白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

いったい誰が遠くで言葉を書けといった

2008-03-23 | 公開書簡
前略

最近、弱さ、場所、というものについて、考えます。





「場所といえるただひとつの場所に縁取られて、
 ひとつの語、ひとつの名の中に封じ込められたい」





上にあげたのは、デリダが試しに、絵葉書という本の中に
記したラブレターの中の一節です。
自分のあり方について、すべてを許し、受け入れてくれる
ひとによって、自身が満足できる場所で、自身が満足できる
名前でもって呼び起こされることによって、
自身が、望ましく思うあり方でもってこの世界に存在できる、
という、人間の切実で、他力本願でわがままな願いの様子が
よく言い表されています。





どうも、居場所というものは、どこかよその場所にはなくて、
実は自分自身のパーソナリティの内側にあるような気がして
なりません。
それは、意識の皮膚とでもよぶべきこころのひだ、それよりも
もっと後ろ側、もしかすると、こころ自体よりももっと内側に
あるような気がするのです。





自分自身が、何かの種から始まって枝葉を伸ばしていると
仮に考えてみるとします。
当然、枝葉を伸ばすために、種がまかれた大地のことを
考えなければなりません。
そこが、居場所である、と、とりあえずは考えることが
出来ます。
しかしそこが、果たして本当に大地でありうるのか、または、
大地と呼ぶべき何かが本当にあるのかは、
それが心のはじまり、自分自身のはじまりよりも以前のもので
あるとするのなら、どうしたって捉まえられない問題になって
しまうのです。
聖書が光といい、リグ=ヴェーダが闇といい、中上健次が血と
辛うじて指し示した、種の置かれた大地らしきもののことを、
僕はどうすれば、何ものかにほのめかすことが出来るでしょう?





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故郷がおまえの大地ではないのか、というひともいるでしょう。
僕は、こうありたいと願う姿を長らくもち続けていたけれど、
そうあろうとするために何をどうしていいのかがわからず、
また、自分のありかたをひとつに決めてしまうことに
おそろしく臆病でした。
結局何もすることが出来ないままに年齢を重ねてしまい、
そのうちに病を得て、都会を食い詰めてしまって、
一度は捨て去った故郷に戻らざるを得なくなってしまった。
故郷を捨てたものに、故郷はどこまでも冷たいのです。
故郷は僕にとって、光でも闇でも血でもない。
なにかの場所ですらありません。





自問して、悶えているこころを、なんとかして言葉にして
聴いてほしい、そしてそれを折り返してほしい、と
願っている人は多いはずです。
けれど、そんなことをしてくれる暇な人、あるいは時をともに
してくれるようなひとに恵まれることは、多くはありません。
それどころか、そうした行為と態度でもって相手が接してくる
気配を感じると、僕はとたんに疑り深くなりました。
ひとを求めていながら、実際に近寄ってこられると、なにかの
やましい魂胆があるのではないか、と疑って、訝しんでしまう。
こうした僕の心根は、真正直に何かに身を委ねてしまおうとする
危うさへの自衛の反応として、働き過ぎ、今も働き続けています。





こうした心の働きが、遠ざけたくない人にまで及んでしまって、
鬱がうつる、もしくは自分がなりたくはないもののすがたが
宿っているような相手とは、ひとは一緒には居たくはないことも
十分にわかっているのです。
けれど、どうしてもそのように振舞ってしまうのです。






仕事と眠りを繰り返して、ひっそりと引きこもっているほかに
ありようがない今をどのように見つめているか、といわれれば、
ひっくるめて言えば、無能、努力の欠落、運のなさ、
生まれつき・性根の悪さ、鬱の病、ネガティブな思考から
抜け出さないもの、むしろ抜け出そうともしないもの、などと
誰かが名前を付けてくれるでしょう。
それを受け入れる卑屈さを、道化となって演じてみせ、
挙句の果てに、信じたものや求めたものからことごとく拒まれ
狂人と名づけられた主人公を描いて見せたのは、
かの太宰治でした。
はじめから、断念してしまう、はじめから、あきらめてしまう、
そういった生も、あるようなのです。





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自分が、こうありたい、と思っていた姿から離れて行くのを
あきらめることが出来る人間にとっては、
自分の過去をルーツとして割り切って、あるいは作り変えて、
いますぐにでも捨ててさえしてしまうことへの葛藤も煩悶も、
一時の熱病、あるいは「はしか」のように過ぎていくはずです。
僕にとっては、こうありたいという自分が過去へと閉じられて
いけばいくほど、過去というものが肥大化して、そのなかへと
飲み込まれてしまう不安が大きくなってきました。
現在が、いっそう切実なものになってきています。





受けた傷で悩みぬいて、誰かを求めて傷を見せびらかした翌日に、
誰かが絆創膏を貼ってくれさえすれば、もうその傷のことなど
何の強がりもなく、平気で隠し通せてしまう人間のせいで、
そのひとのために砕いた心の破片が散らばっている床の上で
どうしようもなく、ただ、一切の物事がどうしようもなく
過ぎ去って行くことに、何の抵抗も出来ないまま、
それに抗う力も使い果たして、歩けなくなってしまったり、
取り残されてしまった人間がいることには、彼らは気づかないか、
あるいは見てみぬふりをすることでしょう。
そして、その後ろめたさを、取り残されている人間への忌避、
嫌悪、離別、忘却という形にうまくすり替え、転身していきます。





一方で取り残された人間は、というと、物事を感じ取ることや
考えること、といった働きが弱ってしまっているために、
それの回復を求めたり、それまでとは別の自身を、姿形に加えて
こころそのものをこしらえたりするのに時間を費やしたりして、
周回遅れのランナーのような惨めさ、あるいは珍妙さでもって
あとを歩いていかなければいけません。
まれに、周回遅れであるのに、1位としてある地点を通過できる
錯綜した状況も、たまには生じますが、
そうして周りから扱ってもらおうとする人々の存在を唾棄すべき
ものだと考えてしまうような人間は、よろめき、転びながらも
引き続いて、落伍者のように歩いて行かざるを得ないのです。





落伍者に対する応援の言葉に感動できる人間、あるいは
応援の言葉を発することが出来る人間は、
おそらく自身の眼に浮かぶ、残酷で冷たい笑いの光、
言葉を発する口元の、作為のせいで引き攣っていることも、
知っています。





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対話を、外に向けて出来なくなってしまったとき、
人間はどうしようもなく、内側へと向かわざるを得ません。
このごろは、独り言も多くなりました。





自分自身を見つめる、というとき、
自分自身を批評する、「もうひとりの自分」というものは
自分自身と同じ視線には立っていません。
人間がなにものかに批評をしようとするときには、人間は
必ず、上から相手を見下ろすかたちで、それを行います。
客観的、公平、という評価を他人に対して出来ないのには
そういう理由があります。
物事を大きく広く捉えようとすることを、俯瞰する、と
いいます。高いところから見下ろすという意味です。





たったひとり、忘れられたようにして
(僕がピアノ弾きであることは既に忘れられていますよね?)
部屋に閉じこもって、たった1つの音も弾けないままに沈黙して
じっと待ち続けて、
おもむろに、あるいは意を決して鍵盤に手を下ろしてみるとき、
即興する運指がいままでにない動きを、自身でも管理出来ない
状況ですすめているのがはっきりと見え、
楽器と自身とが、発生している音と振動を通して呼吸している、
そんな、はっきりとした自覚がたち現れてきたのを認めて、
至福を感じることがあります。
その瞬間に自身に満ちているのは、ある種の全能性の感覚であって、
そこには紛れもなく、陶酔のはたらきがあります。





僕は、「弱さ」を、肯定的に捉えようとして、過ぎた自己愛や
陶酔の感情を排しようと考えながらも、滅び行くものへの憧れ、
いわば「小さな死」というものの訪れを願うこころを、これまで
ずっともってきました。
それゆえに、陶酔のはたらきを、「弱さ」の文脈の中でとらえ、
即興のなかで居場所を与えてもいたのです。
「弱さ」というものが、絶えずなにか「強いもの」の威光によって
絶えず揺るがされていながら、決して「強さ」に飲み込まれることが
ないということ、そして「弱さ」は決して克服されるものではない、
ということを考えていました。
川底の静かな流れのように、生きて言葉を交わしたいという願いを
それは愛ですね、と見透かされたときの恥じらいを、幸せなことだと
考えてさえいました。





陶酔においては、世界は自分自身の中で完結しています。
けれど、上に記したような状態が、理知的な状況分析によって
(あるいは、なんと言うことはない、その日その時の気分で)
狂気、と名づけられ、狂人の扱いを受ける可能性によって、
世界は辛うじて、自分自身だけでは完結できないものとして
たち現れてきます。
それは決して、好ましく思っていなかった状況であって、
全能性という、いわば神の居場所から追い出されて、
当人にとってはとても不安定な位置にあるがゆえに、
事態はいっそう切迫して、目の前に展開されてきます。
息の詰まるような時間を過ごすとき、人間は夢や陶酔、妄想の
働きを、「魔が差した」という言葉で、封じます。





望ましくない事態は、決して充実を人間にはもたらしません。
希薄な現在のなかでは、光はいっそう眩しくなるけれど
色眼鏡を掛けてあたりを眺めれば、ものを見る眼を傷めずに
済ませられます。
けれど、愛することも滅びることも、思うままにできるのなら、
という狂想を超えて、全能であることも、人間であることも
拒んでしまいたくなるような瞬間が、訪れることがあります。





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それは、出張から帰る電車のなかでのこと、
年の頃は15歳くらいの乗客、茶色い制服を着た女の子と
乗り合わせたときのことでした。
電車に乗り込んで数分後、僕の目の前に座っていた彼女が、
ある瞬間に突然、繰言をはじめたのです。
その声は、それが最小のデシベルに沈んでも、沈黙を乗車の
マナーとする車両の全体に響くには、十分なものでした。





彼女の独り言には、4人の言葉を認めることが出来ました。
ひとりめは、「こーちゃん」という友達に呼びかける女児。
それが、おそらく一人称のようでした。
ふたりめは、その「こーちゃん」本人で、男児。





さんにんめは、「こーちゃん」と男児の仲に割ってはいる、
まだ言葉を獲得していないような、あるいは日本語とは別の、
人称不明の、ただの声、叫び。
よにんめは、事態を何とか抑えようとする、担任と思しき女性。





彼女は、その4人の言葉を、恐ろしいほどの急速度で入れ替えて
時には椅子から飛び上がったり、窓を叩いたりしながら、
延々と繰言をしたのです。
くおーちゃん、と呼ぶ声は、声帯を使わないように、ふくろうの
鳴き声のようにやや高く、ゆっくりと発されました。
そして、それに答える「こーちゃん」は、彼を呼ぶ女児をゆっくり
諭すような口ぶりで、おおげさな抑揚で、やや早口で話しました。
担任と思しき女性は、カセットテープを早送りするような口調で
猛スピードで何事かを注意し続けています。
そこに、金切り声の絶叫が加わります。





彼女の繰言は、それら4人の言葉をコントロール出来る状況には
ありませんでした。
4人のそれぞれの言葉は、突然寸断されたり、割り込まれたり、
ひどく詰まったり、言い間違われたり、速度に追いつけなかったり、
つづめて言えば、出来上がる前に解体されつくしてしまうのです。
意識や人格が、出来上がるまえにずたずたにされてしまっている、
そんな病気を、彼女は患っているようでした。
分節されつくした音が畳み掛けられ、金切り声が頭蓋を貫きます。
彼女の発する繰言の、おおよそ30秒ほどを文字にすると、
おそらくは次のような言葉、いや、音声となります。





「くぉーち、く、くぉ・・・ひゅあぎゃー、どうしてそんなにちら
 かすの、かた、かか、かかか、そんなことしちゃ、ほ、ほきゃぎ
 やあああ、く、く、ほら、そんなこと、くぉーちゃ、くぎゃ、
でゅ、早くかたづけなさいってさっきからいってるじゃない、はや
くかたづけなさいってさっきからいってるじゃない、はやくかたづ
けなさい、はやくかたづづづづ、はやくかだつつつぎゃーあああ、
くぉーちゃん、くぉーちゃん、ぎゃーああああ、そんなことしちゃ、
ほら、そんなことしちゃまたおこられるよ、おごらって、くぉーち
ゃん、まだぼぼこられるぃおー、はやくかたづけなさいってさっき
ががが、ががががっぎゃー、くぉーちゃん、く、くくぐぐぐあああ、
ほら、そんな、そんあ、そそ、そ、ぞぞぞでゅでゅでゅでゅでゅでゅ、
ぎゃあああ、そんなことばっかりするんだったらはやくかたづけなき
ゃだめでしょ、さっさとかたたた、さ、ささとかだつつつ、げ、げげ
やああ、ななぉーくくく、おー、おー、ぼ、おこられるってさっきか
らくぉーちゃんかたづけなきゃだだだだ、く、お、おごごご、くぉー
ちゃん、おご、おごらで、お、おご、らぎゃーああああ、ぎ、ぶ・・」





・・・最初は、聞かぬふりをしようと思っていました。
見てみぬふりをしようと思いました。
不愉快な、ノイズとして、僕は彼女を聞いていました。
ただ、うるさい、不快だ、としか感じていませんでした。
けれど、耳をつんざく彼女の声が繰り返されていくうちに、
こちらのこころがかぎ裂きになっていくのが、はっきりと
わかりました。
どれほど、彼女が閉ざされているのかがわかったのです。
彼女はなにかを言い表そうと、何か違った言葉を捜そうとして
喉から血がにじむような速度で、言葉を繋ごうともがいていました。
しかしその言葉は、どれほど彼女があがいても繰言になってしまい、
その果てに、音節へと引きちぎられて、ぶちまけられてしまう。
その苦しみのおそろしい果てなさ、苦痛を破ろうとして発される
受難の、断末を拒むかのような絶叫によって、
僕自身が痛み始めました。





それは、「こちらが、このようにあることへの申し訳なさ」という
こちらの思いに訴えて、のっぴきならぬ切迫感をもって僕を苦しめ
始めました。
彼女の存在に対する申し訳なさだけではなく、この場所で彼女と
居合わせているという事実に、許しを請う必死の思いでした。
このままここにいたら、狂う、と思いました。
彼女のように、僕が発話し始めそうに思いました。
彼女が、移ってくる、そう思ったのです。
卑しいことに、その瞬間、僕は彼女と居合わせたことを受難と感じ、
助けてくれ、という一心で、降りる駅のひとつ前で電車から走って
出ていきたい、という欲動をどうにも統御できなくなってしまい、
到着して電車のドアが開いた瞬間、僕は電車から走り出ていました。
そして、振り返って、僕と同じ行動をとった人間が誰一人いない、
逃げ出したのが僕一人だ、という事実をはっきりと知覚して、
僕は自分が罪を犯したのだ、と感じました。





その後ろめたさは、僕自身がもっとも唾棄すべきものだと考えていた、
忌避、嫌悪、離別、忘却という形にうまくすり替え、転身をはかる
人間のようす、そのものでした。
僕は罪びととなったのです。





******************************





彼女は、社会においては間違いなく「弱いもの」のはずでした。
現に彼女のために、特別な学校が用意されてすらいるのです。
しかし、彼女の存在は、決して気配や消息といった、消えそうで
消えない危うさ、慎みをもってあたりに漂うわけではなく、
こちらが、どこか違うところへともっていかれるような恐怖感を
こちらがわのこころに生じさせるほどの異常な「強さ」をもって
現れていました。
彼女は引き裂かれた世界を必死にかき集めようとする力に満ちて
そこに「強烈に」在りました。
それを受難と見た僕は、自身の卑しさによって彼女から逃げ出した。





自分の卑俗、汚らわしさ、独善について、顔面を激しく何度も
殴打されたときのような、なにをどうやってもどうしようもない、
鉛を飲まざるを得ない、それを屈辱ということも許されないような、
じっと耐えることしか出来ないような、禍々しささえ帯びた糾弾を、
意識が、意識自体に対して、強いました。





自分が卑俗であればあるほど、「弱さ」が引き起こす様々の感情や
美というものに対する意識は鋭くなるものです。
そうした「弱さ」について、これまではおそろしく素直でした。
生身の人間の狂想の、供養のしかたにばかり興味を持っていました。
覚束なさや不在の事実が、実感や存在の事実を強めるということを、
夢のようにじゃれていました。





そのようにあることに、今は申し訳ない、という思いでいるのです。
息苦しく、鉛でも飲んだように、一切の陶酔も自己愛もない、
滅びも出来ない、今こうしてあることへの申し訳なさなのです。
諧謔の響きなど割り込むことも出来ないような、
地熱に巻かれたような申し訳なさなのです。





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地熱に巻かれたような申し訳なさ、
その裂け目からのぞく眼がいったい僕のものか、
誰のものかにかかわらず、
その申し訳なさには、向く先も名前もなく、
心の淵をあるく、などといって逃走したという後ろめたさが、
眼をつぶして飢えた犬のように、後をつけてくるのです。





幸せであろうと、平穏であろうと、美の中に頽落できることを
願うことを、盲犬は見逃さずに、嗅ぎ付けてきたのです。
それを、せめて見逃してはくれないか、と祈れば、祈るほどに、
罪が、いっそう魅惑的な悪臭を放つような気がしてなりません。
僕は鼻が悪いので、そのにおいがわからないのです。
ことによれば、その、わからない、という言葉が、期せずして
罪に逆らうのかもしれません。



草々




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