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動物たちの王国【第二部】-33-

2014-04-08 | 創作ノート
【運命の三女神】ジョン・メリッシュ・ストラドウィック


 え~と、今回は言い訳事項があるような、ないような

 例によって本文長いので、前文のほうは短めに……と思うんですけど、十三階の特別病棟は、1~15号室まであって、そのうち4号室と9号室と14号室はないっていう感じです。

 それでもまだ、患者紹介としては10号室や11号室にも誰かいるはずなんですよね(笑)でも結局のところ、あまり特殊な症例や病気などが思い浮かばなかったもので、すべての患者さんについて書いてない感じです(^^;)

 あと、<気難し屋病棟>なので、キャラ的に気難しい人を書くのがなんか面倒くさかったっていうのもあるかもしれません(笑)

 日本では13という数字はそんなに忌避されてない気もするんですけど、病院によっては4や9の他に13号室もないことにしてる病院もあるような気がしたり。

 それはさておき、前回同様前文でこういうこと書くのは微妙な気がするんですけど……犯人さんについては、かなりのところ「肩透かしチック☆」な感じだと思います

「おお、そいつは意外だ!!」ということはまるでなく、どっちかっていうと「え~、何ソレ☆」みたいな感じだと思うので、なんか先にあやまっておきたい気がしたというかm(_ _)m

 まあわたし、あくまでも<全体>として、何故犯人が殺人という罪に至ったのかっていう、(犯罪)心理的な面にすごく興味があるっていう人なんですよね。

 なので、次回とその次くらいで、犯人の殺人に至った理由であるとか、そうしたことが割と長く語られることになるかと思います(^^;)

 そんでもって、その次が雁夜先生と花原さんの恋愛物語、それからまた翼と唯のことに話が戻ってきて終わり……という感じかもしれません。

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第二部】-33-

 そして、関口医師がパトカーに乗せられ、警察の保護下に置かれた一週間後、一連の出来事を結ぶ糸がどのような絵を描いていたのかがわかる、アトロポスの糸の切れる瞬間がやって来た。

 まずその現場を取り押さえたのは、十三階の特別病棟の佐藤師長であった。彼女はその時、いつもどおり師長室で書類仕事を片付けており――各種の伝票類をチェックして印を押したり、また毎月頭を悩ませる勤務表の作成を行ったりしていた。

 時刻はちょうど、日勤帯から夜勤帯へとバトンタッチされる時のことで、佐藤師長もまた申し送りの席に着くため、ナースステーションへ向かおうと思った時のことだった。

 佐藤は結城医師から笹森院長に伝えられ、また笹森院長が事務局長に指示し、さらに事務長が宮原総師長に伝えた事柄を毎日忠実に守っていた。といっても、佐藤自身(まさかそんなことが)と思ってはいたのだが、もし総師長の言ったとおりであるとすれば、「万が一のこと」が起きた場合、自分も到底責任を免れることは出来ないだろうと思った。そこで「ついうっかり」の見落としがないよう、12号室に仕掛けられた隠しカメラをじっと眺め続けていたのである。

 無論、佐藤も監視ロボットではなく人間なので、トイレにも行けば、当然仕事が休みのこともある。ゆえに主任の今里と相談し、休みはふたりがかち合わないよう交代でとり、夜は外からやって来る見舞い客がいなくなる七時まで居続けるということにした。

 もっともこれでも、まだ監視体制としては甘めと言わざるをえない。佐藤と今里は「もしここに羽生さんがいればねえ」と、溜息を着いて話したものである。「彼女みたいな口の堅い人には、このことを話して協力してもらえるんだろうけど……」

「うちの病棟ナースは仕事の出来る粒揃いだとは思うんですけど、こういうことに関してはおしゃべりだし、絶対みんな黙っとけないと思うんですよね」

「そうよねえ」と、佐藤もまた師長室の机の前で頷いていた。「みんなほんと、気のいい人ばかりなんだけど。この間も、うちの病院が例の事件でテレビに出てただのなんだの、キャアキャア騒いでたでしょう?あれ見ててわたし、確信しちゃった。「12号室には隠しカメラが仕掛けられてるって?え?なんでなんで?犯人を捕まえるため?キャーッ。王様の耳はロバの耳っ!!」て、みんな絶対、中庭に穴をいくつも掘りにいくだろうってね」

「ですよねえ。けどまあ、わたしも師長も今は夜勤してないし、夜の時間帯はどうします?」

「そうなのよ。だからわたし、総師長に思わず言っちゃった。夜勤帯のことについては責任を持てないって。だって、七時に外の見舞い客がいなくなったら、まず見舞い客専用の出入口が閉鎖されるでしょう?一応、理論上はそれで人の出入りは出来なくなるわけじゃない。で、八時に警備員のおじさんが一度見回りをして歩くらしいんだけど、そんな八時まで毎日残業なんか出来ないって言ったの。それに、わたしと主任のふたりで監視カメラを見続けたって、ちょっとした時間の隙間みたいなものは絶対出来るはずだし……そんなことにまで責任持てませんって」

「そしたら、総師長はなんて?」

 この話をしたのが午後三時のことであったため、今里と佐藤師長は午後の一服を自分たちに許していた。すなわち、ティーカップにそれぞれ紅茶を入れ、患者の家族が持ってきた菓子類に舌鼓を打っていたのである。

「そこをなんとかって言うのかと思ったら、『そうよねえ。わたしもまったくそう思うわ』って、同情的に溜息着かれちゃった。で、わたしと主任のふたりで<出来る範囲内>でってことに落ち着いたんだけど……実際、随分面倒なことを結城先生も提案してくれたもんだわ」

「確かにそうですよね」と、嵯峨乃焼の煎餅をぼりぼり食べながら今里が言う。ちなみにこの醤油煎餅は、7号室の敦賀菊枝の家族が持ってきたものだった。「いくら結城先生の頼みでもって奴ですよ。しかも羽生さんとラブラブべったりな男に、わたしたちが操を立てて一体なんになります?」

「まったくよね。けどまあ、結城先生はリングの貞子みたいに「きっと来る」って思ってらっしゃるんですって。十一階の脳外科で人工呼吸器管理してる患者は多いけど、そこでまた次もっていう可能性は半分以下に下がるし、他の病棟で人工呼吸器が必要な患者さんは数として少ない……それだけじゃなく、今回の事件を受けて警戒と監視の目がきつくなってるじゃない?そう考えた場合、十三階はどう考えても穴場だっていうのよ」

「穴場って結城先生……」今里はせんべいが喉に詰まりそうになった。紅茶で喉を潤したのち、げらげらと笑いだす。「人工呼吸器のコンセントを抜くのに絶好の穴場だってこと?めっさ受けるんですけど。いやいや、こんなことを主任のわたしが笑いながら言っちゃいけないか。けど、人工呼吸器っていえば、うちの大林智子ちゃんも人工呼吸器ですよ」

「結城先生が言うにはね、智子ちゃんの場合はたぶん大丈夫だろうってことなの。一応いつも以上に注意はして欲しいけど、犯人の狙いは植物状態にある患者のコンセントを抜くことで、国が医療方針を変えるのを目的にしてるんじゃないかって……」

「ま、ありえなくもないすけどねえ」と、今里は柚子味のゼリー菓子を口に放りこんだ。「あ、ちさっちゃん、わたしにも」と師長にせがまれ、テーブルの菓子を投げて渡す。

「っていうか、マスコミ連がしょっちゅう取り上げてる説じゃないですか、それ。植物状態の患者のその後を追ったルポとか、今テレビですごく話題になってるし。入院して三か月過ぎると、ぶっちゃけそうした患者は病院にとって旨みがない……で、ようやく見つけた長期療養型の病院は職員の質が悪くても文句すら言えない状況だ。しかも、月々その病院に△△万円も医療費を支払わねばならないのである……とかなんとか」

「もちろんうちも、人事じゃないけどね」

 佐藤はレモン味のゼリー菓子を食べながら、溜息を着いた。

「だって、他の総合病院に入院するよりも馬鹿高いベッド差額料取ってるわけだから……もしここで事件が起きて、これまで入院していたY氏がおっしゃるには、みたいに徹底的に調べられてごらんなさいよ。わたしたち、こんなに毎日一生懸命働いてるのに、痛くもない腹探られて、ナースたちのモチベーションも下がって、そんな時に医療ミスが……なんてことになったら、全部元はマスコミ連中のせいじゃないのよ」

「あいつら、ゴキブリ以下ですからね。もちろん、医療についての問題点を是正しようっていう姿勢はある程度評価しますけど……まあ、わたしたちにとっての救いは、これまでに退院していったり、看取ったりした患者さんやその家族と、きちんとしたまっとうな心の交流があったってことですよね。そういう意味では調べられて恥かしいことは何もないにしても、結局わかんないですもんね。面倒見てもらってるから黙ってたけど、ほんとは……っていう本音の部分とか、今ごろになって噴出したらやだなーとは思う」

「まあね。そういう意味では1号室のS氏は考えようによってはいいのかもしれないわね。きのう病室に呼ばれていったら、鈴木さん、週刊誌の記事見ながら目を爛々とさせてたわ。「おい、面白いことになってきたじゃねえか」ですって。「俺もここのナースに意地悪されたって、なんかあったらマスコミにタレこんでやることにするよ」って」

 ここで佐藤は、呆れたように目をぐるりと回していた。鈴木は目が大きく、その目を好奇心にぐるりと動かす様子が、今里には難なく想像できる。

「まったく、憎たらしいわね、相変わらず。けどまあ、鈴木さんはその場でズバッと自分の言いたい本音を口にする人だから、後に残らないし、つきあいやすいっちゃつきあいやすい人なのよね」


 ――などと、一週間ほど前に特別病棟の師長室で笑いあっていた今里と佐藤であったが、その時には半分信じていなかった緊急事態の局面が、とうとう訪れることになったのである。

「千里ちゃん、緊急事態よっ!!」

 佐藤は普段、部下たちの前では今里のことをきちんと<主任>と呼んでいる。だがこの時は下の名前が口を突いて出るほど、彼女は気が急いていた。

 その日、特別病棟は予定していた特別入浴がひとり減ったせいもあり(大林智子は三十八度に近い発熱により、入浴中止となっていた)、いつも以上にのんびりしていたといえる。1号室の鈴木も機嫌良く過ごしていたし、2号室の加藤和実は弟子たちに囲まれて楽しい時間を過ごし、3号室の米谷忠士が奥さんの目を盗んでセクハラめいた発言をするのは毎度のことであった。5号室の澤龍一郎の元へも奥さんが来ており、6号室の牧睦美は気に入りの看護師につきそってもらい理容室で髪を切ったあとは、近頃はまっている韓流ドラマを見ていた。7号室の敦賀菊枝は、片手でインターネットを操作し、同じ脳卒中仲間のブログをチェックしていたし、15号室の大野翔平は、お風呂に入れてもらったのち、ナースステーションでナースに囲まれ、アイドルの如くみんなとかわるがわる写真を撮っていたようである。

 そして15号室担当だった紺野が「さて、そろそろ翔平くんもお部屋に戻ろっか」と、車椅子を回した時――佐藤師長が血相を変えて師長室から飛びだしてきたのである。

 今里は机の上から聴診器をとって首にかけると、師長の言っている言葉の意味を理解し、すぐ12号室へ走っていった。ナースステーションに残されたナースたちも、最初はぽかんとしていたが、何事かが起きたのだろうと察し、今里の後に続いていく。

「やめなさい、あなたっ!!現行犯逮捕よっ!!」

 佐藤は12号室のドアを開けて飛びこんでいくなり、ダッシュで走っていって、昆飛鳥の人工呼吸器のコンセントをすぐ差し直した。今里がサチュレーションの値をチェックし、また心電図モニター、心拍数、血圧、パルスといった数値を一瞬にして読みとり、ほっと息を着く。一度八十台にまで下がっていたサチュレーションの値が97まで戻ったからだ。

「ねえ、こんなことして一体何が目的なのよ!?脳外科病棟で水口さんの呼吸器のコンセントを抜いたのもあなたね!?そうなんでしょ?」

「この人、苦しがってるじゃないですか」

 その場にいるナースのうち、誰も彼女のことを知らなかった。というより、この時点では昆飛鳥に個人的な恨みでもあったのだろうかと、内心で推測する看護師すらいたほどである。

「わたし、わかるんですよ。この人の心の声が聞こえるんです。こ・ろ・し・て・く・れ。こ・ろ・し・て・く・れって。あなたたちにはわからなくても無理ありません。そして、あなたたちが天使のようにいい人たちだっていうことも、わたしにはわかっています。だから、代わりにわたしがやるんです。悪魔のようなこのわたしが……今も聞こえたでしょう?「なんだ、どうして止めたんだ」って、この人が言ってるの、聞こえませんでしたか?」

 女の頭が総白髪で、頬がこけており、目のほうもどこか違う世界を彷徨っているように見えたせいだろうか、佐藤はゾッと鳥肌の立つものを感じた。今里もまた女のどこか異様な様子に驚いたが、過去に精神病棟にいた経験から(頭がおかしいんだわ、この人)と、精神病患者に特有の匂いを感じとる。

「と、とにかく、誰かナースステーションに戻って結城先生に連絡してっ!手術中とかだったら無理に連絡を取る必要はないけど……あと、宮原総師長にも電話してこのことをすぐ伝えてちょうだい!!」

 ――佐藤の命令で、翼と宮原に事の次第が伝えられ、特別病棟にふたりが駆けつけるまでの間、女はやはり異常な行動を続けていた。昆飛鳥の額に手を当て、それから胸のあたりにも手をかざし、「オーム」という言葉を繰り返すと、先ほどとはまったく違う口調と声音で「こんな生活は耐えられない。苦しいんだ、助けてくれ。一日も早く死にたい」と、そう言いながら両方の目から涙をこぼして泣いた。

 その演技があまりに真に迫っていたため、佐藤も今里も他のナースたちも、半ばそれが昆の本音、心の声なのではないかと、信じそうになったほどである。

 だが、彼女たちの金縛りにも近いその暗示を解いたのは、翼だった。宮原は脳外科病棟を歩き回っている最中であったため、連絡のつくのが遅れたのである。

「やっぱりあんたか。十三階の十二号室の担当は、以前は雁夜先生だった。けど、今度新しくやってきた関口先生に担当が代わったんだよ。だから、きっとそのうちあんたがここに来るんじゃないかと思ってたんだ……近藤さん」

「えっ、近藤さんって」と、紺野が一番後ろのほうで驚いた声を上げる。

「紺野さん、知ってるの?」

 佐藤師長がそう聞くと、紺野は戸惑った様子を隠さず、しどろもどろになって答えた。

「だって、ここに時々掃除に来る人ですよ。患者さんともニコニコしながら話したりしてるし……いつもは掃除のおばさんの制服着てるから、印象があんまり違っててわかりませんでした」

 近藤淑子は今、総白髪の髪を白の三角巾で隠していなかったし、制服を脱いだ私服姿をしていた。しみの多い灰色のセーターに、あずき色のズボンを履いている。

「やっぱりオマエかぁっ!!邪魔するな、このヤブ医者が!!娘を殺した人殺しのくせしてえッ!!」

「悪いけどな、近藤さん。あんたの娘さんのことは誰も殺してない……自殺だったんだ」

 翼が自殺、という言葉を口にすると、近藤淑子は血相を変えて後ろに跳びすさり、それから恐ろしいほどのスピードで翼に跳びかかってきた。

「嘘つけぇっ!!おまえらが殺したんだぁっ!!何も知らないくせに、何も知らないくせに……横からしゃしゃり出てきて、いかにもなんでもわかってるって顔をするんじゃないッ!!このアホが、馬鹿がッ!!もう少しだったのに……っ」

「確かにな」と、翼は近藤が顔や首筋を引っかこうとするのをどうにか止めながら、彼女の体の動きを封じた。「俺の医療論文のデータを盗んだのも、あんただろ?唯の下駄箱にネズミを入れたのは、俺の彼女だとわかってたからか?けどな、近藤さん。気の狂った振りしたってもう駄目だぜ。あんたのやってることは間違いなく知能犯のそれだ。ただ人工呼吸器のコンセントを抜いて歩いたってんならそもそも頭がおかしい、狂ってるってことで話が通るかもしんねえが、ヤクザ者に金ばらまいて関口医師を脅したとあっちゃ、話がすっかり変わってくるんでな」

 翼がそう言って謎の一端を解いてくれたことで――佐藤も今里も、一度ほっと肩から力が抜け落ちた。そしてある種の暗示が解けたように、普段の冷静な分析力が戻ってくる。

「ほら、あなたたちはそろそろ、夜勤の人たちに引継ぎの時間でしょ。ここはわたしと主任に任せて、仕事のほうを先に終わらせちゃいなさい」

 佐藤にそう言われると、特別病棟のナースたちは一様にがっかりした顔をして、昆飛鳥の病室から不満顔で出ていった。特に夏目雅などは、「こんなに面白いショーを最後まで見ることが出来ないだなんて」と心から残念がったが、その彼女の気持ちは他のナースにしてもまったく同様だったに違いない。

 そして彼女たちと入れ違いになるように、顔色を変えた宮原が、太った体を上下させながら12号室に飛びこんできたのだが――彼女は結城医師が海の見えるソファに近藤のことを座らせ、話を聞こうとしているのを見ると、そのまま佐藤らと一緒に黙って壁際に立っていた。

 このあたりの空気の読みと勘については、(流石総師長)と、佐藤も今里も感心せざるをえない。

「これ、返す」

 近藤はポケットからUSBメモリを取りだすと、翼の手に渡しかけた。だが、その直前に手を引っ込め、絨毯に叩きつけると、靴の裏で粉々に踏んで寄こす。

「こんにゃろう、こんにゃろうッ!!おまえのせいだ、おまえのせいだっ!!」

 そして興奮の発作が収まるとまた、平然とした顔をして、ソファにゆっくりと腰掛け直す。翼は一瞬唖然としたが、次の瞬間には笑いを堪えるのに非常に難儀したほどである。

「まあ、いいよ。その論文はさ、もともと別にコピーを取ってあったからな。けど、あんたは俺が顔色を変えて探しまくればいいとでも思ったんだろ。だから俺、思ったんだ――この犯人は相当頭がいいってな。で、おそらくあんたが犯人だろうと俺が目星をつけた経緯、知りたくないか?」

 近藤淑子は深い皺の刻まれた顔を、ちらっとだけ隣の翼に向けた。細い体の背筋をピシッと伸ばしてソファに座ったまま、こくりと頷く。だが、その眼差しにはどこか「知りたくもない」といった軽蔑の色も浮かんでいるようだった。

「あんたはここに、まるで関口医師を追いかけるようにして、二か月前にやって来た……一方はちょっと経歴に傷がついたように見えるとはいえ、エリート脳外科医。もう一方は正社員とはいえ、一介の掃除のおばさん。同時期に同じ病院に入ってきても、誰もふたりに接点があるとは思わないだろうな。あんたの娘の近藤美弥子は、確かに俺が担当医だった。冷たい雨の降る冬のことだったな、今もよく覚えてる……と言いたいところだが、何分、あんたの娘さんと同じような患者をこっちは何十人となく扱ってきてるんでな、正直俺も最初は記憶のほうが曖昧だった。けどあの夜、娘さんが脳死状態になって死を宣告されると、あんた……近藤さんは俺たちに向かって泣き喚いて言ったろ。「人殺しッ!!」てな。俺も色んなケースを扱ってきたとは思うが、「人殺し」とまで言われたのはあれが初めてだった。けど、わかるだろう。あんたの娘さんの運ばれてきた時の状態じゃ、俺たちにもあれが精一杯だったんだよ」

 翼から<脳死>という言葉を聞いた途端、近藤が太腿の上で細い手指をピクッと動かした。彼女のほうから、「もっと何か出来たはずだ」とか「脳死判定が下されたあとのおまえら医者の対応は最悪かつ冷淡だった」……といった苦情が洩れるかと思ったが、近藤が何も言わないのを見て、翼はそのまま話を続ける。

「で、俺にもこう、色んな事実の糸があんまり複雑に絡みあっていて――どれが今回の人工呼吸器の事件と関係があるのかないのか、より分けるのに苦労した。それでも、あんたの目標が関口医師を苦しめることだっていうことがはっきりしてから、だんだんにわかってきたことがある。今から一週間前、関口医師があんまりくたびれきった様子をしてるのを見て、俺、警察に電話したらどうかって言っちまったわけ。実際、俺の知り合いの刑事さんに電話して、関口医師のことはその日から保護してもらうことになった。つまり、出勤の時にも病院から仕事を終えて出てきた時も、常に警察の人間がぴったりくっついてるっていう状態だ。近藤さんはさぞかし腹が立ったろうな。髪も洗って髭も剃り、どこかさっぱりした顔をして前のとおり彼が仕事をするのを見て……こう思ったんじゃないか?「この人殺しめ。今に思い知らせてやるっ!!」みたいに」

 翼は暫く黙って、近藤が何か話さないかと様子を窺ったが、彼女はただ、どすんと翼の太ももあたりに左の握りこぶしを鉄槌のように下しただけだった。その通りだから話を先に進めよ、と促すかのように。

「いってえな。なんにしても、それでだ。俺も最初はさ、近藤さんが何か関口先生に対して逆恨み的な勘違いした思いを抱いてるんじゃないかと思った。そのせいで、最初はどっちかっていうと関口先生に対して同情的だったわけ。ところがさ、三日くらい前に知り合いの警部さんがこう言うんだよな。「結城先生。大変なことがわかりましたよ」って。これもすごくラッキーな偶然って奴なんだけど、この警部の友達の血肉に飢えたドーベルマンってのが、近藤さんの娘さんが住んでた区域の担当だったわけ。で、あんたはそこに何回も掛け合って、「娘は自殺じゃない」って繰り返し食ってかかったんだって?」

 近藤淑子の頬に、チックと呼ばれる症状が走るのを翼は見たが、あえて気にせず話を続けた。

「最初、近藤さんは遺書がなかったことや、娘が自分を置いて死ぬはずがないっていう盲目的な根拠で警察に話をしにいったらしいな。ところが全然相手にしてもらえないのがわかり、今度は刑事たちが求める<証拠>ってやつを探しだそうとした。で、それが見つかったわけだが……そこまで辿り着くのにあんた、相当苦労したろうな。つまり、近藤さんの娘さんは右利きで、首吊り縄を作るとしたら、なんていうかこう……」

 淑子があずき色のズボンのポケットから、木綿のハンカチを取りだして、実演してみせる。

「そうだ。右利きの人間が輪っかを作るとしたらそうなるわけだが、近藤さんの娘さんの首吊り縄っていうのは、左利きの人間が作ったそれだった。だがそんなこともまた、警察のほうでは跳ねつけられた。自殺しようとする人間っていうのは、その時点で頭がどっかおかしくなってる。それでいつもとは違う、少しおかしな行動をとったんだろうとかなんとか……そんなふうに言われたんだろうな、きっと」

「安川刑事は、いい人です」

 淑子はハンカチを一度ぐしゃぐしゃにすると、それをまた広げて、膝の上で畳み直した。

「ああ。その人はなんとかあんたを助けたいと思って、色々親身に相談にのってくれたらしいが、何しろ当時は今以上にぺーぺーだったから、上のほうじゃそんな話は全然、取り合ってくれなかったって、赤城警部はその安川って人から聞いたらしい。なんにしてもここでまあ、捜査の線は一本に繋がったことになる……あんたは関口医師が娘を自殺に見せかけて殺した犯人だと思い、彼のことをじわりじわりと苦しめてやろうと思った。とりあえず俺にわかってる範囲内のことを言わせてもらえば、綾瀬脳神経外科病院であんたはまず掃除婦として勤めだし――こっそり人工呼吸器のコンセントを抜くという事件を起こした。聞けば、その患者さんも長く植物状態でそれ以上意識の回復は見込めないケースだったらしいな。近藤さんは脳死判定を受けた娘さんのことを思いだし、彼らのことも気の毒だと感じて人工呼吸器の電源を抜いた……これはそういう解釈でいいのか?」

「だから、さっきも言ったでしょう。わたしには声が聴こえるんですよ。「苦しい、こんな生活もう嫌だ、解放しろ、助けてくれ」って、あの人たちの言う声が聴こえるんです。それに、あの人たちはまだ隠していることがある……あの病院でわたしが電源のコードを抜いたのは三人です。でも、先のふたりについてはどうにか隠したんですよ。で、お坊ちゃま先生がナイフで刺される事件が起きた時に、もう隠しておけないと思って、その件だけ公表したんです」

<声>の件については、翼は彼女が「さっきも」言った場面を見たわけではない。だが細かいことは気にせず、話を先に進めることにした。

「それで近藤さんがコンセントを抜いた患者っていうのは全員、関口先生が担当してたわけだよな?彼はきっとその時、相当焦っていたんじゃないか?心に後ろ暗いところもあって、逃げるように別の系列病院へ転勤したのに――そこでもまた、まるで何か<悪魔>が自分の後ろを追ってきたように似た事件が起きて、彼は東京から遠く離れたここ、K市K病院へやって来たわけだ」

「そうですよ」まるで犯行の自白を楽しむように、淑子は婉然と微笑んで言う。「わたしから逃げようとする、あの男がいけないんです。これからわたし、警察に捕まったら、すべてそのまま白状しようと思ってます。綾瀬のお坊ちゃまが手術出来なくて、彼ともうひとりの医師が代わりに代理手術してたこととか、色々ね……ここの人たちもそうですけど、お医者さんとか看護師さんっておかしいんですよ。わたしがすぐそばにいるのに、まるで全然見えない透明人間みたいに扱って、大切なことをべらべらべらべら、いっぱいお喋りするんです。たぶん、あんまり忙しすぎて頭のネジが吹っ飛んでるっていうのと、こんな掃除婦如きに話の一部を聞かれたところでどうということもあるまい……そんなふうに思ってらっしゃるんでしょうね。そこの総師長さん」

 宮原はドキッとするあまり、思わず居住まいを正した。宮原は淑子の視界に入らぬ場所にいたし、第一彼女は、宮原が病室に入ってきたところを見たわけでもなかったからである。

「わたし、平日の午前中は毎日、一階の下駄箱付近を掃除したあと、医局の階を担当しています。そして午後からはこの特別病棟に来ることもあれば、十一階の脳下の掃除へ行くこともあり、オペ室の廊下なんかの掃除もします。手術室の中については看護助手さんたちが掃除を行うそうですけど、外の大まかな廊下なんかはね、完全防備でわたしたち掃除婦が掃除してるんですよ。で、わたしが言いたいのはね、総師長さん。脳外科の金森看護師が、お風呂掃除のことでうるさいってことなんです。わたしも他のみんなも一生懸命頑張ってますよ。それなのに、床にヌメリが残ってたとか、患者さんがそれで滑ったらどうするだのなんだの……あああっ、うるさいィィィッ!!」

 宮原は気の強いほうではあるが、淑子のこの剣幕に押され、ただ黙ったままでいた。淑子は金森看護師がただのストレス解消として清掃員いじめをしていると言いたかったのだが、本当に何か霊の囁きが聴こえたように、彼女は両耳を手で塞いでいる。

「だからね、あんた、結城先生」と、幻聴がやむと同時、淑子はまた平然とした顔の表情に戻って続けた。「わたし、聞いちゃったんですよ。オペ室の師長さんとお宅が師長室で話をしてるのを。たかがあんたの彼女の下駄箱にネズミをぶっこんだくらいで何をピィピィほざいておるかと思ったけれども、なんかわたしの他にも変なものをあの看護師さんの下駄箱に入れた人がいるそうね。バーカ、バーカ、これでネズミも全部おまえのせいだぞーって思いながら掃除してました、わたし」

「そっか、やっぱりあの時立ち聞きしてたのはあんただったのか」

 翼はどうにか笑いを堪えて、ぴくりとも笑っていない淑子と話を続ける。

「けど、なんでだ?俺の記憶が正しけりゃ、近藤さんの娘さんがR医大に運ばれてきたのは、唯の奴がそこに勤めだす前のことだから……ネズミを入れたけりゃ俺の下駄箱にすりゃ良かったんじゃねえか?」

「どーだっていいんですよ、そんなことは。このスットコドッコイ。たまたまあんたとあの可愛らしい娘さんがいちゃいちゃしながら出勤してきたんで、ムカついたんですよ。わたしの娘だってね、生きてりゃあの子みたいに、あんたほど格好良くなくてもそこそこの男と結婚だって出来たんだ。それをあの関口の野郎が邪魔しやがって、美弥子の貞操を弄んだ揚げ句殺しやがった。これが許せるか?ああ!?あんたがわたしの立場で、自分の娘がそんなことされたら許せるかって聞いてんだよ、こっちは!!」

「確かに、許せねえな」

 翼が心から同意してそう答えると、淑子は上がったり下がったり、どうにも抑えられない情動を堪え、一度立ち上がろうとして腰を浮かし、それからまたソファに座っていた。

「じゃあ、近藤さん。あんたの復讐はこれで半分以上は完了したってことか?あんたはこれから警察に捕まり、そこですべてをぶちまける……関口医師は有罪になるかどうかはわからないにしても、社会的にメンツを失い、日本じゃ脳外科医として働くのは難しくなるかもしれない。けど、あんたは相当頭のいい人だ。何か、彼を有罪に出来る物的証拠があったりするのか?」

「おうよ、あるとも。娘が死んだ部屋はな、今もこのわたしが借りて毎月家賃を払って、そのまま保存してあんだ。そんで、民間の科学捜査みたいなことをしてくれる業者があってな、そいつらに頼んだらもう一発よ。ベッドから男と愛しあった精液が出てきたからな。わたしの娘はふしだらな女じゃなかったし、内気でね、男となんかうまくしゃべることも出来ない子だったんだよ。けど、その証拠はあの男の精液と絶対一致するさ。ハ、ハ、ハ。これであの男――関口五郎も一貫の終わりよ!!」

「…………………」

(もしそれが一致しなかったら?)――などと、翼には疑問を呈する勇気はなかったが、後ろを振り返ると、佐藤らにある種の合図を送った。警察に電話しろ、ということである。

 もちろん、翼にはまだ事件に関してわからないことはたくさんある。だが、自分にとって知りたいと思うことの概要は、これで大体知ることが出来たと思った。関口医師を追ってきた先に、かつて娘の臨終を宣告した医師がおり、彼女はきっとこれも運命の導きと思ったに違いない。嫌がらせの第一のターゲットは関口五郎ではあるにしても、翼に対しても何かしてやりたい――そこで、青木の目を盗んで翼の部屋を掃除する振りをしながら、医師にとってもっとも大事であろう論文データを盗み取った……そんなところだったのだろうか。

(それにしても)と、翼は考える。暗い窓からは、夜の闇とも海ともつかぬ光景が、街明かりの向こうに瞬いて見える。(論文のデータだけを、これが俺にとって一番のダメージになると考えて、よく盗んでいったもんだよな)

 下駄箱のネズミにしてもそうである。それをどこから持ってきたか、拾ってきたのかなどと、翼は問うつもりはない。自分の下駄箱に仮にそんなものが入っていても、翼は「ふん」としか思わなかったろう。だが、唯の下駄箱に入っていたほうが、彼にとってもダメージは大きい……翼はこの時初めて、彼女は<知能犯>というよりも――娘のことに関してだけは知能犯になれる、精神病者なのではないかと思いはじめていた。

 無論、翼は精神の病いに関しては専門でないが、それでもR医大にいた頃、精神科ERの保科がこう言っていたことがある。「ある人を精神病かそうでないかを判定するのは難しい」と。もっともこれは、DSMに基づく精神病の診断であるとか、そういった話ではなく――「この世界に果たして正常などと呼べる<普通の人間>がいるものかね?」という皮肉が裏にこもった言葉ではあったのだが。

 これから近藤淑子が警察に捕まったとして、果たして彼女が境界線上の異常人格者として扱われるのか、それとも本当に幻聴の聴こえる統合失調症といった精神病者として扱われるのかが、翼にはわからない。淑子はこれでもう話は終わりとばかり、ソファから立ち上がると、病室中をぴょんぴょん飛び跳ねている。それが警察がやって来た時に「精神異常者」と見せるための演技なのか、それとも本当におかしな何かが、彼女の脳を刺激してそんな行動を取らせるのかが、翼には皆目見当もつかなかった。

 もっとも、精神病棟にいたことのある今里と宮原は、これとよく似た行動を取る精神病患者を何人も見てきており、彼女はおそらく指定入院医療機関に「措置入院」することになるのではないかと予想していた。

 やがて、赤城警部や白河刑事といった、犯人を逮捕するための物々しい一団が特別病棟を訪れ、近藤淑子の両手に手錠をかけたのだが――ふたりの屈強な刑事に挟まれて、その力を利用するように体を浮かせ、空中で自転車漕ぎをする彼女を見ていると、翼はますますわからなくなった。

 近藤淑子が「これもまた計算通り」と思っているのか、それとも彼女は演技などではなく、本当に頭がおかしいのかどうかということが……。



 >>続く。





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