白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

俺の妹がこんなに綺麗なわけがない

2010-10-17 | 日常、思うこと
10月16日、妹の結婚式の日の朝は薄い雲の広がる青空で、
穏やかで心地の良い風が吹いていた。
アルツハイマーを患っている祖母は体力の低下も著しく、
連れて行くことはしなかった。
僕の顔ははっきり分かるが、記憶の混濁が激しい。
それでもまだ、日常最低限の生活能力は残っているので
デイケアに預けることはせずに、食事を作り置きにして、
留守番してもらった。





今回、妹に早く結婚するように勧めたのは僕だった。
近年、祖母にアルツハイマーに起因する特異行動が起こり、
生来神経質な父が、些細なことで暴力的な面を見せる事が
多くなり、介護に当たる母への精神的な負担が大きくなり、
父も憔悴して不安障害に罹患し、母にもヒステリー発作が
起こるようになって、
とうとう、両親は心療内科に通院するほどになってしまった。
そんな状態で、双極性障害とパニック障害が再発している事実を
僕が両親に告げられるわけもない。
いまも両親には、僕は病気が完治したと偽っている。





昨年秋、妹が一人帰省した折に、ドメスティック・バイオレンスが
起こってしまった。
妹は身体を呈して父を止めたようで、母と随分、泣いたそうだ。
その話を、大阪のヒルトンプラザで聞いたときに、
もし何かが変わるとしたら、結婚のような、家ごと大きく変化する
何らかの出来ごとが必要なのかもしれない、と伝えて、
もし、いいひとがいるのなら結婚しろ、と勧めた。
何でも力になるから、と伝えた。
その直後、旦那と訪れた西表島で、婚姻届とともにプロポーズされ、
妹は結婚を決意したようだ。
西表島は、両親の新婚旅行の場所でもある。





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ただ、事はそれでは終わらなかった。
父から、妹の結婚を正月に伝えられてからも、
僕には家族の誰からも、妹の結婚相手の素性が知らされなかった。
もっとも、両親は頻繁に会ってはいたようだが、
僕のもとには妹からの連絡もないままに、半年が過ぎた。
そしてとうとう、顔や出身地はおろか、名前すらも知らないまま、
妹が入籍した、という情報が入った。
いくら精いっぱいだったとはいえ、親としても、妹としても、
自分の息子、自分の兄に尽くすべき礼儀というものがある。
ここで、僕は完全に「キレて」しまった。
両親にも妹にも謝られたが、それで済む問題ではない。
家族の事を、完全に「他人事」にしてしまった、ということだ。
彼らの中ではどうかわからないが、少なくとも僕の中では、
これまで家族を繋いでいた何かが切れてしまっている。
先日、伊勢神宮に参拝した折、僕は、父、母、祖母に向けて
厄除け守りを購ったのだが、
母は、祖母の分を妹にやってしまった。
これには腸が煮えくりかえると同時に、ショックを受けたのだが
もう、どうでもいいと思っている。





父方の祖母がアルツハイマーを患ってから、僕に言った言葉を
没後15年を経た今も許していないことからみても、
これまでの所業も含め、僕は狭量でひどい人格の持ち主だと思う。
ここに至るまでの過程で、もう少し何か出来なかったのか、という
思いはある。忸怩たるものがある。
ただし、東京に出るまでの、実家暮らしの数年余りは、
失業保険を受け、ハローワークに通い、面接に落ち続ける日々から
ようやく職にありつけたと思ったら、
今度は病気が再発し、それでも必死に働いていたところが、、
他の職員が定時に帰る中で、僕だけ帰宅が深夜になるなどの状況が
続くようなありさまとなり、
あまりの苛立ちに、上司を怒鳴りつけたり椅子や机を蹴飛ばしたり
ファイルを投げ飛ばしたりという事態にまでなってしまうなど、
とても家族を気に掛ける余裕がある状態ではなかった。
その点では、取り返しのつかないことをしてしまったのだろう。





それでも、一応は笑みを作り、場を和ませ、冗談を言うように
心掛けている。
入籍後、妹夫婦が実家に挨拶に訪れた際も、良い酒を購った。





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妹は、生まれながらに病弱で、すぐに風邪を引いた。
はしかや溶連菌に感染したりして、大変だったようだ。
それでも、生まれながらの我の強さ、独占欲、目立ちたがりは
すぐに、バレエやダンスといった身体表現へと転化した。
人見知りな部分は、年齢を経るごとに薄れていった。
幼児、借りてきた猫、仙人、変人といった4つの主要素を
立ち回りのうまさと色の白さでうまくヴェールに包んでいる。
やたら老成した考え方、達観したようなことばを、
幼いころから使っていた。
僕と一緒に撮った写真は数多く残っている。
テレビを見ていて、同じタイミングで同じ鼻歌、
ワムのラスト・クリスマスだったか、口を衝いて出たこともある。
元NHKの手島龍一氏の特異なキャラクターに、それぞれ知らずに
惹かれていたこともあった。
それだけ、似たような素地を持ち合わせていたのだろう。
兎に角、負けず嫌いで、兄と競って負けると判断した部分から
撤退する潔さは、見ていて清々しくさえあった。
その結果、僕には到底達することの出来ない職に就いた。
製薬会社の技術者として、新薬開発の基礎研究である。
そうして、職場結婚をしたということのようだ。
今は、新居を西宮北口に構えているらしい。





生まれて初めて両親と新幹線に乗り、大阪・江坂の式場で
着替えを済ませた後、両家顔合わせ、結婚式、披露宴と進んだ。
父の兄弟姉は、存命の全員が揃った。
亡き長兄の家からは、僕の従兄にあたるひとが出席した。
45歳独身、いわゆる「ガチオタ」だった。
ベクトルは違えど、僕もいずれ、そうなるのだろうか。
両家顔合わせの時点で、妹のドレス姿を初めて見たのだが、
新郎側から多くのため息が出た。
僕自身、こんなに綺麗だったけな、と思うと同時に、
母にそっくりだな、と思った。
実際に、母自身もそう感じたらしい。
黒留袖を装う母の姿も、舞台映えして見え、
披露宴でもあちらこちらから、それを褒めるような声がした。









結婚式はキリスト教式で、僕は起立するに留めた。
フラワーシャワー、披露宴、お色直しと、写真を撮ることや
親戚連中の座持ちをすることで忙しく、
気疲れするうちに一切が終わった。
余興は漫才だった。
ピアノは舞台袖にあったが、僕が弾くものではなかった。
そうして、VTRに、ピアノを聴かせてください、という
メッセージが流れて、怒りを抑えるようにワインを呷った。







両親も涙していたし、妹も涙していたのだが、
僕自身には、何だか眼の前の一切の出来ごとに現実感が無く、
忙しさの合間に、ただぼんやりとワインを飲むばかりだった。
そうかといって、走馬灯のようにこれまでの何かが瞬時に
よぎっていくことなども一切ない。
何か特別の感慨がわき起こることもなく、涙はおろか、
目頭が熱くなることすらただの一度もなかった。
妹を見つめる父母の背中の写真や、両親への花束の贈呈の写真を
普通の兄ならば、撮れるはずもないのだろうに、
そんな写真ばかりを撮影している僕は、残酷なのだと思う。
もしかすると、世の中のひとが最も心動かされるであろう
冠婚葬祭の場で、一切の涙もなく心も動かされないというのは、
ひととしての、僕の重大な欠陥なのではないだろうかと、
恐ろしくもあるのだが、そう思う時にも、恐ろしく冷静である。
僕は親が死んでも泣かないのだろうか。
そう考えると、つらくはなるのだが、考えなければ、果たして。





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ともかく、妹は結婚して苗字が変わり、僕には義弟が出来た。
もうそれで十分だと思う。
帰途、親戚一同を最後まで送って、挨拶をし、一日を終えた。
新郎新婦の会社関係者、友人、親戚、親、あらゆるひとから、
「お兄さんは結婚はまだですか」と、何十回と尋ねられた。
アルツハイマーの祖母からも、「次はあんたやな」と言われた。





来年4月、実家に戻らなければならないようになりつつある。





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