天使の図書館ブログ

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動物たちの王国【第二部】-2-

2014-02-24 | 創作ノート
【カーネーションの聖母】レオナルド・ダ・ヴィンチ


 今回の言い訳事項はなんだったかな

 ええと、一応第二部を連載する前に、時間的にこのお話の前に当たる「手負いの獣」のほうを少し読み返してみました。

 んで、中央材料室にいる「水原さん」の下の名前がどうも思いだせなくてですね……手負い~のほうで彼女の下の名前まで出てたかどうかと思ったんですけど、いまいちよくわからず(汗)

 とりあえず↓では「芽衣子」としてみたんですけど、自分の書いたものなんだから、矛盾のないようにもうちょっとちゃんと読み返せっていう話ですよね

 あと、お話がもう少し進んだところで出てくるとは思うんですけど、↓で手術室にある自販機が有料になったのは、前の院長だった高畑院長がいなくなったあたりかららしいです(笑)

 それから、大腸ガンが肝臓に転移し、そしてさらには脳にも転移が……という重い症例が何やら簡単に扱われている気がするんですけど(汗)、わたしの持ってる本には肝臓に四個以上ガンがあったら、手術の適応はないみたいに書いてあったり

 でも、肝臓に四個ガンが発見された方で、抗癌剤でそれが縮小したため、手術が適応されたっていうケースを、テレビか何かで見たんですよね。というよりも、これも本でそう読んだ気がするんですけど、今にして思うとHKの「きょうの健康」で見たような、どうだったんだっけな……という記憶の曖昧さww(殴

 あと、脳に転移が出たらガンマナイフによる放射線治療がまず選択されそうな気がするんですけど、まあお話として読む分にはあまり細かいことは気にしないでねといういいかげんな感じだと思います(だからおまえは

 ではでは、次回は唯サイドのほうのお話になるかと思いますのでよろしくです♪(^^)

 それではまた~!!



       動物たちの王国【第二部】-2-

「ふうん、あの変人異常花原師長が結婚するとはねえ」

 手術室の外れのほうにある休憩室で、翼は礼儀として一応驚いた振りをしてみせた。ダ・ヴィンチによる手術は低侵襲で出血が少なく、術後の痛みが少ないことが利点だが、それでもすべての出術に適用できるわけではない。ゆえに翼はこの日の午後、Ⅲ期の大腸がん患者の開腹手術を行ったばかりだった。

「あ、結城先生。その反応……実は先に雁夜先生に聞いて知ってたっていうことですね」

 なーんだ、つまんないといったように、先ほど第三手術室で器械出しを担当していた園田美園が、肩を竦めて言う。

「結婚式のほうは、病院中の職員を呼ぶくらいの、盛大なものになるらしいですよ。雁夜先生、背の高い花原師長と並んでもいいように、特注のシークレットブーツを準備中とか、何か言ってませんでした?」

「いや、そんな話は聞いてねえな。俺が聞いたのはまあ、あんな頭の狂った女とどうして結婚することになったのか、その経緯だけだ。なんにしても、背丈以外については結構お似合いなんじゃねーの?」

「そうですかねえ」

 園田が自分に手のひらを差しだしてきたので、翼はいつも通り彼女の手をはたいてやる。

「毎度毎度ここで顔を合わせるたんびに、俺にジュースをねだるな。おまえ、他のドクターにも似たような手を使ってるらしいな。「あ、百円玉がない。どうしよう」とか言って、恵んでもらったり……まったく質の悪い女だ」

「何言ってるんですか、結城先生~、人聞きの悪い!!大体、ナースなんてドクターに比べて毎月の給料安いんですからね。腕にロレックスとかジャガールクルトの時計してる人に、百二十円くらいねだったからって、それがなんだっていうんですか」

 園田はぷんすかと口で言いながら、休憩室の壁を取り囲む五台ばかりの自販機の中からグレープジュースを選んでいる。手術中の血液の色に似ているので、それを術前、あるい術後に飲むとすこぶる気分が高まるらしい。

「花原師長だけじゃなく、おまえといい中央材料室の水原さんといい……手術室にいるのはちょっと頭おかしいのが多いって思うのは、俺だけか?」

「そうですか~?水原さんと花原師長は確かに頭おかしいっすよ。それはみんなそう言ってます。けど、わたしまでその仲間にされちゃ堪りませんや、旦那」

 へっと園田が笑うのを見て、(だからおまえのそーゆーところがおかしいんだって)と、翼は笑いたくなる。翼が園田美園と手術室で顔を合わせたのは、確か直腸癌の手術の時だったと記憶している。患者はステージⅣの末期で、人工肛門を造設するより他はない状態だったのだが――その手術が終わるか終わらないかの時に突然横から、「先生、今日焼肉奢ってくださいよ」と囁かれたのである。

「わたし、ハラミとホルモンが大好きなんですよね」

「ったく、人が患者の腹ん中あれこれかき回してる時に焼肉の話なんかしてんじゃねえよ」

 そう答えはしたものの、園田の器械出しの腕がなかなかのものだったため、翼はその日彼女と看護師の江口を連れて、焼肉をメインにしている韓国料理店へ行くことにした。

 ふたりとも、相当の酒豪であると同時に大食漢で、焼肉の皿とビールのジョッキが次から次へとはけていったのを、翼は今もよく覚えている。

「しっかしおまえら、よく食うなあ」

「そりゃそうですよ、先生。よく食ってよく寝れなかったとしたら、オペ室のナースなんて勤まりやしませんや」

 ねーっと言って、園田は隣の江口悦子と顔を見合わせる。

 年齢のほうは江口が四歳上の三十三歳だったが、ふたりはいつもタメ口を叩くという間柄であった。

「先生。園田の奴、面白いんですよ。こいつ、手術室付きの看護師になるためだけに看護学校出て、すぐオペ室を希望したっていう変わり種なんです」

「へえ。そいつは確かに変わってんな。大体救急とかオペ室ってのは、どっかの病棟である程度仕事させてから来る場合が多いって聞くけどな」

 翼はそこまで言いかけて、そういえば羽生唯と蜷川幸恵も、看護師一年生にして救急に来たんだっけとふと思いだす。

「ええ。でも本人の希望が強い場合は、手術室って結局人気のない部署だから、わりとあっさり卒業一年目で通ったりもするんですよ。前にも、いわゆる医療ドラマの影響で、オペ室に来たっていう子がいて……その子はすぐお医者さんと出来て結婚しちゃったんですけどね。まあ、その点園田とは最初から目的が違ったわけですよ」

「そうそう!だってわたし、人間の内臓の中身がどうなってるのかに、すごーく興味があるんですもん。そのことに気づいたのは、小さい時にホラー映画を見てなんですよ。殺人鬼が出てきて哀れなどうでもいい奴らを殺害するたびに、こう思ったもんでした……「もっと見せろ、もっと見せろ、その血と内臓を!」って」

「こえー女だな」と、翼は若干引き気味になりつつ、自分の分としてキープしておいたカルビを焼いた。いつもは翼自身が肉ばかりを食べ、人から「もっと野菜も食べろ!」と注意されるのだが、今日に限っては「おまえら、肉ばっかじゃなく野菜も食え!」と怒鳴りたくなるほど、ふたりの食べっぷりには見事なものがあった。

「そこの可愛いおねいちゃん!ビールもう一杯!!」

「あ、園田。あたしのも頼んで、あたしのも!!」

 座敷の小上がりの畳の上には、すでに三人合わせて七杯以上もの空のジョッキが並んでいる。

 ハキハキした感じのいいウェイトレスがジョッキを下げつつ、威勢よく注文の品を奥のほうに伝える声がした――「ビールの生ジョッキ大ふたつ、タン塩、豚バラ、ホルモン一ずつ入りまーす!!」

「おまえら、まだ食うつもりでいやがるのか。くそっ。さては園田、きのうが給料日だった俺の財布の中身を当てこんで、焼肉食いたいなんて言いやがったんだな」

「へへーん。今ごろ気づきました?でももう遅いっす。先生の肉はわたしのもの、わたしの肉もわたしのもの……ていっ!!」

 園田は奇妙なかけ声とともに、翼が焼いたカルビを箸で摘み、我が物としていた。翼としてはもはや、こうした攻防に加わろうという気力すら失せている。だがそのかわりの嫌がらせとして、彼女が嫌いだという玉葱を少しばかりお見舞いしてやることにした。

「いやーん、先生。それだけはやめてったら」と、園田が玉葱を脇によけながら言う。「わたし、お給料日の翌日には、先生方の誰かを狙って食事に誘うことにしてるんですよ。そしたらわたしと哲史の食費代が浮いて助かるし」

「テツシ?おまえ、そんなガサツななりで、一応つきあってる男がいるのか」

「しっつれーな!!わたし、まだ花の女盛り二十代後半戦ですよ?つきあってる男のひとりやふたり……」

 翼と園田のやりとりを見て、江口がケタケタ笑っていると、先ほどの気風のいいウェイトレスがやって来、ビールのジョッキを置いていった。そのあとに、タン塩とホルモンと豚バラののった大皿が続く――「へい、お待ち!!」

「先生、園田のつきあってる男は、実は手術室内にいるんですよ。誰だかわかります?」

 早速とばかりビールのジョッキに口をつけ、江口がどこか悪戯っぽい目をして言った。「絶対に当てられっこない」と言外に彼女が語るのを見、翼はその相手が誰なのかどうあっても当ててやりたくなった。

「そういや園田、オペ室の麻酔科医とは全員仲がいいだろ?その中で一番意外といえば、戸田先生あたりか?」

「やーめってくださいよ、結城先生。誰があんな借金まみれの賭博狂いとつきあうんですか。第一戸田先生の下の名前、哲史じゃないし」

「あ、そっか」

 このあと翼は麻酔科医の名前を全員挙げていったが、そもそもその中に哲史という名の医師は誰もいないということに、あらためて気づかされる。

「一体、どこのどいつなんだ!?こんな大食漢で呑んべえで、ガニ股歩きの色気がまるでない人にたかってばっかの女と暮らしてる物好きは?」

「ひどおい、先生っ。人権蹂躙ですっ!!」

 酔ってがなる園田のことは放っておいて、うわばみの江口が代わりに答えた。

「中央材料室にいる、仲村哲史くんですよ。先生が知らないのも無理ないっていうか、当たり前ですけどね。先生方は手術が終わったら、あとは患者さんの今後のことしか頭にないでしょうけど、中材では手術に使った器具類を洗ったりする仕事が待ってるんですよね。で、そういう滅菌の仕事をしてる子のひとりと園田はつきあってるっていうか……同棲とまではいかないけど、まあ半同棲みたいなもん?哲史くんが大体園田の部屋に来て、たま~には自分の家にも帰るっていうような、そんな関係みたいですよ。話聞いてると」

「ふう~ん。随分物好きな男もいたもんだな。つーか、園田。その哲史って奴に感謝しとけよ。こんなにガサツで神経太くて図々しい女とつきあってくれてありがとうって」

「うるさいなあ。哲史は喜んでわたしの尻に敷かれてくれるいい奴なのっ!!それより先生、わたし、結城先生の恋愛武勇伝聞きたいな~。そのルックスじゃあ、さぞかそおモテになるこってしょうね、ダ・ン・ナ。フヒヒッ」

 ホルモンが焦げはじめたのを見て、翼は一旦火を止めることにした。園田はといえば、ひょいぱくひょいぱくとばかり、発ガン性物質のことも考えず、鉄板の上のものを平らげていく。

「おまえ、そんな焦げ目も気にせず焼肉食って、その上玉葱嫌いだなんて、将来は動脈硬化が原因の病かガンで倒れそうだな。手術中に人の内臓見て喜んでないで、自分の臓器の心配でもしたらどうだ?」

「あ、先生。うまく逃げましたね……ま、べつにいいけど。わたし、普通の女子と違って人の恋愛話聞いてキャーキャー騒ぐタイプじゃないし。わたしねえ、先生。間違いなくオペ室以外向いてない女なんですよ。看護学校の実習で老人福祉施設とか行くじゃないですか。そのたびに思ってました。「優しくして欲しいだって?寝ぼけたこと言ってっと、入歯ごと奥歯引っこ抜くぞ、ジジイ。ああ!?」みたいに」

 園田の言い方があまりにドスの利いたものだったので、翼と江口は腹を抱えて笑い転げた。もし彼女が実際にそんなことを言っていたとしたら――指導にあたった看護師はおそらく、相当厳しく叱責したに違いない。

「だーかーら、看護師だからみんな優しいとかいうのは、全部患者の幻想なんですって。わたしの同期の子にも結構多いですよ。とりあえずこれといってやりたいこともないし、親に「じゃあ看護師さんなんてどう?」とか勧められて進学を決めたみたいな子。でもそもそもそれも自分のやりたいことじゃなかった……なんて途中で気づいても、今更やめられませんしねえ。うちの哲史がそのいい例ですよ」

「なんだ?おまえの彼氏、もしかしてナースマンなのか?」

 園田がぷはーっとジョッキを最後まで飲み干してから、続ける。

「ええまあ。元ですけどね、元ナースマン。やっぱ看護師の世界って圧倒的に女が多いじゃないですか。そういう中で、なんかこううまく馴染めなかったんですって。それで腰を痛めたせいもあって一度やめたんですけど、病院に関わる何かの仕事をしたいっていうのはあったみたいで……そんなわけで今は中材で働いてるってわけなんです」

「ふうん。じゃあ、看護の世界にはもう復帰するつもりはないってことなのか?」

 そのわりに園田のようなガサツな女とつきあっているというのが、翼には理解に苦しむところである。

「さ~て、どうなんざましょ。べつにわたしはいいんですけどね。自分のほうが給料安い分、ごはん作ってくれたり洗濯してくれたり、なんやかや色々気を遣って、毎日マッサージまでしてくれるし……」

「そうよねえ。わたしもやってもらったことあるけど、哲史くんのマッサージの腕はなかなかのものだったわよ。変な意味じゃなくて、相手がどこをどうされたいかわかってるのよね。うちなんかやめて、按摩師とか鍼灸師にでもなって、小さいお店でももったら繁盛するんじゃない?」

「そうなんですよ。だからわたしたち、お金がなくって。毎日節約しながらコツコツお金を貯めてるんです。だから先生、これからもたまーにでいいから、わたしたちに奢ってくださいましな。そしたら一生ただで使えるマッサージのクーポン券を差し上げますから……」

 園田が演技がかってよよ、と泣く姿を見、哀れを誘われたわけではないのだが――翼はその後、二三か月に一回くらいは園田とその彼氏である仲村哲史に食事を奢ってやっていた。最初の一回目は園田のような女とまともな神経でつきあえる男はどんな男なのだろうという好奇心があったのだが、ふたりが時々にゃんわん語で話すのを聞いているうち、途中で何かがどうでもよくなったものである。

「みーちゃんのために、てつしはサラダを頼むわん」

「え、サラダでつって?わたしがお肉大好きって知っての所業なのかにゃん?」

「そんなわけないわん。みーちゃんはササミが好きだから、ササミのサラダを頼むんだわん」

「まあ、嬉しいにゃん。それでこそみーちゃんの好きなてつしくんだにゃん」

 ……まあ、こういった具合である。翼は心の中では「勝手にやってろ」と思いつつ、そんなふたりのやりとりが面白かったため、彼らの整体院開設の資金作りに、微力ながらも協力してやっていた。

 その後翼は、手術室でも喫煙室においても、江口悦子の口から際どいエロ話を聞かされていたのだが、そんなふうにして医師以外の病院職員とコミュニケーションをはかることで、自分の知りえない部署の噂話について、色々耳にするということになっていたかもしれない。

 つまり、その過程でオペ室にいる三十名ほどの看護師のうち、誰と誰が特に仲が良いといったことや、花原看護師長は動物狂いで頭がおかしいということ、また中央材料室の水原芽衣子は超のつく潔癖症であり、そのことが原因で夫と離婚している……などといったことをそれとなく耳にすることになったのである。



「先生、雁夜先生に花原師長と結婚することになった経緯、どうやって聞いたんですか?」

 ちるるるる、と赤紫の液体を吸い上げながら、園田がベンチに座り直して聞いた。

「いや、わたし他人の恋愛話にはあんま興味のない女子なんですけどね、唯一花原師長に関しては気になりますよ。あの人が三十四歳にして恋愛処女だっていうのは有名な話だし、先生だったらどうですか?花原師長頭おかしくても美人だし、それでウィンクなんてされたら、結城先生でも後ろについていっちゃう感じとか?」

「男ってのは馬鹿だから、その可能性は大いにありえるな。けどまあ、それは俺があの人に関して人から色々噂を聞かされてなかったらっていう前提だ。毎日朝は早起きして、屋敷で飼ってる蛇だの亀だのにエサやってから、一時間半ばかりもかけて病院まで出勤してくるんだろ?いや、そこまでならなんとかギリで理解できるし、容認もできる。けどなあ、家の広大な敷地内でムササビ飼ってたりモモンガ飼ってたりするのはどうなのかねえ。他にも猿とかイグアナとかカメレオンとか……それに花原師長の解説聞いてると、あらためてあの人の頭のおかしさがよく理解できる。「先生。カメレオンの舌の速さ、理解できます?シャッてくるんですよ、こう、シャッて」……いや、俺が理解できねえのはおまえの頭の中身だって、よっぽど言ってやろうかと思ったぜ」

「ですよねえ」と、自分のことは棚に上げて、園田がからからと笑う。「この間も仕事がはじまる前に泣いてるから、何事かと思って理由聞いたんですよ。そしたらその日、家の廊下でナナフシが何者かに踏まれて死んでたんですって。「園田さん、聞いてくれる?わたしもう、悲しくて悲しくて……」結城先生、ナナフシって何かわかりますか?」

「あ~、なんか虫だよな。木の枝に擬態するとかいう、草食性の昆虫じゃなかったか?」

「そうなんですよ。つーか、先生意外と物知りですね。わたし、『ナナフシ?この人も朝っぱらから寝ぼけたことを』とか思ったんですけど、どんな生物か知らないっていったらまたぞろ写真を何枚も取り出してですね、生態やなんかについて説明しはじめて……マジで勘弁してくれって感じですよ。まあ、わかりますけどね。父親が有名な動物行動学者だから、そういうせいもあって普通よりちょっと変わっちゃったんだろうなっていうのは。けど、あれでもしあれほど仕事できるわけでもなく美人でもなかったらこの人、今ごろどこでどうしてたんだろうなってつくづく思いますよね」

 器械出しの仕事というのは、医師が「メス」と言えば「メス」を出し、「メッツェン」と言えば「メッツェン」を出せば良いという、それほど単純なものではない。手術の進行具合を見て、次に何が必要になってくるのかをある程度先に予測しておく必要があるし、医師によっては反応が一瞬もたついただけでもマスクの下で「チッ」と舌打ちしていることもある。

 そうしたオペ室の現場の中で、花原師長は確かに異彩を放っていたといえるかもしれない。翼など時々、「こいつエスパーか?」と思うくらい、彼女の器械出しはスムーズだった。もし特にこれといった不測の事態に見舞われず、手術がある程度マニュアル通り進行していたとすれば――翼は彼女に器具の名称を口に出して言う必要すらなかった。花原梓は心得まして候とばかり、それでいて少しも鼻につくところなく、絶妙なタイミングで器械出しを行うことが出来るという、実に稀有な看護師だったのである。
 
「でもまあ、花原師長の器械出しをこれから受けられなくなるっていうのは、なんとも寂しい限りだな。もちろんオペ室には園田や江口さんみたいに、頼れる姐さんがいるにしても……あの人はずっと独身でうちの手術室にいてくれるだろうとばかり思ってたから、そういう意味では確かに残念な気がするな」

「だから、わたしが一番聞きたいのはそこなんですってば、先生。雁夜先生、花原師長のどこが良くてプロポーズなんていう気違いめたいことしたんですかね?当然おつきあいの延長線上として、花原師長の動物屋敷こと、わくわく動物ランドにも行ってるわけでしょ?それでドン引きしなかったっていうあたり……雁夜先生、実はなかなかの強者なんじゃないですかね」

「さてね。俺がこの場で言えるのは、とりあえず雁夜先生が花原師長の容姿に一時的に惑わされたわけでもなければ、本当に彼女のことが好きで結婚を考えたっていうことくらいだな。ま、おまえも頑張って愛しの哲史くんと金貯めて、整体院を開設した暁には結婚したらいいんじゃないか?その際には例の一生タダで使えるマッサージのクーポンとかいうのをくれ。営業妨害として毎日仕事帰りに通い詰めることにするから」

 翼は手にしていた栄養ドリンクをくず籠に捨てると、手術室側のドアではなく、医局の廊下に通じているほうのドアを開け、そのまま自分の部屋――茅野正から受け継いだ部長室へ向かうことにした。雁夜潤一郎医師と花原梓の純愛話については、またの機会に話せることもあろう……そう思い、翼は溜まっている書類仕事を整理するため、自室へ向かったのである。

 出会いと別れは人の運命であるとはいえ、廊下に並ぶ部長室の前を通りながら、そこにかかっている札の名前が随分変わったということに、翼はなんとなく溜息を着いた。脳外科医の雁夜潤一郎は結婚を機にこのK病院を辞職するという。同じ脳外科医の部長である館林恒彦も、カリヤ式という新術式を覚え、すでに熟練の域に達しているし、自分がここを去っても何も問題はないからだと彼は語っていた。

「それよりも、日本中、あるいは世界中の困っている患者さんのために、手術をして歩こうと思いましてね。僕の元には毎日そうした患者さんからメールが届くんですが、なかなか難しい位置に腫瘍がある場合……他の誰か良い医師を紹介しても、納得されない場合が多くて。「あの時どうにかして僕に頼んでいれば、こんな結果にはならなかった」とか、あとから後悔したくないって言うんですよ。もっとも、僕が出ていったところでどうにもならないくらいの、成功率の低い難手術も中にはあるんですが、まあそうした患者さんの助けになればと思って」

 翼はこの話を、雁夜医師の部長室で聞いていた。この時もやはり、末期の大腸癌患者の転移が脳にまで及んでいる症例で――手術の適応があるかどうか、CTのフィルムを片手に相談しにいったのである。

 その患者の場合、大腸から肝臓に転移があり、肝臓の癌のほうは四つあるものを抗癌剤で叩いてから手術で摘出したという経緯があり、その後さらに脳のほうに転移が出たのである。

 雁夜医師は患者が四十七歳とまだ若く、治療に対しても極めて意欲的なことから、その手術を引き受けても良いと回答していたのだが、そのあと翼は彼といつも通り、ちょっとした世間話をしていたのであった。

「そっすか。じゃあ、その現場に花原さんも連れていって、彼女の天才的な器械出しをこれからは雁夜先生がひとり占めするっていう、そういうことなんですね」

「まあ、結果だけ見れば、そういうことになるでしょうか。やっぱり、依頼を受けた患者さんがいる病院のほうでも色々気を遣うことになると思うんですよ。アメリカのなんたら大学を卒業した、とてもお偉い先生が手術にやってくる。みなの者ども、くれぐれも粗相のないように……ハハアッという感じというか。器械出しをする看護師のほうでも緊張するでしょうし、その点梓のことを連れていけば、僕もまわりも楽な気持ちで仕事が出来ていいと思って」

 梓、と雁夜医師が手術室の名物師長を呼び捨てにするのを聞き、翼は少しばかり奇妙な気持ちになる。もちろん、ふたりがつきあっているらしいとは、以前から知ってはいたものの――結婚に至る経緯についてまでは、まだ詳しく聞いていなかったからである。

「その、こう言っちゃなんですが、よくあの頭のおかしい女と……いや、悪い意味で言うんじゃないですよ。花原師長のことをみんな、頭おかしいとか狂ってるってよく言うけど、あれは一種の愛情表現であって、本当に悪く言ってるのとは違いますから。俺の言ってるのは、その……」

「長い話になりそうですので、コーヒーでもお淹れしましょうか」

 雁夜は読影台にかけたCTフィルムをクラフト封筒にしまうと、翼が腰掛けているソファまでやって来て、サイドボードのバリスタマシンをセットした。それは翼が以前から欲しいと思っていたエスプレッソマシンであったため、思わずそちらのほうをしげしげと翼は眺めやってしまう。

「もしよろしければ、僕が病院を去る時にでも、これは結城先生に差し上げますよ。まあ、辞めるなんて言っても、まだ事務長と院長に話したばかりですからね。実際に退職するまでには、速くても二三か月後ということになるでしょうか」

 すぐに美味しいエスプレッソコーヒーのふくよかな香りがあたりに漂い、雁夜はミルク色のカップを翼に手渡すのと同時、革張りの袖椅子に腰掛けていた。部屋の中は衝立で半分隠され、衝立の向こうに雁夜の仕事机が、手前側にはソファとテーブル、それに袖椅子が配置されている。壁の本棚には言うまでもなく医学関係の高価な書籍がびっしりと並べられ、そのほとんどが英語で書かれたものばかりだった。

「ですよね。医者って、かなりのところ労働基準法を無視した職業なんじゃないかって、俺時々思いますよ。当直が終わったあとにそのまま日勤をこなしてみたりだとか、職場を退職すると言った一か月後には辞めることが出来るなんて、実際あまりないですしね。少なくとも次の医師がやって来るまではだのなんだので、その新しい医師がなかなか見っからないだの事務長に言われて引き伸ばされ……雁夜先生の場合も、なんかそれっぽくなるんじゃないですか?」

「かもしれませんね。けどまあ、僕はそれほど急いでここから去りたい事情があるわけでもないですし、いいんですよ、べつにゆっくりで」

 翼にはエスプレッソを、そして自分のJとイニシャルの入ったマグカップにはカプチーノを注いだ雁夜は、テーブルの上からティッシュを取りだし、それで唇の泡を拭いていた。

「そのマグカップの同じシリーズの奴で、Aって書いてあるの、オペナースの休憩室で見たことありますよ。もしかして、雁夜先生が彼女にプレゼントしたんですか?それとも花原師長が……」

「ああ、違いますよ。これは梓のお父さんからいただいたものなんです。結城先生は、みんなが言ってる気違い屋敷というか、わくわく動物ランドには行かれたことがあるんでしたっけ?」

(そっか。やっぱり雁夜先生はそうした噂のすべてを知った上で、花原師長との結婚を決意したってことなんだな)

 そう思うと翼は、急に何かがおかしくて仕方なくなった。もう夜も七時を過ぎて、あたりがしんとしている部長室に、翼の明るい笑い声が響き渡る。

「まあ、一度だけですけどね、行ったことはありますよ。園田の奴に物見遊山と思って、一度くらいは行っとけみたいに勧められて……ただあんまり屋敷や庭が広いもんで、花原師長の自宅の全容についてまでは、全然解明できませんでしたが」

「僕も、いまだによくわかってませんよ。それに、彼女の家へ行くたびにドキッとさせられるなんて、しょっちゅうですし……サンルームでぼんやり本を読んでたら、なんとなーく視線を感じるんですよね。いやいや、動物も虫も何もいないはずと思って周囲を見渡すと、ハッと気づいたら天井からスローロリスが下りてきたとか。朝起きたらベッドの下からナミビアヒョウモンリクガメが出てきたとか、食事中にマダラ模様の毒ガエルがテーブルの上を跳んでいっただの……まあ、今はもう随分慣れましたよ。これはこれで刺激に満ちてていいのかなって思えるくらいには」

 翼はコーヒーを吹きだしそうになったが、ようやくのことでどうにか堪える。

「はははっ……あんまおかしすぎて腹いてえな。つーか、雁夜先生、マジな話、そんな状況でよく結婚を決断できましたね。確かにあの人は凄い美人ですよ。病院に新しい外科医がやって来るたびに、彼女のことに目を留めない男は既婚・未婚問わず誰もいないだろうっていうくらい。でも外見はともかく、中身がああだっていうのはオペ室の連中はみんな知ってるわけじゃないですか。だからみんな新しい医師がオペ室に出入りするようになると賭けをはじめるらしいですね。あの先生が花原師長にぽーっとなって手を出すほうに五千円みたいに……どうやら麻酔科医の戸田がその元締めらしいんですが、その賭けが成立するまでは誰も本当のことを言ってはならぬと緘口令まで敷いてるってんですから、なんとも人の悪い話ですよ」

「そうだったんですか。それは僕も知らなかったな。けどまあ、僕の場合はなんていうか……彼女に対してそういうつもりはまったくなかったんですよ。僕がアメリカにいた頃の外科チームでは、休日に同僚の家でホームパーティなんかが結構あったりして、自宅に招かれたとしても、それはさして特別なことではなかったんです。驚いたのはまあ、梓のお父さんに今夜は泊っていけみたいに言われたことでしょうかね。娘のことは好きにしてくれて構わないからって」

 流石の翼も、雁夜医師のこの言葉には驚いた。花原梓の父親は花原静一郎と言い、動物の行動学のことを時々テレビで解説していることもあるほどの、ちょっとした有名人である。何より、彼の中で特にユニークなのはその変人的なしゃべり口調だけではなく、容姿が多少特殊だったことだろうか。斜視の小男で、まるでカメレオンのように右と左で見ている場所が異なるのである。

「それで、どうなさったんですか?まあ、雁夜先生は俺と違って紳士だから……」

「ええ。面白半分の気持ちから、泊ることには泊りましたがね、彼女には指一本触れませんでしたよ。ただ、何故自分だけがその日、あの動物屋敷に呼ばれたのかがわかって、自分の人生について少しばかり考えさせられました。お父さんがおっしゃるには、母親を小さい時に病気で亡くして以来、梓が「ちょっと変わった子」になったのには自分に責任があるというお話で……彼女も三十四でそろそろ適齢期を過ぎつつある。美人なのに浮いた話ひとつ聞いたことがない。その娘が最近、何故かいつも以上にうきうきして、毎日同じ話を繰り返し話すということでした。つまり、脳外科の医師の中に素晴らしい腕前を持つ男がいて、彼がオペ室に入った瞬間から、自分には音楽が聴こえるとかなんとか……」

「音楽?」

 ははあ、なるほど。つまりはそういうことなのかと思いつつ、翼は聞き返した。

「ええ。僕は手術中はよくモーツァルトの曲を流すので、そのことかと聞いてみたら「違う」という。つまりそれは、音符のない、存在の音楽のようなものなのだと……どういう意味かと聞いたら、「鈍いな、君も」と、お父さんは少し苛立った様子でした。僕には少し信じがたい話でしたが、梓はどうもあの年まで恋をしたことがないらしい。で、自分では気づいていないその気持ちに気づくようにさせてくれと言われたんですよ。まあ簡単にいえば、僕にその気があるなら、彼女が僕に惚れているのではなく、僕のほうが先に梓のことを好きになったような振りをして欲しいと」

「で、雁夜先生は「冗談じゃない、誰があんな気違い女!」と毒ガエルの張りついたテーブルを蹴飛ばすでもなく、そのことを承諾したってことですか?」

「まあ、結果としてはそうなるでしょうか」と、雁夜医師はまた笑って言った。「正直、僕は最初こう思ってました。オペ室の連中が「頭がおかしい」、「狂ってる」と言うほど、花原師長はおかしいだろうかと……器械出しということでいうなら、それこそ彼女には完璧な調和を見出すことが出来る。ようするに、簡単にいえば手術の流れ、リズムといったものを一切崩さず、脇役に徹した上で主役の伴奏をこなす名ピアニストみたいなものですよ。僕はピアノが趣味なので、梓の言う<音楽>がどういうことなのか、少しは理解することが出来ます。彼女にとっておそらく、手術の下手な外科医というのはその音楽が理解できないばかりでなく、常に不協和音を発するような医師なのだろうと……で、僕はその時ふと思ったんですよ。最近、自分はとんとそんな音楽を聴いた試しがないと。若い頃には情熱に燃えたぎるスケルツォを聴いた記憶もあるけれども、最近の自分はどうもただ目で楽譜を追っただけの曲ばかり弾いてるような気がしてきましてね。それで、思ったんです。彼女が耳で聴いているという音楽を、自分も是非聴いてみたいというふうに……」

「それで、その存在の音楽というのは、雁夜先生にも聴こえるようになったんですか?」

 翼は、雁夜の顔の表情を見れば一目瞭然であることを、この時あえて質問していた。

「ええ。それはとても美しくて純粋な、素晴らしいものでした」

 ……その音楽の旋律を思いだすと、いつでも幸せな気分を味わえるというように、雁夜は微笑みながらカプチーノを飲んでいた。

<存在の音楽>

 そんなことを言われても、おそらく多くの人には理解できないのではあるまいかと、翼はそう思う。だがその時翼は、雁夜医師の言いたいことが痛いほどよくわかっていた。自慢ではないが、翼は学校の成績では理数系の科目が得意で、国語と音楽の成績は極端に悪かった。ゆえに、音楽の奏でる詩情のようなものを理解できるとは、今もまったく思っていない。けれど唯一、音符のない音楽ということについてならば、理解できると思っていた。

 ――羽生唯。

 彼女がR医大病院のICUにいる時、翼はいつでもその音楽を聴いていた。もちろん、最初からということではない。いつの頃からかそんな音楽が微かに羽生唯から聴こえるようになり、時には「ただの幻聴だ、気にするな」と自分に言い聞かせながらずっと仕事をしてきたのだ。

 そしてなんとしても翼にとって不思議だったのが、自分の耳に聴こえているものが羽生唯の耳にはさっぱり聴こえていないらしいということだった。あの純粋で清らかな存在の流れのようなもの、それをもう一度感じることが出来るなら、自分はK病院など即座に辞め、難民を救う篤志の医者としてアフリカにでも旅立とうかとすら思うほどである。

(確か、アラブかどっかの国の格言に「真面目に誠実に生きていると、良い伴侶が与えられる」みたいな諺があったよな。雁夜先生はようするにそれなわけだ。で、花原師長は花原師長で、なんつーか、若い時に無駄に恋愛力を浪費しなかったからこそ、それが最後に一番いい形で実ったのかもしれないよな)

 翼は第二外科に所属する医局員の勤務表を作成しながら、不意に虚しい感情に囚われた。結局のところ、その理論でいった場合――自分が羽生唯の運命の相手となれなかったのは、自分がそれに相応しい資格を有していなかったからだということになる。

(もしもう一度出会って、最初からやり直せるなら……)

 夜の闇夜を透かして、そこから見える新築の建物――訪問看護ステーションや特別養護老人ホームといった一連の建物群を眺めやり、翼は溜息を着く。

 だが、この時の彼は知る由もない。実はすでに羽生唯がK病院の十三階の特別病棟、別名気難し屋病棟に配属され、看護師として働きはじめているなどとは。そしてせっかくそのようなチャンスが巡ってきたにも関わらず、自分が致命的なミスを最初から犯すことになろうとは、この時の翼にはまるでわからない出来事だったといえる。



 >>続く。





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