白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

Vertigo

2006-10-11 | 哲学・評論的に、思うこと
1989年秋、落合博満にもらったサインである。
当時野球を覚えたての僕は、その独特の構えと鞭のように
しなるように見えるバットスイングに魅了されていた。
このサイン会のとき、質問コーナーがあり、
僕は彼に「星野監督はどんなひとですか?」と聞いた。
彼は思わず上向きに笑ってから、じっと僕の顔を見つめ、
「気難しいひと。」と、寛いだ様子で答えてくれた。
実にあたたかで、おおらかな空気をたたえたひとだった。




それから17年が経って、彼はテレビの向こうで
泣きじゃくっていた。
幼い頃、彼の空気をやさしいものとして受け取っていた
僕には、その光景が懐かしくすら思えた。



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とあるひとの日記にあった言葉に対する印象。




「何もない」といいきってしまうことは、
それは、自らがたまたま置かれている空間において、
目に映り、肌に触れ聴こえ、におうものへの
志向のいっさいを否定し、いっさいの関わりを拒むことで、
「自分がここにいる」ということ、
自らの意識の、触れ観ずる世界への全能を宣言することだ。
自らの意識の様態、みちすじを経過せずには世界はなく、
自らが滅することは、世界が喪失されることである、などと。
それは、文学青年に特有の卑屈で八方塞のこころによって
自意識のみに過敏になりがちな青年期に述べてしまいがちな
大言妄語のひとつ。




かれにとっては確かに「何もない」のだろう。
しかし、それを読む老人は、なんらそれを解さない。
かれがそれに苛立って、「何もない」といって
こころにおいて、老人の生、自らの故郷を破砕したとしても
互いの関わり合いのなさは島の生活に何の障害ももたらさない。
かれは「何もない」ことに苛立ったあまり、
自分の意識のみがそれを見通しているのだといわんばかりに
「自分のみがそこにある」と宣言をしたわけだけれど、
そもそも断ち切り破砕する対象であるはずの故郷に
わざわざ「何もない」などと落書きして、その存在を
刻印したのだろう。





ゴーギャン、島尾敏雄、壇一雄、
彼らは「文明からの棄民」として、自らの暗部を
鮮烈な灼光と清潔で温暖な空気のなかに
くまなく映写し、その残滓まで炙り出そうと試みた。
彼らはもはやふるさとを持たない。
ふるさとを捨てるときというのは、人間は自らの痕跡を
なるべくふるさとから消却しようとするものだ。
だから、かれが「何もない」とわざわざ壁に刻印するのは、
自らの意識の根粒をふるさとに担保したからに他ならない。
つまりかれはふるさとを捨てていないのだ。
錨を下ろしたまま、かれは出航したのだ。
足かせをはめたまま、脱走したようなものである。




錨を下ろしたままで、航海などできるものか?
かれはそれを「眩暈」ということばで表したが、
このことは、かれが意識をふるさとに担保したことについて
無自覚であり、いまなお気付いていないであろう、ということを
暗示している。
自覚的な行為としてかれがそれを行ったのであれば、
かれはみずからの眼前に望んだ視界を、より明晰な単語で
表現しえたはずなのだ。




「何もない」と断じておきながら、それに眩暈を感じるとは、
かれがふるさとによってかれの意識に映じさせたものの正体が
何であるかを問うことを投げ出してしまっていることを暴露し、
そのことによってかれの意識は完全に遠近感を失い、
もはやふるさとの生活や自然、ひとびとに怠惰な歪みでもってしか
立ち向かえなくなってしまったことを明らかにしている。
かれはどうしていいかわからないでも、それを突き詰める以前に
結論や得心をあきらめてしまう性質のようだ。
ちっとも笑えない、下手くそな素人道化の芸を見るようである。




かれの「何もない」とは、もののわからぬ人間の思い上がりによる
おこがましく皮相な自己意識の全能の肯定であり、
かれの「眩暈」とは、その思い上がりが、かれのものごとを正視する力を
突き崩してしまったあとの意識の弛緩である。
真に文学的な人間ならば、ふるさとを捨て去るに際しては
何らの担保も残すはずがない。
それを残しているかれは、所詮文学にかぶれたのみ、先も知れていて
数年して何食わぬ顔で島に戻るのではないだろうか。




眩暈とは、「有」の概念の洪水である。
「何もない」ことが存在しているから眩暈が起こる。
「なかったことにしようとするもの」があまりにも多くて、
かれは、それを消すのに躍起になるうちに
本来消そうとしたもの以外のものも消そうとしてしまって
パニック状態に陥っているのだ。
過剰な自意識は時折暴走して意識から定点的位置を喪失する。
「無」をみることに成功しているのは、「無」を可視化し
形状化する意識のはたらきがあるからであって、
虚構の創出の大きな営みの中にほのめかされるのを感得するに
われわれが留まらざるをえない以上は、
かれの落書きは、それが文学青年であるならば、資質を疑うような
取るに足らぬものだというしかない。
生成と消滅が次々に起こり、光が明滅を繰り返しているときに
われわれの知覚はもっとも眩暈を起こしやすいことを知っていれば
その判別は比較的容易である。
ボードレールは海の揺らぎに明滅する光に眩暈を感じている。
武田泰淳は酒を飲んで屋外で座禅し、目を見開いた瞬間に眩暈した。




かれは文学など読まずに海から空を眺めればよかったのだ。
触れるものの視線が上から下に向かう以上、文学は眩暈を起こさない。
ものを見上げたとき、世界が出現したとき、人間は目が眩むのだ。
世界を消し去ろうとする自意識のありかたに、眩暈など生じる
はずがないのである。
眩暈は世界を引き受けようとするもののみに許されたものなのだ。




調和による均衡が「生成の死」であるなら、
絶えず揺れ動くわれわれのこころのありかたも、死の中で
宙吊りにされているマリオネットであろうか。
揺れ動くものから発せられる基調音のなかにわれわれは
絶えぬ始原を聴き、三半規管の調和を破って嘔吐感に襲われるのも
一興、というべきか。





突如として起こる、視界の溶融と再構成の不随意の反復は
われわれの視界に映じるものの本質の把握力を
持続的に鍛錬してくれる。
癲癇質の作家の、作品の奥行きの深遠もこれに由来するのだろう。




救いのない実存の問いに疲れれば、瞑目するほかない。
しかし、われわれは「観る」。
観たくもないものも、観ようとするだろう。
ふたたび眼を開けて、そこがびっしりと網膜を覆う泥の海で
あったとしても。







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