オーストラリア ヒロシのリタイヤ日記

1994年からメルボルン在住のヒロシです。留学後に現地で就職、国際結婚、2020年、55歳からリタイヤ生活。

米国留学編

2022年06月01日 18時48分59秒 | 留学

今日は息子を学校に送った後、バニングスというホームセンターでウサギのくくり罠を作る材料の細いワイヤーを買ってきました。30メートルで5豪ドル(約450円)でした。その後、いつものショッピングセンターで食材の買い物。家の戻ってから薪ストーブに火をつけてブログを書き始めました。見出し画像はそのワイヤーです。

では昨日の続きを書いていきます。

米国留学プログラムに参加できるのは毎年5名の狭き門。その内、一人に留学費用が免除されます。英会話の練習の為にアメリカ人留学生と積極的に英語で話して留学の試験に備えました。

大学2年生の後期に受けた学内の留学選考試験は、アメリカ人の先生との英語の面接試験で、不安な面持ちの学生が一人ずつ面接室に通されていきました。質問の内容は自分の家族やサークル活動、留学したい理由などで、僕は落ち着いて英語で答えることができました。面接試験の結果は僕がトップだったので、奨学金が出て、渡航費や留学中の費用が月々千ドルほど支給され、無事に米国留学の切符を手にしたのでした。派遣先はアラスカ大学。厳冬期には気温が氷点下40度まで下がると言われたので、名古屋の登山具店で、一番分厚いダウンジャケットやウールの靴下を準備して、アラスカの厳しい冬に備えました。

海外に出るのも、飛行機に乗るのも初めての経験で多少心配でしたが、現地に着いて、アメリカ人の話す英語が殆ど理解できたので、安堵しました。同じ大学から一緒に行った他の4人の日本人は英語の準備不足で、話すことににあまり自信がなかったようです。留学初期の頃、寮で仲良くなったアメリカ人に「僕の英語って、どうよ?」と聞いたところ、「とてもいいよ。何を言っているか分かる。去年来ていた日本人の留学生たちは始めはあんまり会話ができなかったけど、、、。」と言われて、自信が付きました。

アラスカ大学には僕達の大学からの留学生の他、地方の国立大学から3人が僕らと同じように9月から翌年の5月までの9か月間、派遣されて来ていました。海外留学の最大の罠は日本人同士つるんでしまうことです。日本人同士で集まって日本語で話していたら、留学に来た意味はありません。こうなると周りのアメリカ人とも交流できなくなってしまい残念な留学生活になってしまいます。そこで僕ともう一人の日本人留学生はNever Japanese Speaking Club (日本語は話さんクラブ) を作り、日本人同士でもお互い英語だけで話すようにしました。

アラスカ大学ではエスキモーの学生達も2、3割くらいはいて、僕のルームメイトもダニエルというエスキモーの中年のおじさん(当時40歳)で、教職課程をしている人でした。金曜日か土曜日の夜になると同じエスキモーの仲間が大勢僕らの部屋に出入りし、ビールを飲んで酔っ払ったり、噛みタバコを噛んで唾を空き缶にぺっぺと吐き出したりしながら、夜遅く迄パーティーをしたので、僕も時々仲間に入れてもらいました。(というか、この学生たちが帰るまで、うるさ過ぎて僕が寝られないので、仕方がなく仲間に入れてもらいました。)因みに、大学の寮や建物の中は完全暖房で真冬でもTシャツでいられます。ダニエルさんはいつも素っ裸で寝る人でしたが、、、。

アラスカ大学の授業は日本のそれとは全く異なり、生徒は積極的に発言していました。僕はミクロ経済学、マクロ経済学の他に、初級の軍事学や留学生の為の第二外国語を履修しました。留学中に履修した科目の中で一番面白かったのが軍事学(military science)で、士官候補生や予備軍のコースの科目で講義の他に実技ではライフル射撃や地図とコンパスを使ってのナビゲーション訓練、整列訓練(Attention! 気をつけー!)などの軍事教練が毎週一回午後からあり、アメリカ陸軍に入隊した気分で参加していました。

寮の一階にはピアノやテレビやコンピューター一台が備わった大きなリビングがあり、その寮に住んでいる60名程の男女学生が勉強が終わったころ入り浸って寛ぎ、また寮の隣の大きなカフェテリアではに寮に住んでいる人たちと食事を共にできたので、多くの学生と友達、知り合いになることができました。

週末の夜には大学対抗のアイスホッケーの試合を観戦したり、大学内で上映される入場無料の映画鑑賞会に行ったりしました。(当然、映画に字幕はありませんでしたが。)当時感動した映画は通訳者の視点からカンボジア内戦の実状を世界に知らしめてアカデミー賞を取ったKilling Fieldsやオーストラリアの砂漠地帯を舞台にしたデストピア映画のMad Max 2など、1980年代を代表する映画です。

アラスカ留学中に始めたスポーツはクロスカントリースキーです。雪が積もった針葉樹林の中にクロスカントリースキーのコースが寮の直ぐ近くから伸びていて、週末や大学の授業の後、寮に戻って着替えてから、友達と一緒にクロスカントリースキーを履いて、大学の裏のコースを1時間ほど歩いたり滑ったりしてきました。このスポーツは雪の中でハイキングとスキーが同時に楽しめるスポーツです。冬の寒さですが、氷点下20度か30度になると、外気に触れる顔の皮膚が痛くなり、息を吸い込む度に鼻毛が凍ります。因みにおしっこは出た瞬間には凍りませんのでご心配なく。

この様に、9か月の留学生活もあっという間に過ぎ、帰国の日が近づいてきました。その頃になると、英会話も自然にできるようになっていて、帰りの飛行機の中では「もっと、ここにいたい。でもお金はないから、帰るしかない。お金を貯めて、またいつかアメリカに来るぞ。」としぶしぶアラスカを後にしたのでした。

明日に続きます。

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