白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

1:1.618

2007-11-10 | 哲学・評論的に、思うこと
場末のスナックで深酒し、日を跨いで帰宅して早々に床について
目覚めた今朝の不快は、きりきりと締め付けられる頭蓋骨と
呼吸を拒む横隔膜、鉛を蒸着したような胃と、意識から3メートル
遅れるように引きずられる足の、かまびすしい不協和音だった。
黄金比のようでありたいと漠然と思っているときには、
それが差し迫らぬ状況にあるうちは、
人間という器に入っていることは兎角不都合に過ぎる。





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美に陶然としているまさにそのとき、オダリスクの背中は実在の
人間にしては不自然に長すぎる。
実在の人間を真正面から眺めたとき、そのひとの身体の各部分の
造作が、いかにすぐれた美点を併せ持っていたとしても、
どこかいびつで、歪んでいるのが常である。
人間は、いびつで歪んだその姿から美を抽出するために、特定の
箇所をことさらに取り出して誇張する手法や、
運動をさまざまのかたちに静止させ、さまざまの距離や角度から
これを見つめてみるという工夫をこらした。





不完全なすがたから完全な美をとりだすために、その姿の背後に
異なった美や、コンテクストを配置して、
人間の中からとりだした個的な美を補強して見せた。
個的な美は背景に支えられて優雅に舞う。





これは人間の姿かたちのみに適用されず、こころのかたちを
見つめて取り出す方法にも応用された。





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人間の技芸は、無骨で粗野な素材をもとにしていかなる機能や
いかなる姿をそこから取り出してみせるかという野心の中から、
自らの生存への欲動に保障されて発達をしてきた。
美的比率としてよく知られる黄金比の発見は古代ギリシアで、
算術的な美がもっともよく信じられ、具現化された時代である。
音階、建築、美術、彫像のなかに黄金比は巧みに発見されて
今日までの歴史に脈々と受け継がれてきた。
たとえば、バルトークの「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」の
各楽章の小節数や旋律線、音符や休符の割付、跳躍の度数などに
黄金比が頻出するのはよく知られたところだ。





絵画作品や作曲のように、無限の混沌からさまざまの要素を抽出して
固着させる芸術にあっても、
書道のような即興的芸術にあっても、
この比率が現れるところに美が存在しないことは稀である。
僕自身は数式に美を見出して放心できるほどの数学的素質には
恵まれなかったが、
美とは素因の調和であり、幾何的配列の栄光であるということは
よく知っている。
それは、真向かい合ったこちらがわのこころのありようを
いっそうはっきりと炙り出してくれるものだ。





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美をとりだしてみせようとするときに必要とされるのは
細部へのマニエリスムと大局的な均整の感覚であり、
そのどちらにわずかでも傾けば、人間は生み出された作品に
違和感を抱いてしまう。
違和感を遊ぶこころの楽しさのなかには、最初にわれわれが
求めていた美への憧憬はすでに薄れてしまっている。
グールドの弾くバッハや箱根細工の楽しみは、美の機軸の
逸脱のなかにある。
中国古代王朝の金細工の技芸にわれわれは感心し嘆息するが、
そこには人間の飽くなき技芸への執心に対する一種の慄然、
あるいは嫌悪と吐き気にも似た感情が含まれることを
容易には否定しがたい。





人間の宿業ともいうべき美を生み出すための技芸の追求には
限りがない。
表現者にとって最も困難なことは、いつ、どのような段階で
筆を止め、音符を書きやめ、道具から手を離すべきかという
判断である。
ダヴィンチがモナリザへの加筆を止めることが出来ず、
ブルックナーが完成した作品への改訂を重ねて止むことが
なかったのに、
等伯は抽象的で荒々しい線描を、その配列の緻密な計算の上に
妖刀のようにふるい、なにも描かない、という余白をもって
背景として、峻厳にして深遠な光と影、霧の中の幽い、しかし
切り裂くような風の運びを、水墨のみであらわしてみせた。





明治から大正のころの数奇屋のなかには、竹内栖鳳のような
日本画の大家が建築に携わり、監修を行った例がある。
その建築における柱の配置、鴨居の意匠、壁の塗り、天井の格子、
そのどれもがしなやかであり、凛としていて一種の清涼感がある。
それは技芸の執心を大局によって排するという意識と、それを
可能とする感性、取捨選択をすることのできる眼が秀でている
からである。
確かに修学院の庭や桂離宮とて、マニエリスムの極致であろう。
ル・ノートルの庭やブルレネスキの建築における数的秩序の勝利と
対極的な位置にありながら、
しかし、余白という名の行為の排除によって、まったく異なる
視座でもってマニエリスムの罠をくぐりぬけたその絶妙な均整の
感覚には、嘆息せざるをえない。






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余白には、未完成の美、あるいは中断による放擲というような、
なんともいえぬやりきれなさ、満たされなさのなかにわれわれを
置き去りにする効用とともに、偉大なる統一を啓示せしめる
効果があって、われわれはどうかすればそれに飲み込まれる。
満たされぬのに、なにものかに過ぎ去られる感覚は本来官能的で
あるはずなのに、
それがさも人間であるのだと納得させ、こちらがわをおだやかに
手なずけてしまう。






細部への執心、あるいは筆を置けずにいつまでも作品を弄び、
結果として全体を破綻させるという例はいくつもあって、
大名趣味の茶道具などその典型であろう。
西洋のみならず中国にあっても、余白は全て埋め尽くすもの、
それゆえの細部への偏執的な意匠の例は枚挙に暇がない。
逆に細心の注意を持って細部を捨て去ることを「荒ぶる」と呼び
美のなかに新たな基準を打ち立てることもできた日本の感性は
やはり世界に独自の位置を占めるものではなかろうか。
バーナード・リードやフォービアン・バワーズのような異才を
除けば、日本の芸事や美術を単なるエキゾチズムから離れて
的確な視点で認めることのでき、またそれを実現してみせた
外国人は少ない。






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もっとも、マニエリスムの罠から逃れる方法は、
それほど鋭敏な感性に恵まれずとも容易である。
マイルス・デイビスが、如何にすればもっと楽器に
習熟できるのか、と問われたときに、
たった一言、「play next page」と語ったのは有名な話である。
あるいは、自分が引いた図面や、かたちとした絵画、
楽譜といったものたちを、うらがえしに見てみるといい。
もうひとつの作品が、そこにはすでにつくられている。





うらがえし、配列のパッチワークによって驚くべき鏡像を
無限大の想像力と「みせかけて」示したのは、かのバッハである。
ひとつのモティーフを、逆行、反行、鏡像によって幾重にも
重ね合わせ、多層的で峻厳であり、神秘的ですらある音響空間を
創出してみせたバッハは、創造の父というより、パッチワーク、
あるいはコラージュの先駆者だったということが
出来るかもしれない。





美が芸術の総体、人間の生活のなかに生きられると
信じられた時代は過ぎた。
建築は画一化された間取りに屋根の意匠を少し付け替えれば、
それがさも独創のように受け取ってもらえる時代だ。
郊外の均質で平たい風景のなかに群れ立ち並ぶ家々は
まるで何かの烙印を押されたかのように、
機能というものに特化して去勢されてしまっている。





20世紀における機械文明が、同一規格による実用品の大量生産
体制を備えたなかで、スタンプをぽん、と押すようにして
さまざまの素材を同一機軸のなかに嵌めこみ、逸脱して錯綜して
いるように見せかける複製芸術やコラージュといった方法が創出
されたのは、世の趨勢の当然の帰結だったのだろう。
寄木造の仏像が考案されたのは、平安末法の世において、仏像が
日用品であった時代である。
バッハの音楽は芸術品ではなく、教会ミサに使用され、王族の
晩餐において消費される日用品だった。
それゆえに、20世紀におけるバッハの位置が、
グールドによって日用品のマニエリスムとして複製芸術のなかに
捺印され得たのだろう。






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定義というものには、2種類のやりかたがある。
ひとつは法律文のように、あるいは宣言文のように、
教義や戒律として、それを読むものに誤読を許さずに
ただひとつの解釈をはじめから捺印するというやりかた。
もうひとつは、プルーストのように、ただひとつの感覚の
正体を突き止めんがために、その来歴を、
砂時計のくびれた場所からさかのぼっていくようにして
考え、思い出しうる由来の全てを述べ尽くしていくという
やりかたである。
捺印による定義はとても窮屈な唯一解を提出してくれるし、
遡上による定義はどれだけ述べ尽くそうとしても叶わない
絶望的な自由解を与えてくれる。





日本人には、西洋的な捺印がどうしても馴染まない。
それは、もうこれでいいではないか、あとはもとの自然の
ありようにまかせよう、という気質に由来する。
借景という概念がそれである。
いい意味での曖昧な完結ができるのである。
言い訳をいくらでも出来るように、わざとこしらえたような
曖昧さではなく、
何かがここから生まれ出てくるのではないか、という可能性を
担保しておくという良心的な曖昧さである。
そういった意味で、筆の置き方についての判断については、
日本人のもともともっているありかたを秀でているといっても
いいのではないか。
川端康成の小説の海外での読まれかたについて、伊藤整は
「今から物語が始まろうとしているところで終わっている」
という言葉で表したことがある。
それこそが余白の美に相違あるまい。





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さて、即興演奏の練習をしているとき、
僕自身が弾き進めながらもうひとつの眼で見つめているのは、
どこでこれを弾き止めるか、どのようにして弾き終わるか、
というヴィジョンである。
水盤から突如牙がつき立てられる様にして出てくるように、
弾き止めるのか、
あるいは、マーラーが交響曲第9番の総譜の終わりに
「死ぬように」と記したように弾き止めるのか、
または、遠投した小石が放物線の中途で突然に落下を止め
静止するように弾き止めるのか、
決断をしなければ、演奏は弛緩して時間から追放されてしまう。





叶わないとわかっている恋を、どこでやめるのか、
ということに苦しんだことのあるひとならば、
そうしたヴィジョンを見つめる眼のことを知っているはずだ。





試しに、演奏時間を5分=300秒と定めて楽器にむかい、
デジタル時計を傍らに置いて、
主題を演奏し始めてから、演奏の終わりをどのようにして
持っていこうか、とはじめて意識をした時間までの秒数を
測ったことがある。
終わりを意識する、とは、主題提示を終えて展開を開始した
そのときだといってもいい。
始まりのなかに既に終わりがある、というチェリビダッケの
演奏論にたてば、それが実際に音として現れる瞬間こそが
展開部の開始点にあたる。





結果は、1分50秒=110秒ごろであった。
演奏全体を300秒として、提示部と展開部の時間を
比率として表すと、

提示:展開=110:190≒1:1.7

程度の比率であった。
ちなみに黄金比は、およそ5:8≒1:1.6である。





思わず、慄然とした。
フルトヴェングラーの演奏するベートーヴェンの「運命」の
第1楽章の演奏時間の比率も、およそこの比にあたる。
キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」のアンコール、
パート2cにおいて、主題提示と展開部・主題再提示の
それぞれの時間配分を測ってみたところ、黄金比に概ね合致した。





よりいっそう黄金比に適合する即興の時間を試みるか否か、
そんなことをしていると、どこかよそへ行ってはしまわないか、
さまざま思いつつも、その不可思議に狐につままれたような
思いがした。
その感情は、昔、ピアノに向かおうとして、
ピアノの横の壁に向かってきちんと揃えられていた
母のスリッパを見つけたときの感覚に似ていた。





母はそれを脱ぎ忘れたに過ぎなかった。
ただ、そのスリッパの整えられ方があまりに完全で、
壁の向こうから突然にぽっかりと口をあけた大きな闇、
次元を異にするどこかよそのほうへと
母が夜のうちにいってしまったのではないかと思えてきて
おそろしくなるような、そんな光景だった。





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