白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

願わしきこと

2006-09-23 | 日常、思うこと
三木清「人生論ノート」を、10年の年月を経て
再読していて、
ふと、当時交際していた彼女の、純朴でありながらも
どこか愁いを帯びていた二重の眼の光が
唐突に消された灯りが目蓋に淡く残照するようにして
ふ、と蘇った。
文字を読み取る僕の視線のカートリッジにひっかかり、
ぷつりと流れを寸断する、レコード盤の埃のように。
こころの縫い目が、むず痒い。




*************************




書棚を整理していて、偶然、祖父の残した文章を見つけ、
思わず目を通した。
昭和51年というから、50代半ばのころのものである。
そこには、精神の正々堂々たるべきこと、恩に報いること、
慈悲と智恵により奉仕することの大切さが書かれていた。
仏教に一時傾倒して、檀家連の中心となって
菩提寺の整備に尽力していたことを聴いていたから、
それほど新鮮な印象を受けはしなかったのだが、
それに継ぐ言葉には、思わずどきりとした。





美に対する感謝を身に付けること。




**********************




美に敏感になること。
何事も美の観点からものを見るように訓練すること。
早朝の日の出、日没の夕焼け、美しく咲き匂う花、
木々の緑、山々の景色、自然の海などの美を
意識し、思い浮かべること。
そして、鏡に親しみ、自分の顔、姿を見出すたびに
鏡に向かって幸せな微笑を投げかけること。




・・・とても50代の初老の男の書く文章ではない。
気恥ずかしさが先に立って、むず痒くて仕方がない。
しかし、と、ふと立ち止まる。




美とは、物事に感じやすく、すぐ悲しんだり同情する
感傷的人間の所産ではない。
感傷には常に、屈辱感や劣等感として立ち現れる
自尊と虚栄がつきまとうからだ。
太宰の小説が醜いのはそのためである。
しかし、それが言語化されずに別の形状をもって
立ち現れ、明滅するときには、
われわれのこころはそれを戦慄によって認知する。
たとえば、バド・パウエルのピアノに聴こえる、
あまりにも華麗で妖しい、暗鬱な真珠の質感。




二律背反が言語によらずに、大きな器の中に
擬態として統合されているとき、
われわれはそこに人格を見ている。
自然美のように、それ自体がそこに立ち現れているだけで
なにかをわれわれに迫るといった質のものではないから、
より大きな枠組みをしつらえて構えていなければならない。
その構えにこそもっともふさわしいのが、「人格」であり
「こころ」であり「批評」である。




小林秀雄がいうところの、「花の美しさ」に対する否定は、
自然美に批評の介在が不可能であることの自覚に由来する。
そんなものは当たり前のものである。
醜さに充ちた人間の諸産物、言い換えれば排泄物に対して
動かされてしまった自らに対する自己弁護としての一面を
批評は持っている。
批評を、人間の醜さに対しては簡単に行えるのはそのためだ。




***************************




感傷的な批評ほど醜いものはない。
情念の皮相な動きのなかに万物を食い荒らす罪の深さに
自覚的である人間は、それを乗り越えて
芸術美を生み出そうと試みて、挫折もする。
やがて、凄絶な人間の暗部の解剖にひとを留め置く作品、
静謐な基調音のなかにひとを宙づりにする響く思索、
猛烈な速度のなかにひとを置き去りにする詩が出現する。
感傷に肌を浸すことの許されないものを受けて、
美なるものにレイプされていく。




置き去りにされたものの孤独に
痛ましいほど魅惑されている自らのありかたに
傷つくものもいる。
取り残されるという感覚は、他者による認知の欲求に
抜き差しならぬほどに切迫していることの証左である。




表現者はかくして生まれる。
取り残された作品が発見されるとき、
ひとのこころに入れられて、
作品の孤独は贖われる。
しかし、それを生み出したひとが贖われるのではない。
孤独と無理解、貧苦のなかに力尽きた彼を
誰も助けはしなかった。
美にレイプされたものの汚らわしさに、
感傷的な人間は耐える事が出来ないのだ。




************************





自然美のなかに、ひとが、ありのままの獣性と
汚らわしさを携えて分け入っていくとき、
響き渡る音楽は、賛歌であるか、雷鳴であるか。
それを聞き分ける事のできるのは、理性のみでは
なかろうか。




こころに滲む血の匂いをかぐわしきものとして
引き受けることの出来るこころ。
鏡を見る自らの顔に浮かぶ微笑のはたらきは
やがて理性を超えていく。
それはひととひととの関係、分かり合えるという
共同幻想を、決してひとのなかから奪い去ることを
許さない。




************************




いま、真向かい合うひとと
10年の歳月が流れているとしても、
ぼくたちは初めて出くわしたときのまま
居合わせている。
そこに浮かぶ微笑のありかたが、
かおかたちの変化や年輪の加算によって
左右されはしないこと、
そうした人間の自己補正機能のありかたに
美は賭けられているように思われる。




辱めを受け、負った傷の修復作業のなかで
こころに残るカサブタを丁寧に愛撫する
感傷的な自己のありかたを認め、
これを補正するために、もう一度美に
辱められようとするこころのなかに
表現者は生きているのではないだろうか。




**********************





眼前の鍵盤から拾い出す音は
ずいぶん変わった。
それを感じるこころのあり方は
何も、かわらない。




心情の自由な時空の往還のなかで
夢想し、思索し、試みる自己を
何物も妨げないようにするためには、
孤独のなかに自らを放擲しておくのが
一番いいのかもしれない。




ひとを想うこと、引き裂かれるようにして
そのなかにい続けること、
震え、慄き、嘔吐し、磨耗すること。
それが自ら望んだものでないのだとしても、
それを受け入れる以外に在り様がないのなら、
仕方がない。




そうしてふと浮かべた微笑の中には、
人間の最も美しいものがあるような気もするのだ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿