白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

被災地にて

2011-09-22 | 公開書簡
台風12号復旧支援のため、被災地に赴きました。
数日間、瓦礫・災害ごみの搬出、収集、廃棄に従事しました。
以下は、親しいひとに送った、書簡の一部です。
校正をせずに、敢えて、ナマの言葉を残しておくことにします。





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第一の感想として、復旧支援者は、多方面に感受性をもったまま
被災地に入るべきではない、と、実感しました。
多方面にアンテナを巡らせていては、要らぬ情報に共感・共振して
自分のすべき仕事が出来なくなるばかりか、
注意力と集中力が失われ、不慮の事故を招く原因にもなります。
仕事中は、「私」を捨て、感受性や気づきの方向を、 復旧支援に
凝集することが大切になります。
被災地は、僕の感傷を決して必要としていません。
僕が、瓦礫置場で、たくさんの朽ち果てたピアノに、
鍵盤もアクションも脱落して、 フレームと響板だけになった
ピアノに触れたとき、 涙しそうになってしまって、 それをこらえて、
思い巡らせ想像しつつ現場に戻ったのは、未熟でした。





ピアノは水に浸かると、たったの1週間で朽ち果てます。
鏡板とフレームだけになってしまったピアノは、弾くことが出来ません。
弦を素手で弾いて音楽を生むことは、不可能に近いのです。
なんて不自由で、テクノロジーに呪縛された楽器なのか、と、悲しかった。
決して、全きかたちを失ったことを悲しんだのではありません。
きちんと弾いて弔ってやることが出来ずに、瓦礫置き場で合掌しました。
そんな感傷が、被災地でいったいなんの役に立つというのか。
生活の一部を、深い思いを隠しつつ、あるいはしまいこんで、淡々と、
浸水した自分の家から捨てると決めたものを運ぶひとのように、
手伝いに入ったものも、さまざまな思いはいったん封じて、
ひたすらに働くべきなのです。





被災地と一言で言っても、その内実は、地理、産業構造、経済的状況、
因習などの違いによって、千差万別です。
例えば、僕が入った地区は、決して豊かなまちのようには見えなかった。
トタン葺の4軒長屋が寄せ集まって出来た集落は、
2メートルの浸水を受けました。
地区一帯は、土と糞とがかき混ぜられた汚泥に覆われ、
あたり一面をウジムシがはい回り、家電や、水を吸って腐った畳、
腐敗・腐乱した大量のゴミが山積していました。





被災地で、差異が最も大きく生まれるのは、死人が出たか否か、ということ。
死人が出れば、ひとは祈り、あかの他人にも親しみ、慎ましくなります。
天を恨まず、という言葉も出ます。
死人が出なければ、ひとは悲しみやつらさを、被害者意識を怒りや不満へと
変えてみたり、あかの他人を鼻で指図し、命令したりもします。
そこに彼岸への祈りはありません。此岸での煩悩と怨みがむき出しになる。
すべてがそうとは言いませんが、そのような事態の発生を僕は見ました。
軒先で泥にまみれた業務用調理器具をボランティアがごみとして回収したら、
所有者が、まだ使うはずだったものだ、と因縁を付け、 言い値で賠償しろ、と、
役所に怒鳴り込んだのです。 図らずも、中上健次の「枯木灘」を思い出しました。





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気温32℃の蒸し暑さのなかで、考える余力が尽きかけたとき、
僕はケガをしました。
トラックに大型冷蔵庫を積み込もうとして、荷台と冷蔵庫の間に指を挟みました。
人差し指の根元が裂けて出血し、肉が腫れ上がって動かせませんでした。
幸い、骨は大丈夫でしたが、裂傷と挫傷で、今も指を曲げられません。
それより、不衛生極まりない環境で仕事をしていたため、破傷風の恐れがあり、
わざと傷を裂いて洗浄・消毒し、縫合はしませんでした。
トキソイドの注射と、抗生物質の投与により、幸い、破傷風の症状はありません。





復興、それがどういったレベルのことを指すのか。
それは、国ではなく、過疎で苦しむ地域の仕事になります。





瓦礫を撤去する僕たちに、被災者は無関心でした。
助けてくれて当たり前、そういう感情もあったかもしれません。
でも、一番の理由は、家財の一切、思い出の品の一切を、
捨てざるを得なくなった喪失感や、 捨てると決めた覚悟ゆえだろうと思います。
昨日までの結縁が、今日から無縁になる。
その悲しみに、冷淡や無関心で報いなければならないのだから。
被災者は、被災前の記憶の扱いに煩悶していました。
悟ったように、捨て去るひと、狂ったように、探し回るひと。
指輪を見つけて、地元自治体のひとに託しました。
初めは、捨ててくれ、と言われたけれど、無理を言いました。
被災者は、時に怒ります。やり場がないのです。
自分の一部だったものが、瓦礫扱いされているのを見たら、
彼は痛み、傷ついてしまうはずでしょう。





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田舎は、地の縁、血の縁、宗旨の縁が複雑に絡み合っていますが、
非常時には、非常の動かぬ事実を触媒にして、驚くほどの統一と
連帯を発揮します。
それはNPO、新しい公共などが、土足で侵すように入り込むことが出来ない、
濃密なものです。地域固有の倫理です。
普段なら、それを指でなぞるように、フィールドワークもできることでしょう。
でも今は非常時です。踏み込まない一線を引くのが、マナーであり、
倫理だと思いました。





僕は現地で、被災者にほとんど声かけをしませんでした。
被災者同士の声かけは、いわば「命」の灯し合いです。
それは、僕には、出来ないこと。
それをしようと試みてはいけない、したくてもすべきではないことと考えました。
被災者が、僕にそれを望んでおらず、他に、望まれていることがあるのだと、
わかっていたから。
瓦礫は、かつては生活のなかにあり、持ち主の一部でした。
だから、無下には扱えないのです。
たとえ、持ち上げた袋から、 錆びた出刃包丁が飛び出してきたとしても。





紀伊半島を支えた林業は、道路網の整備と、
林野行政における 経営的視点の欠落によって衰退しました。
60年育てた杉が、わずか2~3万円にしかなりません。
保安林制度は、土地所有者の固定資産税対策に利用され、
本来の目的を失っています。
安い輸入材に押され、林業の担い手は減り、保安林の手入れは減りました。
山は荒れて、保水力を失った。
実は、紀伊半島の山林の荒廃は、那智滝の水量減少というかたちで、
数年前から指摘されていたのです。





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大阪大学の鷲田清一前総長が、この3月に梅棹忠夫さんの言葉を引いて
(僕が阪大に進学した理由は、鷲田さんが教鞭をとっていたからです)
「請われれば、一差し舞えるひとであれ」と、語りました。
一差し舞えるひとは、被災者・支援者の別なく、
この日本という国には驚くほどたくさんいます。





僕も、たくさんのひとに、一差し舞えよ、と、言われてきました。





去年の3月、長崎の島原で、雲仙普賢岳の噴火災害の復興ボランティアを
統括していた方にお会いしました。
その方から頂いた、災害復旧従事者としてのこころがまえとすべき言葉を
思い返して、この短い期間に、僕は微力を尽くせたのか、考えています。
その方の言葉です。



●自分の意志と責任で、自給自足すること
●常に、自力で仕事を探すこと
●想像力と俊敏性でもって、機を逸しない仕事をすること
●仕事の選り好みをせず、あらゆる仕事を尊ぶこと
●思慮深く、やさしく、愛情を持って働くこと
●他人のためではなく、自分のために働くこと
●自由意志で仕事をしているからといって、責任から逃れないこと
●復旧の主役は地元であり、そのように事が運ぶよう、態勢作りをすること
●目立たず惜しまず行動し、怒らずけなさず名もなく去ること
●被災者の影の応援団として、去るべき時を知り、ネットワークを作り、
 知恵を学び、次に必要とされるときまで、常に備えること。



そのひとは、何が正解で何が間違いなのか、その規準を押し付けず、
ものごとの両義性を常に意識し、第三者の目で自分の仕事を評価してもらう、
その重要性を語ってくれました。
徹底して、相手の気づきと、最初の一歩を、期待し、待つひとでした。
そして、その時その場所で自分に何が出来るのか、何をすべきなのか、
自問自答しつつも、確実に歩いていくひとでした。
いま、そのひとは、東日本大震災の被災地に、ご恩返し号というバスを仕立て
島原市民の有志と共に赴いて、復旧支援をしています。





神戸の震災の時、神戸の被災者が初めて心を開いた「よそもの」は、
島原からのボランティアだったそうです。
お互いが被災者だったからこそ、何も言わずとも分かり合えたのかもしれない。
被災者のほうからボランティアを手伝ったこともあったそうです。





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僕だけが傷つけばいい、そんな言葉は美辞麗句でも何でもなく、
唾棄すべき自己愛です。
傷つく主体に、代替性を期待する、甘えが透けて見える。
傷つくのはおまえしかいない。
主観、客観、事実のいずれからしても、動かない、
びくともしない真実として、傷つくのはおまえしかいない、
そんな状況で、何をするかが問われるのです。
この場合、もはや可能性の域内で、話は出来ません。





東日本大震災後の「トモダチ作戦」と自衛隊の大規模動員は、
有事に備えた大規模演習でもありましたが、
被災者と米兵が涙を流しながら抱き合っている、 有名な写真を見たとき、
請われて一差し舞ったその舞いは、ただそばにいる事で あったことに、
殴られたような衝撃と、どこか安堵の情を感じました。
現地に入る人間は、「くに」の大きさを、「国」から「郷」へ切り替えて、
見知らぬ故郷(くに)を治す手伝いをするというこころがまえで、
いいのではないだろうか、と、思ったのです。





共に、一差し舞える、ひとでありましょう。





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