白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

Airmail Special

2007-01-02 | 哲学・評論的に、思うこと
ハーバード大学で神経工学を研究している従兄から
年賀状が届いた。




国家一種キャリア官僚として働いたのはたったの半年、
その後、京都で高校教諭を務めながら京大の授業に
潜り込むこと数年、
いつのまにか青年海外協力隊としてアフリカへ行き、
その後、国連やボストンの教育委員会で働いて、
今に至る、という異能の人である。




彼はこんな文章をプリントアウトして、
僕のところに送ってきた。
http://www.1101.com/essay/2001-10-10.html




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先日、僕はブログの中でこんなことを書いていた。
http://blog.goo.ne.jp/lanonymat/e/20ddd608fdb522371a7ffad55e769763
少し長いけれども、要約してみよう。





建築は、言葉によってもたらされるひととの関係と同様に、
そこに住まう人の頭脳の延長である自らの身体表現や
心的表現を外部へと投影させて、対話を絶えず繰り返せる
一種の容器・舞台装置であると同時に、
その内部空間の持つその子宮的性格により、
不特定多数のひとびとが、同じ時刻、同じ空間に居合わせて
コミュニケーションを全感覚を駆使して行うことで、
他者性との関係にまつわるベクトルを反射させて自らへ折り返し、
その様態を考えることもできる鏡像でもある。




その装置としての装飾性、機能性、デザイン性、公益性、
また、フォルム・色彩における造形性、そこに住まう人間の
身体の運び方に象徴されるある種の舞踏性、対話という音楽性、
そして、その集合としての祝祭性。
これらにおいて、建築にはすべてが備わっている。
建築家は、その初期条件を与える基本ソフトの開発者にすぎず、
その動作環境を構築していくのは、そこに集うひとびとである、
とする考え方が、現在では一般的である。




ゆえに、そうした初期条件としての建築の集合たる都市が
どのように機能するか、という問題は、
それが一つの特殊解の無数の合成であるという状況において
極めて難しい。
都市はひとびとの織り成す無数の時空間軸上に成立していて、
その行動ステージも無数に錯綜しているのだから。




もっとも、建築における機能主義の権勢がゆらぎ、
住まうひとに対し、建築がその使途を強制するのではなく、
建築の使い方を、そこに住まうひとが決めるという方向に
シフトしたのは、それほど古い時代ではなく、
例えば都市計画は、そこに住まうひとびとの占める
物理的スペースばかりでなく、ひとびとの心的空間の
広さを決定するものでもあるがゆえに、
伝統的に、権力・公的機関によって担われてきた。
公権力における建築の主眼は、ひとびとから個人という
概念を外して、市民、という多数へと集約することを
基盤とすることが多く、
従って、集合を機軸としてすすめられる都市計画においては、
ひとびとの生活を、いかにして祝祭的に導き、支配に対し
盲目的にさせるか、ということを念頭に進められることが多い。




歴史をみれば、巨大建築、巨大な記念物、都市というものは、
時として国家と結びついた宗教権力や、封建君主や独裁国家、
行政組織、巨大企業などによって築かれてきた。
いわばそれは権勢の象徴であり、そこに集うひとびとから
個的性格を奪って集団に埋没させ、権勢に対して無名の信奉を
促そうとする性質を本来的に有している。
このとき、建築は数万の群集に埋め尽くされることによって
完成し、そこにこだまする賛美の声によって完成する。
巨大なスタジアムや劇場空間が、興業目的ではなく、権力者の
権勢を称揚するための祝祭空間として築かれてきた歴史を
見てみればよい。




そしてこの性質によって、例えばサッカーのワールドカップや
オリンピックにおいて、スタジアムにおける熱狂が愛国心に
にわかに変貌する仕組みも、説明が出来るだろう。
特定のものに対する過剰な賛美や怒号の響きが、ひとびとの集う
場において、一つの思潮・イデオロギー、巨大な共同幻想へと
転化する様子は、誰でも見たことがあるだろう。
建築はそうした意味において、生活の容器としての穏やかな
ものとは、到底言いがたい性質を有してもいる。
そこに生み出さされる複雑な関係。




建築はひとびとのなかで生きられていくがゆえに、
建築はその本質において永遠に未完成である。
未完成のままに住まわれ、さまざまの変遷を経て朽ちる。
あるいは取り壊される。
ゆえに建築は、生活様式の象徴ではなく、ひとびとのくらしの
表現態そのものの発露であるといえないだろうか。
・・・・・・。



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従兄が何を意図してこの文章を送ってきたのかは
定かではないけれども、
「都市の潜在意識」というタームは、なかなか興味を
惹かれるものでもある。
もっとも、都市が人間の営みの一種であると考えれば、
道理ではあるのだが。




都市は巨大な溶鉱炉である。
純粋な鉄を製造するためには、コークスも、高熱も
酸素も、鍛錬も必要なのだ。
ひとびとがそれぞれ、どの役割を果たすのか。
労働者として、消費者として、あるいは父親として、
または乗客として、歩行者として、
人々の役割も、登るステージもめまぐるしく流転する。
そのステージも、そのひとびとがどの場所で演じるのか、
どのような時間に演じるのかによって、入れ替わる。




にもかかわらず、何百万のひとびとが生活しているのに、
偶然、いろいろな時間、いろいろな場所で出くわす
まったく見知らぬ特定のひと、というのもいる。
そういった、「何故かわからないがよく遭うひと」は
あなたの周りにもいないだろうか。
衣装の趣味、風采、年齢等、似ても似つかぬのに、
「共時空性」が同じだというほかにないひと。
そうした人に出くわすたび、ぼくは都市の生み出す
経済的・可視的なダイナミズムとはまったく異なった
次元の存在を感じてしまい、
まるでチェスの駒でも取り上げるかのようにして、
時折ひとびとはぽん、と中空に吊り置かれたような
気持ちになる。




ひとびとは必ずしも、生活者としてだけでもなく、
エトランゼとしてだけでも生きていないことがわかる。
住まう街からはじかれる様なこころもちで歩くとき、
あるいは、圧殺されるようなこころもちで歩くとき、
自らの居合わせた都市の実像というものが、ふと
突如眼の前に潜水艦が浮上するようにして感得せられる。
そのとてつもなく巨大な空恐ろしさは、
その都市の生活者としてでもエトランゼとしてでもない、
ある種の奇妙な中間者としての不可思議な意識によって
見つめられる代物であるようにも思う。




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書家や画家の引く一本の線に、そのひとのすべて、
無意識のありようまでもが描き出されるように、
都市においては、さりげないマンホールや施設の名前に
都市の無意識が象徴される、というのも、一理あろう。
古色蒼然たるモニュメントの隣に、高層のビルディングを
建設する巨大なクレーンが伸び上がり、
その下にはびっしりと苔のように、トタンで屋根を拵えた
木造の小さな家屋が密集している、といった都市の景観の
生成流転も、極めて長いタームで行われる。
その街に長く住めば住むほど、ひとびとは「街そのもの」に
なってしまうだろう。
けれど、ひとびとは街にい続けるわけではなく、様々な街を
往還し、その都度様々の街を見つめなおすわけだから、
いまやひとびとは自らの住む街に、さまざまの「ほかの街」を
持ち帰るようになっている。




われわれはひょっとすると、都市をぶら下げて歩いているのかも
しれない。
都市を携えて旅をして、その都度土産に「都市」を持ち帰る。
それが文化の移動であり、都市のみならず、生活のダイナミズムと
なって、長い時間をかけて集団化されていく。
そうして生み出されたひとびとの集団意志が、社会的な規範や
様々のシステムを生み出して、われわれに折り返されることで、
われわれは絶えず文化に揺り戻されて、更新を余儀なくされる。
都市というものは、こうしたひとびとの集団意志がもっともよく
可視化された構造であるともいえるだろう。




よって、都会においては、その意志が巨大すぎるがゆえに
実体の感覚を見出せず、ひとびとに「疎外感」として折り返される。
この「疎外感」が、孤独、という集団意志として要請したのが
巨大都市におけるネットワークツールの異常な発達だったとも
言うことが出来るかもしれない。
巨大都市のネットワークはいまや延長されて、沖縄の離島どころか
世界の名もなき一集落にまで及んでいる。




結果、ひとびとの向かい合い方から身体性がいっそう剥奪され、
身体を使ったひとの愛し方すらも忘れたひとびとがいる。
実際に、都市の構造はひとびとから身体の接触をことごとく
忌避させるように発達してきている。
女性専用車両、喫煙ブース、パーソナルブース、携帯電話、
ネットショッピング、SNS。
つまり都市機能は、そこに集うひとびとを、そこに集わずとも
よいように導き始めているのだ。
都市がひとびとの集合によって織り成されてきたものだとするなら
それはまぎれもない、都市の自壊作用の萌芽であろう。




幸い、そうした都市構造とは裏腹に、文化の猥雑な多様は
ひとびとの接触忌避とは関わりのないところにある。
われわれは互いに無関心なままに、関心の対象の元に集える。
その集合性に対する客観視の不自由さが、逆に、文化を醸成する
ダイナミズムとなって、収斂されているのかもしれない。
それこそが文化力であろう。
しかしその不自由さは、人間の魔性、何者かへの盲目的狂信へ
ひとびとを転落させることもある。
都市はそれ自身の力で、都市におけるひとびとの不能を生み、
ひとびとを飲み込もうとしているようにすら思われる。
都市を生み出してきたひとびとの心臓とは全く異なった、
恐ろしく不規則で引き攣った心拍が、都市には渦巻いている
気がしてならない。




もしわれわれが何物にも囚われることがないようにするのなら、
われわれにはどこからも出発せず、どこへも向かわぬことしか
ないのではないだろうか。




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個を主張する「個」が集団化されたときに生まれる巨大な
エネルギーのありようを知ることは、
もはや「個」であることからもつまはじきにされたものが見る
奇妙な妄想のなかでしか不可能であるような気がしてならない。




個が眠っても、都市は眠らないばかりでなく、
ひとびとが眠っているときにこそ、無意識はもっとも活動する。
文明を見定めようと思うのなら、われわれは不眠でなければ
ならないのだろうか。

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