白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

「誰」を待つ

2009-08-16 | 哲学・評論的に、思うこと
グラクソスミスクライン・デルモベートを
両の腕の皮膚に塗布してから
紫外線の直接照射を防ぐために長袖を着て、
人いきれに咽かえる丸ノ内線に乗っていたときは
腕に茸でも生えやしないかと、少しく不安になった。
細かな水泡が、あちらこちらに出来ていたためで、
これまでいくら酷い陽焼けをしても、疼痛こそあれ
赤黒い半球を生じるようなことはなかったから。





幸いにして、台風が東京に運び込んだ大量の蒸気と
都市の排熱とが、大気中の夥しい何らかの胞子と婚姻し
大汗をかいているこの腕に着床することはなかったし、
毛根が発酵して糸を引く、などということもなかった。
薬と水風呂による手当を一週間ほど続けていたところが
ようやくにして皮膚の再生が始まったらしく、
だんだん腕のあちこちに破れ口が出来て、めくれてきた。





痛みも治まり、むずかゆさが続いていたこともあってか
全き治癒のためには決して良くないことだと思いつつ、
めくれた皮膚を剥がしたくなるのは、人情かしら。
破れ先をつまんで、軽く向こう側へ指先を動かすと
まるで湯葉でも引くように抵抗なく、身から離れた。





初め薄織りの肌はみずみずしく光を透かして白く、
微かな空気の動きにも抗わずに揺れていたが、
それも瞬刻のこと、縁からだんだん縮みはじめて
砂色に変じ、木屑のように乾いていった。
とても明快な死だった。
肌をめくった後の腕に、思わず鼻を近づけると、
甘くやわらかで、どことなくむずがゆいような、
赤ちゃんのような匂いがして、少し戸惑った。





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翌日、半袖で丸ノ内線に乗っていたとき、
大手町の乗り降りの人波に揉まれる中で何物かに
右腕を引っ掻かれた。
いたた、という言葉が思わず口をついたと同時に
ごめんなさい、という涼やかで落ち着いた声がした。
しかめ面のまま、声のした方を向いた先、
かつて出くわしたことのないほどに容姿端麗なひとが
そこにいた。





電車に揺られて吊り革につかまっているあいだ、
斜め数歩先で文庫本を読んでいるそのひとを
時に眺めては視線を外す、という行為を繰り返していた。
これではまるで挙動不審の変質者であるが、
魅入られてしまったのだから、思わず溜息が出るまで
見つめてしまいたくもなるのも性分、
それでいて、なぜか気恥ずかしさも何故か感じて、
どうしても直視できないような、
(美が、自身の醜を反射しているように感じるから?)
何となく落ち着かないような気分だったせいだろう。





あまりに美しいと感じたものにでくわすと、
その姿かたちをあれほど長い間観ていたはずなのに、
まったくそれらを思い出せなくなるときがある。
これは病のような、あたまの障害のせいなのか、
対象の本質に同期したが故の、「面」を捨象する
はたらきのせいなのか、
または、その存在を様々な意味で見失ってしまった
だけなのか。
美を見失うどころか、今そこに真向かい合っている
そのひとのことさえ、誰だっけ、となることがある。
思いびとの顔や声を忘れてしまうことさえあって
誰かを愛することにも幾分かのつらさが伴う。





実際、痩身で、切れ長の眼をして、鼻筋が通っていて
口元は凛々しく、透けるような白い肌はきめがとても
細やかで、黒髪を後ろで無造作に束ねていて、
銀縁の眼鏡を掛けて、片手に文庫本を持っていて、
その左手薬指には指輪が嵌っていて、
年の頃は三十半ばで、という断片的要素以外、
そのひとのことをほとんど忘れてしまっている。
ただひとつ、質感を持って今も思い出せるのは、
そのひとのうなじにあった大きな茶色のあざ、
それは右の首筋から天の川あるいは吐瀉物のように
広がっていて、おそらくは背中にまで達していると
想像できるほどの大きさだった。





そのひとに感じた美が、その部分だけ死んでいたと
言うこともできるだろうし、
部分的な死が全体の美をいっそう際立たせるように
見えたとも言えるのかもしれない。
むしろ、そのあざは、そのひとにとって生の実感を
際立たせるものであるのかもしれない。
そして、そのひとが列車が東京駅に滑り込むと同時に
髪を束ねていたゴムを外して、
ほどけた黒髪で暗幕のようにあざを覆い隠してから
ホームへと消えていった瞬間、
僕はそのひとの幾分かがわかったような気がした。





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「私は 私は と書いてしばらくペンを休め 
と書き 私は それを日本の縦線で消し と私は 
と私は 書きかけてやめ 
やめといふ字を黒く塗りつぶしてから 
と書いて 海は と私は書き つづけて 黄いろくて 
と書こうとする が一字も書かないうちに いやになつて
またと書くと 私は 私は といふ字をすべて消さう 
と思つたが と書き と書いて ・・・・」

                  (入沢康夫)





ものすごい詩である。
じぶんが、じぶんの行いを消すために生まれ続ける。
「行為する主体を殺すために行為する主体」の無限連鎖。
ここでは、自己が分裂して無限増殖しているのではない。
もうひとりのじぶん、といった、批評眼、理性の存在が
まったく許諾されていない。
あるいは、分裂した自己を「僕のなかの悪魔」として
自覚的に部分化すること、あるいは、内面化することの
はたらきも、ない。





「書く」あるいは「俺は」と口を開く近代的な主体は
由来と性質を全く一とする主体によって、
存在する理由をはく奪されたまま、ただ「殺す」ために
繰り返し生まれ続ける。
圧倒的な生と死の同一性である。そこに補完性はない。
この主体を生かし続けるただひとつの方法は、
主体それぞれから統合のはたらきをはく奪し、
「生まれ続ける主体」として同一視することをやめ、
ただ、そこにあること、の一点に拠り、
個々の主体の存立をすべからく等しく扱うことである。
統合を失い、すすんで分裂症となることにある。





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「突然何の前触れもなしに一種異様な感覚に襲われた。
自分が意味もなく只存在している、という認識である。
このままでいると気が狂うに違いないと思い、
とにかく書かなければ、と思った。」

                     (江藤淳)



「生きることの自由とは、意味の実現に賭けること」

                     (岩井寛)



「ここにいること、生きつづけていることに、
理由が必要になった。
すくなくともじぶんが納得できる理由が。
そしてそれが見つからないときには、
ただ訳もなく生きているという感情しか
生きるということにたいして抱けない、そういう寂しさが
ひとりひとりの存在に滲みだしているような。」

                     (鷲田清一)





意味、理由といったものは、思念のフラグメントを集積し
個々の「殺し合う主体」を統合するための発明であって、
「もうひとりのじぶん」を「理性」の働きと幻惑させて
人間を「人間」たらしめる、一種巧妙な仕掛けである。
だから、仕掛けが何らかのきっかけで瓦解したときには
「人間」は個々の殺し合う主体のひとつへと崩落して
時には自壊して、自殺する。
それは「殺し合う主体」の、生と死の区別のない、
ただひとつの「存立理由」であり「存立目的」だろう。
そのとき、意味や理由に絶えず揺るがされることは、
もはや、ない。





崩壊や廃墟に、恐怖とともに安心を感じるのも、
その姿かたちが、もはや朽ちる以外にはなく、
そこに込められていたはずの知、願われた意味、
築かれた目的も死に絶えて、
もはや揺らぐことの無い、分子レベルの物質へと戻り
安定に向かうであろうという事実を示すがゆえに、
意味と理由に絶えず揺るがされている「人間」のもつ
おそらくは無意識に追いやられているであろう
根源的な「自壊作用」について、一瞬間だけでも
みずからの「理性」に代行させてくれるからだろう。





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意味や理由に絶えず揺り動かされていながら、
それらを拒絶して、生と死の区別のない物質の世界に
戻ろうとする働きにさえ、抗おうとする営み。
剥がれた皮膚は、僕にじぶん自身の廃墟を感じさせた。
丸ノ内線のあの美しいひとにとっては、巨大なあざは
おそらく自分自身の廃墟ではない。
廃墟にしたくとも出来ない、消すべき「主体」であって、
彼女の「美」から、逸脱しているもの。





眺めようと思えば、じぶん自身の廃墟など、たやすく
眺めることが出来るのではないか。
意味や理由になりそこねた残骸は、胸の奥の湖底に
静かに沈んでいるとしても、
新たな廃材が湖面に投下された瞬間に、
大波が起きて、じぶん自身を大きく揺さぶるからだ。





では、意味や理由がなりおおせるものは何か。
生きるための意味、生きるための理由、というような
ものではなく、時折、至上命題化して自己目的化する
それらがなりおおせるものは。
それは決して形而上的廃墟としての「神」ではなく
「承認」として与えられる全能性でもあるまい。
銀座のバーで、ルダイグや80’sグレンフィディックを
飲みながら、誰が座るわけでもない隣の席に眼を落して
ずうっと考えているうちに、終電をなくしてしまった。





いっそ、「僕」という主語を捨ててしまおうか。
「誰」となって、「誰」を待つことにしようか。
朦朧を半ば過ぎた状態で便器に顔を突っ伏しながら
そんな思念のフラグメントがちらちらと明滅しては
吐き気の中に霧散していくような気がして、
ホワイトヘッド、と呟いたか呟かなかったか、
眼を閉じて再び瞼を開けると、そこは下宿の廊下、
どうやら倒れこんで眠ってしまっていたようだ。





宿酔に痛む頭に顔をしかめながら、
ふ、と腕に眼をやると、
一条の消えかかった赤い点線、
美しいひとの傷痕がまだ消えていなかった。
どうやら裂けた自我の縫い目かしら、と思う間もなく
再び吐き気に襲われて、「僕」に戻っていった。





8月15日。黙祷。
皮膚はやや黒みがかって、赤ちゃんの匂いも失って
再生を終えた。
あの日以来、あの美しいひとには出くわしていない。
積極的に出くわそうとする理由もない。
僕は今朝の夢に見た、あるひとに会いたいと思う。
声も顔かたちも何ひとつ実感として感じなかった、
そして残ることもなかったにもかかわらず、
強烈な「存在している」ということの実感を残して
夢から去った、そのひとに。






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