白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

メルロ=ポンティ 読書ノート

2008-11-01 | 哲学・評論的に、思うこと
これを弁証法による偉大な成果と呼ぶべきか。





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空が青すぎる。許しがたい。
たとえそうだと言って、空に薄墨を混ぜ込むことなど
出来やしない。






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夢想、物思いのなかで、いまこの眼の前にあるものを
どこまで信頼する事が出来ようか。
認識の働きが、その端緒から、
もの自体がそれ自身で起ちあがってきたようすとは
およそ違うかたちでものを見つめ、名づけ、
性質を与えるらしいことは、
もはや常識となってひとびとに受け入れられている。
もの自体の本来のあらわれ方を歪めて見るはたらきの
源にあるもの、或いはそうさせる動機、志向性を、
かりに意識と名付けてみるときにも、
自分自身の立ちあらわれ方というものを、意識自体が
既にずいぶんと歪めて見せているものらしい。





このようなものの見方をすること自体が、
すでに認識を働かせている意識というやつの弁護を
引き受けることを意味している。
そのようにしか働けないのだ、という弁明は、
ほかのやり方で働こうとする試みを初めから拒んで
よそに追いやろうとするという、
意識の根本姿勢を、正当化しようとするものである。
それをいま、自己同一性というべきか。





ほかのやり方を知らないのではない。
ふるまった後に跳ね返ってくる効果のことはわかるが、
そのようにふるまわせた理由となると、わからないのだ。
選択は、いつも過去から類推して、あるべき未来を思い
それを実現しようとする行いである。
未来とは、過去から組み上げられた戦略的選択のことだ。
ところがその選択を実行させるために後ろから
糸を引いていたはずの意識には、
どうしてその選択をしたのか、と問われたときに
用意すべき答えが、選択の実行の時点で欠落してしまう。





意識はたえず現在の位置にあろうとするから、
選択をした時点できれいさっぱり更新されてしまうのだ。
1秒前に意識自体であったことが、
いまはもう意識の総体を織りなす素材に埋もれている。
意識は膨大な忘却と膨大な未知にはさまれた極点である。
自分自身が生まれる前のことは、当人にはわからない。
この先にあるものもわかるはずがない。
故に、意識は極点でありながら、世界全体でもあり得る。
砂時計のくびれた場所には、ある瞬間に、世界の一切が
集中するではないか、と、うそぶくかたちで。





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「私はこの人物、この顔、この有限な存在ではなく、
可能性としては世界の無限性に匹敵しうる、
場所も年齢ももたない純粋な証人なのである。」

               (メルロ=ポンティ)





意識の等価性が、交換という経済的関係において、
あるいは、浸潤という環境的関係において、
もしくは、無為という超越的関係において、
それぞれいずれの場合にも担保されるのならば、
意識はその相対性を認める限りにおいて、
その規模や領域の存立をようやく保持しうることだろう。





この相対性を認めて、他者に意識があると納得するとき、
僕は彼らにとって、先に述べたような「もの」として
意識のないオブジェクトとして扱われることになる。
彼らの意識のなかに、もの自体、として起ちあがってくる
僕というものを想像してみる。
他者の眼のなかに自分自身を見る。
そのとき、他者の中に浮かび上がる「自分自身」は、
かくあってほしいと正当化されたものであるか、
かくあってほしくないという願いによって曲がっているか、
どうでもいいという無関心の鎧を着せられるか、
いずれにせよ、こちらがわの存立を危ぶませるものには、
僕の意識の領域において、なり得まい。





他者を認める、ということは自己防衛の機能なのだ。
だから、ほんとうは認めていなくても、
他者の存在を認めて自分と相対的な位置にあるのだと、
認めたようなふりをしているのだ。
それは意識の罪である。
これを軽犯罪として大目に見なければ、
人間が取り結んでいる関係などいとも簡単に崩壊する。
他社に性格やパーソナリティ、というものをこしらえて
貼り付けて、表面では認めたふりをしながら、
こちらの都合にふさわしいように組み替える。





だから、ひとの性格などというものは、
そのひとが出会ったひとの数だけ、この世界に存在する。
曖昧模糊として、確実性も論拠も何にもない。





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等価視され得ない意識というものは、神の位置にだけある。
ものごとを決めよう、あるいは名づけようとするならば、
相対性を超越した位置からでなければ行うのは不可能だ。
だから、自分自身を見つめる、というときに、
自分自身を批評する「もうひとりの自分」というものは
自分自身と同じ視線には立ち得ない。
人間がなにものかに批評をしようとするときには、人間は
必ず、上から相手を見下ろすかたちで、それを行う。
物事を大きく広く捉えようとすることを、俯瞰、という。
それは高いところから見下ろすという意味である。
それゆえに、意識は孤立し、暴れやすい。





自分自身を問うというとき、その実態といったら、
意識のあり方や、ものとものとの違いを述べるに終始して、
決して自分自身そのものを問うことには至らない。
いや、できない。
それは、列車に乗り、沿線の風景を早送りに見ながら、
それを美しいとか汚いとか印象でもって評するだけで
風景という名前のなかに眼に映るものを閉じ込めてしまい
そこで暮らしているひとびとの生活を見ることを排除する
意識の働きを反省してみれば、容易に想像が出来る。





風景を見ている眼の、志向性について思いを至らせることは
出来たとしても、
そこで営まれているひとびとの生活それ自体が、本来的に
自分自身とは何のかかわりもなく起ちあがっていることに
意識は非常に冷淡だ。





この冷淡なふるまいは、
意識がこの世のもののあらゆるものを捉えようとする本性を
宿していながら、
その働きを実行に移すべき身体や感覚の機能が、悲しいほど
限定的で狭く小さいことから、
多くのものごとを見損ない、見落としてしまっている事実に
攻め落とされないように自衛していることから起こる。
意識が意識自体で成り立とうとして、いま把握しうる事態の
全てをもって、「これが世界だ」と述べてしまおうとする、
超越的優位のもとに振る舞おうとするが故のこと。
逆に言うなら、意識は、圧倒的な事実の総体の海のなかで
絶えず揺るがされ、おびえているがゆえに、絶えず
世界の総体へと反転し裏返る機会を狙っているということだ。





それが、他者に向かうときのありかたについては、
ここに記述するまでもないだろう。





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ぼく、と、あなた、を、
自他の区別なく一人称にしてみたところで、
分かち合われた名前としての、ぼくたち、わたしたち、は
決して同じものではあり得ない。
その「あり得なさ」が、自分の存立を保証するかわりに、
相手のかけがえの無さについても保証をする。





あり得ない、という言葉は、
先に述べたような意識のあり方からものごとを開放して
それ自体の輝きをふたたび呼び起こす力を持っている。
意識の世界への存立の可能性を否定する言葉が、逆に、
もの自体の、それ自体での存立を保証し、限りなく許す。
やばい、危ない、という言葉もそう、
否定の言葉が、肯定のためのあらゆることばよりも強く、
ものごとを強くあらしめる。





たとえば、あなたを必要なんだ、と言ったところで、
あなたのために役立ちたい、と言ってみたところで、
その「あなた」は、ことばを発した「ぼく」のために
存在しているわけではない。
「ぼく」にとって必要な「あなた」、というとき、
「あなた」自身は、すでに「ぼく」によって、
そうあってほしいものとして恣意に編集されている。
それゆえに、リア王に対して純真なコーディーリアは
なにも言うべき言葉を持たなかったのだ。
ほんとうに大切なものごとや、大切なひとへの思いを
きっと、言葉になどできないのだろう。
確認、と称して、言葉を求めることのむなしさが、
無言による決然によって、逆に際立つこともある。





何も言わぬがゆえに、願っていた未来から遠ざかり、
かくあろうとして願っていた自分自身から追放される、
それは、意識の罪に気がついてしまった意識に対して、
意識自体が自らに課した罰とでもいうべきか。





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「愛にとって本質的なことは、全面的ということである。
愛している人は誰かを愛しているのであって、
性質を愛するのではないし、
愛されている者は、自分がその存在そのものにおいて
正当化されていると思いたいからである。」

                (メルロ=ポンティ)





僕には身体が欠落しているように思う。
意識だけではなく、身体をひっくるめて愛することで、
欠落を贖いたい、という、
これ以上ないような意識の罪のせいか、
ほんとうに、誰からの便りも絶え果ててしまって、
誰の近況も定かではない。
見守っているひとがいる、という言葉が届いても、
身体が虚ろになってしまっていては、意識ばかりが
先に走って、そのようなひとはいない、と、
ことばの後ろにいるはずの身体がどうしても見えない。





この欠落は、誰のせいでもないのだろうか。
はじめから世界に疎外されている、という意識のなかに
生きてきたものにとって、
かけがえのなさ、などというものを自分に感じることは
ついに今まで出来ずにいる。


「ひたと吸い付く肌と肌も、はっしと敲ちあう骨と骨も、
 その輪郭や境界を悲しいとは今は思わない。」


という、思わずはっとするような言葉に出くわして、
切なく、とても愛おしく、抱きしめようとしてみても、
その言葉を身体で聞くことが出来ないものに、
この感情を分かち合うことなど出来ないだろう。





誰かを愛して、確かにかけがえのないものだと思えている
そのことが、
自分自身が、自分自身をかけがえのない存在であるとして
自身を恥ずかしめることのないように肯定していることの
何よりの証左である、という声を聞く。
愛することを知っているものに、自分を愛していないものが
あるはずだろうか、という声も聞く。
しかし、現に、僕は愛から疎外されたままにある。
仕事に打ち込み、勉強にいそしみ、音を試み、眠っても、
埋まらないものは、埋まらない。





「私は、その人によって承認されるという希望がないならば
誰かを愛しはしないだろうが、
しかしこの承認は(中略)決して獲得されない場合にのみ、
重要な意味を持つのである。」

         (メルロ=ポンティ)





欠落への渇望が、生の動機だということになるのならば、
再び、拒絶と逼塞のなかに閉ざされるよりほかはない。
このようにあろうとしてしまう方向へと、自らを向ける
この意識の罪のことごとくを暴き指弾し果てるまで、
一切の愛から拒絶されるようにして、身体を欠いたまま
意識自体の煩悶というかたちで一生を送らねばなるまい。
この自分自身を、煩悶、とするほかにないのだ。
それゆえに、沈黙することが出来ない。
煩悶を遊び、おもちゃにすること、
何の相談もなく、たまたまこのようにして生まれたことに
積極的になる以外にはないのかもしれない。
笑いの根源を突き詰めれば笑いが失われてしまうように、
罪の根源を突き詰めれば罪が失われてしまうことだろう。





愛しているのです、一点の曇りなく、
それが何かがわかっていない、不具の、片輪の身で。





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僕はメルロ=ポンティが嫌いである。
詩に過ぎる。
けれど、それゆえに、近しく、愛おしい。







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