気持ちにすら満たされて、初めてやって来た知的な場所をぐるぐる歩きまわっていた。

【あ、お母さん、そこよ】

 娘の声が自分の肩の位置でしたかと思うと、そこには『完全犯罪マニュアル』なる本があり、そのタイトルがでかでかと淑子の目に飛び込んできた。

『お、の、れ、お、の、れ、おのれェェェッ!!』と、再び淑子は激しい情動に取り憑かれそうになったが、見たところは平静そのままで(だが、見る人が見れば彼女の目がつり上がっているのがわかっただろう)、本のページを開いた。

 中には、<誰かを自殺に見せかけて殺したい場合>という項目があり、※こういう場合は証拠が残ってしまうので要注意!!といった説明まで、ご丁寧に付け加えてあった。

 そのページを見た瞬間、おそらく淑子の脳内では過剰なまでにノルアドレナリンが分泌されていたのではないかと思われる。毒殺・撲殺・刺殺……それから最後のほうに首吊り自殺というページを見つけた瞬間、淑子は驚くあまり、体が誰かに引かれたように後ろへ引っ張られたほどである。

 淑子は『完全犯罪マニュアル』という本の特定のページを何度も繰り返し繰り返し読んだ。だが何分、図書館へ来たのが遅い時間でもあったため、あと十五分で閉館する旨を伝えるアナウンスと音楽(ほたるの光)がやがて流れはじめる。

 そして貸し出し時間の1分ほど前に淑子が、『完全犯罪マニュアル』という本と、それに類する本を九冊ばかりも借りようとすると、図書館の司書はいかにも面倒くさそうな顔をしていた。

「申し訳ありませんが、貸し出し時間ギリギリでなく、次からはもう少し時間に余裕を持ってお借りください」

 眼鏡をかけた中年女の司書にツンと取り澄ましたように言われると、淑子はまた例の怒りの情動に取り憑かれそうになった。

『オ・マ・エ・は、オ・マ・エは、ナ・ニを言っておるかーッ!!こんなにこんなにこんなにこんなに大切なことが、おまおま、おまえは他にこの世にあるとでも思うかァッ!!』

 そう叫んで女のお団子頭を引きむしってやりたかったが、淑子はぐっとそんな怒りの衝動を堪え、ムッツリした顔のまま、貸し出しカードを作成するための項目に記入した。そして自分が目当てとするものを鞄に放りこむと、今度は喜びの発作が淑子の心を包んだ。

(やったよ、美弥子。お母さん、おまえの言うとおりにしたよ……)

 帰りのバスの中で揺られながら、淑子は涙ぐんでさえいた。そしてバスの中でも本を読み、その日の夜は夕食を食べることすら忘れて、借りてきた本の内容に没頭した。

 不思議なことのように思われるかもしれないが、淑子の中で最愛の娘美弥子は死んでいなかった。確かに彼女の葬儀を行い、その遺骨は仏壇の前に供えてあるとはいえ――淑子は娘と【高次の霊的交信】を行うことが自分には可能なのだと信じていた。

 この瞬間、淑子の中で<死への恐怖>は消滅していたといっていいかもしれない。人は死んでも霊として生き続けられる、また霊になると人は、生きている頃はわからない新しい知恵の世界へ一歩足を踏み入れることになるのだと、淑子はそう信じた。何より、時折語りかけてくる美弥子の声が安らかで、もはや彼女が苦しみのない世界にいるということこそ、淑子には何よりの慰めだったのである。

 普通に考えたとすれば、淑子は中卒の掃除婦であり(他に保険の外交員やホステスなど、娘を育てるために色々な職業に就いた)――そのような女性は一般的に知性が低いと思われがちであるかもしれない。だが彼女は本当はもともと、相当に頭のいい女性だったのだろう。にも関わらず、自分に与えられた環境に適応しすぎるあまり、そのことにまるで気づかずにいたものと思われる。

 淑子はその日以来、娘・美弥子の事件を立件するために、暇さえあればとにかく本を読み耽った。そうしていると、娘を失った喪失感と空虚感で隙間だらけになっていた心が次から次へと文字で埋め尽くされるのを感じたし、何より淑子は<本を読む>ということが、こんなにも知的な欲求を満たす冒険に溢れたものだとは思ってもみなかった。娘に犯罪が行われたことを立証できそうなページに行きあたるたび、淑子は恍惚感に近い悦びすら覚えた。「ああ、神さま。ああ、神さま……!!」と、口からそのような言葉さえ迸ることが何度もあったほどである。

 また淑子は、だんだんに速いペースで本を読むことにも慣れていった。「それが何故か」というのは彼女自身にも説明はつかないのだが、図書館で起きたあの<最初の不思議>と同じく、仮に娘の声はなくても、どの本をどの順番で読めばいいのかが彼女にはよくわかっていたのである。本の背表紙さえ見れば、すぐに「ピンとくる」し、それと同時に脳の中で文字の吸収率が格段に高くなっているように、淑子は感じていた。

 こうして淑子は、それまでパソコンなどというものには一度も触れたことがないにも関わらず――ブラインドタッチなどはすぐにマスターし、細心の注意を払いつつ、娘の残したノートパソコンを調べることになった。また一度パソコンを使えるようになってみると、驚くべきことがわかった。今までは何冊も本を読んで犯罪や法律に関する知識を深めていた淑子だったが、ひとつのキィワードを入れるだけで、それこそありとあらゆる関連項目がぞろぞろと浮き上がってくるのである。

 そしてここで淑子には、まるでこれまで努力したことの報いが与えられでもしたように、とても嬉しいことがあった。娘のパソコンの使用履歴を調べているうちに――彼女がブログをやっていたことがわかったのである。淑子は美弥子が残したその文章を初めて読んだ時、滂沱と涙を流すあまり、途中でパソコンのモニターがぼやけてくるほどだった。

(生きてるッ!!美弥子はまだ生きてるっ!!)

 もちろん、美弥子のブログが更新された最終的な日付は、死ぬ一週間ほども前のことであり、その文章の調子は暗いものでもあった。


 ――近頃、なんだかさっぱりいいことがないみたい。
 医事課の課長にはどうでもいいようなことで叱られるし、彼ともあんまりうまくいってないの。
 でも、そのうちきっといいことがあるわよね。 


 最初の興奮が収まった時、その文章をもう一度冷静になって読み返し……淑子はハッとした。こんな文章が法廷で用いられでもすれば、おそらく娘が自殺したことの恰好の証拠となってしまうだろう。だがそれと同時に、他のブログのページは大抵が楽しい記事で溢れており、彼女は自分なりの人生を明るく生きていたのだと思うと、淑子の頬にはやはり何度も嬉し涙が伝い落ちていった。

 また、娘が保存していた画像ファイルの中から、関口医師とふたりで一緒に映る写真が何枚も見つかり、淑子はごくりと喉を鳴らした。(こうしたものはすべて、決定的な証拠となりうる)……そう思うと、淑子は口の中で何度も舌なめずりをしていたほどである。

 だが、パソコンはともかくとして、携帯のほうからは関口医師に繋がるようなものは不自然すぎるほど何も出てこなかった。おそらく、彼自身が自分に疑いが向くことを恐れるあまり、データを消去したのだろう。

「ちくしょう、チクショウ、こんちくしょうめがッ!!」

 淑子は自宅アパートの室内で、そのことに気づいた時にはクッションから綿が飛び出るほどそれを殴り、両足を使って踏みつけにした。だが一瞬あとに(待てよ)と気づいてからは、不敵な笑みが彼女の頬には広がっていった。電話会社には当然番号の通話記録が残っていると思われたからである。

(なんにしても、敵は悪賢い。わたしもあいつと同じくらい頭を使わなけりゃね……まったく悪魔みたいな男だよ。自分の欲望を満たすことしか、あいつの頭の中にはありゃしないんだ。病院の理事長の娘と結婚するのに邪魔になったから、美弥子のことを殺すだなんて。その一方じゃエリート脳外科医として腕を揮い、患者から諸手を挙げて感謝されようってんだからね。あんな悪魔みたいな男に勝つためには、わたし自身も悪魔にならなけりゃならない……そうだ。これは悪魔と悪魔の戦いだから、より悪賢くなれたほうが最終的に勝つんだ)

 また、淑子はこうも思った。何分相手は<悪魔のような奴>なんだから、手足を引っこ抜かれて(ついでにペニスも抜かれて)、五体がバラバラになったのち、ぐつぐつ煮える血の釜の中で茹でられるがいいのだ。悪魔と悪魔の戦いというのはそういうことだ。勝った奴が釜をかき混ぜるおたまを手にして、相手が頭を浮かせるごとに下へ突き落としていじめてやる……しかもそれが永遠に続くのだ。

 この地獄のイメージによって淑子はすっかり心が清々しく洗われたようになり、その日も綾瀬脳外科病院に勇んで出勤していった。そして毎日汗水流して働きながら、敵の動静を探り、向こうが色黒の肌とは対照的な白い歯で笑うのを見るたび、(今に見ていろ、関口五郎!!今に見ていろ、関口五郎!!)と、モップを忙しなく動かしては日々の業務をこなしていった。

 そしてそんなある日のこと――淑子にひとつの転機が訪れる。綾瀬脳外のドラ息子として院内でも名高い綾瀬真治が、「おばさーん。ちょっといい?」と、たくさんの医療機器類を避けてモップがけする淑子に、妙な顔で話しかけてきたのである。

 この時点で淑子はすでにふたりの患者を殺していた。だが、院内では巧妙な隠蔽工作が図られた。流石に三人も犠牲者が出たのではあやしまれると淑子も思っていたが、何分自分の目的は警察に逮捕され、何故こんな事件を起こしたのかを世間に訴えることなのだ。そして関口五郎めを必ず地獄に道連れにしてやる……淑子はそう自分と仏壇の娘に誓って、経済的に苦しい日々をどうにか生きていた。

 医局にある、綾瀬真治のプライヴェートな部屋といっていい場所に呼ばれた時、淑子は当然すでに覚悟を決めていた。これから警察の車両がやって来、そこへ乗り込む時には、一体どんな気持ちがするのだろうか……そう想像しただけで足が震えたが、これも他でもない娘の復讐のためである。

「これでさっ、今回の件、チャラにしてくんないかな?」

 見ると、マホガニー製の机の上に、札束が十個ばかりのっていた。綾瀬真治はといえば、そんな金にはまったく敬意を感じていないように、どっかと両足を机にのせ、何やら飴玉をしゃぶっている様子である。

「ひどいよねえ、関口の奴。娘さんのことはさ、僕もだーいぶ前から知ってんの。で、俺もそれであいつのことを脅して言うなりにさせてんだけど、まーさかまーさか、まーさーかー、こんなショボイ掃除のおばちゃんが、娘の復讐のために人をふたりも殺すとは、あいつも夢にも思ってないだろうよ」

「……なんのことをおっしゃられてるのか、まるでわかりません」

「いいから、人が下手に出てるうちに、話聞けよ、このババア!!」

 綾瀬真治が札束を淑子に向かってひとつ、鋭く投げて寄こす。

「こいつもこいつもこいつもこいつも、くれてやるって言ってんだぞ、こっちは!!」

 ふたつ、三つ、四つ、五つと、続けざまに札束が空中を切って壁に叩きつけられる。

「拾え、おまえ、拾えっ!!」

 突然ヤクザのように態度の豹変した綾瀬が、淑子は怖くもあったが、怯まずにただその場に立ち続けた。

「金が欲しけりゃ、犬みたいに這いつくばって拾いやがれってんだ!!いいか、その代わり黙っとくんだぞ。ありゃてめえが人工呼吸器のコンセントを抜いたんじゃない。ましてや医療事故でもない。あいつらはちょうど寿命って奴だったんだ。むしろあんたがそうしてくれて、病院としても大助かりだからな。これでふたり分ベッドが空いて、回転率が高くなった分、綾瀬脳外は儲かりましたとさ……めでたし、めでたし!!」

「証拠でも、あるんですか?」

「証拠だァ?馬鹿かオメーは!!馬みたいに縦に長い顔しやがって」

 ここで綾瀬は、<脳外科ジャーナル>という医療雑誌で何度も繰り返し机の上をバンバン叩いた。それから何か面白い漫画雑誌でも読むような恰好で、それをパラパラと捲って読む。

「いいから、受けとっておけよ。こっちの経営だって苦しいんだかんな。一歩間違えりゃすぐ倒産……いや、病院の場合は倒院か!?」

 自分の言ったことが面白いと思ったのか、綾瀬真治はここでげらげらと笑い、味に飽きたのかどうか、なめていた飴をぷっとゴミ箱に捨てる。

「そうそう、うちも一歩間違えりゃすぐ倒院の憂き目に合っちまうんでな。娘さんのこたぁ僕も気の毒だったなーと思うけど、死んじまったもんはもうしゃーないやんか。あんたの生活が相当苦しいってこともこっちはわかってる。娘の部屋と自分んちの家賃支払うだけでも、ヒィヒィ言ってんだろ、あんた。ま、そんな金で満足できんことはわかるが、とりあえず人がやるってんだから、貰っとけ。でな、あいつに復讐したいんだったら、僕ちんの目のつかないところでやってほしいわけよ。関口の奴、パパに頼んで近々別の系列病院に転勤するみたいだから……ま、次は病院に迷惑かけないように、もうちょっとやり方考えてちょうだいな!!」

 綾瀬真治の物言いはふざけているようだが、淑子には妙に真に迫って聞こえた。道化を装ってはいるが馬鹿ではない――何かそんな印象だった。

 そこで淑子は犬のように這いつくばったわけではないが、実際に札束を手にして自分の鞄の中にひとつ、またひとつと入れはじめた。淑子が何故そんなことをしたかと言えば、当然理由がある。金の誘惑に負けたのではなく、確かにこの資金があれば、もう少し別のやり方で関口五郎を苦しめてやれると思ったからだ。

「よしよし、最初から僕の言うとーりにしてりゃあいいのよ」

<脳下ジャーナル>をピシャッと閉じると、綾瀬は今度は三十センチ定規で机の上をバシバシ叩きはじめた。それから鉛筆立てを淑子に向かって投げつけ、「ヒャハハハッ!!」とおかしな笑い方をする。

「用が済んだらさっさと出ていけ!!この薄汚い掃除のババアめっ!!二度と僕の前に現れるんじゃないぞっ!!」

 ――もちろん淑子は、その次の日も、また翌日も、綾瀬脳外科病院に出勤していった。突然仕事を辞めるわけにもいかないし、そこのところは綾瀬真治のほうでもわかっていたようで、廊下で彼女のことを見かけても「チッ」と舌打ちするだけで横を通りすぎていった。

 そして一千万という大金を受け取った数日後に、この綾瀬真治が殺されたと聞き、淑子は天に向かって快哉を叫んだ。「ああ、神さま。ああ、神さま……!!」と彼女は思った。

(あいつはしょうもない悪人だったから、恨みを持った患者家族に最後はブッ刺されて死んじまった。けどまあ、こっちはそれで好都合。きっとあいつはわたしに金をくれることが最後の役目で、それが済んで用なしになったから殺されたんだろう)

 こうした自分に都合のいい解釈がどこからやってくるかは謎であるが、淑子はその後も安心して綾瀬脳外で敵の動向を探れるのを喜んだ。もはや、関口五郎を苦しめることこそが、淑子の唯一の生き甲斐にして喜びであるかのようだった。

(見ててごらん、美弥子。お母さん、絶対にあいつのことを殺るよ。絶対に殺ってやるからね、美弥子……)

 この場合の殺るというのは、文字通り肉体を地上から抹殺する意の殺すということではない。じわじわじわじわ、じわじわじわじわ、この地上で死んだほうがましだというような生き地獄を這いずりまわせてやるというの意味での、<殺す>ということである。

 また実際、淑子の思惑と計画は彼女の望みどおりの効果を関口五郎に及ぼしていた。彼は靴の中の画鋲を踏んで飛び上がったこともあれば、白衣のポケットからボールペンを出そうとしてダンゴ虫を手掴みにしたこともあったからである(彼が看護師たちの前で「うわあっ!!」と叫んだのも無理はない)。

 だが淑子にとっては幸いなことに、関口はこうしたことをすべて、綾瀬真治の嫌がらせではないかと思っていたようである。何故といって、関口が別の系列病院に転勤したいと申し立てたことが、父親の口から彼の耳に入ったのではないかと思っていたからだ。

 なんにせよ関口は、自分が担当している患者が三人続けて人工呼吸器のコンセントを抜かれるという目に遭い――そのことを理由にしてどうにか綾瀬脳外を離れられるのを喜んだ。しかしながら彼にとっての邪魔な男(綾瀬真治)が患者遺族に殺されたことで、状況はまた変わることになる。

 綾瀬真治は脳外科医としては三流以下であったにせよ、他の病院から有望な人材が最低でも二名やって来ないことには、本院の医師が足りないことになるからである。そこで系列病院から優秀な人材がやって来ると、彼と入れ違いになるように地方の慈鷲会病院へ関口は出向したのだが、ここでもまた自分が担当する患者の人口呼吸器を抜かれ――ようやくこの瞬間に彼もハッとした。

 マスコミが綾瀬脳外科病院の医師について、あれこれと書き立てているらしいのを当然関口は知っていたが、彼はそれもまた自分のことを恨む人間が誰かいて、情報をリークしているのだろうと思っていた(実際には淑子はこの件には一切関与していない)。
 
 またそう考えた場合、やはりここからも自分は逃げだしたほうが良いのではないか……と考え、関口はその病院を退職し、今度は知り合いのツテを頼ってK市K病院へと逃れて来たのである。

 そしてここからが、淑子にとって綾瀬真治の残した金の使いどころだった。淑子は『秘密は絶対に守ります!!信頼と保証の△△探偵社』というところへ乗りこんでいくと、変に相手から足元を見られないために、ここで一芝居打つということにした。つまり、いかにもな<ヤクザの姉御>の姿恰好をして、こう凄んだのである。

「おんどれら、うちをなめたらあかんでぇ。大阪のミナミあたりで近藤淑子いうたらあんた、ヤクザもびびるほどのちょっとした<顔>やからな。うちがこの関口ゆう男のことを調べとんのも、うちの人がこいつにかかってひょっとしたら殺されたんと違うかと思うからや。うちが「うちの人」っていう言葉の意味、あんたらにもわかるやろ?「うちの人」っていうんはなぁ、ヤクザの大親分や!!ところがうちの人がくも膜下出血で亡くなった途端、組のほうがうまくいかんようになってしもうてな。それでうちは関口のことを恨んどんねん。金か?おお、うちの人はうちを愛しておったからな、金だけはぎょうさん残していってくれたもんや。おら、まずは手付金としてこれをやる!!」

 淑子はヤクザの女房らしく見えるようにと、成金くさく見えるよう、シャネルの(偽の)バッグを持っていた。そこから綾瀬真治から貰った金を一束取り出す。

「おらおら、おまえら、犬のように這いつくばって、早よ拾わんかい!!」

 淑子のドスの利いた様子にすっかりたじろいだ探偵社の男ふたりは、顔を見合わせたのち、どうやら目下と思われるほうが百万円を実際に這いつくばるようにしながら拾った。

「あんさんらがどんくらい儲かってんのかは、このうらぶれた会社の室内を見ただけでようわかる。亭主の浮気だのなんだの、みみっちい仕事をしては小銭を稼ぐっていう点では、あんさんらもヤクザとよう変わらんかもしれんのう」

 ここで淑子は「カカカ」と黄色い歯を見せて笑った。淑子は実際には煙草など吸ったことはなかったが、彼らは煙草のやにが染み付いて黄色くなったのだろうと信じて疑わなかった。

「どうせ、ほれ、探偵社なんぞと言っても、自転車操業みたいなもんなんやろ?気持ち、めっちゃわかるでえ。ヤクザかて、定期収入なんぞ、シャブで月々いくら儲かるかにかかっとるようなもんやさかいにな。うちは金は惜しまん。そのかわり、関口が次にどこへ転勤していきくさりよったのか、それだけ調べてくれりゃあええんじゃ」

 探偵社の男ふたりは、この<大口>の顧客を実に喜んだ。そして彼らが<情報屋>と呼ぶネットワークを使い、さして時間もかけずに関口五郎の個人情報を芋蔓式にいくつも掘り当て――頼まれてもいないことまで彼らは実に詳細に調べ尽くしていた。また淑子のほうでもそのことを実に喜び、最後には最初の倍の金を渡すことによって謝礼としていた。

 だが、ここで淑子にとってひとつだけ、都合の悪い事実が出てきたかもしれない。というのも、探偵社の男たちは「また何かあればどうぞわが社を」というサービス精神から、頼まれてもいない詳細なデータを関口五郎について調べ上げていた。だが、彼の生い立ちなどを読むうちに、淑子は初めて相手が憎むべき<悪魔>などではなく、自分と同じ「人間」であるということに気づかないわけにいかなかったのである。

(幼い頃から父親はなく、母と姉が自分の人生を犠牲にするようにして働き、苦学してようやく医大を卒業……)

 関口五郎についてのそうした詳しい情報について知るに及び、淑子は資料の紙を持つ手が次第次第に震えはじめた。相手の姿が尻尾と角の生えた悪魔ではなく、初めて生きた立体的な人間として認識された、そのせいかもしれない。

「う、うちはこんなことは信じんっ!!あいつは悪魔や、うちの娘を殺した悪魔なんやっ!!」

 淑子はそうした自分にとって都合の悪い、良心を揺さぶる事実については<否認>することにし、関口五郎の行き先の住所と病院名(またどうやって調べたのか、自宅の電話番号まで記載されていた)の書かれた紙以外はすべて燃やすということにした。

 そして彼女こそが実は悪魔ではないかというような恐ろしい形相になると、「うちからは絶対に逃げられんでえ。今に見ておけ、関口五郎っ!!地の果てまでも追っていってやるさかいにな!!」と淑子は叫び、ここで仏壇の奥にしまいこまれた李香蘭のポスターを取りだして、壁に貼った。

 ここまでのことがわかったのは、淑子にとっては<天の善なる世界のお導き>としか思えないことだったし、これからもまた同じように祝福し続けてくださいと、<神>に祈り感謝したい気持ちでいっぱいだったからである。

 淑子はそうしているうちに、関西弁でしゃべる自分の別人格が遠くへ行くのを感じたし、娘のことを思うと熱い思いが胸に迸るあまり……「もう少しだからね、もう少しだから。待っていておくれ」と、最後には李香蘭のポスターの前で泣き崩れていた。



 >>続く。





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