白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

花祭

2006-04-08 | 日常、思うこと
水曜、研修の一環として消防本部で救命訓練を受講した折、
担当官から、こんな話を聞いた。
彼は、救命隊員である。





1995年の阪神大震災、救急隊として応援のため
神戸に入ったとき、そのひとが見たものは、
瓦礫の山と化した住宅の下敷きとなってうつぶせのまま
絶命している女性の姿だった。
生命反応を調べようとして近づくと、女性の腕の中には
絶命した幼い子供が抱えられていたという。
最後の最後まで、わが子を助けようとした母親の姿に、
涙を流さないひとはなかったそうだ。





担当官は、現場の指揮を担当する神戸市の消防官に
遺体収容を申し出た。
しかし、遺体の上に覆いかぶさる瓦礫はいつ崩れるとも
知れぬ状態で、無理に搬出を試みれば2次災害の危険が
あった。
災害時・非常事態時には、全国各地の消防・救急隊員は
被災地への応援のために出動する制度がある。
応援へ派遣された隊員はすべて、被災地の消防本部の
指揮系統のなかにはいり、被災地の消防隊の命令の元で
活動にあたることとなっている。
このとき、神戸市の消防官が下した命令は、現場を離れ
生存者を探し、救命活動を行うということだった。





担当官はこのとき声を荒げて抗議したそうだ。
目の前で瓦礫の下に絶命している親子をこのまま放置して
先へ進むことなど、人間として出来ない、と。
指揮官はそれ以上の声で担当官を怒鳴りつけたという。
死んでいるひとよりも、今生きている君たちの命のほうが
大切だ。
君たちの職務は、生きている人の命を救うこと。
ここで事故を起こして君たちの命がなくなれば、救える命も
救えなくなる。
命令に従え。





救急隊は、現状以上に遺体が損傷しないように
覆いをかけ、自衛隊へと連絡して搬出を要請し、
先へ進んだという。
遺体搬出の際、自衛隊はジャッキや支え棒を用いて
遺体の周囲にスペースを作り、
鉄製のフレームを差し込んで遺体の周囲に車庫状の
覆いをつくり、
重機を用いて瓦礫を撤去してから遺体を搬出した。
母親の遺体はひどくつぶれていたものの、幼子の遺体は
ひどい外傷を負ってはいなかった。
母親は命をかけて、わが子を守ろうとした。
けれど、子供を、救えなかった・・・





******************





消防職員・救急隊員は、厳格な規律訓練と過酷な救命訓練を
日常、寝食を共にしつつ行いながら出動に備えており、
そこに生じる人間関係は当然厳しくありながら、家族以上の
濃密な信頼関係へと発展する。
損傷の激しい遺体にも、ひとびとの生活が灰燼に帰す現場にも、
死にいくものや、遺族の叫びにも出くわす。
時には、同僚を殉職により失いもする。





この担当官は一昨年、2名の隊員を殉職により失った。
爆発事故により、殉職者が吹き飛ばされる姿を見ている。
現場に居合わせた同僚の中には、PTSDのために今も
休職している隊員がいるそうだ。
彼は話を締めくくるに当たって、こういった。





自分の命を棄ててでも他人の命を助けるなど、嘘だ。
自分の命も守れない人間に、他人の命を守ることなど
絶対に出来ない・・・





********************





自分ひとりも守れない人間に、他人を守ることなど出来ない。





花曇の今日は荒れに荒れて、疾風と驟雨が
城跡の桜をたった半日ほどで散らせてしまった。
濃緑の堀に一面に拡がる淡雪色のモザイク模様も
明日になれば水底に沈む。
休日、桜見の散策に出てきたぼくは
頭上に散り掛かる花々の死を払いのけながら
ふと足元に視線を落とした。
這い出た蚯蚓がにゅるりと蠢き、花びらを衣装して
湿潤に喜び悶えていた。





ぼくがそれに気付いていてもいなくても、
踏み潰してしまえば蚯蚓の生命は終わる。
夏になれば、蚊を叩き潰すだろうし、
これまでも、歩いているうちにおそらく
無数の蟻を踏み潰してきたのだろう。
それと同じように、明日車にはねられれば
ぼくとてそれらと同じ運命をたどる。
交通事故でともだちや家族を亡くしたひとも
たくさんいることだろう。





ぼくは、ああ、人間はこうやってこうやって死ぬのかも
しれない、と身をもって経験したことがある。
倒れたときの記憶は、今も鮮明に覚えている。





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2003年8月20日午後のこと。
午前から35度の炎天、スポーツドリンクを飲みながら
飯も食わず、営業ノルマの達成のため、
2,30件の事業所に飛び込み営業をかけ、
名刺を破られたり追い出されたりした後のこと。
豊中での営業活動に遅参するのを避けるため、
大阪朝日新聞のタクシー乗り場に急ぎ、乗り込もうとした瞬間、
左足がややもつれるような感覚に襲われて一瞬よろめいた。





そのときはさして気にも留めなかった。阪急梅田駅を指定して、
短い車中に煙草を吸おうとしたが、体が凝り固まって動かず断念した。
ぼくはそれを、急に車のいすに身を投げ込んだから、
体が戸惑っているのだ、まあいい、どうせ煙草は後でも吸える、
と考えて、心身に納得させようとした。
駅手前にきて、ついぞ今まで経験したことのない、不穏で異様な
心拍のよろめきが胸腔に伝わり、心臓がまるで横隔膜の上をすべり
気管食道を払いのけるような動きをしているような感覚に襲われた。
脈は強弱をはっきりと、非周期に打ち始めた。
同時に呼吸の仕方を忘れるような感覚に襲われて、
目の前が揺らぐのを感じた。





駅に着き、やっとの思いで勘定を済ませ、車外によろめき出たのを
さらに追い立てるかのように、心臓は恐ろしい速さで打ち始めた。
やがて全身に痺れが来て、うずくまってしまった。
うずくまって息を整えれば元に戻るはずだ、そう願ったぼくを、
これは不整脈の発作ではないか、という恐怖が襲った。
そのうち心臓は、まるで自身のこれまでの動きを捨てて新たな律動を
目指し始めたかのように、強弱や周期を一層不安定なものにした。
ここに至って始めて、心臓発作を起こしたのだと思った。
俺は死ぬのか、いや、まだ死にたくはない、こんなところで
死んでたまるか・・・





死という言葉はぼくを動かした。死にたくない。
刹那、全身の力を込めて、傍らを通り過ぎた女性に、
救急車を呼んでくれるように頼んだ。頼み終えた瞬間、崩れ落ちた。
うめき声を上げながら。





体はこわばり、意志によっては操作し得ないものに
なってしまっていた。
ひじはひとりでに曲がり、手首は反り返って、指は硬く、
不自然な向きに握られていく。
それに抗おうとすれば、より強いこわばりが体を襲い、
胸に強力な痛みを以て復讐する。
思い切り絞られるぼろ雑巾のように汗がにじみ、鈍痛が
全身を駆け回ってぎゅるぎゅるとねじられ、
身体が内部から破裂して臓物と肉塊がそこらじゅうに
ぶちまかれるかもしれないような恐怖感。
足は吊り、内股にひどく巻き込んで、鈍い痛みと共に
絞めあがっていく。
胸はまるで、肉が心臓の一点に向かって食い込むように
痛み、呼吸が出来ない。
のど元からぜえぜえばあばあといった音が聞こえる。
死んでたまるか、と息をするたび、全身が痺れ上がり、
硬直して冷えていく。
手指から先の感覚はなく、冷たい。





やがて尋常ならざる様子を察知して、往来のものが集まってきた。
もはや首までしびれ、舌ももつれて、何もいえない。
言いたいことも言えない。
どうしたのか、という問いに、息が出来ないといおうとしても、
問うたものはぼくの言葉を聞き取れない。
ぼく自身、ぼくが何を言っているのか聞き取れなかった。
いいたいことと実際の自分の発音のあまりの食い違いに
絶望的になりながら、それでもなんとか伝えようとした。
息、という言葉は取り巻きには水、と聞こえたらしく、
ただでさえ呼吸の出来ない口から水が流し込まれ、むせた。
息が出来ない、と言おうとして出た声は、いふぃばでゅえくいなうい、
という音声でしかない。
こうしてぼくは、言葉をなくした。





炎天のアスファルトに引き伸ばされ、見えるものがぼやけ始めた。
阪急梅田駅のビルディングは地面のように足元から前方に伸び、
その先には雲ひとつない青空がどこまでも続いていた。
ぼくを覗き込み、目を背けたいのに見ている、といった面持ちの
人間が十数名、ぼやけて見えていた。
俺は死にたくない。
しかし十数名の言葉、物音は、恐ろしく鮮明に聞こえてくる。
こんなにも聴覚は研ぎ澄まされるのだろうか。
手足が冷たい、ちょっとあぶないかもしれない、やばい、脈が弱い、
怖い。きしょい。いやだ。あぶない。はやくいこうよ、
このひとしぬの?
そんなことばばかり、聞きたくもないことばばかりが聞こえる。





死にたくない。最後に聞くものが、音楽でなくて、自分の死にいく
中継音声だなんて、受け入れられない。
しかし動けない、苦しくて、痛くて仕方がない、何にも抗えない。
聴きたくないのに、聴かねば成らないのか。
俺は営業中に、心筋梗塞で野垂れ死ぬのか。嫌だ。死にたくない。
救急車はまだか、救急車は。あの女は本当に救急車を呼んだのか。
来ないじゃないか。俺は見捨てられたのか。
俺はこういう定めだったのか。嘘だ。
俺はこんな死を迎えるために生きてきたんじゃない。
救急車、救急車、ということばは、もう、
ひヴぉぇぐふるええ、ギュウギュウジュブア、としか
ぼくの口からは出てこない。





刹那、救急車のサイレン音が聞こえてきた。助かる。そう思った。
しかし、サイレン音はぼくの左側から右側へ過ぎ去って、
ぼくの頭上で止まらなかった。
ぼくの記憶は、ここで途切れている。





*******************





重度の熱中症と過呼吸の併発によりショック症状がおこり、
内分泌系の恒常性が失われ、
この結果、自律神経がうまく機能しない状態になった。
倒れた直後は心筋梗塞を起こすカリウム値が通常の30倍に
上昇し、実際、かなり危険な状態だったらしい。
体温の調節や呼吸のしかた、心臓の鼓動、消化器官の働きも
安定を失って、うまく機能しなくなっていた。
また、自律神経の機能不全が精神的な安定を損ねてしまい
パニック障害と鬱症状を後遺してしまったため、
3ヶ月もの休職を余儀なくされた。
復帰後に受けた扱いやそれに伴う争いについては
思い出したくもないし、実際、抑圧の作用によって
その時期の記憶はほぼ残っていない。
ただ、不意によみがえって、それに苦しむことは今もある。
今も、呼吸の仕方を忘れたようになったり、
心臓が不意の動きをしたりすることがある。





**********************





寮を引き払い大阪を発った日も、今日のように冷たい雨が
降りしきり、時折疾風の吹き抜ける日だった。
すべての荷物を搬出してがらんどうになった部屋の中へ、
程近くの桜堤から風に巻き上げられた花びらが4つ、5つと
冷たい空気とともに滑り込むように入ってきた。
6年間の歳月に重ねてきたさまざまのもの、
ひとびとのこと、大切な思いのことを拾い上げるように。
手に取った花びらはしかし、あまりにも軽かった。





眼に映るがらんどうの景色はぼんやりと霞み、
目元はじんじんと熱く、悔しさが滲み出て流れ落ちた。
思い切るようにして部屋を出て桜堤を上ったとき、
ぼくは一枚の写真を撮り、思いびとへとそれを送った。
思いびとは、遠くへと去った。
それももう、過ぎ去ったことか・・・





大阪へも、また戻るつもりでいた。
戻れると思っていた。
100ほどの民間の企業に採用を断られた時点で、
ぼくはもう、自分が戻れないということを悟った。
大阪へ、という意味だけではなく、
実体経済への参画それ自体が、不可能になったことを。





さまざまなことを棄て、諦めなければならないのか。
「出世」や「地位」、「収入」、「生活」、「家庭」といった
ものたちを、同じ大学で過ごしていたひとびとと同じ水準で
将来的に求めることは、現状のままならば絶対に出来ない。
あのとき、倒れさえしなければ。
あれから3年経った今でも、この思いは消えることはない。





音楽に関しても、倒れる以前の演奏水準に、
ぼくは今でも戻れていないと思っている。
指はもつれ、即興のインスピレーションも渇いたまま、
集中力も乏しいままのように思う。
何より、自分自身の演奏というものに対する自信や誇り、
自負というものが消え去ってしまった。
演奏するたびに、無力感や劣等感、不満、自分の無能力を
思うばかりで、音楽の喜びにも至ることがなくなってしまった。
時々自分の演奏自体をこの世から消し去ってしまいたくなる。
自分の指を切り落としてしまえばどんなに楽だろう、とも
思うこともある。





***********************





あのとき、ぼくは自分を守ることが出来なかった。





眼の前で話をしていたそのひとは、倒れたぼくを
搬送した人間ではない。
けれど、倒れたぼくを搬送した大阪の救急隊員は、
おそらく、いま、眼の前にいるひとと同じように
神戸では死者の前を通り過ぎて、生きている人間を
懸命に探してきた人間だったのだろう。





倒れた直後に地元に戻って治療を受けたとき、
ぼくを幼少から見知っている病院の院長は
「休みなさい」といって、3ヶ月の診断書を書いた。
別の精神科医もまた、同じ診断書を書いた。
命を救うことを使命とする人間が、ぼくを救おうと
してくれただけのこと、といえば、それだけのことだ。
けれど、そういうひとびとが存在しなければ、
ぼくは生き残ることは出来なかった。
たくさんのひとが、ぼくのことを気にかけてくれていた。





さまざまのものを失い、さまざまのものが遠くなった。
けれどぼくには、生があり、ピアノを弾く指も、
ことばもある。
去年、遠くなったはずの場所に、大切な出会いがあった。
ぼくは、そのひとのこころの深さを信頼している。
また、3年も前のぼくの演奏の録音を聴き返して、
涙してくれたというひともいた。
そして、ぼくのピアノを必要としてくれるひともいる。





人間は、死ぬために生きている。
早く死にたいと思いながら天寿を全うするひともいるし
若くして、思い残すことを積み残したまま
言い尽くせぬ悔しさのなかに死んでいくひともいる。
突然、自分の身に何が起きたのかわからないままに
死が起きてしまったひともいる。





自分の生命を守るということが、他人の生命を守ることに
つながるのならば、
自分が生きているということこそが、何よりも大切なこと。
幸福の追求など、2の次でいい。





そんな当たり前のことを恥ずかしげもなく堂々と確認した時、
ぼくは眼の前にたかった羽虫を叩き潰した。
家に戻ると、魚を焼く香りがして、
母親の、「お帰り」という声がした。

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