天使の図書館ブログ

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Ray of lightについて。

2013-09-03 | 創作ノート
(お話の内容とマドンナは実は全然関係ありませんm(_ _)m)


 突然ですが、若干宗教的な記事が続きます

 というのも、「太陽と月に抱かれて」の別視点的なお話として「Ray of light」という短編を書いたんですけど……この中で鹿沼玲子ちゃんが要にお茶を点てるシーンがあるんですよね

 んで、最初は適当にごまかして書いておいて、あとからお茶の本でも読めばいいか~☆などと、いつも通りいいかげんなことを思っておりました(^^;)

 と、ところがですね、お茶の世界ってめっちゃ深い!!ということがすぐわかりまして、というより、これはもう宗教といっていいんじゃないかと思いました

 そして自分は今の今まで、日本人でありながらその日本に固有といっていい文化=お茶の世界について何も知らなかったんだな~と思わされ……玲子ちゃんのお話は短いせいもあって、そんなに内容あるわけでもないんですけど(汗)、そこのところに引っかかるあまり、連載が遅れています

 いえ、本当に文章としてはほんの数行なんですけど、茶道具の取り合わせとか、「適当に☆」では済まされない世界なんですよね、あれは(笑)

 もちろんわたし、お茶なんて習ったことないんですから、いつも通り前文に「これで正しいかどうか甚だ疑問」みたいに書くことにはなると思うんですけど(^^;)

 お茶なんて、一部の特殊な人がやるものだとばかり思ってたんですけど、あれはもう日本に固有の宗教の世界だと思いました

 それで「太陽と月~」を書いてる間にイスラム教のことを少しばかり調べてまして。。。

 まあわたし、キリスト教徒なので色々思うところがあったり……でもキリスト教とかイスラム教とかユダヤ教って一神教として思想が濃いんですよね。その神を信じてでもいないことには、単に<知識・教養として>学ぼうとすることにはかなりの無理があるというか

 わたし、本当につい最近、お茶についてのあれこれを調べてみるまで――そうした「濃い思想」に相当するものは日本にはない気がしてました。仏教は良い宗教だけれど、それでも日本人の多くは葬式仏教徒なので……結構自分に都合よく適度に信仰すれば良いというか、イスラム教徒みたいに仏陀の語った言葉の解釈で、互いに口角泡を飛ばして議論しあう……みたいな国民性ではないですよね、日本人は。

 でも茶の心の極意って結局、一種の<祈り>なんだなあと思いました。

 お茶やったことないのに何故それがわかるwwと言われればそれまでですけど、わたしそれなりにわりと祈るほうので、その部分の<こころ>みたいなものは同じなんだなと思いました。

 お茶の事細かい作法を覚えても、「心」が入ってなければ良い手前とは言えない……毎回手順を間違えず、かつ心も備わっている手前……でもそれを毎回行えるかといえば、お茶事の一回一回きっと違うでしょうし、<祈り>というのも本当にそれとよく似ています。

 わたしの場合、祈ることは一応形式的に決まってはいるんです(^^;)

 その中で自分的に「ああなったらいいな☆」みたいな祈りは、本当にほんの一部というか、祈るという行為自体が習慣になっていると、自然とだんだんそういうふうになっていくみたいです。

 もちろん、<祈り>の中では何を祈ってもいいんですよね。「エアコンが壊れたので、なるべく安く買えますように」とか、「犬のポチが病気です。神さまが癒してくださいますように」とか、その他なんでも。

 ただ、長く祈っていると、自分に関して「~~になりすように☆」的なことは、ほんの付け足し程度にしか祈らなくなっていきます。何故といえば、誰か人のために「~~となりますように」と祈っていれば、感覚として自分に関することは「すべて神さまはご存知だ」という感じになっていくので、自然言葉数が少なくなっていくというか(^^;)

 でも、人間というのは弱いものなので――仮に世界平和がどうこうと普段祈ったりしていても、自分自身に逼迫した問題が訪れると、そういうものは正直土台からあっさり突き崩されます(笑)

 それで自分の問題に関してのみ集中して祈れるかといえば、心が折れるあまり祈ろうという気力すらわいてこない……そういう周期みたいなものは、一年に一回とか、あるいは数年に一回とかのサイクルで必ずといってもいいくらい訪れます。

 それで信仰を捨てるかといったらそういうことでもなく、<祈る>ということ自体がすでに習慣になってるので、三日も祈らないでいるということが出来なくなっているというか、とにかくそういう感じです(^^;)

 そしてそういう時にはまた、<祈り>というものを一から練り直すんですけど、お茶の世界っていうのも結構そういうところがあるんだなあと思いました。

 形式的な作法をすべて体に叩き込んでも、「心」が伴っていないと駄目だし、年がら年中一期一会の「心をこめた完璧なお茶事」なんて、とても難しいことだというか

 どんなに慎重に練って組み立て、積み上げたところで、やがてそれも突き崩される……でもそれを再び練り直してなんぼ☆というか、お茶も祈りもたぶん同じことだろうなと思いました。

 そんなわけで、「Ray of light」については連載が遅れていますまああとになったら、「こんな貧弱な文章のために」という感じではあるんですけど、要のことを茶道男子にしようと最初に思ったこと自体が間違いだったのかもしれません(笑) 

 それではまた~!!





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