舞蛙堂本舗リターンズ!~スタジオMダンスアカデミーblog

ダンス(フラ・ベリーダンス他)と読書と旅行とカエル三昧の日々を綴る徒然日記。

口述試験終了♪

2006-01-26 22:55:02 | 創作活動
はああ、やっと卒論の口述試験が終わりました

審査の先生には見事に「これじゃァ卒論じゃなくてフラの解説書じゃないの」と突っ込まれました。

う.....ご、ごもっとも。あまりにごもっともすぎて反論というか言い訳できん...。

というわけで、この代物の名称は今後『卒業論文・フラの研究』改め、
『取説・フラの研究』となります。

まあ、「解説書としては読めなくもない」という御墨付き(そうか???)は頂いたので、それなりの存在意義はあるでしょう。


そんな卒論を以て卒業できるのかどうかはインシャッラー

卒業論文第3章 考察の考察

2006-01-26 02:42:21 | 創作活動
第3章であまりにもストイックなフラ観を語ってしまいましたが、それは理想中の理想であって、「そ~うだったらい~いの~になっ♪」と歌いつつゆるるんと踊るのが一番ステキなフラのたしなみ方だと思います。

モチロン、誰にとっても上達は楽しいものなので、それぞれに合った方法で上達を試みるのはさらにGOOD
たとえば、ハワイ語に興味を持って数字を覚えたり、「ラハイナルナのルナって月じゃなくて『高い所』のことなのね」なんて新鮮な驚きを感じたりしてもらえると、語学フェチの私としてもうれしいっす
花が好きな人はレイの意味や作り方を知ると楽しいと思います。
旅行が趣味なら、ハワイに行く前に土地の歴史や曲でどんな風に歌われているかを学んでおけば、より楽しくなるはずです。
「ダンスとしてのフラを磨こう」と書きましたが、徐々にちょっとした動きが繊細に踊れるようになるのもたまらなく楽しいものです


しかし。しかしですよ。


プロとして踊る場合、趣味で踊る人とは事情が全く違います!!!

ということで、最後に「私自身がどうすべきか」について語りました。
私はプロと言うには凡そ不十分な人間で、実際たいした働きは出来ていないのですが、それでも母マミちゃんのレッスンにくっついて回っている以上、母に近い責任を負っているといえます。
とくに「ラナ先生」なんて呼ばれてしまうと自分に対して激しい不安に襲われます...

そんな責任と不安を覚える理由について、卒論ではこんな風に書きました↓
たとえインストラクター的な立場であっても教える役割を担う以上、フラに対して果たすべき責任の重大さは一般の踊り手の比ではない。他人より多少踊りが上手であるとか、順番を覚えるのが早い、フラのレパートリーやハワイについての知識が多いなどという程度では、指導者たる資格はない。

こう考えますと、私って資格なさすぎです
ということで、自分のハワイ語やハワイ文化の知識とダンスのキャリアを槍玉にあげ、「こんなところを頑張ってる」「でもこんなところがまだまだ」と自作自ツッコミを展開しました。

しかしそれにしても、なんでフラってこんなに奥が深いのでしょうか。なんで極めようとすればするほど自分の未熟さを感じてしまうのでしょうか!?!?
...と、最後の最後に考えた結果、以下のように締めくくることになりました。
それは、フラがハワイ語や神話・歴史に始まって人々の価値観および生活習慣に至るまで、ハワイ文化のあらゆる要素を含んでおり、故にハワイ文化において非常に重要な存在意義を持っているからであろう。したがって、フラを学ぶ者はハワイ文化すべてに対して敬意を持つべきである。この敬意をもって真摯に学ぼうとする一人ひとりの姿勢が、フラを、ひいてはハワイ文化を次世代に継承することになる。

でもって、自省しつつこんな風に続きます↓
とりわけ指導者の場合、ハワイ文化やハワイの人々に敬意を示すことが、自分の教える相手に対する敬意につながる。言い換えれば、いい加減な気持で研鑽の足りないままフラを教える者は、フラやハワイ文化を軽んじていると同時に、自らの生徒をも軽んじているといえる。

そうなのです。私自身書きながら気付いたのですが、生徒さんに対し勉強不足のままテキトーな教え方をしてしまえば(たとえ悪気はなくても)結果的にその人たちをバカにしているということになってしまいます!!
それって、レッスンに来てくれた人に対して一番失礼なことですよね。
モチロン人間だから先生にも間違いはあります。
でも、「最善の努力をしたのに間違えた」のと「努力しておかなかったために間違えた」のでは全然違います。

もうひとつの重要な結論として、たとえプロになった後でも「努力の継続が大事」ということも書きました。
そういえば、マミちゃんはプロになってからン十年(年齢がばれるので自主規制)、自分のスタジオを持ってから25年経ちますが、私もアキレ返るくらい勉強好きです。
まあ、この人の場合単にダンスが趣味という部分があるので一概に引き合いに出せませんが

はうっ、この人を思い浮かべると自分のダンスの適正を疑ってしまいます...。
とりあえず、語学フェチは語学フェチらしくハワイ語マスターを目指そうっと...。

卒業論文第3章 考察

2006-01-26 01:34:09 | 創作活動
さて、考察です。
ゼミ指導教官のN先生の教えに従い、今までは主観のまじらない事実を述べるように心掛け、ここで初めて自分の主張を前面に押し出しています。

というわけで今ざっと読んでみましたが、アラどうしましょ。これ以上要約できないざます。どれもこれも言いたいことばっかりで削れない...!?
こ、困った...。とにかくやれるだけやってみます。

冒頭は、フラの要素を「伝統的部分」と「革新的部分」に分けて考えております。
伝統的部分として、「マナ(ハワイアンが信じている霊的な力)」を例に取って説明しました。ハワイアンは人体、自然、土地、そして言葉まで全ての存在にマナが宿っていると考えているのですが、この考え方こそが、あらゆるものに畏敬の念を持ってチャントやフラで讃える行為につながっているのではないかと述べました。
つまり、カヒコの項で述べた4種類の重要なテーマ、これらはすべてマナ信仰において共通しているといえるのではないかと考えたのです。

それ以外は今までのまとめを書いています。
特に重点的に書いているのが「ダンスとしてのフラ」について。つまり、今までさんざん述べてきた文化だ言語だという話を一旦とっぱらい、ただただ「ダンスとして見て美しいフラのために必要なこと」を考えているのですね。
この主張のために、今までの章のところどころに他のダンスからフラの着想を得ているクムのエピソードなどをちりばめておいたので、それらをまとめて「ダンスとしての美しさも大切」という主張に持っていったのです。

というわけで、いよいよ自説展開コーナー「フラという文化の担い手として」です

前半はフラの踊り手がすべきことの一般論です。
先ず第一にフラの文化的背景、つまりハワイ語や伝統を学ぶことを挙げました。ハワイアンの考え方や習慣を知れば、それらが自分のフラを理解する助けとなってくれるのです。
次に挙げたのは、フラがたどってきた歴史を学ぶことです。カラーカウア王のエピソードなど、フラに直接関わることから徐々に学ぶようにすると良いと思います。

そして第三に、私の一番の主張である「ダンスとしてのフラ技術の向上」です。
ここは非常に重要なのでレッツコピペ↓
踊り手はフラの文化的側面についての理解を深めると同時に、フラのダンスとしての完成度についても高める努力をすべきである。前述の二点で述べた要素は確かにフラを踊るにあたって必要不可欠ではあるが、フラはあくまでもダンスであり、知識だけでは美しいダンスは踊れない。ダンスとしての完成度が高ければこそ、フラの知識を持たない人々にも感銘を与える演技が可能になるのである。

なぜそんなに重要かというと、(ある程度経験のある人の間で)フラについて語られる時、どうしても「知識」にばかり焦点がいってしまい、「ダンスとしての美しさも重要だ」ということが見落とされがちなのです。
つまり、知識さえ多ければ優秀な踊り手だと思い込みがちなのですね。
でもそれはもんのすごく危険な思い込みだよということを伝えたかったわけです。

ダンスとしてのフラを磨くためには、他のダンスの要素を取り入れることも良い方法ですが、まずはフラの踊りとしての特徴を客観的に把握することが大切ですね。


したがいまして、もっとも理想的なフラの踊り手は「深い知識」および「ダンスとしての技術」の両方が備わっている人ということになります。
もちろんそんな仙人みたいな人は現実にはあり得ませんから(笑)、踊り手はそんな境地を目指し、ハワイ文化に敬意を払いつつ研鑽を重ねることが大切ですね。

卒業論文第2章まとめ(ハパ・ハオレ)

2006-01-26 00:37:13 | 創作活動
さて、ハパ・ハオレです。

ハパ・ハオレというのは基本的に英語詞の曲およびそれに合わせて踊るフラのことです。
これまた人によって定義が違いますが、私は取り敢えずハパ・ハオレを「英語で・白人の立場から書かれた作品」と考えて話を進めました。
つまり、有名なところでは「ブルーハワイ」や「ラブリーフラハンズ」、「パーリー・シェルズ(真珠貝の歌)」などですね。

ハパ・ハオレは一見アウアナと同じようですし、むしろ英語な分ハワイ語より分かりやすくていいなあ、というのが大方の印象ではないでしょうか。
しかし、ことはそう簡単ではないのです。

先ず第一に、これらの曲はハワイアンのフリをしていますが、ハワイの伝統には即していないという批判がしばしばなされます。
たとえば、ハパ・ハオレによくみられるストーリーとして、「ハワイにやって来た白人男性が現地人のあたたかいもてなしを受け、美しい自然や青い空と海に癒され、エキゾチックなハワイ美女と恋をする」などというものがありますが、こんな情景は本当のハワイ文化にはないのです。
ここで描かれている自然もロマンスも傍観者たる白人にとってのそれであり、自然に対する畏敬の念はまったく含まれていませんし、恋愛もハワイアンの価値観とはだいぶ違う様式です。

しかも、これを作っているのが白人であるということが、もうひとつの問題点です。
ハパ・ハオレ音楽全盛期当時、ハワイ文化の当事者であるべきハワイアンは白人たちによって過酷な運命にさらされていました。相次ぐリゾート開発で地価が高騰したため、家を追われるハワイアンも多かったそうです。その一方で白人たちは、サトウキビ農場や観光業から巨万の富を獲ていたという訳です。
したがって、ハパ・ハオレが歌っているような「楽園ハワイ」の住人は白人富裕層だけでした。そのうえ彼らはハパ・ハオレを世界中でヒットさせて「楽園」のイメージを喧伝することによって、さらなる財産を築いていたのです。

こんな経緯をきくと、思わずハパ・ハオレが嫌いになりそうですよね。
でもちょっと待ってください。誕生の事情はどうあれ、ハパ・ハオレにもいいところがあるんです
ということで、ここから先が私の主張です。

まず、ハパ・ハオレブームの頃、ハワイアン音楽やフラは冬の時代だったことを考える必要があります。そんな時代にもハパ・ハオレという「需要」があったために多くのハワイアンがフラを踊り続け、彼女達はのちに有名なクムフラとなっていきました。
そう考えると、ハパ・ハオレもフラの歴史の一端を担っており、今日のフラに欠かせない要素の一つであるといえるのです。
次に、ハパ・ハオレには確かに怪しい歌詞のものもありますが、もっとハワイ文化やフラを真摯にとらえた白人による作品も多いのです。
(例として本文では「ラブリーフラハンズ」と「ワイキキ」を挙げています。)
そして、ハワイ語を全く知らない人にもたらす効果も期待できます。
フラを知らない人や初心者にとって、ハワイ語は全くわけがわからない言語であり、「歌詞の意味を動きで表現している」と聞いてもピンと来ないと思うのです。
でも、ハパ・ハオレの英語に合わせて踊ればそのことがよく理解できるし、初心者もどの動きが何をあらわすのか覚えやすくなります。

そんなわけで、むしろ真剣にフラやハワイ文化を学びたいと思う人こそ、ハパ・ハオレ音楽やフラをその歴史とともに学んでおくべきであると主張して、第2章が終わります。




っああああ~~~終わったぁ
ううう、でもまだ肝心の「第3章:考察」がある....
いましばらくお付き合いくださいませ。

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