白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

桜雪

2006-03-30 | 日常、思うこと
そうか
ぼくたちは鼓膜の上に立てばよかったのか
そうしさえすれば あの





人間のこころをふみつぶしたときの
あの 名状しがたいいやな音を
聴かずともすんだのに





**********************





今日 桜花に雪の散り掛かる朝
同じ天候の下に24年前に生まれた妹が
新しい生活のために大阪へと移り住んだ





赤く爛熟した、庭のセンリョウの実を
ヒヨドリやメジロがついばみに来ては
身を軽やかに翻して飛び去っていくのを眺めながら、
底冷えする部屋に湯を沸かして暖を取りつつ
走馬灯に詰め込めやしないほどの多さの家族の記憶を
流し読むように思い浮かべようとしたのだが





家族の記憶というものがいったいぼくのどこに
しまわれているのか皆目見当もつかず
いつしか雪止んで窓から光差し入り
立ち上る蒸気ときらきらとぶつかって
眼球を虹色の霧で包まれるに任せたまま
むなしく時は過ぎた





記憶が点描の一点ならば
かんたんにその色彩もぬくもりも諧調も芳香も
この手のひらの上に取り出して眺め見て
骨董品のごとく大切に磨いては愛でて
所有の幸福に卑しく微笑みながら
だらしなく語れもするのだろう





それが 数多の点となって絵画のようになれば
もはや一点は他の点との相互対立的補完関係において
個的優位性や特質を失っているから
この手のひらに取り出してみても
なんとも味気のない無味乾燥してどうにも愛でようのない
取るに足らぬものになる
ところがそれを元に戻したとき
取るに足らぬはずの一点はとたんに
他の色彩との補色関係のなかでよみがえり
個的に死にながら 集積された記憶に宿る絵画的生命の
細胞へと あらたに生まれていく





昔 出会った女性のなかに
すべてを刻み込みたい すべてを覚えていたいというひとは
たくさんいた
それはしかし 個的な記憶が 絵画的な記憶として
生まれ変わっていくことを拒否すること
手短に言うと 記憶が芸術や文学 そのひとの思想へと
昇華されるのを拒むことを意味していた





いつまでも生のままの記憶
それはいつでも手元において 都合のよいときに
それを取り出し息を吹きかけては蘇らせ 愛でられよう
しかしそれは 磨きすぎれば磨耗して磨り減ってしまい
いつのまにやら 跡形もなくなってしまう
結局刻まれたはずの記憶は なかったことにされて
その人はもう一度 同じ記憶の傷を負い
あとは同じことの繰り返し
気がついたら老いさらばえて 死を待つばかり





ひとつひとつの記憶を用いて絵画を物すれば
それを美しくも眺められようし
それはもはや 生のままの記憶ではない
刻まれた記憶は消え去ることなく
不意によみがえっては 同じ傷を負うことを防ぐ
家族という絵画
恋人という絵画
誕生という絵画
そして 死という絵画




われわれはいかなる画材を用いて 
どのような絵画を描いていくのだろう
それをしっているのが 僕らの過去であり
記憶であり
出会いであり
別れなのだろう





***********************





夕刻より再び雪降り
桜花 白く重く
妹の一人寒きを思う





晴れやかなる未来を祈りつつ
しんしんと夜はふけていく





僕は来週より 国民のために働く




************************





うまれたときから
そばにいられたらよかったのに という
言葉が届いた





そのときぼくは生まれて初めて 
自分が 鼓膜の上にたっていると思った




最新の画像もっと見る

コメントを投稿